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学院編 14
499 悪役令嬢と悪魔の囁き
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「おや、思っていたより早かったですね」
二人の前に現れたのは、執事姿の男だった。青白い顔とこけた頬、分け目をつけて撫でつけた髪は灰色とも栗色ともつかない不思議な色だ。縁の印象が強い眼鏡をかけ、レンズの奥の瞳が何色か分からない。ジュリアが注意深く観察しているのに気づき、執事は目を眇めた。
「……こちらが、ハーリオン家のご令嬢、ですね?」
「そうだけど?何か用?」
食ってかかるように言って、ジュリアははっとした。マリナのように優雅に振る舞わなければならなかったのだ。
「えっと……何かご用ですの?」
「ではご令嬢、こちらにどうぞ。お部屋にご案内いたしましょう」
ぼんやりしていると、すぐ隣に立たれていた。
――移動した?気配も足音もしなかった……。こいつ、何者!?
「参りましょうか」
「あ、あのっ……!」
「何か?」
「私を連れてきた人、苦しそうなんです。誰か……」
義兄を労るように見たジュリアに、執事は無機質な笑顔を向けた。
「ああ、あれですか」
「あれ?」
――人を物のように……。ハリー兄様はこいつらに雇われているんじゃないの?
「放っておいて構いませんよ。あれにはまだ使い道がありますから、旦那様も見殺しにはなさいません」
「み、見殺しって……ひ、酷くないですか、ねえ……」
まるで死人のような顔色のハロルドは、壁に身体を預けたまま少しも動かない。気を失っているのかもしれない。
「あの者が気になるのですか?……そうでしょうねえ。血は繋がっていないとはいえ、共に育った仲ですからね」
「!」
「……ふふ。……ははははは。我々が気づいてないとでも?髪を染めたくらいであの男の印象は消し去れませんよ。旦那様は一目見て、あれがハーリオン家の養子、ハロルドだと気づかれた。素性を知った上で、自由にさせていたのですよ。役に立つうちは」
執事を突き飛ばし、ジュリアはハロルドに駆け寄った。
「兄様、しっかりして」
肩を揺らして囁くと、微かに瞼が震え、青緑色の瞳がこちらを捉えた。
「……いけません。私は……」
ジュリアの背後が再び白く光る。魔法の気配にハロルドが固く瞼を閉ざす。
「いつまで待たせるつもりだ」
「旦那様!申し訳ございません」
――こいつが、悪の親玉か。
振り返ったジュリアは、薄暗い部屋の中で男の顔を凝視した。視力には自信があるのに、どうもはっきり見えない。
「……ハーリオンの、長女を攫って来いと言ったはずだ」
静かな空間に男の靴音が響いた。冷たい床に膝をつき、ジュリアは彼を睨んだ。
「……っ!」
マリナに変装していることを忘れて、腿につけていたナイフで斬りかかるも、簡単に手首を掴まれた。甲高い音を立てて床にナイフが落ちる。
「使えない奴だ。私ははねっ返りを連れて来いと指示した覚えはないが」
ジュリアの両腕を背中側で捻るようにして動きを封じ、顎に手をかけて顔を上げさせた。革手袋をした指が頬に食い込む。やっと近づいたのに、やはり男の顔は見えない。長い髪の毛が顔に影を作っているだけではない。おそらく何かの魔法を使っているのだ。個人の魔法の素質によって影響を受ける魔法陣と違い、この謎の男が自分に使っている魔法は見る者の魔力に左右されない。
「……放せっ!」
得意のキックは動きにくいドレスの裾に阻まれ、男の脚には当たらなかった。悔しさに涙が溢れそうになる。
「仕方がない。予定を早めるとするか。折角手に入れた駒を使わないのは勿体ない」
「ははっ」
男の背後で執事が頭を下げ、白い光を放って部屋から消えた。
――予定って、何?
揺れるアメジストの瞳を愉しそうに見つめ、手袋の指が頬を撫でた。
「しばらく眠っていてもらおうか」
男の声が二重にも三重にも聞こえる。ジュリアの頭の中で何度もこだまし、『眠る』という言葉に身体が支配されていく。何かを言おうと開いた唇から吐息が漏れ、ジュリアはその場に崩れ落ちた。
◆◆◆
「あー、どうします?坊ちゃん」
「どうする?そんなもの、決まっているだろう?アリッサを一人で外国へ行かせるなど考えられん」
オードファン公爵邸のレイモンドの部屋で、マクシミリアンの動きを嗅ぎつけたエイブラハムは、次期当主に状況を報告していた。修復された貨物用魔法陣で王都の市場まで転移し、邸まで走ってきたのだ。王都を走って来たことといい、昼間はベイルズ商会で下働きをしていることといい、一層身なりに手をかけなくなっている。むさくるしさが増していた。
「坊ちゃんならそう言うだろうと思ってましたよ」
「そうか。なら、船を用意しているのだろうな?」
「いいや、用意してませんよ?」
レイモンドは、はた、と動きを止めた。
「何?……何故だ?すぐにアスタシフォン王宮へ持参しなければならないのだろう?」
「そうみたいですねえ。俺が盗み聞きした限りでは、腕輪の片割れは明日の船で向こうへ行くそうですし、同じくらいには船を出さないと」
「船を用意していないのは、お前の怠慢か?それとも、何か意図があるのか?」
無精ひげの生えた顎を撫で、エイブラハムはにやりと笑った。
「可愛い子には旅をさせろってことですかね?」
「アリッサは確かに猛烈に可愛いが……使い方を誤っているぞ。外国でどんな危険な目に遭うか考えただけで、俺は……」
ぽりぽりと頬を指先で掻き、適当な執事見習いは天井の光魔法球シャンデリアを見つめた。
「追いかけても無駄だと思いますよ?アリッサさんは、ハーリオン家所有の高速船、ジュリア号で出発した後ですからねえ」
歯ぎしりして椅子から立ち上がったレイモンドに掴みかかられ、まあまあ、と肩を叩く。
「ご心配なく、坊ちゃん。腕輪の片割れと一緒に、俺が明日の船に乗りますんで」
ボサボサの茶色い髪を太い指で掻き、エイブラハムは豪快にウインクをした。
二人の前に現れたのは、執事姿の男だった。青白い顔とこけた頬、分け目をつけて撫でつけた髪は灰色とも栗色ともつかない不思議な色だ。縁の印象が強い眼鏡をかけ、レンズの奥の瞳が何色か分からない。ジュリアが注意深く観察しているのに気づき、執事は目を眇めた。
「……こちらが、ハーリオン家のご令嬢、ですね?」
「そうだけど?何か用?」
食ってかかるように言って、ジュリアははっとした。マリナのように優雅に振る舞わなければならなかったのだ。
「えっと……何かご用ですの?」
「ではご令嬢、こちらにどうぞ。お部屋にご案内いたしましょう」
ぼんやりしていると、すぐ隣に立たれていた。
――移動した?気配も足音もしなかった……。こいつ、何者!?
「参りましょうか」
「あ、あのっ……!」
「何か?」
「私を連れてきた人、苦しそうなんです。誰か……」
義兄を労るように見たジュリアに、執事は無機質な笑顔を向けた。
「ああ、あれですか」
「あれ?」
――人を物のように……。ハリー兄様はこいつらに雇われているんじゃないの?
「放っておいて構いませんよ。あれにはまだ使い道がありますから、旦那様も見殺しにはなさいません」
「み、見殺しって……ひ、酷くないですか、ねえ……」
まるで死人のような顔色のハロルドは、壁に身体を預けたまま少しも動かない。気を失っているのかもしれない。
「あの者が気になるのですか?……そうでしょうねえ。血は繋がっていないとはいえ、共に育った仲ですからね」
「!」
「……ふふ。……ははははは。我々が気づいてないとでも?髪を染めたくらいであの男の印象は消し去れませんよ。旦那様は一目見て、あれがハーリオン家の養子、ハロルドだと気づかれた。素性を知った上で、自由にさせていたのですよ。役に立つうちは」
執事を突き飛ばし、ジュリアはハロルドに駆け寄った。
「兄様、しっかりして」
肩を揺らして囁くと、微かに瞼が震え、青緑色の瞳がこちらを捉えた。
「……いけません。私は……」
ジュリアの背後が再び白く光る。魔法の気配にハロルドが固く瞼を閉ざす。
「いつまで待たせるつもりだ」
「旦那様!申し訳ございません」
――こいつが、悪の親玉か。
振り返ったジュリアは、薄暗い部屋の中で男の顔を凝視した。視力には自信があるのに、どうもはっきり見えない。
「……ハーリオンの、長女を攫って来いと言ったはずだ」
静かな空間に男の靴音が響いた。冷たい床に膝をつき、ジュリアは彼を睨んだ。
「……っ!」
マリナに変装していることを忘れて、腿につけていたナイフで斬りかかるも、簡単に手首を掴まれた。甲高い音を立てて床にナイフが落ちる。
「使えない奴だ。私ははねっ返りを連れて来いと指示した覚えはないが」
ジュリアの両腕を背中側で捻るようにして動きを封じ、顎に手をかけて顔を上げさせた。革手袋をした指が頬に食い込む。やっと近づいたのに、やはり男の顔は見えない。長い髪の毛が顔に影を作っているだけではない。おそらく何かの魔法を使っているのだ。個人の魔法の素質によって影響を受ける魔法陣と違い、この謎の男が自分に使っている魔法は見る者の魔力に左右されない。
「……放せっ!」
得意のキックは動きにくいドレスの裾に阻まれ、男の脚には当たらなかった。悔しさに涙が溢れそうになる。
「仕方がない。予定を早めるとするか。折角手に入れた駒を使わないのは勿体ない」
「ははっ」
男の背後で執事が頭を下げ、白い光を放って部屋から消えた。
――予定って、何?
揺れるアメジストの瞳を愉しそうに見つめ、手袋の指が頬を撫でた。
「しばらく眠っていてもらおうか」
男の声が二重にも三重にも聞こえる。ジュリアの頭の中で何度もこだまし、『眠る』という言葉に身体が支配されていく。何かを言おうと開いた唇から吐息が漏れ、ジュリアはその場に崩れ落ちた。
◆◆◆
「あー、どうします?坊ちゃん」
「どうする?そんなもの、決まっているだろう?アリッサを一人で外国へ行かせるなど考えられん」
オードファン公爵邸のレイモンドの部屋で、マクシミリアンの動きを嗅ぎつけたエイブラハムは、次期当主に状況を報告していた。修復された貨物用魔法陣で王都の市場まで転移し、邸まで走ってきたのだ。王都を走って来たことといい、昼間はベイルズ商会で下働きをしていることといい、一層身なりに手をかけなくなっている。むさくるしさが増していた。
「坊ちゃんならそう言うだろうと思ってましたよ」
「そうか。なら、船を用意しているのだろうな?」
「いいや、用意してませんよ?」
レイモンドは、はた、と動きを止めた。
「何?……何故だ?すぐにアスタシフォン王宮へ持参しなければならないのだろう?」
「そうみたいですねえ。俺が盗み聞きした限りでは、腕輪の片割れは明日の船で向こうへ行くそうですし、同じくらいには船を出さないと」
「船を用意していないのは、お前の怠慢か?それとも、何か意図があるのか?」
無精ひげの生えた顎を撫で、エイブラハムはにやりと笑った。
「可愛い子には旅をさせろってことですかね?」
「アリッサは確かに猛烈に可愛いが……使い方を誤っているぞ。外国でどんな危険な目に遭うか考えただけで、俺は……」
ぽりぽりと頬を指先で掻き、適当な執事見習いは天井の光魔法球シャンデリアを見つめた。
「追いかけても無駄だと思いますよ?アリッサさんは、ハーリオン家所有の高速船、ジュリア号で出発した後ですからねえ」
歯ぎしりして椅子から立ち上がったレイモンドに掴みかかられ、まあまあ、と肩を叩く。
「ご心配なく、坊ちゃん。腕輪の片割れと一緒に、俺が明日の船に乗りますんで」
ボサボサの茶色い髪を太い指で掻き、エイブラハムは豪快にウインクをした。
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