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第三章「高橋都」
【折れた傘】
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神とはどんな存在であるべきか、汝は考えたことがあるか?
ひとつ。神とは概念であるべし。
ひとつ。神とは崇拝の対象であるべし。
ひとつ。神とは畏怖の対象であるべし。
神とは人間を超えた存在。決して、人と同じ場所に立ってはならぬのです。
情や、欲に溺れることなかれ。
さすれば汝。神の力を失うことになるぞ――。
◇
これはあくまでも仮定の話である。
あの老婦人が夏南の姿を見える人間だったとして、『亡くなった夫と再び会いたい』と願ったとする。そうして戻ってきた夫と婦人は二人で暮らしたが、ある日、夫が故人であることを誰かに指摘された。矛盾が認知されたことで、奇跡がその瞬間解除されたとしたら? これで一応、物語としての辻褄はあう。これと同じことが、光莉にもいえるのではないか? 願い事をしたという事実を、忘れているだけなんじゃないかと?
だとしても、疑問はいくつも残る。
では、光莉の身に何が起きたのか。起きたとして、彼女は何を願ったのか。そしてなぜ、夏南の姿が光莉に見えていないのか。
それとこれと、一人増えたというこの超常現象に、どんな繋がりがあるというのか。
――ダメだ。
さっぱりわからない。
結局、すべては仮定の域を出ないのだ。
鼻歌を歌っている頭上の夏南を、恨めしそうに仰ぎ見た。
思わせぶりなことを言って、ややこしくしやがって。コイツ絶対いまの状況を楽しんでやがる。
◇
光莉の自転車が、どうしてあんな場所にあったのか。
こそげ落ちることのない違和感が、ずっと頭の中にあった。
四人の間に横たわっている重苦しい空気を払拭したのは、妙に明るい声の真人だ。
「アイス買ってくりゃ良かったなー」
樹木が密生している登山道なのだから、直射日光が当たらないだけマシだと言えるがそこは七月の炎天下。ただ歩いているだけでも額に汗がにじんでくる。
「まあね。このうだるような暑さじゃその気持ちもよくわかる。でもさ、アイスって食べたあとに喉が乾くから水分補給には向いてないんだよ」
そう返した涼子の首筋にも、玉のような汗が浮かんでいる。彼女はクールな性格なので、いまいち汗が似合わない。
「そうなの? だって、水の塊じゃん」
「と、思うでしょ? ところが、アイスに含まれている水分量は、じつのところ七割ほどなんだって。それに、糖分を接種することによって血糖値が上がってしまうから、それがもとで結局また喉が乾いてしまうんだってさ」
「なるほど。結局、水と塩分を一緒に摂るのが一番か」
「うん。でも、塩分も摂りすぎると喉が渇くらしいしほどほどにしないと。塩分を摂取するべきと言われているのは、汗を大量にかいたとき、体内の塩分も一緒に失われてしまうから、が理由だったはず」
クスッと笑いながら、光莉が真人にスポーツドリンクのペットボトルを差し出した。「飲む?」
「こういうマメなところは、さすが光莉って感じだよな」
ありがと、と受け取って、即座に真人の動きが止まる。ペットボトルの栓はすでに開いていた。
「いいの?」
「え、何が?」
意味がわからない、と言わんばかりに、光莉が真人を凝視する。
「あ、いや、なんでもない」
真っすぐ見返してきた瞳にいたたまれなくなったのか、真人は控え目に一口だけ含んで、すぐペットボトルを返却した。
「もういいんだ?」と笑った光莉の頬に木漏れ日が落ちて、じめっとした空気のなかでも涼し気だ。陽光を反射して煌めいたペットボトルは、光莉の穢れの無さを象徴しているようだ。
光莉はこういうところがある。鈍感というか、無垢というか。無自覚なのも、時として残酷である。
「さあさあ、アイスなんて贅沢品のことは忘れて、みんなできりきり歩く歩く。無駄な出費を抑えられたと思えば、まあ、いいじゃない」
涼子のポジティブシンキングに、しかし、仏頂面になったのは真人だ。
「そりゃあ涼子はいいよな。金持ちなんだから、無駄遣いしたって怒られないだろうし」
「ちょっと待ってよ。いまそんな話はしてないでしょ? そうやって金持ちだからって私のこと羨むけど、家は厳しいから全然自由になんてさせてもらえない」
「どうだか。そういうのはな、贅沢な悩みって言うんだよ。それにな、自由にならないのなら俺だって同じだ。家の仕事を継がなくちゃならんから、将来だって選びようがないし」
「あら? 安泰でいいじゃない? 世の中には仕事をしたくてもできない人が一杯いるんだし、そういう人達から見れば、それだって贅沢な悩みなのよ? だいたい私だって進学先が――」
「もうそんくらいにしておけよ」
「喧嘩はやめようよ」
見かねた僕と光莉が、ほぼ同時に突っ込んだ。
正直、真人が嘆きたくなるのもよくわかる。厳格な家に生まれたがゆえに、自由にならない涼子の不満も。が、光莉の表情が沈んだことは見逃せなかった。
光莉は心臓に病を抱えている。この先どうなるかわからない彼女の視点で見ると、安泰な将来の話を不満げに語るこの流れは少々酷だ。
そこに気づいたのだろう。
涼子も真人も、殊勝な態度で頭を下げた。「悪かった」と。
真人が、頭上の夏南と光莉にチラっと一瞥したのち、歩調をわずかに緩めた。体力のない光莉を気遣って、ここまで休み休みの道中だったが、そういう気遣いとは違うようだ。
光莉と涼子が先行する格好となり、ごく自然に真人は僕の隣に並んだ。
「なあ」と真人。
「なんだよ」
「お前が医者を目指しているのってさあ。光莉のためなのか?」
あらぬ推察を許したようで、返答に窮する。
そうだ、と言えなくもない。同時に、そんな大それたことを言えるほどの人間じゃないことも心得ている。
通い始めた塾で、初めてとなる『定期実力テスト』なるものを受けた。読んで字のごとく、志望している高校への合格基準にどの程度近づいているのかを推し量るものだ。
先日戻ってきた結果は『D判定』。
まだまだこれからだよ、と塾の講師には言われたが、自分なりに予習復習をしっかりやって、準備万端挑んでこの程度だったので、実際落胆が大きい。
祖父に、『医者になりたい』と夢を語ったのは二年に進級したころか。父の病のことを知っていたのもあるし、「そうかそうか」と二つ返事で了承してくれた。「それなら、いい塾がある」と紹介してくれたのも祖父だった。
夢を叶えるためには、高校どころかその先に控えている大学進学のほうがもっと難関だろう。
こんなところで躓いているようでは、という焦りが正直ある。受験までまだ一年ある、なのか、それとも一年しかない、なのか。
胸を張り、夢を語ることができない体たらくな自分がもどかしい。
「そう、と言えば、そうなのかもな」
「なんだ、歯切れ悪いな」
「うん。ほら、さっき親父の話をしただろう?」
「ああ」
「親父の病の兆候を見逃していたのは、確かに僕の問題だ。だからといって、僕にどうにかできたか、と言われたらそんなのわからないし、兆候がわかっていたら救えた、なんて思い上がるつもりもない。それでも、そんな体験をしたからこそ、自分の手で、ひとつでもいい、誰かの命を救える人間になりたいんだよ。そういう感じかな」
もちろん、可能であれば光莉のことだってどうにかしてやりたい。
だが同時に思うのだ。光莉のため、と思うこの気持ちは、自分の中に巣くっている共依存性なのじゃないかと。与えることで、自分が満たされようという下賤な考え。それだけに、光莉のためだと口にするのははばかられた。第一今の僕に、光莉に希望を抱かせるだけの力なんて無いのだし。
「そっか」と小声で真人が呟いた。「ほんと、お前には敵わないよ」
よーし、そろそろ休憩にしようかー、と光莉の様子を確認しながら真人が号令をかける。
時々意固地になることもあるが、アイスの話題にしてもそうだ。沈んでいた場の空気を察し、さり気なく変えてしまう気配りを真人はできる。
「敵わないって思っているのは、むしろ僕だってだよ」
「だから、光莉に告白しろって煽っているのかい?」とここまで大人しくしていた夏南が話しかけてくる。
「違うともそうだとも、言えないかな」
「ボクの口真似とか、趣味が悪いねえ」
「お互い様だろ?」
まあ、僕の気持ちは、もうちょっとのあいだ伏せておくさ。
◇
歩いているうちにせせらぎの音が聞こえてくる。耳を澄ましてやっとだった音が、さらさらとしたざわめきのような水音に変化し、やがてしっかりとした質量をともない鼓膜を叩いた。
道の両側に木々が立ち並んでいるが、左手側は斜面のようになっている。どうやらこの下に川が流れているらしい。音がどんどん大きくなってくる。
「川、流れているみたいだな」と真人が言った。
小川だと思っていたが、意外と大きな川かもしれない。
「この辺に、川なんてあったっけ?」と返すと、「ほら、私たちが時々泳いでいるあの川の源流が、この山の中を通っているんだよ」と市議会議員の娘らしく、地理に博識な涼子が答えた。
「川かあ、嫌だなあ。蚊がわいてきそう」
「ほら! すぐ後ろにでっけえアブが!」
「わっ、やだやだどこにいるの!?」
「なーんて、嘘ぴょん」
虫嫌いの光莉を真人がからかうと、「もうそろそろだったかな」と夏南が突然言った。
「だからいきなり喋るなって」
「ん、誰と話しているの?」と首を傾げてから、「ああ、そっか」と光莉が得心顔になる。足を止めた涼子も僕の――というか、夏南を睨んでいるつもりなのだろうが、残念ながら少々的が外れている。
やっぱり二人に、夏南の姿は見えていない。
そんな二人を他所に、夏南はスイーっと前方に移動していって、左手にある斜面の下を指差した。
「ここが、ボクが見せたかった場所のひとつだよ」
「なんだって?」
夏南の姿が見える真人が、後をついていく。そこは、何の変哲もない登山道の一角に思えたが、斜面の方に体を向け立ち尽くしている真人の側まで行って気がついた。
足元が崩れている。
左手斜面側の登山道が一部崩れており、道幅が三割ほど狭まっていた。
「足を踏み外したら危ないよなあ」と隣の真人に声をかけるも目が合わない。驚きの顔で固まっている彼に釣られ、僕も崖下を見た。
最初は、よく見えなかった。
土砂が崩れた痕跡が、斜面のずっと下まで続いている。やがてそれは崖下に突き当り、川岸のところで盛り土になっていた。下草や木々が生い茂っていて、正直見通しは悪い。
ちょうどその時、光莉が息を呑む音で僕はそれを見つける。盛り土の中心あたりから、細長い何かが突き出している。
ピンク色の、複雑に折れ曲がったそれは――傘だ。
息が止まる。
傘があるということは、誰かがここを滑落した可能性があるということ。
涼子が「ひっ」と短く悲鳴を上げた。
ひとつ。神とは概念であるべし。
ひとつ。神とは崇拝の対象であるべし。
ひとつ。神とは畏怖の対象であるべし。
神とは人間を超えた存在。決して、人と同じ場所に立ってはならぬのです。
情や、欲に溺れることなかれ。
さすれば汝。神の力を失うことになるぞ――。
◇
これはあくまでも仮定の話である。
あの老婦人が夏南の姿を見える人間だったとして、『亡くなった夫と再び会いたい』と願ったとする。そうして戻ってきた夫と婦人は二人で暮らしたが、ある日、夫が故人であることを誰かに指摘された。矛盾が認知されたことで、奇跡がその瞬間解除されたとしたら? これで一応、物語としての辻褄はあう。これと同じことが、光莉にもいえるのではないか? 願い事をしたという事実を、忘れているだけなんじゃないかと?
だとしても、疑問はいくつも残る。
では、光莉の身に何が起きたのか。起きたとして、彼女は何を願ったのか。そしてなぜ、夏南の姿が光莉に見えていないのか。
それとこれと、一人増えたというこの超常現象に、どんな繋がりがあるというのか。
――ダメだ。
さっぱりわからない。
結局、すべては仮定の域を出ないのだ。
鼻歌を歌っている頭上の夏南を、恨めしそうに仰ぎ見た。
思わせぶりなことを言って、ややこしくしやがって。コイツ絶対いまの状況を楽しんでやがる。
◇
光莉の自転車が、どうしてあんな場所にあったのか。
こそげ落ちることのない違和感が、ずっと頭の中にあった。
四人の間に横たわっている重苦しい空気を払拭したのは、妙に明るい声の真人だ。
「アイス買ってくりゃ良かったなー」
樹木が密生している登山道なのだから、直射日光が当たらないだけマシだと言えるがそこは七月の炎天下。ただ歩いているだけでも額に汗がにじんでくる。
「まあね。このうだるような暑さじゃその気持ちもよくわかる。でもさ、アイスって食べたあとに喉が乾くから水分補給には向いてないんだよ」
そう返した涼子の首筋にも、玉のような汗が浮かんでいる。彼女はクールな性格なので、いまいち汗が似合わない。
「そうなの? だって、水の塊じゃん」
「と、思うでしょ? ところが、アイスに含まれている水分量は、じつのところ七割ほどなんだって。それに、糖分を接種することによって血糖値が上がってしまうから、それがもとで結局また喉が乾いてしまうんだってさ」
「なるほど。結局、水と塩分を一緒に摂るのが一番か」
「うん。でも、塩分も摂りすぎると喉が渇くらしいしほどほどにしないと。塩分を摂取するべきと言われているのは、汗を大量にかいたとき、体内の塩分も一緒に失われてしまうから、が理由だったはず」
クスッと笑いながら、光莉が真人にスポーツドリンクのペットボトルを差し出した。「飲む?」
「こういうマメなところは、さすが光莉って感じだよな」
ありがと、と受け取って、即座に真人の動きが止まる。ペットボトルの栓はすでに開いていた。
「いいの?」
「え、何が?」
意味がわからない、と言わんばかりに、光莉が真人を凝視する。
「あ、いや、なんでもない」
真っすぐ見返してきた瞳にいたたまれなくなったのか、真人は控え目に一口だけ含んで、すぐペットボトルを返却した。
「もういいんだ?」と笑った光莉の頬に木漏れ日が落ちて、じめっとした空気のなかでも涼し気だ。陽光を反射して煌めいたペットボトルは、光莉の穢れの無さを象徴しているようだ。
光莉はこういうところがある。鈍感というか、無垢というか。無自覚なのも、時として残酷である。
「さあさあ、アイスなんて贅沢品のことは忘れて、みんなできりきり歩く歩く。無駄な出費を抑えられたと思えば、まあ、いいじゃない」
涼子のポジティブシンキングに、しかし、仏頂面になったのは真人だ。
「そりゃあ涼子はいいよな。金持ちなんだから、無駄遣いしたって怒られないだろうし」
「ちょっと待ってよ。いまそんな話はしてないでしょ? そうやって金持ちだからって私のこと羨むけど、家は厳しいから全然自由になんてさせてもらえない」
「どうだか。そういうのはな、贅沢な悩みって言うんだよ。それにな、自由にならないのなら俺だって同じだ。家の仕事を継がなくちゃならんから、将来だって選びようがないし」
「あら? 安泰でいいじゃない? 世の中には仕事をしたくてもできない人が一杯いるんだし、そういう人達から見れば、それだって贅沢な悩みなのよ? だいたい私だって進学先が――」
「もうそんくらいにしておけよ」
「喧嘩はやめようよ」
見かねた僕と光莉が、ほぼ同時に突っ込んだ。
正直、真人が嘆きたくなるのもよくわかる。厳格な家に生まれたがゆえに、自由にならない涼子の不満も。が、光莉の表情が沈んだことは見逃せなかった。
光莉は心臓に病を抱えている。この先どうなるかわからない彼女の視点で見ると、安泰な将来の話を不満げに語るこの流れは少々酷だ。
そこに気づいたのだろう。
涼子も真人も、殊勝な態度で頭を下げた。「悪かった」と。
真人が、頭上の夏南と光莉にチラっと一瞥したのち、歩調をわずかに緩めた。体力のない光莉を気遣って、ここまで休み休みの道中だったが、そういう気遣いとは違うようだ。
光莉と涼子が先行する格好となり、ごく自然に真人は僕の隣に並んだ。
「なあ」と真人。
「なんだよ」
「お前が医者を目指しているのってさあ。光莉のためなのか?」
あらぬ推察を許したようで、返答に窮する。
そうだ、と言えなくもない。同時に、そんな大それたことを言えるほどの人間じゃないことも心得ている。
通い始めた塾で、初めてとなる『定期実力テスト』なるものを受けた。読んで字のごとく、志望している高校への合格基準にどの程度近づいているのかを推し量るものだ。
先日戻ってきた結果は『D判定』。
まだまだこれからだよ、と塾の講師には言われたが、自分なりに予習復習をしっかりやって、準備万端挑んでこの程度だったので、実際落胆が大きい。
祖父に、『医者になりたい』と夢を語ったのは二年に進級したころか。父の病のことを知っていたのもあるし、「そうかそうか」と二つ返事で了承してくれた。「それなら、いい塾がある」と紹介してくれたのも祖父だった。
夢を叶えるためには、高校どころかその先に控えている大学進学のほうがもっと難関だろう。
こんなところで躓いているようでは、という焦りが正直ある。受験までまだ一年ある、なのか、それとも一年しかない、なのか。
胸を張り、夢を語ることができない体たらくな自分がもどかしい。
「そう、と言えば、そうなのかもな」
「なんだ、歯切れ悪いな」
「うん。ほら、さっき親父の話をしただろう?」
「ああ」
「親父の病の兆候を見逃していたのは、確かに僕の問題だ。だからといって、僕にどうにかできたか、と言われたらそんなのわからないし、兆候がわかっていたら救えた、なんて思い上がるつもりもない。それでも、そんな体験をしたからこそ、自分の手で、ひとつでもいい、誰かの命を救える人間になりたいんだよ。そういう感じかな」
もちろん、可能であれば光莉のことだってどうにかしてやりたい。
だが同時に思うのだ。光莉のため、と思うこの気持ちは、自分の中に巣くっている共依存性なのじゃないかと。与えることで、自分が満たされようという下賤な考え。それだけに、光莉のためだと口にするのははばかられた。第一今の僕に、光莉に希望を抱かせるだけの力なんて無いのだし。
「そっか」と小声で真人が呟いた。「ほんと、お前には敵わないよ」
よーし、そろそろ休憩にしようかー、と光莉の様子を確認しながら真人が号令をかける。
時々意固地になることもあるが、アイスの話題にしてもそうだ。沈んでいた場の空気を察し、さり気なく変えてしまう気配りを真人はできる。
「敵わないって思っているのは、むしろ僕だってだよ」
「だから、光莉に告白しろって煽っているのかい?」とここまで大人しくしていた夏南が話しかけてくる。
「違うともそうだとも、言えないかな」
「ボクの口真似とか、趣味が悪いねえ」
「お互い様だろ?」
まあ、僕の気持ちは、もうちょっとのあいだ伏せておくさ。
◇
歩いているうちにせせらぎの音が聞こえてくる。耳を澄ましてやっとだった音が、さらさらとしたざわめきのような水音に変化し、やがてしっかりとした質量をともない鼓膜を叩いた。
道の両側に木々が立ち並んでいるが、左手側は斜面のようになっている。どうやらこの下に川が流れているらしい。音がどんどん大きくなってくる。
「川、流れているみたいだな」と真人が言った。
小川だと思っていたが、意外と大きな川かもしれない。
「この辺に、川なんてあったっけ?」と返すと、「ほら、私たちが時々泳いでいるあの川の源流が、この山の中を通っているんだよ」と市議会議員の娘らしく、地理に博識な涼子が答えた。
「川かあ、嫌だなあ。蚊がわいてきそう」
「ほら! すぐ後ろにでっけえアブが!」
「わっ、やだやだどこにいるの!?」
「なーんて、嘘ぴょん」
虫嫌いの光莉を真人がからかうと、「もうそろそろだったかな」と夏南が突然言った。
「だからいきなり喋るなって」
「ん、誰と話しているの?」と首を傾げてから、「ああ、そっか」と光莉が得心顔になる。足を止めた涼子も僕の――というか、夏南を睨んでいるつもりなのだろうが、残念ながら少々的が外れている。
やっぱり二人に、夏南の姿は見えていない。
そんな二人を他所に、夏南はスイーっと前方に移動していって、左手にある斜面の下を指差した。
「ここが、ボクが見せたかった場所のひとつだよ」
「なんだって?」
夏南の姿が見える真人が、後をついていく。そこは、何の変哲もない登山道の一角に思えたが、斜面の方に体を向け立ち尽くしている真人の側まで行って気がついた。
足元が崩れている。
左手斜面側の登山道が一部崩れており、道幅が三割ほど狭まっていた。
「足を踏み外したら危ないよなあ」と隣の真人に声をかけるも目が合わない。驚きの顔で固まっている彼に釣られ、僕も崖下を見た。
最初は、よく見えなかった。
土砂が崩れた痕跡が、斜面のずっと下まで続いている。やがてそれは崖下に突き当り、川岸のところで盛り土になっていた。下草や木々が生い茂っていて、正直見通しは悪い。
ちょうどその時、光莉が息を呑む音で僕はそれを見つける。盛り土の中心あたりから、細長い何かが突き出している。
ピンク色の、複雑に折れ曲がったそれは――傘だ。
息が止まる。
傘があるということは、誰かがここを滑落した可能性があるということ。
涼子が「ひっ」と短く悲鳴を上げた。
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