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序章
【彼女のことを好きだ、と自覚したあの夜の記憶】
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【恋は盲目】
(Love is blind の訳) 恋は人を夢中にさせ、時として、理性や常識を失わせるものだということのたとえ。
また、逆説的に捉えると、『盲目的にならないものは恋ではない』とも解釈でき、ある意味、恋というものの性質を上手く表現したことわざであるといえる。
*
「これはね、匂蕃茉莉という名前の花なの」と水瀬は言った。
それはもう何年も前のことで、僕たちはまだ中学二年生だった。季節は夏。クラスアートの題材にする風景を確認する目的で、僕と水瀬は、隣町にある公園まで来ていた。公園の裏手を登り丘の上から見渡すと、日は既に山の稜線に沈み、あたりは闇に閉ざされていた。世俗的な光源が存在しないこの空間では、またたく星座の光も、月の姿も、いつもよりはっきりと見えていた。月はまたとない満月だった。
一望できる丘の上に咲き乱れているのは、紫色の花々。花を咲かせている植物の樹高は僕の膝上ほどなので、五〇センチくらいなんだろう。硬質な濃い緑色の葉を枝いっぱいにつけ、開いた紫紺の花びらを、青みがかった月明かりが幻想的に照らし出していた。
「においばんまつり? 聞いたこと無い名前だ」と僕が言うと、「それはむしろ、普通の反応かな」と水瀬が笑う。
「だってこの花は、ブラジルやアルゼンチンなどの南アメリカが原産地なんだもの」
「へえ、日本の花じゃないんだね。じゃあ、誰かがこの場所に持ってきて移植したのかな?」
「うん、たぶんそうね。暖かい地方だから、上手く根付いたのかも。匂蕃茉莉というのは和名なんだけど、匂──香りのある、蕃──外国からの、茉莉──ジャスミン類のことをそれぞれ指していて、直訳すると『香りのある外国からのジャスミン類』という意味になるんだって」
「ジャスミン類……そっか。だからこんなに、良い香りが漂っているんだね」
水瀬が花弁を覗き込むと、前屈みになった弾みでブラウスの胸元がチラリと見えて、息苦しいくらいにドキドキする。それを隠すように、僕は彼女に質問を返した。
「じゃあこれは、ジャスミンの一種ということ?」
彼女が見せる何気ない仕草に、僕の心は何度もかき乱された。風にそよぐ髪を、耳にかける指の細さに。プリーツスカートの裾が捲れないように、お尻の辺りから丁寧に押さえて座る仕草に。
いつもより赤い、ふっくらとした唇の色にも──。
「あ~、実は全然違うの」と水瀬が首をひねる。「匂蕃茉莉のまつりは、字で書くと、ジャスミンを意味する茉莉花と同じだからそう思われがちだけど、香りが似ているからこう呼ばれているだけで、まったく違う種類なの。ジャスミンはモクセイ科なのに対して、匂蕃茉莉はナス科だからね」
水瀬は花に関して博識だ。僕は、花に対して別段興味を持っていなかったので、彼女が言っていることの半分も理解できてなかったが、咄嗟に語られてくる知識量の多さに、いつも感心しきりだった。
「幾つか違う色の花が混ざっているけど、これは別の種類になるの?」
花の色は濃いもの薄いものと様々あれど、その大半は紫色だ。だが、散見される白い花が、まるで夜空に浮かぶ星のごとく斑模様を形成していた。
「うふふ、そんなことない。これは全て匂蕃茉莉の花。匂蕃茉莉の花は濃い紫から始まり、次第に淡い紫に変化して、最後は白くなるのが特徴なの」
「色が変化していく花、か。これ一種類だけで、何度も楽しみがありそうだね」
「そうね。でも、本当の魅力はやっぱり香りかな。匂蕃茉莉はね、夜になると特に芳香が強くなる種類なの。この間あたしが言った夜に咲く花というのは、もちろんこの花の事なんだけれど、正しく言えば花自体は昼でも咲くの。でも──この花の匂いが強くなるのは主に夜だから、本当の見頃は夜なんだよって、そういう意味をこめて言ったのよ」
「そうか。だから夜に咲く花」
もっと近くで花のかたちを観察したくなった僕は、身を乗り出して、花びらにそっと手を伸ばしてみる。だが、「あ、でも気をつけて」と水瀬に鋭く言われ、慌てて手をひっこめた。
「見た目は確かに綺麗なんだけれど、花全体に神経毒があるの。特に危ないのは、未熟な果実や種。中毒成分が多く含まれているから、間違って口に含んだりしたら──大変なことになるんだよ」
「うわっ、ほんとに? 見た目によらないんだね」
萎縮して元の姿勢に直った。
肩が触れ合いそうになるまで、身を寄せてくる彼女。さらりと舞った長い髪から、花とはまた違う芳香が漂ってくる。
気持ちが和らぐ甘い香りと、ブラウスの襟首から覗いたうなじの白さに、心臓がどくん、と大袈裟な音を立て跳ねる。
この日、僕は生まれて初めて恋をした。
この、水瀬茉莉という少女のことが、どうしようもなく好きだと、意識してしまったんだ。
その後も熱を帯びたように話し続ける彼女の横顔は、なんだかとても眩しくて、けれど、同時に凄く儚くて。
澄みあがって悲しいほど美しい水瀬の声に、僕は、ずっと耳を傾けていた。
*
これから僕は、僕の人生で出会った、最も大切な人の話をしようと思う。
*
だが、物事には順番というものがある。この日の記憶は一先ず忘れ、舞台は小学六年生の夏までさかのぼる。僕、早坂翔と水瀬茉莉が初めて出会った日から、物語は──始まる。
(Love is blind の訳) 恋は人を夢中にさせ、時として、理性や常識を失わせるものだということのたとえ。
また、逆説的に捉えると、『盲目的にならないものは恋ではない』とも解釈でき、ある意味、恋というものの性質を上手く表現したことわざであるといえる。
*
「これはね、匂蕃茉莉という名前の花なの」と水瀬は言った。
それはもう何年も前のことで、僕たちはまだ中学二年生だった。季節は夏。クラスアートの題材にする風景を確認する目的で、僕と水瀬は、隣町にある公園まで来ていた。公園の裏手を登り丘の上から見渡すと、日は既に山の稜線に沈み、あたりは闇に閉ざされていた。世俗的な光源が存在しないこの空間では、またたく星座の光も、月の姿も、いつもよりはっきりと見えていた。月はまたとない満月だった。
一望できる丘の上に咲き乱れているのは、紫色の花々。花を咲かせている植物の樹高は僕の膝上ほどなので、五〇センチくらいなんだろう。硬質な濃い緑色の葉を枝いっぱいにつけ、開いた紫紺の花びらを、青みがかった月明かりが幻想的に照らし出していた。
「においばんまつり? 聞いたこと無い名前だ」と僕が言うと、「それはむしろ、普通の反応かな」と水瀬が笑う。
「だってこの花は、ブラジルやアルゼンチンなどの南アメリカが原産地なんだもの」
「へえ、日本の花じゃないんだね。じゃあ、誰かがこの場所に持ってきて移植したのかな?」
「うん、たぶんそうね。暖かい地方だから、上手く根付いたのかも。匂蕃茉莉というのは和名なんだけど、匂──香りのある、蕃──外国からの、茉莉──ジャスミン類のことをそれぞれ指していて、直訳すると『香りのある外国からのジャスミン類』という意味になるんだって」
「ジャスミン類……そっか。だからこんなに、良い香りが漂っているんだね」
水瀬が花弁を覗き込むと、前屈みになった弾みでブラウスの胸元がチラリと見えて、息苦しいくらいにドキドキする。それを隠すように、僕は彼女に質問を返した。
「じゃあこれは、ジャスミンの一種ということ?」
彼女が見せる何気ない仕草に、僕の心は何度もかき乱された。風にそよぐ髪を、耳にかける指の細さに。プリーツスカートの裾が捲れないように、お尻の辺りから丁寧に押さえて座る仕草に。
いつもより赤い、ふっくらとした唇の色にも──。
「あ~、実は全然違うの」と水瀬が首をひねる。「匂蕃茉莉のまつりは、字で書くと、ジャスミンを意味する茉莉花と同じだからそう思われがちだけど、香りが似ているからこう呼ばれているだけで、まったく違う種類なの。ジャスミンはモクセイ科なのに対して、匂蕃茉莉はナス科だからね」
水瀬は花に関して博識だ。僕は、花に対して別段興味を持っていなかったので、彼女が言っていることの半分も理解できてなかったが、咄嗟に語られてくる知識量の多さに、いつも感心しきりだった。
「幾つか違う色の花が混ざっているけど、これは別の種類になるの?」
花の色は濃いもの薄いものと様々あれど、その大半は紫色だ。だが、散見される白い花が、まるで夜空に浮かぶ星のごとく斑模様を形成していた。
「うふふ、そんなことない。これは全て匂蕃茉莉の花。匂蕃茉莉の花は濃い紫から始まり、次第に淡い紫に変化して、最後は白くなるのが特徴なの」
「色が変化していく花、か。これ一種類だけで、何度も楽しみがありそうだね」
「そうね。でも、本当の魅力はやっぱり香りかな。匂蕃茉莉はね、夜になると特に芳香が強くなる種類なの。この間あたしが言った夜に咲く花というのは、もちろんこの花の事なんだけれど、正しく言えば花自体は昼でも咲くの。でも──この花の匂いが強くなるのは主に夜だから、本当の見頃は夜なんだよって、そういう意味をこめて言ったのよ」
「そうか。だから夜に咲く花」
もっと近くで花のかたちを観察したくなった僕は、身を乗り出して、花びらにそっと手を伸ばしてみる。だが、「あ、でも気をつけて」と水瀬に鋭く言われ、慌てて手をひっこめた。
「見た目は確かに綺麗なんだけれど、花全体に神経毒があるの。特に危ないのは、未熟な果実や種。中毒成分が多く含まれているから、間違って口に含んだりしたら──大変なことになるんだよ」
「うわっ、ほんとに? 見た目によらないんだね」
萎縮して元の姿勢に直った。
肩が触れ合いそうになるまで、身を寄せてくる彼女。さらりと舞った長い髪から、花とはまた違う芳香が漂ってくる。
気持ちが和らぐ甘い香りと、ブラウスの襟首から覗いたうなじの白さに、心臓がどくん、と大袈裟な音を立て跳ねる。
この日、僕は生まれて初めて恋をした。
この、水瀬茉莉という少女のことが、どうしようもなく好きだと、意識してしまったんだ。
その後も熱を帯びたように話し続ける彼女の横顔は、なんだかとても眩しくて、けれど、同時に凄く儚くて。
澄みあがって悲しいほど美しい水瀬の声に、僕は、ずっと耳を傾けていた。
*
これから僕は、僕の人生で出会った、最も大切な人の話をしようと思う。
*
だが、物事には順番というものがある。この日の記憶は一先ず忘れ、舞台は小学六年生の夏までさかのぼる。僕、早坂翔と水瀬茉莉が初めて出会った日から、物語は──始まる。
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