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第五章「新條光莉」
【命と引き換えにしたもの】
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ぶはッと水から顔を出すと、肩口まで水に浸かっている状態だった。
ぶつけた場所の痛みがじわじわと激痛に変わる。増水した川の流れに負けないよう両足で踏ん張って、川べりの石を掴んだ。
「光莉! 大丈夫か、光莉!」
彼の声が上から聞こえてくるが、右胸の痛みがひどくて声が出ない。
水の流れが速くて強い。激痛に顔を歪め、どうにかして水から出なくちゃ始まらないと、足場を確かめながら一歩川岸のほうに移動しようとした。けど――。
「あっ」
右足が滑ったと思ったら、一瞬のうちに水に押し流されてしまう。体を支える術がなくなって、水の中でぐるぐると体が回る。上も下もわからず、もがくしかできない。
視界は真っ暗で、激しく水を飲んで、ようやく顔が水から出てむせ返ると、猛烈な速度で自分が流されているのを認識した。
助けて! と叫びたくても口から水が入ってくる。
曇天の空が見えた、と思ってもすぐ水に沈んでしまう。
しばらくの間濁流に流され、必死でもがいていると、かすかに足が川底にかすった。
少し浅瀬になっている。ここを逃したら二度とチャンスはない。流れに逆らうように体を反転させ、どうにか踏ん張ろうと両足に目いっぱい力をこめる。
だが、私の脚力では到底踏ん張れない。再び川の流れに押し流される。
ごぽごぽ、と水に沈んで、水中から鈍い色の太陽を見上げてもうダメだ、と死を覚悟したその時のこと。
太陽に影が差し、水面に波紋が生まれた。近づいてくるそれが人の姿だとわかると同時に、男の子の腕に抱きかかえられていた。
「はあっ!」
なんとか水面から顔をだし、二人で一緒に咳き込んだ。
「都くん!」
私を救出してくれたのは都くんだった。たぶん、私を追ってすぐ川に飛び込んで、浅瀬で少し時間を稼いだときに追いついてくれたのだろう。
水しぶきに顔を背けて、彼が叫んだ。
「良かった。もう大丈夫だ。絶対、助けるから」
うん。
全身が凍えるように寒くて返事すらままならなかったけれど、なんとか頷いてみせた。頷けたと――思う。
私を左腕で抱えたまま、都くんが川岸を目指して泳ぎ始める。でも、岸は遠い。どうやら川の真ん中あたりを流されているようで、泳ぎが得意な彼でもなかなか前に進めない。
口を開くと水が入ってくるので、顔を俯かせたまま彼の体にしがみついた。密着した体から温もりが伝わってきて、凍えていた心に火が灯る。
都くんなら、きっと助けてくれる。良かった、と安心すると、疲労がピークに達していた体を睡魔が蝕んでゆく。やがて、私の意識は遠のいていった。
◇
消毒液の匂いで目が覚めた。
ぼんやりとした意識が定まってくると、知らない天井が見えた。
どこだろう? と視線をぐるりと巡らすと、鈍い色に輝く点滴のバッグが見えた。天井の色は、西日に染まって茜色。点滴の管が自分に繋がっているのを確認し、ここは病院で、時刻は夕方なんだろうと認識する。
そっか。私、助かったんだ。
「光莉?」と私を呼ぶ声が反対側から聞こえ、顔を向けるとこちらを覗き込んでいた母と目が合う。「母さん」と呟くと、手のひらをギュっと握られた。
握る力の強さと、何度も繰り返される「良かった」の囁きで、かなり心配させてしまったんだろうな、という罪悪感が、『生きている』という実感を伴いこみあげてくる。だが、ぽかぽかとし始めた心は、焦燥の波に飲まれてあっという間に冷え込んだ。
「母さん。都くんは、彼はどうなったの?」
沈黙が流れた。それはたぶん、瞬きひとつくらいの間だったけれど、痛すぎる沈黙だった。
「落ち着いて聞いてね」
震えている母の声音が、否が応でも悪い予感を加速させる。
「都くんは生きているんでしょ!」と堪らず叫ぶと、母が静かに首を横に振った。
私の心が、砕けた。
一部始終を聞いたのは、彼の葬儀の日取りが決まってからだった。
私の入院期間が長引いたのでも、聞くタイミングがなかったわけでもない。彼の死を受け入れることができず、取り乱した挙句に発作まで起こしたので、私の側に聞く準備が整っていなかっただけだ。
あの日。上流でより強い雨が降っていた。そのため短時間で急激な増水が起こった。さしもの都くんでも、私を抱えて泳ぐのは容易ではない。
それでも、どうにか私を川岸に押し上げたのだろう。だがそこで力尽き、もしくは足元をすくわれて、再び流れに飲まれてしまった。増水した川の淵で、意識を失ったまま横たわっている私を近隣の住民が発見したあと、二キロほど下流で都くんは見つかった。その時点で心肺停止状態だった彼は、すぐ近くの病院に救急搬送されたが、そのまま息を引き取った。
「大丈夫。そんなに自分を責めないで」
「これは、不幸な事故だったんだよ」
過度に責任を感じないようにと、私を気遣っているのだろう。そんな台詞を、都くんの祖父母が繰り返し語った。
遺影のなかの都くんは、あんな出来事があったのが嘘なんじゃないかと思えるほど、優しくて穏やかな笑みを浮かべていた。
葬儀場を出て見上げた空は、目に染みるほど鮮やかな群青だ。まるで海みたいに深い青。
夏の訪れを感じさせる暑いくらいの陽気で、泳ぎが得意だった彼の旅立ちの日として相応しい。
なんて。
冗談じゃない。
泣きじゃくっている涼子ちゃんを横目にみんなと別れる。葬儀場の建物をぐるりと回って、裏手の庭に出る。立木の陰に身をひそめ、辺りに人の姿が無いのを確認してからうずくまった。
不幸な事故だった?
そんなわけない。
嘆き。悲しみ。不安。怒り。ありとあらゆるマイナス思考が頭の中をぐるぐると回る。やり場のない憤りが、頭の芯をチリチリと刺激して痛む。気持ち悪いものが喉元までせり上がってきて軽くえずいた。
あの日、山に行こうなんて言わなければ良かった。涼子ちゃんの発言に変なプライドをこじらせなければ、こんなことにはならなかった。天気予報がよくないのをもっと警戒していれば、きっと事故は回避できた。雨の中、雲間から射した日光を見て、天使の梯子みたいだな、なんて呑気に思わなければ、足元がお留守になることはなかった。川に落ちたとき、自力で岸までたどり着ける泳力があれば、彼が川に飛び込む必要はなかった。そもそも、私が真人くんを好きにならなければ。私がこの世界にいなければ。私が。私が――。
どう考えても、全部私のせいじゃないか!
怖かった。自分のせいで、人の命が失われたという事実が。
瞼の縁で、かろうじて堰き止めていた涙が、抑えきれなくなった後悔や罪悪感と一緒になってあふれ出す。一度涙が頬を伝うと、そこからは止め処がなくなった。
絶望的な状況にうちひしがれ、涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら地面に手を付いて私は泣いた。
おかした罪で頭の中が一杯になっていたから、その時、誰かが声をかけている事実に気がつくのが少し遅れたのだ。
「もう一度、彼と会いたい?」
それが、あまりにも非現実的な提案だったから、耳に入るまで余計に時間がかかったのかもしれない。
涙を拭って顔を上げると、赤い巫女装束を着た女の子が隣に立っていた。
たとえるならば、そう――。
「アニメにでてくる神様みたい」
そう思った。
砂漠の真ん中に放り出されたみたいに、状況をうまく整理できない。断片的な思考を繋いで口にした、「あなたは誰なの?」という問いに対する答えは、「ボクは神だよ」なのだった。
これには耳を疑うほかない。
社会的、道徳的に反する行為をしたとき、人は罪悪感を覚える。強い罪悪感に苛まれると、自分を無価値なものとみなしてしまう。失った自尊心を取り戻すため、罪滅ぼしをしようと躍起になる。
だからこの日、崖っぷちに立たされていた私が。覗き込むのもためらうような、奈落の淵で彷徨っていた私が、抱えた罪を甘受するため、彼女の提案を飲むのは必然だったのだ。きっと。
もしかしたらこれも、甘えなのだろうけど。
「君は奇跡を信じる?」
奇跡という言葉から、連想したことがひとつあった。
まさか、そんな。
「信じる、って言ったらどうなるの?」
「彼を蘇らせることができる。会いたい? 彼と」
矢も楯もたまらず私は頷いた。
冷静な判断力は、とっくに損なわれていた。
「ボクにはその力がある。とはいえ、歴史を捻じ曲げるほどの力はない。だから、彼を蘇らせることはできるが、その存在は紛い物だ」
紛い物、という言葉に強い忌避感があった。幽霊になって戻ってくるということ? それとも、魔物や妖怪の類? もしかしたら私は、今、とんでもない人と話をしているのではないか。
「つまり、ちょっとした不具合で均衡は崩れる。それでも、一時の生を願うか人の子よ」
「願います」
それなのに、自分でも驚くほどの即答だ。その先どうなるかなんて、これっぽっちも考えてなかった。
冷静な判断力は損なわれているのに、都くんが時々遠い目をしている理由が、なぜかこの瞬間鮮明にわかった。きっと、彼が想っていた相手は。
…………
……
◇
ぶつけた場所の痛みがじわじわと激痛に変わる。増水した川の流れに負けないよう両足で踏ん張って、川べりの石を掴んだ。
「光莉! 大丈夫か、光莉!」
彼の声が上から聞こえてくるが、右胸の痛みがひどくて声が出ない。
水の流れが速くて強い。激痛に顔を歪め、どうにかして水から出なくちゃ始まらないと、足場を確かめながら一歩川岸のほうに移動しようとした。けど――。
「あっ」
右足が滑ったと思ったら、一瞬のうちに水に押し流されてしまう。体を支える術がなくなって、水の中でぐるぐると体が回る。上も下もわからず、もがくしかできない。
視界は真っ暗で、激しく水を飲んで、ようやく顔が水から出てむせ返ると、猛烈な速度で自分が流されているのを認識した。
助けて! と叫びたくても口から水が入ってくる。
曇天の空が見えた、と思ってもすぐ水に沈んでしまう。
しばらくの間濁流に流され、必死でもがいていると、かすかに足が川底にかすった。
少し浅瀬になっている。ここを逃したら二度とチャンスはない。流れに逆らうように体を反転させ、どうにか踏ん張ろうと両足に目いっぱい力をこめる。
だが、私の脚力では到底踏ん張れない。再び川の流れに押し流される。
ごぽごぽ、と水に沈んで、水中から鈍い色の太陽を見上げてもうダメだ、と死を覚悟したその時のこと。
太陽に影が差し、水面に波紋が生まれた。近づいてくるそれが人の姿だとわかると同時に、男の子の腕に抱きかかえられていた。
「はあっ!」
なんとか水面から顔をだし、二人で一緒に咳き込んだ。
「都くん!」
私を救出してくれたのは都くんだった。たぶん、私を追ってすぐ川に飛び込んで、浅瀬で少し時間を稼いだときに追いついてくれたのだろう。
水しぶきに顔を背けて、彼が叫んだ。
「良かった。もう大丈夫だ。絶対、助けるから」
うん。
全身が凍えるように寒くて返事すらままならなかったけれど、なんとか頷いてみせた。頷けたと――思う。
私を左腕で抱えたまま、都くんが川岸を目指して泳ぎ始める。でも、岸は遠い。どうやら川の真ん中あたりを流されているようで、泳ぎが得意な彼でもなかなか前に進めない。
口を開くと水が入ってくるので、顔を俯かせたまま彼の体にしがみついた。密着した体から温もりが伝わってきて、凍えていた心に火が灯る。
都くんなら、きっと助けてくれる。良かった、と安心すると、疲労がピークに達していた体を睡魔が蝕んでゆく。やがて、私の意識は遠のいていった。
◇
消毒液の匂いで目が覚めた。
ぼんやりとした意識が定まってくると、知らない天井が見えた。
どこだろう? と視線をぐるりと巡らすと、鈍い色に輝く点滴のバッグが見えた。天井の色は、西日に染まって茜色。点滴の管が自分に繋がっているのを確認し、ここは病院で、時刻は夕方なんだろうと認識する。
そっか。私、助かったんだ。
「光莉?」と私を呼ぶ声が反対側から聞こえ、顔を向けるとこちらを覗き込んでいた母と目が合う。「母さん」と呟くと、手のひらをギュっと握られた。
握る力の強さと、何度も繰り返される「良かった」の囁きで、かなり心配させてしまったんだろうな、という罪悪感が、『生きている』という実感を伴いこみあげてくる。だが、ぽかぽかとし始めた心は、焦燥の波に飲まれてあっという間に冷え込んだ。
「母さん。都くんは、彼はどうなったの?」
沈黙が流れた。それはたぶん、瞬きひとつくらいの間だったけれど、痛すぎる沈黙だった。
「落ち着いて聞いてね」
震えている母の声音が、否が応でも悪い予感を加速させる。
「都くんは生きているんでしょ!」と堪らず叫ぶと、母が静かに首を横に振った。
私の心が、砕けた。
一部始終を聞いたのは、彼の葬儀の日取りが決まってからだった。
私の入院期間が長引いたのでも、聞くタイミングがなかったわけでもない。彼の死を受け入れることができず、取り乱した挙句に発作まで起こしたので、私の側に聞く準備が整っていなかっただけだ。
あの日。上流でより強い雨が降っていた。そのため短時間で急激な増水が起こった。さしもの都くんでも、私を抱えて泳ぐのは容易ではない。
それでも、どうにか私を川岸に押し上げたのだろう。だがそこで力尽き、もしくは足元をすくわれて、再び流れに飲まれてしまった。増水した川の淵で、意識を失ったまま横たわっている私を近隣の住民が発見したあと、二キロほど下流で都くんは見つかった。その時点で心肺停止状態だった彼は、すぐ近くの病院に救急搬送されたが、そのまま息を引き取った。
「大丈夫。そんなに自分を責めないで」
「これは、不幸な事故だったんだよ」
過度に責任を感じないようにと、私を気遣っているのだろう。そんな台詞を、都くんの祖父母が繰り返し語った。
遺影のなかの都くんは、あんな出来事があったのが嘘なんじゃないかと思えるほど、優しくて穏やかな笑みを浮かべていた。
葬儀場を出て見上げた空は、目に染みるほど鮮やかな群青だ。まるで海みたいに深い青。
夏の訪れを感じさせる暑いくらいの陽気で、泳ぎが得意だった彼の旅立ちの日として相応しい。
なんて。
冗談じゃない。
泣きじゃくっている涼子ちゃんを横目にみんなと別れる。葬儀場の建物をぐるりと回って、裏手の庭に出る。立木の陰に身をひそめ、辺りに人の姿が無いのを確認してからうずくまった。
不幸な事故だった?
そんなわけない。
嘆き。悲しみ。不安。怒り。ありとあらゆるマイナス思考が頭の中をぐるぐると回る。やり場のない憤りが、頭の芯をチリチリと刺激して痛む。気持ち悪いものが喉元までせり上がってきて軽くえずいた。
あの日、山に行こうなんて言わなければ良かった。涼子ちゃんの発言に変なプライドをこじらせなければ、こんなことにはならなかった。天気予報がよくないのをもっと警戒していれば、きっと事故は回避できた。雨の中、雲間から射した日光を見て、天使の梯子みたいだな、なんて呑気に思わなければ、足元がお留守になることはなかった。川に落ちたとき、自力で岸までたどり着ける泳力があれば、彼が川に飛び込む必要はなかった。そもそも、私が真人くんを好きにならなければ。私がこの世界にいなければ。私が。私が――。
どう考えても、全部私のせいじゃないか!
怖かった。自分のせいで、人の命が失われたという事実が。
瞼の縁で、かろうじて堰き止めていた涙が、抑えきれなくなった後悔や罪悪感と一緒になってあふれ出す。一度涙が頬を伝うと、そこからは止め処がなくなった。
絶望的な状況にうちひしがれ、涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら地面に手を付いて私は泣いた。
おかした罪で頭の中が一杯になっていたから、その時、誰かが声をかけている事実に気がつくのが少し遅れたのだ。
「もう一度、彼と会いたい?」
それが、あまりにも非現実的な提案だったから、耳に入るまで余計に時間がかかったのかもしれない。
涙を拭って顔を上げると、赤い巫女装束を着た女の子が隣に立っていた。
たとえるならば、そう――。
「アニメにでてくる神様みたい」
そう思った。
砂漠の真ん中に放り出されたみたいに、状況をうまく整理できない。断片的な思考を繋いで口にした、「あなたは誰なの?」という問いに対する答えは、「ボクは神だよ」なのだった。
これには耳を疑うほかない。
社会的、道徳的に反する行為をしたとき、人は罪悪感を覚える。強い罪悪感に苛まれると、自分を無価値なものとみなしてしまう。失った自尊心を取り戻すため、罪滅ぼしをしようと躍起になる。
だからこの日、崖っぷちに立たされていた私が。覗き込むのもためらうような、奈落の淵で彷徨っていた私が、抱えた罪を甘受するため、彼女の提案を飲むのは必然だったのだ。きっと。
もしかしたらこれも、甘えなのだろうけど。
「君は奇跡を信じる?」
奇跡という言葉から、連想したことがひとつあった。
まさか、そんな。
「信じる、って言ったらどうなるの?」
「彼を蘇らせることができる。会いたい? 彼と」
矢も楯もたまらず私は頷いた。
冷静な判断力は、とっくに損なわれていた。
「ボクにはその力がある。とはいえ、歴史を捻じ曲げるほどの力はない。だから、彼を蘇らせることはできるが、その存在は紛い物だ」
紛い物、という言葉に強い忌避感があった。幽霊になって戻ってくるということ? それとも、魔物や妖怪の類? もしかしたら私は、今、とんでもない人と話をしているのではないか。
「つまり、ちょっとした不具合で均衡は崩れる。それでも、一時の生を願うか人の子よ」
「願います」
それなのに、自分でも驚くほどの即答だ。その先どうなるかなんて、これっぽっちも考えてなかった。
冷静な判断力は損なわれているのに、都くんが時々遠い目をしている理由が、なぜかこの瞬間鮮明にわかった。きっと、彼が想っていた相手は。
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