僕たちの中から一人『消えた』、あの夏の日

木立 花音

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第三章「高橋都」

【繋がる点と点】

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「あれ、傘だよな」と言った真人の目が泳いでいる。
「ああ、そうだな」と相槌で返す。
「誰か、ここを滑り落ちていったのかなあ?」

 僕が飲み干した台詞を光莉が代弁した。まさか、と言いたいのだが、否定する材料が見つからない。じゃあ、なぜあの場所に傘がある? という自問に対する答えが浮かばない。
 震える瞳。血色の悪い頬。光莉はただでさえ色白なので、いつも以上に顔色が悪く見える。だが、それ以上に顔面蒼白なのが涼子だ。

「バカなこと言わないでよ。そんなわけ――」
「ないって、言い切れるか? 斜面が崩れた跡があって、下には傘があるんだぜ? 普通に考えたら、これは雨の日に誰かが落ちた痕跡だろ」

 真人の声に、しかし涼子は何も言い返さない。

「もしかして、埋まってるとか」

 最悪の予想を光莉が口にすると、稲妻に打たれたように真人が動いた。

「そ、そっか! 万が一、土砂の下に人が埋まっていたら大変なことになる。た、助けなくちゃ」
「落ち着けよ。助けるったって、どうやってあの場所まで行く気なんだ?」

 登山道から盛り土のある川岸までは、少なく見積もっても三十メートルほどの高低差がある。そのうえ、途中から断崖絶壁もかくやの急こう配なのだ。
 とてもじゃないが、命綱なしで降りるのは不可能だ。

「それにさ、土砂の量はそんなに多くない。人間一人覆い隠すほどじゃないと思うんだ」
「ここから見て、何がわかる? もし、本当に人が埋まっていたとしたら、お前、責任とれるのかよ!」
「だから落ち着けって言ってるだろう。どうやって降りるつもりなのかもだけど、途中からほぼ垂直の崖になってんだし、降りたが最後、上がってこれないぞ? たとえ誰かが埋まっていたとしても、引き上げる方法だってない」
「……」

 冷静にそう返すと、真人は苦虫をかみ潰したような顔になる。その時、おずおずと光莉が手を上げた。

「なんかさ。あの傘、私が持っている物と似てるかも……」
「そんなわけないでしょッ! だって、光莉はここにいるんだし!」

 光莉の発言もだが、それ以上に、被せ気味に叫んだ涼子の剣幕に驚愕した。

「涼子……、どうしてそんなにムキになってんだよ。確かに、同じようなデザインの傘なんていくらでもあるだろう。それに」
「それに?」
「いや」

 光莉の傘であるはずがないんだ、と言いかけて、台詞が喉元で急停止した。
 それは、本当か?
 山の麓にあった、光莉の自転車。光莉の持ち物とよく似た傘。そして、夏南が俺たちを呼んだ理由が、この崩落現場を見せることなのだから、この三つには密接な繋がりがあるってことなんじゃ?
 みんなが同じことを思っているのか、一様に口を開かなくなってしまった。

「なあ、夏南」
「なんだい?」

 この場所に、僕たちを連れてきたのは他ならぬ夏南だ。
 神様に対してこんな質問をするのは、バカげているとも野暮だとも思う。だが、絶対に彼女は何かを隠しているんだ。

「夏南。お前、なんか知ってるんだよな。知っているから、僕たちをここに呼んだんだろ?」

 逸らされることのない、黒曜石の瞳。漆黒の瞳のその奥に、深い悲しみが横たわっているように見えた。
 なんで、そんな顔するんだよ。

「そうだね。知っているかどうかと問われたら、知っている事柄がある。だからこそ、君たちをこの場所に導いたんだしね」
「いい加減に、ハッキリ言ってくれよ!」

 苛立ったように、真人が声を荒げた。「そんなにでかい声をだすなよ」と諭しても聞く耳を持たない。

「お前が現れてから、本当にろくなことがないな。……まるで疫病神だよ」
「疫病神、か。そんな風に言われちゃうのも、まあ、無理はないのかもね」

 寂しげな声とともに、夏南が遠くの山々を見た。
 しかし、彼女の瞳に映っているものは、眼前にある山や木々の景色ではなく、もっと遠くにある何か、という気がした。
 彼女は、何か言えない事情を隠していて、そのことで胸を痛めているんじゃないのかと。
 そう感じてしまうのは、父のことで、呵責かしゃくの念にとらわれている僕だけなのだろうか。

「でもね、これだけは教えてあげる」

 夏南が自分の右手を、スッと僕に向けて真っすぐ掲げた。
 その意図を察して左手を重ね合わせると、夏南の姿が見えたのだろう。光莉と涼子の視線がひとどころに集まった。

「真実の部分を語ることはできない。伝えてはいけないのが、神としてのルールでもあるから。あくまでもそこは、君たちの手で知って欲しい。真実に、たどり着いて欲しい。でも、これだけは言っておこう。崖の下に、死体なんてないよ。だから、余計なことに気をもむ必要はないんだ」
「それ、本当なんだろうな? 信じて、いいんだろうな?」

 安堵、というにはほど遠い、なんとも名状しがたい表情で真人が言った。
 涼子も、光莉も、真剣な眼差しで夏南の顔をじっと見据える。

「うん。本当だよ。約束する」
「そうか、わかった。今は一先ずお前のことを信じるよ。それで、俺たちはこれからどうしたらいい? ここが目的の場所であるなら、もう下山してもいいのか?」
「ボクはとやかく言える立場ではないが、ここまで来たついでに、もうひとつ頼まれてくれないだろうか? 悠久の木がある場所まで、行ってほしいんだ」

 あらたまって頼み事だなんて、夏南にしては珍しい。
 横暴で。勝手気ままで。女子高生のような見た目通り、自由奔放な性格をしているのが夏南だ。
 仮にも神という存在である彼女が、ヒトに頭を下げるところなんて見たことがない。
 読点が三つ並ぶくらいの時間黙考したのち、真人が頷いた。

「乗りかかった舟だ。今さらどうということもないさ。だが、こちらからもひとつだけ質問だ。その願い事を聞くことで、真相に近づくことはあるのか?」

 増えたのが誰か、という表現を真人は避けた。
 この先消える人物を薄っすらと予見し、話題を逸らしたようでもあった。
 夏南は二回、瞬きをしてから、「近づく」と明白に宣言した。

「わかった」

 手短にそれだけを告げ、ジャリっと音を立てて真人が一歩踏み出した。
 表情を崩すことなく、その後ろに続いたのは涼子。僕と夏南とに一瞥をくれたのち、光莉もまた。
 こうして、僕たち四人は再び歩き始める。
 ムードメーカーである真人が口を噤んだままの行軍は、空気も足取りも重く感じられた。



 崩落のあった現場から悠久の木がある場所までは、そう遠くなかった。
 鬱蒼と生い茂っていた針葉樹が途切れると、森の中を切り取ったように開けた空間が現れる。
 左右に視線を配ると、木々の隙間から民家らしき建物がいくつか見える。木造建築のそれは、しかし、窓ガラスが所々割れていた。建物の周辺も庭先も雑草だらけで、人が住んでいる気配はない。

「一九九〇年代の半ばまで、この場所には百人近い人が住む集落があったんだよ」

 老朽化の激しい二階建て家屋に目を向け言うと、「そうなんか」と真人が反応した。

「わりと最近まで人が住んでいたんだなあ」

 ははは、と僕は笑った。

「三十年ほど前の話を、最近などと言っちゃう感性はよくわからんけど、まあ、ほんとだよ」
「なんで、誰も住まなくなったんだろ」
「そりゃあまあ、普通に考えて不便だしなあ。それと、ちょうどその頃、悠久の木が枯れ始めたことも理由のひとつかな」
「え、悠久の木って枯れているの?」と口を挟んできたのは光莉だ。
「今は持ち直しているから、そんなことはないよ。その当時、突然木が枯れ始めたことで、何か不吉なことが起こる前触れなんじゃないかって噂が持ち上がった。そのため村人が次々と集落を離れ、最終的に無人になったんだ、とそう聞かされたな。うちの婆さまから、ね」
「そうなんだ。お祖母ちゃんが」

 きつく閉ざされたままの、錆だらけの民家のシャッターに光莉が目を向けた。今でもあの中には、トラクターとか車が残されているのだろうか。
 元々は畑だったとわかる、荒れ野原もあった。
 どれがそうなのかはわからない。あるいはもう、取り壊されてしまったのかもしれないが、僕のご先祖様の家もこの集落にあったのだ。こんな話、誰にも言ったことはないけれど。

 道中、道が二手に別れる。道を知っている涼子と、おぼろげながら記憶のある僕が左へ進路を取るなか、真人だけが右に曲がった。ぼんやり歩いている首根っこを、涼子がふんづかまえる。

「全員が左に曲がってんのに、なんで右に行くのよ」
「ごめん。俺ってさ、ほら方向音痴だから」
「関係ないわよ。単なる注意力散漫でしょ」

 正論で凄まれると、決まり悪そうに真人が肩をすくめた。

「世話が焼けるのが、むしろ可愛いって言うでしょ」
「自分で言わなかったらね」

 仏頂面の涼子とすごすごと歩く真人。対照的な二人の様子に、光莉がクスっと笑った。
 ようやく和んだ空気のなか、目的地が次第に見えてくる。
 赤い鳥居が眼前にあって、その奥にこぢんまりとした神社があった。

「ここが、神鳴かみなり神社だよ。僕らが住んでいる町にある花咲神社と、姉妹神社の関係だったんだってさ。人がいなくなったことで、悠久の木の管理がふもとの花咲神社に移されたので、今はもう、常駐している神主さんもいないけどね」

 説明を加えたのち、神社の脇を迂回して、小高い丘を登っていく。緑のトンネルを抜けると、木々が途切れて突然視界が開けた。眩い陽光が瞳を刺した。
 緑の丘の中央に、どっしりと根を張る大銀杏の木が見える。
 他の木々とは品格から違うとわかる、豪奢な銀杏の木の許で。
 ワンピースに身を包んだ小柄な少女と、あの日の僕の姿が見えたような気がした。
 郷愁の念、というのはこういうのだろうか。胸の奥をキュっとつままれたように切なくなる。
 これこそが、年中、枯れることなく黄金色の葉を茂らせるという、『悠久の木』――。

「あれ?」

 ところが、当時と違う点がひとつあった。
 遠くからではよくわからなかった。気のせいだろうかと思った。だが、近づいていくにつれ、異変をはっきりと視認できるようになる。
 隣にいた光莉が、息を呑む音が聞こえた。いや、息を呑んだのは彼女だけではない。
 みんなが一様に黙りこくるなか見えた悠久の木は、――枯れ始めていた。
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