僕たちの中から一人『消えた』、あの夏の日

木立 花音

文字の大きさ
上 下
27 / 33
第五章「新條光莉」

【命と引き換えにしたもの】

しおりを挟む
 ぶはッと水から顔を出すと、肩口まで水に浸かっている状態だった。
 ぶつけた場所の痛みがじわじわと激痛に変わる。増水した川の流れに負けないよう両足で踏ん張って、川べりの石を掴んだ。

「光莉! 大丈夫か、光莉!」

 彼の声が上から聞こえてくるが、右胸の痛みがひどくて声が出ない。
 水の流れが速くて強い。激痛に顔を歪め、どうにかして水から出なくちゃ始まらないと、足場を確かめながら一歩川岸のほうに移動しようとした。けど――。

「あっ」

 右足が滑ったと思ったら、一瞬のうちに水に押し流されてしまう。体を支える術がなくなって、水の中でぐるぐると体が回る。上も下もわからず、もがくしかできない。
 視界は真っ暗で、激しく水を飲んで、ようやく顔が水から出てむせ返ると、猛烈な速度で自分が流されているのを認識した。
 助けて! と叫びたくても口から水が入ってくる。
 曇天の空が見えた、と思ってもすぐ水に沈んでしまう。
 しばらくの間濁流に流され、必死でもがいていると、かすかに足が川底にかすった。
 少し浅瀬になっている。ここを逃したら二度とチャンスはない。流れに逆らうように体を反転させ、どうにか踏ん張ろうと両足に目いっぱい力をこめる。
 だが、私の脚力では到底踏ん張れない。再び川の流れに押し流される。
 ごぽごぽ、と水に沈んで、水中から鈍い色の太陽を見上げてもうダメだ、と死を覚悟したその時のこと。
 太陽に影が差し、水面に波紋が生まれた。近づいてくるそれが人の姿だとわかると同時に、男の子の腕に抱きかかえられていた。

「はあっ!」

 なんとか水面から顔をだし、二人で一緒に咳き込んだ。

「都くん!」

 私を救出してくれたのは都くんだった。たぶん、私を追ってすぐ川に飛び込んで、浅瀬で少し時間を稼いだときに追いついてくれたのだろう。
 水しぶきに顔を背けて、彼が叫んだ。

「良かった。もう大丈夫だ。絶対、助けるから」

 うん。
 全身が凍えるように寒くて返事すらままならなかったけれど、なんとか頷いてみせた。頷けたと――思う。
 私を左腕で抱えたまま、都くんが川岸を目指して泳ぎ始める。でも、岸は遠い。どうやら川の真ん中あたりを流されているようで、泳ぎが得意な彼でもなかなか前に進めない。
 口を開くと水が入ってくるので、顔を俯かせたまま彼の体にしがみついた。密着した体から温もりが伝わってきて、凍えていた心に火が灯る。
 都くんなら、きっと助けてくれる。良かった、と安心すると、疲労がピークに達していた体を睡魔が蝕んでゆく。やがて、私の意識は遠のいていった。



 消毒液の匂いで目が覚めた。
 ぼんやりとした意識が定まってくると、知らない天井が見えた。
 どこだろう? と視線をぐるりと巡らすと、鈍い色に輝く点滴のバッグが見えた。天井の色は、西日に染まって茜色。点滴の管が自分に繋がっているのを確認し、ここは病院で、時刻は夕方なんだろうと認識する。
 そっか。私、助かったんだ。
「光莉?」と私を呼ぶ声が反対側から聞こえ、顔を向けるとこちらを覗き込んでいた母と目が合う。「母さん」と呟くと、手のひらをギュっと握られた。
 握る力の強さと、何度も繰り返される「良かった」の囁きで、かなり心配させてしまったんだろうな、という罪悪感が、『生きている』という実感を伴いこみあげてくる。だが、ぽかぽかとし始めた心は、焦燥の波に飲まれてあっという間に冷え込んだ。

「母さん。都くんは、彼はどうなったの?」

 沈黙が流れた。それはたぶん、瞬きひとつくらいの間だったけれど、痛すぎる沈黙だった。

「落ち着いて聞いてね」

 震えている母の声音が、否が応でも悪い予感を加速させる。
「都くんは生きているんでしょ!」と堪らず叫ぶと、母が静かに首を横に振った。
 私の心が、砕けた。

 一部始終を聞いたのは、彼の葬儀の日取りが決まってからだった。
 私の入院期間が長引いたのでも、聞くタイミングがなかったわけでもない。彼の死を受け入れることができず、取り乱した挙句に発作まで起こしたので、私の側に聞く準備が整っていなかっただけだ。
 あの日。上流でより強い雨が降っていた。そのため短時間で急激な増水が起こった。さしもの都くんでも、私を抱えて泳ぐのは容易ではない。
 それでも、どうにか私を川岸に押し上げたのだろう。だがそこで力尽き、もしくは足元をすくわれて、再び流れに飲まれてしまった。増水した川の淵で、意識を失ったまま横たわっている私を近隣の住民が発見したあと、二キロほど下流で都くんは見つかった。その時点で心肺停止状態だった彼は、すぐ近くの病院に救急搬送されたが、そのまま息を引き取った。

「大丈夫。そんなに自分を責めないで」
「これは、不幸な事故だったんだよ」

 過度に責任を感じないようにと、私を気遣っているのだろう。そんな台詞を、都くんの祖父母が繰り返し語った。
 遺影のなかの都くんは、あんな出来事があったのが嘘なんじゃないかと思えるほど、優しくて穏やかな笑みを浮かべていた。
 葬儀場を出て見上げた空は、目に染みるほど鮮やかな群青ぐんじょうだ。まるで海みたいに深い青。
 夏の訪れを感じさせる暑いくらいの陽気で、泳ぎが得意だった彼の旅立ちの日として相応しい。
 なんて。

 冗談じゃない。

 泣きじゃくっている涼子ちゃんを横目にみんなと別れる。葬儀場の建物をぐるりと回って、裏手の庭に出る。立木の陰に身をひそめ、辺りに人の姿が無いのを確認してからうずくまった。
 不幸な事故だった?
 そんなわけない。
 嘆き。悲しみ。不安。怒り。ありとあらゆるマイナス思考が頭の中をぐるぐると回る。やり場のない憤りが、頭の芯をチリチリと刺激して痛む。気持ち悪いものが喉元までせり上がってきて軽くえずいた。
 あの日、山に行こうなんて言わなければ良かった。涼子ちゃんの発言に変なプライドをこじらせなければ、こんなことにはならなかった。天気予報がよくないのをもっと警戒していれば、きっと事故は回避できた。雨の中、雲間から射した日光を見て、天使の梯子みたいだな、なんて呑気に思わなければ、足元がお留守になることはなかった。川に落ちたとき、自力で岸までたどり着ける泳力があれば、彼が川に飛び込む必要はなかった。そもそも、私が真人くんを好きにならなければ。私がこの世界にいなければ。私が。私が――。
 どう考えても、全部私のせいじゃないか!
 怖かった。自分のせいで、人の命が失われたという事実が。
 瞼の縁で、かろうじて堰き止めていた涙が、抑えきれなくなった後悔や罪悪感と一緒になってあふれ出す。一度涙が頬を伝うと、そこからは止め処がなくなった。
 絶望的な状況にうちひしがれ、涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら地面に手を付いて私は泣いた。
 おかした罪で頭の中が一杯になっていたから、その時、誰かが声をかけている事実に気がつくのが少し遅れたのだ。

「もう一度、彼と会いたい?」

 それが、あまりにも非現実的な提案だったから、耳に入るまで余計に時間がかかったのかもしれない。
 涙を拭って顔を上げると、赤い巫女装束を着た女の子が隣に立っていた。
 たとえるならば、そう――。

「アニメにでてくる神様みたい」

 そう思った。
 砂漠の真ん中に放り出されたみたいに、状況をうまく整理できない。断片的な思考を繋いで口にした、「あなたは誰なの?」という問いに対する答えは、「ボクは神だよ」なのだった。
 これには耳を疑うほかない。

 社会的、道徳的に反する行為をしたとき、人は罪悪感を覚える。強い罪悪感に苛まれると、自分を無価値なものとみなしてしまう。失った自尊心を取り戻すため、罪滅ぼしをしようと躍起になる。
 だからこの日、崖っぷちに立たされていた私が。覗き込むのもためらうような、奈落の淵で彷徨っていた私が、抱えた罪を甘受するため、彼女の提案を飲むのは必然だったのだ。きっと。
 もしかしたらこれも、甘えなのだろうけど。

「君は奇跡を信じる?」

 奇跡という言葉から、連想したことがひとつあった。
 まさか、そんな。

「信じる、って言ったらどうなるの?」
「彼を蘇らせることができる。会いたい? 彼と」

 矢も楯もたまらず私は頷いた。
 冷静な判断力は、とっくに損なわれていた。

「ボクにはその力がある。とはいえ、歴史を捻じ曲げるほどの力はない。だから、彼を蘇らせることはできるが、その存在は紛い物だ」

 紛い物、という言葉に強い忌避感があった。幽霊になって戻ってくるということ? それとも、魔物や妖怪の類? もしかしたら私は、今、とんでもない人と話をしているのではないか。

「つまり、ちょっとした不具合で均衡は崩れる。それでも、一時いっときの生を願うか人の子よ」
「願います」

 それなのに、自分でも驚くほどの即答だ。その先どうなるかなんて、これっぽっちも考えてなかった。
 冷静な判断力は損なわれているのに、都くんが時々遠い目をしている理由が、なぜかこの瞬間鮮明にわかった。きっと、彼が想っていた相手は。
 …………
 ……


しおりを挟む
感想 31

あなたにおすすめの小説

独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立

水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~ 第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。 ◇◇◇◇ 飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。 仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。 退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。 他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。 おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。 

嘘つきな私のニューゲーム~自分を偽ってきた彼と、親友を欺いた彼女の物語~

木立 花音
現代文学
 ――後悔していること、あなたにはありますか?    初恋の相手に、気持ちを伝えることができなかった過去を悔やんでいる青年、三嶋蓮(みしまれん)  大切な親友に嘘をつき、気まずくなってしまった過去を悔いている女性、霧島七瀬(きりしまななせ)  十年前、二分の一成人式で当時小学生だった自分が現在の自分に書いた手紙がタイムカプセルから出てきたとき、二人の心の傷がよみがえる。  そんななか、蓮の前に現れたのは、雨の日だけバス停に佇んでいるちょっと不思議なセーラー服の少女。  少女の姿は、二人の共通の友人だった森川菫(もりかわすみれ)と何故か瓜二つで?  少女と森川菫の共通点が見えてくるにつれて、蓮が忘れかけていた純粋な恋心と、七瀬が隠し続けていた過去の罪が浮き彫りになっていくのだった。  これは、未練を解消していくための、二人がたどった「ニューゲーム」だ。 ※表紙画像は、イトノコ様のフリーアイコンを使わせて頂いています。

学校一の美人から恋人にならないと迷惑系Vtuberになると脅された。俺を切り捨てた幼馴染を確実に見返せるけど……迷惑系Vtuberて何それ?

ただ巻き芳賀
青春
学校一の美人、姫川菜乃。 栗色でゆるふわな髪に整った目鼻立ち、声質は少し強いのに優し気な雰囲気の女子だ。 その彼女に脅された。 「恋人にならないと、迷惑系Vtuberになるわよ?」 今日は、大好きな幼馴染みから彼氏ができたと知らされて、心底落ち込んでいた。 でもこれで、確実に幼馴染みを見返すことができる! しかしだ。迷惑系Vtuberってなんだ?? 訳が分からない……。それ、俺困るの?

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】その夏は、愛しくて残酷で

Ria★発売中『簡単に聖女に魅了〜』
青春
ーーわがままでごめんね。貴方の心の片隅に住まわせて欲しいの。 一章 告知 二章 思い出作り 三章 束の間 四章 大好き 最後に、柊真視点が入ります。 _________________ ファンタジーしか書いて来なかったので、このジャンルは中々書くのが難しかったですが、なんとか頑張って書いてみました! ※完結まで執筆済み(予約投稿) ※10万文字以上を長編と思っているので、この作品は短編扱いにしています。

#消えたい僕は君に150字の愛をあげる

川奈あさ
青春
旧題:透明な僕たちが色づいていく 誰かの一番になれない僕は、今日も感情を下書き保存する 空気を読むのが得意で、周りの人の為に動いているはずなのに。どうして誰の一番にもなれないんだろう。 家族にも友達にも特別に必要とされていないと感じる雫。 そんな雫の一番大切な居場所は、”150文字”の感情を投稿するSNS「Letter」 苦手に感じていたクラスメイトの駆に「俺と一緒に物語を作って欲しい」と頼まれる。 ある秘密を抱える駆は「letter」で開催されるコンテストに作品を応募したいのだと言う。 二人は”150文字”の種になる季節や色を探しに出かけ始める。 誰かになりたくて、なれなかった。 透明な二人が150文字の物語を紡いでいく。

邦裕の孤愁くにひろのこしゅう

ネツ三
青春
それぞれ事情があって三人でシェアハウスで同居することになった、高校二年生の邦裕と健人と朱莉。家族のいない邦裕は、朱莉と強くつながりたいと願うが、朱莉は素っ気ない。邦裕に新たな家族はできるのか。 一話完結。

幼馴染が家出したので、僕と同居生活することになったのだが。

四乃森ゆいな
青春
とある事情で一人暮らしをしている僕──和泉湊はある日、幼馴染でクラスメイト、更には『女神様』と崇められている美少女、真城美桜を拾うことに……? どうやら何か事情があるらしく、頑なに喋ろうとしない美桜。普段は無愛想で、人との距離感が異常に遠い彼女だが、何故か僕にだけは世話焼きになり……挙句には、 「私と同棲してください!」 「要求が増えてますよ!」 意味のわからない同棲宣言をされてしまう。 とりあえず同居するという形で、居候することになった美桜は、家事から僕の宿題を見たりと、高校生らしい生活をしていくこととなる。 中学生の頃から疎遠気味だったために、空いていた互いの時間が徐々に埋まっていき、お互いに知らない自分を曝け出していく中──女神様は何でもない『日常』を、僕の隣で歩んでいく。 無愛想だけど僕にだけ本性をみせる女神様 × ワケあり陰キャぼっちの幼馴染が送る、半同棲な同居生活ラブコメ。

処理中です...