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学院編 14

512 悪役令嬢はブラウスを濡らす

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「……」
「……フッ」
水音に混じって微かな笑いが聞こえる。
ほんの数分前に牢屋から出されたばかりなのに、マシューは余裕綽々だ。彼と長い手錠で繋がれたエミリーは、身支度を整えるために入浴中のマシューに背を向けて、浴槽の脇で石像のように固まっていた。侍女の服装ではかいがいしく世話をする気なのかと思われそうで、わざとエプロンを外して部屋の隅のテーブルに置いてきた。ブラウスと飾り気のない黒いスカートという地味ないでたちである。
「……笑ったわね?」
「気のせいだ」
「……嘘。絶対笑った」
「笑わずにはいられないからな」
――私が恥ずかしがっているのが可笑しいんでしょう!?
地団駄を踏みたい気持ちでいっぱいだ。相手は七歳年上の大人の男で、エミリーは学生になったばかりの子供だ。マシューは裸を見られても何とも思わないのかもしれないが、自分は免疫がなさすぎる。前世で裸を見たことがある大人の男なんて、幼い頃に風呂に入れてくれた父親だけだ。乙女ゲームを攻略中に寝落ちして、そのまま火事で死んでしまった哀れな女子高生の自分は、姉達と違って恋人がいた経験すらない。
「……早く、終わってよ」
「やれやれ。久しぶりの入浴も許されないのか。待っているのが退屈なら、一緒に入るか?」
――い、いいい、一緒に入るか、だって???何言ってるのよ!
脳内はパニックだ。しかし、本人は真っ赤になっているつもりでもエミリーの表情は変わらない。
「言っておくけど、まだ囚人なんだからね」
囚人マシューはやけに楽しそうだ。自分をからかって遊ぶのがそんなに楽しいのかと、エミリーは苛立って仕方がなかった。
「分かっている。……だが、楽しい。お前とこうして……」
「……っもう!いい加減に……!」
エミリーが振り返った瞬間、大きく水音がした。浴槽に沈めていた身体を起こし、マシューが身を乗り出した。
「!!!!!」
声にならない声を上げたエミリーをマシューがきつく抱きしめる。後頭部から銀髪をわしづかみにして、エミリーの唇を貪った。
「……っ、は、はあっ……ちょ、な、何……」
「足りない……」
黒と赤の瞳が熱を帯びてエミリーを見つめている。
――抗えない!どうして……。
魔法を使われてもいないのに、彼から目が離せない。濡れた黒髪が少しうねって広い肩に落ちている。低い声がエミリーの耳朶をくすぐる度に上下する喉の線や、痩せてはいるものの筋肉質な胸が視界に入り、否が応にも鼓動が速くなっていく。
「マ、マシュー、あ、あの……」
「放さない……二度と離れたくない」
吐息交じりの囁きは、エミリーの膝から力を奪うのに十分だった。かくん、と前に重心が揺らぐ。
「待って!私……」
目の前の男から顔を背けると、ふと壁にあった大きな鏡に視線を留めた。
――あ。
そこに映っていたのは、白いブラウスを濡らして下着が丸見えの自分と、それを抱きしめている素っ裸の男だった。引き締まった腰の線が……。
「~~~無理っ!!!」
マシューを力いっぱい押しやり、浴槽の中に沈める。同時に魔力が大量に放たれた。
「ああ……エミリーの魔力が……」
恍惚の表情を浮かべたマシューは、自分が入っている浴槽の湯が凍り始めていることに気づかなかった。

   ◆◆◆

「随分時間がかかったんだねえ」
リオネルがにやにやしながら聞いてくる。
――これも一種のストレスだわ。
舌打ちをしそうになるものの、隣に立っているマシューが幸せオーラ全開で、何でも許してしまいそうになる。平常時の根暗な魔法教師の風貌を崩さないため、傍目からは分からないが、エミリーには彼が鼻歌を歌い出すのではないかと思われた。時折、いや、ずっとこちらを見ている。
「申し訳ございません。リオネル殿下」
「気にしなくていいですよ、マシュー先生。あなたにお願いがあるのは僕の方ですから。できれば大急ぎで解決していただきたいのですが、少し時間を要するかもしれないと、グランディアには伝えておきます」
「ありがとうございます。何から何まで。この手錠のことも」
手錠で繋がれているから離れられないのではない。風呂を終えて身支度を整えてからというもの、マシューは片時もエミリーの手を放そうとしない。鎖は細く、マシューの魔法ですぐに切れるのに、だ。
「お礼は結構ですよ。僕はただ、友達のためを思って」
――だから、やりすぎだっての!
「……友達?」
聞き返したのはエミリーではなかった。マシューの赤い左目が光る。
「失礼ですが、殿下は……エミリーと友達、なのですか?」
「そうだけど……え、どうかした?」
「いえ。それにしては、親しすぎるように感じまして」
リオネルが大きな瞳をさらに見開いてキラキラさせている。
――うわ、よくない予感……。
「そうかな?んー、一緒にお風呂に入っただけだよ?」
パリン。
何か結界のようなものが弾けた音がした。
途端に気が遠くなるほど濃いミントの香りがした。鼻が馬鹿になりそうだ。
「マシュー、魔力、抑えて!」
「抑えられない。何故、こんな男に……!」
眉間の皺が深くなり、マシューの瞳に怒気が宿る。このままでは危ない。無詠唱で死の呪文を使い、リオネルを殺しかねない勢いだ。
「ダメ!」
背の高い彼の首に抱きついて体重をかけ、エミリーは不器用に唇を重ねた。

   ◆◆◆

「アリッサ、……おい、しっかりしろよ」
「ん……」
肩に何かがぶつかり、アリッサはゆっくりと目を開けた。声がする方をみれば、アレックスの金色の瞳と視線が合った。
「あ……あれ?」
「大丈夫か?どこか痛むか?」
訊ねられて自分の置かれた状況を確認する。腕を後ろにして縄で縛られ、荷馬車で運ばれているようだ。外からは車輪の軋む音と、馬の蹄の音がしている。幌の入口は塞がれているが、破れたところから光が射しこみ、アレックスが自分と同じく縛られているのが見える。
「痛く……はないわ。縛られた腕だけよ」
腕が痛いと聞いて、アレックスが心配そうに眉を下げた。
「悪い……俺、大口叩いておきながら、お前を守れなかった」
「アレックス君は悪くないよ。だって、頑張ってくれたもの。……相手の人数が多すぎただけよ」
「ありがとう。そう言ってもらえると、少し気が楽になった」
アレックスは内心、自分の剣の腕に自信を無くしていたのだろう。大勢を前にして怯まなかっただけでも、彼は立派な剣士なのだ。アリッサは何と言って慰めるべきか悩んだ。
「あの……」
「俺達、どこに連れて行かれるんだろうな」
「……」
――お礼を言うチャンスを逃しちゃった。
「あいつらの話だと、アリッサを探してる奴がいて、そいつんとこに行くのかな」
「えっと……」
――会話のテンポがかみ合わない……。
ジュリアと彼がポンポンと軽快に会話のキャッチボールをしている姿をよく見ていたが、自分がこれほど会話が不得手だと思わなかった。アリッサは気落ちした。
「……前にさ」
返事もできないアリッサに構わず、アレックスは天井を見上げて続けた。
「ジュリアとこんなふうに誘拐されたことがあったんだ」
――覚えてるわ。ジュリアちゃんたら、未だに武勇伝の一つにしてるんだもの。
「あの時は……こんなに怖くなかった。ジュリアがいればどうにかなるような気がしてさ」
「今は怖いの?……ごめんね、私じゃ戦力にならないから」
「そんなつもりで言ったんじゃ……。あのさ、アリッサも怖くないか?」
「え?」
「このままグランディアに帰れなくて、レイモンドさんにも、ジュリア達にも会えなくなったらって……」
ドクン。
アリッサの鼓動が跳ねた。
――レイ様、と……会えなくなる?マリナちゃんとジュリアちゃんと、エミリーちゃんにも?
「余計なこと言っちまった。……何つーか、大事なものが増えたら、簡単に敵に突っ込んで行けなくなったんだよ。まだ生きてたい、でも生きるには敵と戦わなきゃない、あー、どっちにしよう、みたいな?」
「……アレックス君」
アリッサが大泣きすると思っていたアレックスは、予想外に低い声が聞こえて驚いた。
「私、絶対にグランディアに帰るわ。どんなにボロボロになっても、皆のところに帰るの!」
四姉妹一の泣き虫だと聞かされていたのに、アリッサが勇敢な戦士に見えて、アレックスは口を開けたまま瞳を揺らした。
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