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第二章:新しい季節

【木下朱里(きのしたあかり)②】

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 教室の窓から、柔らかな陽射しが入り込んでいた。
 ぽかぽかとした陽気。満腹になったことで自然と瞼が重くなる中、「お、おい!」という血相を変えた徹の声で、僕は強制的に微睡みの中から叩き出された。

「なんだよ」

 もう少しで眠れそうだったのに、と不満の声を上げ瞼をこじ開けると、正面に誰かが立つ気配があった。机の上に影が落ちた。
 両手を腰にあてじっと僕を見下ろしていたのは、髪の長い女の子。もちろん僕は、顔を見ても誰なのか特定できない。ただ、機嫌が悪そうだ、ということだけは漠然とだがわかった。
 嫌な予感しか、しない。

「誰だっけ?」
「木下、だよ。木下朱里」

 僕の疑問に徹が答えた。背中を丸め、なんとも都合悪そうに。

「ああ……木下、さん」

 できれば、お近づきになりたくなかった人物だ、と渋面になりそうな自分をおさえて、愛想笑いを浮かべてみる。

「ねえ早坂。ちょっとだけ話したいことがあるんだけど、今、屋上まで来れる?」

 冷め切った口調と木下が発した屋上、というワードに、より一層嫌な予感が強くなる。

「え……今? 今じゃないとダメなの?」

 後にしてもらえないだろうか、という僕の懇願は、「ダメ」という事務的な木下の声で棄却された。取り付く島もない。
 甘い蜜の味など到底望めそうにない展開。こいつは流石に、「わかった」と答えざるを得ない。
 木下は僕の返答を受け取ると、それ以上何も言わず、踵を返して颯爽と歩き始める。肩で風切る彼女の背中には、「黙ってついてこい」とでも書いてあるようだ。
 最初から、拒否権も選択権も与えられていないのだろう。
 嫌な汗がにじんで、ワイシャツの背中が気持ち悪い。ゆらゆらと立ち上がった僕に、複雑な顔で成り行きを見守っていた徹がひそめた声で話しかけてくる。

「お前さ。木下となんかあったの?」

 女の子の表情を知覚しづらい僕でさえ、不機嫌そうだとな、とは思っていた。いつになく真剣な徹の声に、この認識ですら甘かったのだろうかと頭を抱えそうになる。

「ある訳、ないじゃん」
 一旦足を止め、自らの潔白振りをアピールした。
「それどころか、なるべく関わり合いになりたくなかった人物だ」
「だよな」と徹も肩をすくめる。「とてもじゃないけど、愛の告白って雰囲気でもなかった。どちらかと言うと、隙あらばお前をあやめようと考えている人間の顔だよ、あれは」
他人事ひとごとだと思って……」

 誰かを殺める人間の顔って見たことあんのかよ。いくら何でもテレビの見すぎ。

「はあ……とりあえず行ってくるわ」
「無事を祈る」

 それはまるで、戦地に赴く者に向けた手向けの言葉。流石に笑えんわ、と呟き覚束ない足取りで歩き始める。不本意だけれど少し急ごうか。木下の背中を見失ってしまうと捜すのが面倒だし、あまり待たせると冗談抜きで命がなくなりそう。
 それだけは、御免こうむる。

◇◇◇

 学校の屋上は、九州は宮崎の昼日中らしい燦々とした光が降り注いでいた。
 直視できぬ程眩い太陽が頭上で日光ふり撒くなか、何故だろう、空間には張り詰めた緊張感が漂っていた。心なしか、肌寒さすら感じる。
 そんなはずはない、と両手で身体からだを抱いて身震いをした。
 真正面に立つ木下は、僕から一時たりとも目を逸らすまいと強い眼差しを向けてくる。気のせいだろうか。不機嫌を通り越して、苛立ち含みにすら見える。
 気温がさらに低くなったようだ。いや、さすがにこれは錯覚だ。頭に浮かんだ悪いイメージを、かぶりを振って追い払う。沈黙が暫し続いたのち、会話の口火をきったのは木下朱里のほうだった。

「どうしていつも、茉莉のことを目で追っているの?」

 またしても、断罪するような口調。もう少し普通に尋ねられないのだろうか?

「僕、そんなに水瀬──さんのこと見てたっけ? 気のせい、もしくは、考え過ぎなんじゃないの?」

 やはり勘付かれていたのか、と動揺を隠しつつ返答する。

「気のせいですって? そんな訳ないでしょ。いったい、何度私と目が合ったと思っているのよ? 自分でもそれはわかってんでしょ?」

 より一層熱量を落としていく声音。ああ、これは誤魔化しようがないぞ、と心の声が告げてくる。

「確かにそうだったね。うん、まあ、たまには見てたかも」

 手のひらを返すような同意、我ながらみっともない。だが、それにしても少し解せない。僕が水瀬に視線を送っていたとして、何故それが、木下が不機嫌になる理由になるのか。

「水瀬とは小学校の頃から一緒だからね。ほら、彼女って、他人と上手く打ち解けられない性格だろう?」
 どの口がモノを言うんだろうな。僕だって大して変わらない癖に。
「うん、それで?」
「だから、なんとなく心配になって、時々様子を窺っていただけのことだよ。別に他意はないし。でも、なんか気に触っていたなら、ごめん」

 そもそも、なんで僕が謝らないといかんのか、という不満は取りあえず飲み干しておいた。

「つまり……? 茉莉のことを心配して見ていた、と。簡単に言うとそんな話?」
 僕は首を縦に振った。
「そうやって安っぽい同情心を向けることで、彼女にへつらっているだけなんじゃないの?」
 僕は首を横に振った。
「誤解だよ……。そんな疚しい気持ちなんかじゃない。僕はただ純粋に、何かできることがあるなら手を差し伸べたい。そう考え彼女を見守っていただけのこと。そりゃ、水瀬のこと、美人だとは思うけどさ」

 弁解ついでに話が多少大きくなってしまったが、決して嘘でもない。僕が水瀬と懇意な関係を築きたいと考えていることも、彼女が困っているなら手を差し伸べたいと思っていることも事実だ。
 それが木下のいうように同情心からくる偽善なのか、それとも下心なのかは上手く言語化できないけれど。

「なにそれ。なんだか気持ち悪い……。偽善者ぶった話をしているけれど、結局そういうところが、裏を返せば茉莉に対する下心なんじゃないの?」

 今まさに考えていたことを指摘されて吹き出しそうになる。そうか、やっぱりそう聞こえてしまうよな。余計な一言を付け加えた自分の愚かさを後悔した。

「だから誤解だってば。下心なんてないし、今のはただの感想だから」

 なんで、こうも必死に弁解してるのか、と自分でも滑稽に思う。さりとてここで引き下がれば、それこそへつらっていると認めるようなものだ。

「ほんとに? 下心はないの?」

 棘のある声が僕を貫いた。ずい、と彼女は一歩こちらに寄ると、僕の顔を覗きこんだ。

「本当だよ」
 ……本当なんだろうか、自分でもよくわからない。
「本当に、本当?」
「だから、本当だって」

 早く話を切り上げたい、と思う僕を他所に、ふーん、ならいいわ、と一応の納得を得たように木下が呟いた。こちらをのぞき込んでいた強い眼差しがようやく遠ざかる。だいたい顔の距離が近すぎるんだよ。ただでさえ僕は、女の子と触れ合うことに耐性がないのに。

「もし早坂が、茉莉の外見だけを見て、ノリとか興味本位とか、そういう安っぽい気持ちで付き合おうと考えていたらどうしてくれようかと思ってたんだけれど、それを聞いて少し安心したよ」

 いや、なにをするつもりだったんだよ? まるで、命拾いでもした心地。

「中途半端な同情や好意は、逆に茉莉の心を鋭く抉るだけ。……軽々しい気持ちで、彼女に近づいて欲しくないの」
「なんだか大袈裟だな」

 笑い飛ばそうとして気がついた。もしかして木下は、水瀬の過去を知っている? 何か隠している事情がある?
 だから、含みのある物言いをしているんじゃないのかと。

「もしかして木下ってさ。水瀬の過去について何か知っているの? その言い方だと、なにか訳ありのように聞こえるけど」

 次の瞬間、ようやく柔和になった (ように見える)木下の顔が引きつった。表情の認識が乏しい僕でも、彼女の視線が左右に泳いだことだけはわかる。
 どう答えるべきか、考えあぐねているのだろう。なかなか返答は紡がれない。

「知らないと言えば、嘘になるわね」
 数秒思案した挙句、木下が答えた。
「でも、茉莉が抱えている過去は相応に重い。軽々しく他人に言える内容じゃないし、なにより、中途半端な覚悟しかないなら、首を突っ込まない方が身の為よ。だから、私の口から言えることは何もない。むろん、彼女の人となりを詮索して欲しくもない」

 曖昧な言い方でごめん、と殊勝な態度で頭を下げた後、木下が「その辺は、察して欲しい」と口添えた。
 私はね、と木下が顔を上げる。遥か彼方を見通すように、澄み切った青空に目を向けた。

「あのに辛い思いをしてほしくないの。だって、私は茉莉のことを……」

 そこで木下は一度言葉を切った。大きく息を吸い込んだ。

「愛しているから」

 宣言するように放たれた一文は、強い意志を孕んで僕の胸を鋭く抉る。そういった愛のかたちがあることは、色恋沙汰に鈍感な僕でも知っていたし、言葉の意味を履き違えるほどバカでもないつもり。
 木下が、常日頃水瀬の傍らにべったりなのも。僕に対して敵意をむき出しにしてきた事も、それで全て合点がいく。けれど。

 ──マジかよ。

 あまりのショックに開いた口が塞がらない僕を置き去りに、木下は背を向けてそのまま歩き出した。これ以上語ること等ない、とでも告げるように。

 ──愛しているから。

 木下の言葉を頭の中で反芻したとき、なるほど、と唐突に腑に落ちる。
 端的にいって、僕が女の子を好きにならなければ、と肩ひじを張っていることが間違いだったのだ。今なお、社会的な風当たりが多少強いとはいえ、性的少数者の恋愛に対する理解は年々深まってきている。
 木下朱里が水瀬のことを好きだ、という自己主張をするのと同じように、僕も女の子だけに拘る必要などなかったのだ。顔が見えない女性より、見える男性。そうだよ、実に盲点だった。視野が狭かったとすらいえる。
 たとえば、徹。彼は男気に溢れる性格で誰にでも好かれ、また、容姿もいい。
 たとえば、稔。彼は多少偏屈なところこそあるものの、性根は実直だし頭脳明晰。
 そこまで考えたところで、「いや、違うそうじゃない」と僕は我に返る。僕にそんな趣味はない。

 待て、一旦落ち着くんだ。今考えるべきなのは僕のことじゃない。
 深呼吸をしてから、想像してみる。
 上半身裸になり下着だけを身につけた水瀬と木下。二人は薄暗い部屋の中で、そっと身を寄せ合い指先を絡める。やがて、どちらからともなく唇が近づくと……。
 ないない! そんなことあるはずがない!! ……いや、しかし、それは僕の先入感でしかない。女の子だって中学生ともなると性に興味津々なのだし、むしろ男子より進んでいるものなのだ。深くなっていく動揺。いやだから落ち着け、と浮かんでいたイメージを慌てて追い出した。
 ダメだ。鼻血でそう。

 ただひとつ。ハッキリと言えること。
 それはこの瞬間、なんとも歪な三角関係? ができあがったらしい、ということ。
 とたんに全身で暑さを自覚すると、背中を冷たい汗が一筋流れた。同時に感じ始める逃げ場のない苦しさと息苦しさ。

 この気持ちはなんという名前だろう。

 実のところ、自分の気持ちが一番よくわからない。
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