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学院編 9 王太子の誕生日

275 夕暮れと渇望

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【レナード視点】

王立学院の校舎にある、来客用の応接室に、杖をつく音が響く。部屋の窓から外を眺めていた俺は、ドアが閉まると振り返った。
「久しぶりだな、元気だったか?」
「父さんこそ、元気でしたか?学院祭に来るようなことを言っておきながら」
自分と同じ緩くウエーブした茶色い髪を、襟首の辺りであっさり纏めた父の手を取り、ゆったりとした一人掛け椅子に誘導する。父も大分歳をとった。杖が必要なのは、騎士時代に負った怪我のためだが、訓練をやめてから足腰が弱くなった。
「すまんすまん。ライナスが結婚したい女性がいると言ってな。話を聞いたところ、ルイスも彼女に求婚していたようで……」
「ああ、いつものあれですか。まったく、兄さん達は進歩がない」
俺はうんざりして言った。女と見れば誘惑する遊び人の長兄は言わずもがな、常に同じ女性を好きになって揉めている双子の兄達も、いい歳をして結婚する気配がないのだ。騎士の家系ではあるが、自分で身を立てねばならない末端貴族の男爵家で、婿に欲しいと言ってくるのは中流の商家くらいなものなのに、兄達は難癖をつけて断っている。三人とも相当な面食いだからな。
「今度という今度は、私も参ってしまったよ。あんな有様では……やはり、縁談を受けるのは難しいだろうなと」
「兄さんの誰かに結婚話ですか?どこかから打診が?」
「……実は、今日お前に会いに来た理由はそれなんだ」
「え……?」
「私は、お前にどうかと思っている」

「……」
「レナード?」
「……嘘でしょ?」
「嘘なものか。さるお方からの紹介だが、悪くないどころか、私は最高の話だと思っている」
――勝手に決めるな。
ぴくりと眉を上げ、キッと父を睨む。
「結婚するのは父上ではないでしょう?」
「……そうだな。どうも気持ちが逸ってしまって」
一度は父の向かい側に腰を下ろしたが、苛立ちを隠そうと立ち上がり、意味もなく室内を歩き出す。あってないような爵位も継ぐ見込みがない四男坊に来る縁談なんてたかがしれている。性格に難がある妻にいびられて一生を終えるなんてまっぴらだ。
「我が家には四人の男子がいる。兄三人は騎士になったし、お前も卒業すれば騎士の試験を受けるのだろう?……先方は娘婿に騎士をとお考えだ」
「ということは、跡継ぎが娘の、騎士の家系ですか?」
「違うな。……仲を取り持ってくださる方のお話では、相手のお嬢さんには婚約者がいるが、ある事情で近々婚約解消するそうだ」
「思いっきり怪しいじゃないですか」
「私も気になって聞いたんだよ。そのご令嬢の身持ちが悪くて、他の男の子を妊娠して婚約者に愛想を尽かされたなんて話だったら、いくら条件がよくても、お前達を婿にやるのは可哀想だ」
「で、父上の予想通りに?」
「全く違ったよ。まあ、よくある家同士の仲違いだな」
「そのご令嬢と相手の男は愛し合っているんでしょう?逆上して刺されるのだけは勘弁ですよ。……それに」
歩きまわるのをやめ、窓辺に立って遠くを眺めた。
「俺にだって、好きな女の子の一人くらいいるんですよ?」

正直、泣きそうだった。
眩しい夕日を背中に受け、わざと表情が読めないようにする。
そんな俺の気持ちを知らずに、父・ネオブリー男爵は上機嫌で言った。
「そうか。お前も成長したな」
「……にやにやしないでください」
「うん。……お前が好きな女の子は、お前を好いてくれているのか?」
直球すぎてぐうの音も出ない。
「と、友達程度には。だから、さっきの縁談は、お断りを……」
「いいのか?」
「はい。父さんから断ってください」
「相手が誰か聞かなくても?」
「いいって言ったらいいんです!っっとに、しつこいな!」
憮然として、ドカッと椅子に座る。何としてでも俺を悪徳商人の傲慢娘に婿入りさせたいのか。
「ご令嬢には歳の離れた弟がいる。将来、爵位は彼のものだが、大人になるまでは実質娘婿に家督を継がせるつもりのようだ。……侯爵の要求に応えられたら、だが」
はっと目を見開き、俺は椅子から身を乗り出した。
――聞き違いだろうか?
「父さん、今、侯爵と?」
「……ああ、言ったとも」

五家ある侯爵家のうち、一つは当主が独身、二つは第一子がまだ幼児で、歳の離れた弟はいない。あとの二家の子供達は、俺自身がよく知っている。年頃の令嬢がいるのは、ただ一つ。
「ハーリオン家……」
「はっきりとは言われなかったが、恐らくは。私には名家の考えることはよく分からん。要求の内容もな。ハーリオン侯爵の四人の娘のうち、長女は王家に嫁ぐだろうから、順番から言えば家督を継ぐのは次女の婿だろう?お前も知った仲なら問題はあるまい」

ドクン。
心臓が喉の奥から飛び出てきそうだった。
――ジュリアが……俺の、妻に?
「返事はよく考えてからでもいいが、あまり待たせると他家へ話を持ちかけるそうだ。受けるつもりがあるのなら、次はお前本人と話がしたいと」
「当の令嬢本人は何も知らされていないのに、勝手に話を進めるのは……」
ジュリアが可哀想すぎる。家の都合でアレックスと引き離され、知らない男と結婚させられるのだ。だったらまだ、俺の方がマシだろうか。
「やはり、断るか?」
父の視線が鋭くなった。俺の心を見透かしている。

他の男よりマシだなどと、自分を正当化する言い訳にすぎない。
俺は心から望んでいるのだ。――彼女が欲しい。
騎士団長の地位も爵位も俺には意味がない。
ただ、ジュリアが俺だけを見て、あの明るい微笑を向けてくれたら……。
「……お受けしますと、伝えてください」
彼女の笑顔を思い出した時、俺は無意識にそう告げていた。

   ◆◆◆

心の中がごちゃごちゃになったまま、俺は寮へ帰った。
一人きりの部屋でぼんやりしていると、あっという間に夕食の時間が来ていたらしい。遠慮のないノックの音がして、俺が答える隙もなくドアが開かれた。
「食堂に行こうぜ、レナード」
「……あ、ああ」
アレックスが屈託のない笑みで俺を誘う。
どうしようもなく羨ましくて仕方がないこの男から、俺は最愛の婚約者兼幼馴染を奪おうとしていると思うと、身体の内から震えが襲ってきた。
「大丈夫か?顔色悪いぞ」
「そうかな?」
「風邪が流行ってるみたいだし、今晩は早く寝た方がいい。眠れないなら、俺がとっておきの本を貸してやるから」
「俺はお前と違って、読書で眠くならないの。……分かったよ、しっかり風邪引いてお前に伝染(うつ)してやる。追試を頑張れるように」
「うわ、ひでえ!」
「美しい友情だよなー。補習期間の練習は、俺がジュリアちゃんの相手を引き受けるから、アレックスはじっくりバイロン先生に教えてもらいな?」
涙目になって「この悪魔!」と叫びながら、アレックスは食堂へ走って行った。小さくなっていく背中を見つめて、軽口を叩ける得難い友人を失うのかと思うと、俺の身体はまた震えだした。

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