その花は、夜にこそ咲き、強く香る。

木立 花音

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序章

【彼女のことを好きだ、と自覚したあの夜の記憶】

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【恋は盲目】
(Love is blind の訳) 恋は人を夢中にさせ、時として、理性や常識を失わせるものだということのたとえ。
 また、逆説的に捉えると、『盲目的にならないものは恋ではない』とも解釈でき、ある意味、恋というものの性質を上手く表現したことわざであるといえる。 



「これはね、匂蕃茉莉においばんまつりという名前の花なの」と水瀬みなせは言った。

 それはもう何年も前のことで、僕たちはまだ中学二年生だった。季節は夏。クラスアートの題材にする風景を確認する目的で、僕と水瀬は、隣町にある公園まで来ていた。公園の裏手を登り丘の上から見渡すと、日は既に山の稜線りょうせんに沈み、あたりは闇に閉ざされていた。世俗的な光源が存在しないこの空間では、またたく星座の光も、月の姿も、いつもよりはっきりと見えていた。月はまたとない満月だった。
 一望できる丘の上に咲き乱れているのは、紫色の花々。花を咲かせている植物の樹高は僕の膝上ほどなので、五〇センチくらいなんだろう。硬質な濃い緑色の葉を枝いっぱいにつけ、開いた紫紺の花びらを、青みがかった月明かりが幻想的に照らし出していた。

「においばんまつり? 聞いたこと無い名前だ」と僕が言うと、「それはむしろ、普通の反応かな」と水瀬が笑う。

「だってこの花は、ブラジルやアルゼンチンなどの南アメリカが原産地なんだもの」
「へえ、日本の花じゃないんだね。じゃあ、誰かがこの場所に持ってきて移植したのかな?」
「うん、たぶんそうね。暖かい地方だから、上手く根付いたのかも。匂蕃茉莉というのは和名なんだけど、匂──香りのある、蕃──外国からの、茉莉──ジャスミン類のことをそれぞれ指していて、直訳すると『香りのある外国からのジャスミン類』という意味になるんだって」
「ジャスミン類……そっか。だからこんなに、良い香りが漂っているんだね」

 水瀬が花弁を覗き込むと、前屈みになった弾みでブラウスの胸元がチラリと見えて、息苦しいくらいにドキドキする。それを隠すように、僕は彼女に質問を返した。

「じゃあこれは、ジャスミンの一種ということ?」

 彼女が見せる何気ない仕草に、僕の心は何度もかき乱された。風にそよぐ髪を、耳にかける指の細さに。プリーツスカートの裾が捲れないように、お尻の辺りから丁寧に押さえて座る仕草に。
 いつもより赤い、ふっくらとした唇の色にも──。

「あ~、実は全然違うの」と水瀬が首をひねる。「匂蕃茉莉のまつりは、字で書くと、ジャスミンを意味する茉莉花まつりかと同じだからそう思われがちだけど、香りが似ているからこう呼ばれているだけで、まったく違う種類なの。ジャスミンはモクセイ科なのに対して、匂蕃茉莉はナス科だからね」

 水瀬は花に関して博識だ。僕は、花に対して別段興味を持っていなかったので、彼女が言っていることの半分も理解できてなかったが、咄嗟に語られてくる知識量の多さに、いつも感心しきりだった。

「幾つか違う色の花が混ざっているけど、これは別の種類になるの?」

 花の色は濃いもの薄いものと様々あれど、その大半は紫色だ。だが、散見される白い花が、まるで夜空に浮かぶ星のごとく斑模様まだらもようを形成していた。

「うふふ、そんなことない。これは全て匂蕃茉莉の花。匂蕃茉莉の花は濃い紫から始まり、次第に淡い紫に変化して、最後は白くなるのが特徴なの」
「色が変化していく花、か。これ一種類だけで、何度も楽しみがありそうだね」
「そうね。でも、本当の魅力はやっぱり香りかな。匂蕃茉莉はね、夜になると特に芳香が強くなる種類なの。この間あたしが言った夜に咲く花というのは、もちろんこの花の事なんだけれど、正しく言えば花自体は昼でも咲くの。でも──この花の匂いが強くなるのは主に夜だから、本当の見頃は夜なんだよって、そういう意味をこめて言ったのよ」
「そうか。だから夜に咲く花」

 もっと近くで花のかたちを観察したくなった僕は、身を乗り出して、花びらにそっと手を伸ばしてみる。だが、「あ、でも気をつけて」と水瀬に鋭く言われ、慌てて手をひっこめた。

「見た目は確かに綺麗なんだけれど、花全体に神経毒があるの。特に危ないのは、未熟な果実や種。中毒成分が多く含まれているから、間違って口に含んだりしたら──大変なことになるんだよ」
「うわっ、ほんとに? 見た目によらないんだね」

 萎縮して元の姿勢に直った。
 肩が触れ合いそうになるまで、身を寄せてくる彼女。さらりと舞った長い髪から、花とはまた違う芳香が漂ってくる。
 気持ちが和らぐ甘い香りと、ブラウスの襟首から覗いたうなじの白さに、心臓がどくん、と大袈裟な音を立て跳ねる。

 この日、僕は生まれて初めて恋をした。
 この、水瀬茉莉みなせまつりという少女のことが、どうしようもなく好きだと、意識してしまったんだ。

 その後も熱を帯びたように話し続ける彼女の横顔は、なんだかとても眩しくて、けれど、同時に凄く儚くて。
 澄みあがって悲しいほど美しい水瀬の声に、僕は、ずっと耳を傾けていた。



 これから僕は、僕の人生で出会った、最も大切な人の話をしようと思う。



 だが、物事には順番というものがある。この日の記憶は一先ず忘れ、舞台は小学六年生の夏までさかのぼる。僕、早坂翔はやさかしょうと水瀬茉莉が初めて出会った日から、物語は──始まる。

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