僕たちの中から一人『消えた』、あの夏の日

木立 花音

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第四章「月が綺麗な夜だから」

【月が綺麗な夜ですね】

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 夜中、不意に目が覚めた。
 今、何時だろうと思い辺りをぐるりと見渡すが、僕たちが寝室として使った八畳の和室に時計はない。窓から見えている月は高い位置にあるので、まだ未明だろうか。
 部屋の中は暗くて視界が悪い。布団にくるまっている三人の寝息だけが静かに響いていた。
 寝相の悪い真人の掛け布団を苦笑交じりに直し、一人で部屋を出た。誰かを起こしてはならないと、音に気遣いながらふすまを閉めた。
 雨はすでにやんでいた。
 これといった目的地もなく歩き始める。なんとはなしに覗いた隣の和室は、無人だった。藤原さんも、僕と同じように眠れないのだろうか。

 そのまま足を屋外にまで伸ばした。雨上がりの空は一転して晴れ、煌々とした月明りは、星の瞬きを阻害するほどだ。
 光はまた地上にもあった。
 懐中電灯と思しき明かりが、集会所の前の道を右往左往していた。
「月が綺麗な夜ですね」と僕は、その光を持っている人物に声をかけた。

「誰かと思えば。えーと、名前」

 白々しいその口調に、「高橋です」と答えた。

「そうそう。高橋君か。もしかして今のは、口説き文句か何かなのかい? 君は若いから知らないだろうけど、『月が綺麗ですね』という言葉には、そんな意味も含まれているんだよ」
「そうなんですか?」
「そうさね。他にも、『夕日が綺麗ですね』と言ったら、あなたの気持ちを教えてほしい。『星が綺麗ですね』と言ったら、あなたに憧れています、という意味があるんだとか」
「じゃあ、嘘でも夕日が綺麗だ、というべきでした」
「なんだい? 私の気持ちが知りたいのか。じゃあやっぱり、私に気があるんじゃないか」

 いやいやまさか、と僕は苦笑しながら首を振った。

「だって、藤原さんと僕とじゃ、それこそ親子くらいに歳が離れているじゃないですか」
「ははは、そうだねえ。でも、比喩なんかじゃなくて、本当に月が綺麗な夜だ。高橋君も、眠れないのかい?」

 言いながら彼女は、懐中電灯の明かりを消した。
 闇の色が深まると、五感の全てが研ぎ澄まされていくようだ。雨露を宿した、草いきれの匂い。ひんやりとした空気が肌にまとわりつき、草むらから虫たちの声がわき上がる。
 僕はいま、緊張しているんだな、と耳障りな心音を意識して思う。

「そんなところですかね。藤原さんは、こんな夜中にどうしたんですか? 何か探し物でも?」
「ん? どうしてそう思うんだい?」
「今日は満月の夜です。視界も充分効きますし、散歩をするのに懐中電灯は要らないんじゃないかな、と思ったもので」
「なるほど。君はなかなかいい洞察力を持っている」

 次第に目が慣れてくると、彼女の表情もはっきり視認できるようになる。月明りを浴びた端正な顔は、口角が少し上がって見えた。

「だがしかし、残念。これはあくまでも防犯のためだよ。女性の独り歩きは危険だからね」
「こんな山奥で? 助けを呼んでも、おそらく誰も来てくれないのに?」
「はは。君が来てくれただろう」
「そうですね。ですが駆けつけた僕は、むしろ味方ではないかもしれませんよ?」
「思わせぶりな発言が多いねえ。なるほど。だから『夕日が綺麗ですね』なのか。私に、何か聞きたいことがあるんだね」
「藤原さん」
「ん。なんだい」

 彼女の声は低音で、耳にサラリと届いて心地よい。だがその内に、こちらの意中を探ろうという本音が透けて見える。

「僕たちが、傘を見つけた話をしたときのことです。警察に連絡をしてくれましたが、あれ、嘘ですよね?」
「おや。どうしてそう思うんだい?」
「このへん一帯は、圏外のはずなんですよ」

 藤原さんの眼光が、わずかに鋭さを増した。

「今から三十年も前に、無人になった村です。今さら中継局なんて立ちはしませんよね?」
「そうかねえ。無人といっても観光地だろう? ここ最近整備されたという可能性もあるんじゃないかね」
「なるほど。まあ、とりあえずそれは置いておきましょう。いま本当に聞きたいのは、そこじゃないですし。警察には、僕が有線電話で連絡しておきましたし」

 僕は見逃さなかった。表情を崩さずとも、彼女の眉がピクリと動いたのを。

「それじゃ、質問を変えましょう」

「探し物、これですよね?」と言って、拾った運転免許証をちらつかせると、露骨に藤原さんの顔色が変わった。だがゆっくりと、動揺を薄い笑みで塗り替えていく。嘘をつき慣れているな、と思う。

「そうそう。それを探していたんだよ。見つけてくれて、ありがとうね」
「おっと」

 だが僕は、免許証に向けて伸ばされてきた手からひょいと逃れた。

「渡すわけには、いきませんね」
「おや? 嘘をついていたことを怒っているのかい? 運転免許証を失くしたなんて言ったら、格好がつかないと思ってね」
「いいえ。怒っているわけではありませんよ。嘘なんて、誰でもつくものですし」
「ではどうしてだい? それは私にとって、大事な物なのだが」
「そうですね。これがあなたの物であったなら、僕だって素直に返します」

 瞳を逸らさずに答える。彼女の顔色がまた変化した。

「このカードに映っている写真の人物。どことなく、あなたと似ている。ですが、髪型こそ似かよっているものの、よくよく細部を見ると別人ですよね? 目鼻立ちから何まで」

 無言で耳を傾けるのみで、彼女は言葉を返さない。反論材料がないのだろう。

「だってあなたの名前、来栖円くるすまどかですものね。それとも、こうお呼びしたほうがよかったですか? 母さん」

 久しく呼んだことのない敬称を口にすると、藤原さんあらため母は、ちょっと不敵な笑みを浮かべた。
 こうして見ると間違いない。すでに記憶は朧気ながら、うっすら残っている母親像は、目の前の人物と合致する。三十九歳とは思えぬ美貌を維持しているこの人は、確かに僕の母親だ。
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