上 下
15 / 33
第三章「恋の駆け引き」

【過ちの一夜(1)】

しおりを挟む
 熱いお湯の温もりが、冷えた体に浸透していく。
 朝香の部屋で雨宿りをしている間に、シャワーを借りることにしたのだ。シャワーはいいが着替えがない、と心配したのだが、木田が置いていった服があるからそれを着ればいいよとのこと。
 朝香の部屋に木田の服がある。二人は交際していたのだからそれは当然のことなのだろうが、その事実に理由もなく心がささくれ立った。自分でもよくわからないその感情ごと、熱いお湯で洗い流した。
 浴室から出ると、入れ違いで朝香が浴室に向かう。水音が響いてくると、なんだかそわそわとして落ち着かなかった
 朝香の部屋は、棚の上にガーリーな小物が並んでいて、いかにも女の子らしいものだ。甘くていい香りがしている。それが余計に、女の子の部屋にいるんだと意識させて緊張感を加速させる。
 音がするほうをなるべく見ないようにと、気晴らしにテレビを点けた。
 水音が止んで、朝香が浴室から出てくる。
 濡れたままの髪がうなじに貼り付いていて色っぽい。ブラウスのボタンを上から二つ目まで外していて、胸元がかなりきわどいところまで見えている。「まだ雨止まんね」、と言いながら朝香がドライヤーで髪を乾かし始めた。
 テレビに映っていたのは、昔人気を博した海外の恋愛映画だった。座礁事故を起こして沈みゆく豪華客船の上で、一組の男女が愛を囁きあっている。

「立夏は、乃蒼のことば好いとっちゃろ?」

 沈黙を破ったのは朝香の一言だ。

「そう、だな」

 この間、訊かれてうやむやにした問いの答えだ。ここでまた逃げるのは卑怯だと思うから、正直に答えた。

「でも、まだ告白はしとらんのやろ?」
「ああ、していない」

 情けない話である。でも、なかなか踏ん切りがつかないのだ。

「うち、今日勇から三回も告白された」
「……へえ」
「ねえ、こっち座って」

 朝香がソファーの背に体重を預けた。言われた通りに隣に座る。
 朝香が僕の肩に頭を乗せてきたので、思わず変な声が出てしまった。シャンプーのいい香りがする。朝香は気にしていないのか、そのままの姿勢で語り続ける。

「全部断ったけどね。でも――」
「でも?」
「何度も告白されたら、心が揺れてしまうこともあるかもね。立夏はどげん? うちが何度も告白したら揺れるーと?」
「揺れない」

 迷うことなく即答した。揺れない。揺らがない。揺らぐはずがない。
「そっかあ」と朝香が吐息で笑った。

「『追うよりも追われる愛のほうがいい』とよく聞く。自分を大好きでいてくれる相手と付き合ったほうが、本当は幸せになれるんじゃないかと僕もそう思うんだよね。恋愛において、二人が同じタイミングで好意を持ち合うのは稀なことなのだし。でも……僕は木田みたいに要領良くはできない。僕は冷たい人間なのかもね」

 朝香のことを好きになれたら、きっと楽しいのだろう。朝香もそれを望んでいるのだから、そうしたら丸く収まるのかもしれない。それがわかっていても、彼氏彼女の関係になりたいとは思えなかった。乃蒼に気持ちを伝えるまでは。

「立夏は自分が冷たか人間やて思う?」
「うん」
「そうやろか? 立夏は勇よりずっと優しかて思うけどな」
「どうしてそう思うの?」
「だって、こうしてうちのわがままに付き合うてくれとる」
「そんな、このくらいのことわがままでもなんでもないよ」
「そう? じゃあうちは、もっとわがままな女になることにする」

 朝香が僕の手を取った。そのまま自分の頬に当てると、目を閉じてすりすりと頬ずりをしてくる。彼女の肌の柔らかさが手のひらから伝わってきて、思わず生唾を呑み込んだ。

「うちは、立夏のそげなところを好いとーとよ」

 気まずい沈黙が横たわる。良くない会話の流れだった。
 屋根を叩く雨音がしなくなっていた。雨は小降りになったのだろう。どうにかして帰らなければ、と思い始めた。

「うちはね。立夏への恋心ば諦めとうなか。今日ね、賭けばしとったんだ」
「賭け?」
「そう。今日、もし立夏が迎えに来てくれたら、立夏にうちの初めてばあげようって」
「いや、だって、お前木田と付き合っていたんだろ……?」
「ああ。してないんだよ、あいつとは。あいつさ、うちのことは本当に大事にしてくれとったけん」

 朝香が僕の胸の中に飛び込んでくる。そのまま押し倒されて、馬乗りになられた。

「今日だけでよかけん」
「は? いや、それは……」
「立夏は乃蒼のことが好きやけん無理なんやろ? ばってん、二人はまだ付き合うとらんやろ? なら、問題なかろ? うちは、立夏のことが好きなの。今はまだうちに興味がのうてもよか。お試しで付き合ってみたら、そのうちうちのこと好きになるかもよ?」
「そんなこと言われても困るよ」
「うち、立夏に嫌われとーと?」
「いや、別にそういうわけじゃないけど」
「じゃあ、よかやん。うちを抱いてよ。ね? 立夏の好きにしてよかけん」

 朝香の唇が近づいてくる。僕は顔を背けて逃れた。

「やめてくれ」
「なして?」
「だって……それは……」

 僕は乃蒼が好きだ。だから朝香の気持ちには応えられないし、応えてはいけない。このまま流されていいはずがないんだ。それはわかっているのに一方でうまく拒絶できない。
 ――乃蒼は、いずれ消えてしまうかもしれないんだぞ?
 頭の中で悪魔の囁きがする。
 ――わかっているさ。いずれそうなってしまうのでは? という疑念と恐怖が心の中にあるから、乃蒼に気持ちを伝えられずにいるんだ。どうせ悲しい終わり方になるなら、始まらないほうがお互い傷つかずに済む。
 僕が言葉を濁していると、朝香がにたりと笑った。

「立夏は、好きな子でなくともそういうことできるんやね」
「え?」
「口では嫌がっとっても、体はちゃんと反応しとーばい」

 自分の意思とは無関係に、僕の体はしっかり反応していた。
 腰の上にまたがっている朝香が身じろぎをするたびに、僕の体の中に欲望と切なさとが溜まっていく。
 馬乗りのまま、朝香が顔を近づけてくる。彼女の長いまつ毛が頬に触れるほど近く、そしてそのまま唇が重なった。

「ん……」

 朝香の吐息が唇に触れる。柔らかい唇の感触が伝わってくる。女の子の唇って、こんなに柔らかいのか。

「我慢しないで。楽になってしまえばよかやなか?」

 耳元での囁きが、耳朶をくすぐってむずがゆい。朝香が体を密着させてくる。肌と肌が触れ合って、温かくて気持ちいい。このまま溶け合いたい衝動に駆られる。

「立夏……」

 僕の名前を呼ぶ声が声が色っぽい。頭がくらくらする。理性を総動員して朝香の体を押し返した。

「やめっ」

 朝香の肩を両手で押した。押されながら朝香が僕の手を引いたので、逆に僕が彼女を組み敷く体勢になる。
 朝香は涙目になっていた。しかし、瞳の奥には情欲の炎が灯っているように見えた。頭の中で警鐘が鳴り響く。これ以上はいけないと理性が告げる。それなのに、僕の手は勝手に動き出していた。
 朝香のことは好きだ。魅力的な女性だと思う。
 揺れる短いスカートや、そこから覗く細い足や、思いの外豊満な胸元に、心がかき乱されたことは何度もあった。
 それでも僕は朝香の恋人になることはできない。僕が朝香に対して思う好きと、彼女が僕に対して向けてきている好きとでは、熱量が違うのだ。
 だから交わらない。
 それなのに――。

「うっ……ひっぐ……」

 瞳をそらして、泣き始めた朝香を見ていると、罪悪感で胸が苦しくなる。
 朝香を泣かせているのは僕なんだ。
 僕は朝香の体を抱きしめた。
しおりを挟む
感想 12

あなたにおすすめの小説

黄昏は悲しき堕天使達のシュプール

Mr.M
青春
『ほろ苦い青春と淡い初恋の思い出は・・  黄昏色に染まる校庭で沈みゆく太陽と共に  儚くも露と消えていく』 ある朝、 目を覚ますとそこは二十年前の世界だった。 小学校六年生に戻った俺を取り巻く 懐かしい顔ぶれ。 優しい先生。 いじめっ子のグループ。 クラスで一番美しい少女。 そして。 密かに想い続けていた初恋の少女。 この世界は嘘と欺瞞に満ちている。 愛を語るには幼過ぎる少女達と 愛を語るには汚れ過ぎた大人。 少女は天使の様な微笑みで嘘を吐き、 大人は平然と他人を騙す。 ある時、 俺は隣のクラスの一人の少女の名前を思い出した。 そしてそれは大きな謎と後悔を俺に残した。 夕日に少女の涙が落ちる時、 俺は彼女達の笑顔と 失われた真実を 取り戻すことができるのだろうか。

【完結】キスの練習相手は幼馴染で好きな人【連載版】

猫都299
青春
沼田海里(17)は幼馴染でクラスメイトの一井柚佳に恋心を抱いていた。しかしある時、彼女は同じクラスの桜場篤の事が好きなのだと知る。桜場篤は学年一モテる文武両道で性格もいいイケメンだ。告白する予定だと言う柚佳に焦り、失言を重ねる海里。納得できないながらも彼女を応援しようと決めた。しかし自信のなさそうな柚佳に色々と間違ったアドバイスをしてしまう。己の経験のなさも棚に上げて。 「キス、練習すりゃいいだろ? 篤をイチコロにするやつ」 秘密や嘘で隠されたそれぞれの思惑。ずっと好きだった幼馴染に翻弄されながらも、その本心に近付いていく。 ※現在完結しています。ほかの小説が落ち着いた時等に何か書き足す事もあるかもしれません。(2024.12.2追記) ※「キスの練習相手は〜」「幼馴染に裏切られたので〜」「ダブルラヴァーズ〜」「やり直しの人生では〜」等は同じ地方都市が舞台です。(2024.12.2追記) ※小説家になろう、カクヨム、アルファポリス、ノベルアップ+、Nolaノベルに投稿しています。

バレンタインにやらかしてしまった僕は今、目の前が真っ白です…。

青春
昔から女の子が苦手な〈僕〉は、あろうことかクラスで一番圧があって目立つ女子〈須藤さん〉がバレンタインのために手作りしたクッキーを粉々にしてしまった。 謝っても許してもらえない。そう思ったのだが、須藤さんは「それなら、あんたがチョコを作り直して」と言ってきて……。

SING!!

雪白楽
青春
キミの音を奏でるために、私は生まれてきたんだ―― 指先から零れるメロディーが、かけがえのない出会いを紡ぐ。 さあ、もう一度……音楽を、はじめよう。 第12回ドリーム小説大賞 奨励賞 受賞作品

イラスト部(仮)の雨宮さんはペンが持てない!~スキンシップ多めの美少女幽霊と部活を立ち上げる話~

川上とむ
青春
内川護は高校の空き教室で、元気な幽霊の少女と出会う。 その幽霊少女は雨宮と名乗り、自分の代わりにイラスト部を復活させてほしいと頼み込んでくる。 彼女の押しに負けた護は部員の勧誘をはじめるが、入部してくるのは霊感持ちのクラス委員長や、ゆるふわな先輩といった一風変わった女生徒たち。 その一方で、雨宮はことあるごとに護と行動をともにするようになり、二人の距離は自然と近づいていく。 ――スキンシップ過多の幽霊さんとスクールライフ、ここに開幕!

塞ぐ

虎島沙風
青春
 耳を塞ぎたい。口を塞ぎたい。目を塞ぎたい。そして、心の傷を塞ぎたい。  主人公の瀬川華那(せがわはるな)は美術部の高校2年生である。  華那は自分の意思に反して過去のトラウマを度々思い出してしまう。  華那の唯一の異性の友人である清水雪弥(しみずゆきや)。 華那は不器用な自分とは違って、器用な雪弥のことを心底羨ましく思っていた。  五月十五日に、雪弥が華那が飼っている猫たちに会うために自宅に遊びにきた。  遊びにくる直前に、雪弥の異変に気づいた華那は、雪弥のことをとても心配していたのだが……。思いの外、楽しい時間を過ごすことができた。  ところが。安堵していたのも束の間、帰り際になって、華那と雪弥の二人の間に不穏な空気が徐々に流れ出す。  やがて、雪弥は自分の悩みを打ち明けてきて ──?  みんな、異なる悩みを抱えていて、独りぼっちでもがき苦しんでいる。  誰かと繋がることで、凍ってしまった心がほんの少しずつでも溶けていったらどんなに良いだろうか。  これは、未だ脆く繊細な10代の彼女たちの灰色、青色、鮮紅色、そして朱殷(しゅあん)色が醜くこびりついた物語だ。 ※この小説は、『小説家になろう』・『カクヨム』・『エブリスタ』にも掲載しています。

空を見ない君に、嘘つきな僕はレンズを向ける

六畳のえる
青春
高校2年の吉水一晴は、中学ではクラスの中心にいたものの、全校生徒の前での発表で大失敗したことでトップグループから外れてしまう。惨めな思いをした彼女は、反動で目立たないように下を向いて生活するようになっていた。 そんな中、クラスメイトで映画制作部の谷川凌悟が、映画に出てくれないかと誘ってきた。でも撮る作品は、一度失敗してクラスの輪から外れたヒロインが、前を向いてまたクラスの輪に戻っていくという、一晴と似ている境遇のストーリーで……

きんのさじ 上巻

かつたけい
青春
時は西暦2023年。 佐治ケ江優(さじがえゆう)は、ベルメッカ札幌に所属し、現役日本代表の女子フットサル選手である。 FWリーグで優勝を果たした彼女は、マイクを突き付けられ頭を真っ白にしながらも過去を回想する。 内気で、陰湿ないじめを受け続け、人間を信じられなかった彼女が、 木村梨乃、 山野裕子、 遠山美奈子、 素晴らしい仲間たちと出会い、心のつぼみを開かせ、強くなっていく。 これは、そんな物語である。

処理中です...