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イノセンシア国立学園高等部

激情 ―side C―

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その日、僕は少し寝坊してしまった。
原因は妹に読めと言われたシリーズものの恋愛小説を、朝方までかけて読破してしまったからだ。続きが気になると時間が気にならないのは悪い癖だな。
「お兄様、どこか悪いの?酷い顔よ?」
一足早く朝食を取り終えたビビアナが、まだぼんやりしている僕を捕まえて笑った。
「遅くまで起きていたからね」
「そうなの?あ、あの本?どう?面白いでしょ?」
「最後には幸せになれるのかと思ったのに、何なんだ、あれ」
「あら、主人公は幸せになったわよ。お忍びで来ていた異国の王子様に一目惚れされて」
「彼女の婚約者は散々利用されて捨てられたじゃないか。実家の店もたたんでしまって、これからどうするんだよ」
ビビアナは声を上げて笑った。
「嫌だわ、お兄様。あんなモブ……コホン、脇役が気になっていたのね。一巻でちょっと出てきただけじゃないの」
「主人公のピンチを四回は救ったのに?あの扱いは酷すぎるね。作者に抗議したいよ」
憤る僕の二の腕をバシバシ叩いて、ビビアナは大爆笑したのだった。

   ◆◆◆

一時間目の授業に出ても、途中からになってしまう。それならば、と図書室で一人、時間を潰していると、廊下から話し声が聞こえた。先生が訪問客を案内しているらしい。
……やけに、声が大きい客人だな。
先生の説明は聞こえないのに、客人が『この部屋は何です?』『これはまた立派な!』などと言っているのが丸聞こえだ。気になって読書に集中できない。
授業をサボっているのがバレないよう、僕はドアをそっと開けた。
女子に手芸を教えている年かさの女の先生が、黒髪の体格のいい男を案内しているのが見えた。生徒達には陰で『鬼婆』と呼ばれている先生が、頬を染めて笑顔になっているじゃないか。
貴重なものを見てしまった。見てよかったのか、んん?
そっとドアを閉めた。その時。
「ところで先生、エレナ嬢の教室はどちらです?」
と男が言った。
エレナ?って聞こえたような……。
それほど珍しい名前ではないけれど、高等部と中等部の在校生に、同じ名前の令嬢はいない。
ドアを開けると、先生が何か答えている。二人は廊下の端で分かれ、男が中等部の校舎へ歩いていくのが見えた。

何なんだ、あの大男。
どことなく後姿に見覚えはある。でも、距離があるし、顔は見えなかった。
久しぶりに会う従兄とか?
違うな。エレナには親戚が少ない。一体どういう関係なんだろう。
ああ、気になる!
読みかけの本を適当に棚に戻し、廊下に出て大きな背中を追う。
早足で歩く間に、何度も昨晩読んだ恋愛小説が脳裏によみがえる。煮え切らない実業家の婚約者との関係に悩んでいた主人公の前に、全くタイプの違う快活で少し粗野な男が現れ、瞬く間に彼女の心を捕らえていくのだ。
エレナは騎士団の練習を見に行っていた時期があるし、僕に遠慮してか、はっきりとは言わないけれど、本当はああいう力自慢の男が好きなのかな。
男は校舎を出ていく。渡り廊下でつながっているが、庭園を抜けた方が近道ではある。
歩幅が大きく、僕はどんどん引き離された。

中等部の校舎に入ると、廊下に人だかりができていた。
先ほどの男が何か言って、エレナが迷惑しているじゃないか。
「エレナ!」
出て行けばまた先生に叱られる。そんなの関係ない。
「……クラウディオ」
エレナを背中に庇い、僕はぐっと唾を呑みこんで男を見据えた。
頭一つ分以上は背が高い。肩幅もずっと大きい。丸腰で喧嘩になったら、一撃で倒されそうだ。
「おや?これはこれは……」
男は日に焼けた顔でくしゃりと笑い、余裕たっぷりに僕を見下ろした。
誰かも言っていたっけ。逃げるが勝ちって。
「彼女は私と先約がありますで。……失礼」
約束なんてないけど、ごめんエレナ。
「い、痛」
腕を引けば彼女が小さな声を漏らした。

騒ぎになる前に渡り廊下を抜けて、エレナを共用部まで連れてきた。
人もまばらな廊下で、振り返って僕は彼女を見た。
『彼と、どういう関係?』
そう聞けたらいいのに、勇気が出ない。
「……」
「ねえ、ちょ、何なの?」
昨日読んだ小説の主人公は、婚約者に何度も助けられた。彼は仕事に没頭しすぎて彼女を大切にしなかったことを悔やんでいた。僕は彼より酷い。何度もエレナを傷つけてきたんだから。
エレナがあの男を選んだとしても、僕は笑って祝福しなければ。
「……ごめん」
勝手なことして、ごめん。
君の腕を引くまで、僕は思い上がっていたんだ。
婚約者として君を守ると意気込んで、彼との時間を台無しにした。
「いきなり謝るくらいなら、最初から……」
「うん。……そう、だよね」
あ、手。
離さないと。
腕を摩るエレナの瞳は、訝し気に僕を見つめている。
何で来たのとでも言いたげだ。何か、何か理由を見つけないと。
「君に、話があったんだけど……あの騎士に言い寄られているところを見たら、何だか、よくわからないけど、すぐに連れ出さなきゃって思って……」
分からないなんて嘘だよ。単なる醜い嫉妬心だ。
あの男が必要以上に君に近づいたから、許せなかったんだ。
「……はあ。それで、用って何?」
エレナは淡々と返してきた。少し怒っているような、困惑しているような顔で。
放課後に会ったら話そうと思っていたことを話題に出し、僕達は別れた。
去っていくエレナの後姿に手を振りかけて下ろす。
――ダメだ。
僕には笑って彼女を祝福するなんてできない。

   ◆◆◆

放課後、僕はニコラスと庭園の端の木立に隠れ、辺りの様子を窺っていた。
「……来た!」
ビビアナが言っていた通り、メラニアは使用していない旧特別棟に向かっているようだ。進行方向にはその建物しかない。近くに誰もいないのを確認して、すっと建物の中に消えていった。周りは手入れがされていない生垣で囲まれ、窓から中は見られない。ニコラスと僕はしばらくこのまま待つことにした。
「あんなボロい建物で、何してるんだろう?クラウディオは入ったことある?」
首を振ると、やっぱりねーと軽い返事だ。
年上の僕にもニコラスは気安く話しかけてくる。王太子殿下は、それぞれの婚約者を守るため『メラニア包囲網』を作ると仰った。そこで、ニコラスと僕が偵察をすることになったのだけれど。
心臓がうるさいくらいドキドキしている僕とは対照的に、ニコラスはあまり緊張していないみたいだ。鼻歌でも歌いだしそう。
「一人で何やってるんだろうね。怪しい魔術とかだったらどうする?」
「僕は少しなら心得があるよ。神殿で勉強したんだ。神力で跳ね返す方法も練習したよ」
「クラウディオ、何気にすごくない?……と、誰か出て来たな」
「メラニアより先にいたなんて、ちっとも気づかなかったよ。高等部の制服……三年生ではないね。ニコラスの知ってる人?」
ニコラスは丸い目を細めて、人影をじっと見つめた。
「あいつ……何やってんだ、ルーベンの奴!」
早足で校舎へ戻るルーベンを追いかけて、ニコラスは彼の肩を掴んだ。まさか見られているとは思わなかったんだろう。ルーベンは真っ青になった。

   ◆◆◆

「さあ、何があったか話してもらおうか!」
机の角に腰かけ、脚を組んだニコラスは、肘掛け椅子に座ったルーベンを恫喝した。普段は明るく人懐こい彼なのに怖い顔だ。ある意味、王太子殿下やイルデフォンソに近いものがある。ニコラスはルーベンの腕を引っ張り(痛そうなやり方で)、ちょっとした打ち合わせや勉強会に使用する学習室に連れ込んだ。行きがかり上、僕も尋問に同席している。
「……頼まれたんだ」
「誰に?何を?……ああ、誰、は決まってるか。メラニアだよな?」
「彼女は小説のファンなんだよ。俺はよく知らないけど、カルロータは人気のある小説家で、メラニアは話の続きを読みたがったんだ」
言っていることがよく分からない。ニコラスも疑問に思ったようで、僕のほうを見て首を傾げた。
「それで、話の続きを教えた?」
「違う。……カルロータには悪いと思ったんだが、言われるままに日記帳を拝借してメラニアに貸したんだ。カルロータは日記帳に小説を書いているんだ。だが……」
ルーベンの顔が曇った。
「俺は大変なことをしてしまったかもしれない……」
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