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第一章:水瀬茉莉

【水瀬が関心を抱くもの】

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 ……知ってるよ。こういうの、不審者って言うんだよね。
 ところがなんとも皮肉なもので、そんな僕の異常行動が功を奏した。彼女が植物の他に興味を示す──というか、心を開く対象が見つかった。

 それは、動物。
 通学路の途中にある住宅街。その一角に住み着いている三毛猫の頭を、水瀬はよく撫でていた。おそらく野良であろうその猫は、栄養失調で痩せ細り、毛並みもあまりよくはない。なにより印象的なのは、左後ろ足が、足首の辺りから千切れていることかな。
 幸いにも、骨が露出している部分の傷口は既に塞がっており、血が滴っているといった凄惨な感じではなかったけどね。
 初めてその猫を見たとき、驚きで息を呑んだ。
 事故なのか。それとも虐待か。
 理由はわからないが、なんにせよ僕は、何ともいえない憤りに似た感情を持った。

 水瀬は、給食の残り物をこっそりランドセルの中に忍ばせては、たびたび猫にあげていた。
 今日も水瀬が差し出したミートボールに、猫は勢い良くくらいつく。余程お腹が空いているのか瞬く間に完食すると、満足そうに猫はペロペロと水瀬の指先を舐めた。

 ──ごめんね。今日はこれだけしかないの。

 とでも呟いているのかな。民家の塀の陰に隠れている不審者ぼくのところまで、彼女の声が届くことはないのだが。でも、何か語りかけているのは間違いなさそう。
 つまり、彼女が好きなものは、動物と植物?
 ここから導き出される答えは、人間嫌い?
 だとしても、それはちょっとおかしい。朝限定とはいえ、水瀬は僕に微笑んでくれるのだから。いや、ちょっと待てよ。もしかすると、何か理由があって僕だけに心を開いている?
 そこまで考え、都合のいい妄想を吹き飛ばした。
 なんとも有り得ない。
 水瀬の関心を一身に集める猫。そして、僕。何か共通項があるんだろうか、と考えながら、そっとその場を立ち去った。
 水瀬の家がある公営住宅と、僕の家とは別方向になるのだから。
 ゆっくりと、オレンジ色に変わり始めた空を見上げ、自問自答を続けていた。
 はたして僕は、水瀬に好かれたいと願っているのだろうか。
 だとしても、どうして。
 唯一顔が見えるクラスメイトだから? それとも?
 泥沼に落ちたように纏まらない思考。
 自分の気持ちすら、わからない。

◇◇◇

 それから一週間。下校していく水瀬を尾行する日々は続いた。彼女が立ち止まったり歩調を緩めるたび、僕は物陰に身を潜める。歩き始めると、僕も歩きだす。
 逃げるように距離を置く水瀬。
 後ろから追いかけつつも、一定以上距離を縮められない僕。
 まるで、二人の曖昧すぎる関係を暗示しているようで、滑稽だな、と自嘲しそうになる。
 閑静な住宅街を暫く歩き、不意に水瀬は立ち止まる。
 今度は立ち止まっている時間がやたらと長い。歩道の端。アスファルトの一点に、縫いとめられたように彼女の視線が注がれている。
 これはおかしい、と異変を感じ取ると、隠れていた電信柱の陰から顔をのぞかせる。そして、はっと息を呑んだ。

 水瀬の視線の先にあったもの。それは──猫。

 昨日まで元気に走り回っていたであろう三毛の野良猫は、赤黒い血にまみれて、歩道の隅で動かぬ体を晒していた。
 車に轢かれたあとで、誰かが邪魔になるからと歩道の端に寄せたのかな。
 悪い足が原因となって、轢かれてしまったのかもしれない。猫に対して特別な感情を持っていない僕でさえも、顔を背けたくなる光景。水瀬の心中や、如何に。
 ごくりと生唾を飲んだ僕の視線の先で、次の瞬間、彼女は驚きの行動にでた。
 キョロキョロと左右に視線を走らせ車の往来が無いことを確認すると、フラフラと覚束ない足取りで道路を横切る。そうして動かなくなった猫の傍らにしゃがむと、あろうことか、骸を両手で抱え上げて胸に抱いた。未だ滴る血で、彼女が着ているブラウスの生地が赤く染色されていくこともいとわず。ゆっくりと、体温が失われているだろう体に頬を埋めた。

「水瀬……! あのバカ」

 距離が離れているため声は聞こえてこないが、たぶん、水瀬は泣いていた。
 そんな無茶をしたら、服が汚れるだろう。家に帰ってから親に怒られるだろう。余計な心配ごとばかりが胸を過る。
 どうするつもりなんだよ?
 今度は僕が、視線を左右に走らせる番だった。車が来るかどうかを確認しているわけじゃない。死んだ猫を抱いている姿は流石に人目が悪そうだ、と彼女を心配してのこと。
 しばらく、逡巡したのち、
「しょうがないな」
 呟きを落として、僕は隠れていた電信柱の陰を出る。
 足早に水瀬の側に駆け寄ると、しゃがみこんでいた彼女が驚いたように顔を上げた。

「早坂、君?」
「こっち」

 え、と呆けたような声を上げる水瀬の手を握ろうとして、猫を抱いたままなので手を繋げないのに気がついた。
 どうしよう、と悩んだのち、単刀直入に本題を言っちゃう方が早いと思った。

「猫、埋めてあげよう。かわいそうだから」
「うん」

 今度はしっかり事情を汲み取った水瀬が、軽く顎を引いた。
 そのまま、ひと気のない住宅街を抜け、児童公園の脇を通り、空き地の向こう側、雑木林のあるところまでたどり着いた。
 学校以外の場所で女の子と二人きりだなんて何時振りだろう、なんて、場違いなことを考える。下手をしたら、人生で初めてかもしれない。
 重そうに抱えていた猫の亡骸を地面に下ろした水瀬に目を向け、こいつ、本当に腕が細いんだな、と今更のように思う。決して大柄な猫じゃないのに、やたらと重そうに見えていた。

「こんなものか」

 目算もくさんで穴を掘ると、猫を埋葬する。カラスなんかに掘り起こされたりしないよう、丁寧に土を被せて周辺と上手く馴染ませた。
 両手を合わせ、二人並んで黙とうを捧げる。

「ごめんね、早坂君」

 それは、今にも消え入りそうな声だった。

「いや、当然のことをしただけだから」

 そう答えると、啜り泣きを始めた彼女の横顔を、ただ、見つめていた。
 かける言葉が、うまく見付からない。

◇◇◇

 ずっと心の奥底で感じ続けていた不安が現実のものとなったのは、翌朝のことだった。
 美化委員の仕事を終え七時五十分。僕たちが教室の前に到達したとき既に、違和感は存在していた。
 僕と水瀬が教室に入ると、黒板の前に集まっていた男子数人が、一斉にこちらを見た。なんだよ、と不穏な空気を感じ取った僕を素通りし、彼らの視線は背後の水瀬に注がれていた。
 なんだろう、嫌らしい目つきだ。
 僕たちが何かしたっていうのか、そんな僕の疑問は、続いて視界に入った殴り書きされた黒板の文字と、チョークを手に持ちニヤニヤしている男子らの姿で解決する。黒板に並んでいた心無い言葉の数々。それは──。

『血塗れのワンピース』
『ゾンビ女』
『表情が死んでいる女には、猫の死体がお似合い』

 誰のこと、とまでは書かれてなかったが、昨日の一部始終を知っているので直ぐにわかった。言うまでもなく、水瀬のこと。
 辺りに気を配ったつもりだったのに、残念ながら目撃者がいたようだ。

「水瀬……」

 後ろの水瀬に声を掛けるが、彼女は黒板の落書きを一瞥すると、感情の昂ぶりを抑えるように唇をきゅっと結んだ。そのまま男子たちの前を素通りし、何事もなかったかのように自分の席に着いた。
 続いて女子たち数名から、黄色い喚声かんせいがあがった。その他大勢は我関せずを貫きひそひそ話に興じ、委員長の女子は眉をひそめてふい、と視線を逸らした。
 それらの反応を見て、だいたいの予測がついた。目撃者はおそらく僕を嫌っている女子の誰かで、話を聞かされた男子が面白おかしく水瀬を茶化したんだろう。もしや、女子らに快く思われていない僕が関わったことで、余計に水瀬の立場が悪くなったのだろうか。
 そこまでを認識すると、全身の血が沸き立つ感覚があった。僕の怒りが、あっという間に頂点に達する。

「おまえらぁ」

 怒りに任せ一歩足を踏み出しかけたそのとき、僕の肩を誰かが鷲掴みにした。
 驚いて振り返ると、肩越しに、苛立ちを滲ませた徹の顔が見えた。

「状況はだいだいわかった。いい。翔はこういうの向いてないから、俺に任せろ」

 たった今、教室に到着したであろう彼は、僕を押し退け前に出た。

「歯あ、食いしばれ!」

 呟きののち、徹は黒板の方角に一目散に駆ける。
 勢いもそのままに、驚愕の顔を向けてきた男子の顔面をおもいきり拳で殴った。
 殴られた男子生徒が吹っ飛ぶと同時に、教室の後方で傍観を決め込んでいた女子たちから「きゃあ」と悲鳴があがる。

「なんだテメぇいきなり」

 黒板の周辺にいた別の一人が、徹の肩を突き飛ばそうと手を伸ばしてくる。だがそいつの腕を逆に絡め取ると、徹は渾身の力で引っ張り込んで相手を床に這わせた。

「いきなりなんかじゃねえ! 状況見てりゃわかんだよ! その悪口は水瀬のことなんだろ? それによ、これまでだってそうだ。水瀬が言い返さないのを良い事に、ある事無いこと陰口ばっかり叩いてただろうが! 謝れよ! さっさとみなせに……」

 しかし、彼の言葉は最後まで言わせてもらえなかった。三人目が徹の胸の辺りに前蹴りを入れると、堪らず彼も仰向けに倒れてしまう。そこからはもう、多勢に無勢。幾ら喧嘩慣れしている徹でも、三対一では適わない。男子が二人がかりで徹を押さえつけると、最初に殴られた一人が怒髪天を衝く勢いで馬乗りになった。
 教室中に響く、怒号。悲鳴。
「きたねえぞ」
 徹に加勢しようと僕が動きかけたその時。
「こら! 朝から何をやってるんですか!」
 という担任教師の怒声が教室中を震わせると、みな一斉に動きを止めた。

◇◇◇

 結論からいうと、水瀬に対するイジメは一過性のものに留まった。騒動のあった日から一週間もすると、最早誰も話題にしなくなった。所詮、そんなもんだ、と僕は鼻白む。みんな自分のことにしか興味がない。小学生なんて、その最たるもの。自分の心無い一言が、行動が、どれだけ水瀬の心を抉ったか。消えない傷を刻み込んだかなんて誰も興味がない。傷つくのは、いつも被害者だけなんだ。
 次の日から水瀬は、今まで以上に塞ぎこむようになった。あの日、動揺をなるべく表に出さぬよう表情を殺していた水瀬だったが、相応にショックを受けたことは明白だった。
 加えて、猫、という心の支えにしていた物が一つ損なわれた事も、心身のバランスが崩れてしてしまった一因だったのかもしれない。あれから水瀬の反応は益々素っ気無くなった。美化委員の仕事をしているとき、ぼくが花の話題を振ったところで、彼女は生返事を繰り返すばかり。共通の話題を失ってしまうと、僕たちは最低限の会話しかしなくなった。
 元々近くなかった二人の距離は、あっと言う間に疎遠となってしまう。結局、彼女とは友達になる事すらも叶わぬまま、僕たちは卒業の日を──迎える。
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