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9 誠の提案
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誠は平日の夜、時間通りきちんとやってきた。
見慣れたスーツ姿のはずなのに、いつもと違って表情に隙がない。
『お前たちも同席するのか?』
誠はリビングに座り込む子供達を見渡す。俺の両脇には子供達がいて誠とは対峙している。これまで家族の笑顔がたえなかった場所が冷え冷えとしていた。
子供達に大人の話し合いを見せるわけない。
『光流、空、怜。悪いけど、郁也つれて少しの間だけ二階へ行ってくれるか? 何かあれば呼ぶし、父さんに言いたいことがあるなら後で時間を作るから。な、誠、子供達に黙って帰ったりしないよな?』
膝にいる末っ子の郁也が久しぶりのパパに笑顔で抱っこをせがむ。それでも誠はその指先を握るだけで抱いてはくれない。
郁也は父親とは距離が縮まらないのを不審がっている。泣きもせず、わがままも言わないのは、この空気がおかしな事を郁也なりに察しているから。
言葉もなく沈黙が続く。
『……抱っこさえしない理由があるのか』
あまりにも冷たい誠の態度が次男の空を苛立たせた。それを長男の光流がそっと制する。
『父さん、僕達が同席するのは当然の権利だ。今の母さんの様子を見たらわかるだろう。自分が傷つけて、こんなにやつれているって言うのに、父さんだけが何も変わってなくて驚くよ。もう父さんは、この家族を見ても、何も感じないんだね』
光流の言うとおり誠は以前と変わらない出で立ちだ。表情は冴えなくても、俺みたいに疲れていない。
『それに、父さんと二人きりにしたら、母さんなんて簡単に言いくるめられる。母さんはまだ父さんを愛している。僕達はもう父さんがフェアじゃないのもわかっている。僕達は当事者だからここから動く気はない』
中学生の息子の冷静な物言いに誠は表情も動かさず、一瞬目を伏せただけだった。了承したようだ。
これから子供も同席の上重要な話しをするって言うのに、なぜか部屋の隅にある埃に目がいって、そういえば掃除機を出したのはいつだっけ、なんて今考えるべきでないことが気にかかる。
俺の指には爪を隠すために絆創膏がぐるぐる巻きつけられている。指しゃぶりをやめるために。そこには郁也が可愛いシールが貼ってくれているけれど、剥がれかけているのが気になった。
そういえば誠が来るっていうのに、飲み物も何も用意してなかった。
リビングの大きな楕円のセンターテーブルを挟んで向き合うと、何も置かれていないことが気になり、意識が流れるようにそっちへいってしまう。
俺、直前まで何をしていたんだろう。これから、何するんだっけ。
今からでもお茶、淹れた方がいいのかな。
現実逃避なのか、そうじゃないのか。自分でもよくわからない精神状態だった。
『早速話しに入ろう』
『あ……うん……わかった』
誠が俺の目を見据え、俺は誠につられるように意識を正した。
『母屋で父と何度も話し合った。史も納得できる金額を提示できるはずだ。これだけあれば十分な生活が送れるだろう。慰謝料は五千万円。それを受け取って郁也とともにここを出て行ってほしい。父の主張を押し切って、その数字で決着させるのに随分骨が折れた。理解してほしい』
場に沈黙が落ちる。
誠の発言が異次元すぎて息をするのも忘れていた。
宗賀は金を押し付けて郁也と俺をここから追い出そうとしている。必然的に上の三人の子は宗賀に残る。
おかしい。俺達の子は四人だ。子供を置いていけと言うなら、俺だけを放り出せばいいはずだろう。
それに獣が生んだ子供だと四人を毛嫌いした発言をしていたはずだ。
いち早く噛みついたのは、いつもクールなはずの三男怜だった。
『おい、母さんと郁也を追い出すってどういうことだよ! 必要なのはαだけ、Ωは、孫であっても宗賀家にいらないってことかっ』
今までこんな言葉遣いをしたことがない怜。美しい物が大好きな怜。いつも穏やかで優しい空も黙っていられないと被せるように続ける。
『確かに同席する権利は主張したのはこっちだ。けどどうして、そんなこと、郁也のいる前で平気で言えるんだ。あんた父親じゃないのか。小さくて話の内容が理解できないとしても、こんなの可哀想すぎる。何が五千万だ、それは何のアピールだ。あのタヌキ爺から頑張って金を引きだしたぞ、偉いだろ、凄いだろって主張したいのか。そんなの努力する方向が間違ってること、子供の僕でもわかるよ』
空が俺の膝にいた郁也を抱えあげ、きょとんとしている所をぎゅっと抱くと部屋を飛び出した。
扉がバタンとしまり家を震わせた後、ダダダッと階段を駆け上がる音がする。
あげそうになった悲鳴が喉で凍っていた。なのに心臓だけがあり得ないくらいにバクバク叫ぶみたいに動いていた。
郁也の温度が消えて寒くなる。でも、空が郁也を連れて行ってくれてよかった。大好きな父親からこんな言葉を投げられるなんて残酷すぎる。
Ωは宗賀に必要ない、義父だけでなく誠もそう思っている。だから誠の声は、子供たちの叫びにも動じない。全然、心が動いてない。
『では、これではどうだろう。僕自身の稼ぎから養育費を払う。月に三十万。それと財産分与。それで納得してくれれば、子供全員の親権養育権をそちらに譲ろう』
『はっ!?』
思わず声を出したのは光流だった。
『父さん、いったい宗賀家の本音はどっちにあるんだ?』
意味がわからないと光流が心底不思議そうにしたが、自分で解決して答えを出していた。
『前者の提案はαが惜しいお祖父さまの考え。後者は父さん……でも、この問題を長引かせたくない事だけは一致している』
すぐに気持ちを切り替えたのか光流は俺を見る。
『母さん、父さんの提示する額で僕達がこれまで通り学園に通って生活できる?』
『それは、どうだろう……難しいかもしれない』
学校費は義父母ではなく誠の口座から引き落としされている。誠はあまり気にしてないみたいで毎月チェックしているのは俺だけだ。だから数字はすぐに出てくる。
誠が持って来てくれる収入だけで四人の生活費と学費が賄えるか? 答えはノー。足りない。義父母の援助があったから、これまでやってこられただけだ。
『僕達には幾らかかっているの?』
『授業料は……三人分、年間で五百万くらい。寄付金とかは別。寄付金は幼稚舎の時から蓉子さん任せで、俺には実態がよくわからないんだ』
『やっぱり、結構かかるんだね。学校は公立に転校するとしても、ここから独立するとなると家賃が一番負担になる。最初にまとまった額がないと、生活基盤さえできないのか』
光流が溜息をつく。
月30万。
苦しくても親子五人なんとか暮らせるかもしれないと思った俺は浅はかだ。それでは私立の学費さえ払う事ができない。
誠からの養育費をもらっても、俺が正社員の職を得ないと生活は困窮するだろう。財産分与と言われても、具体的な数字がなくては先の見当が付けられない。
子供たちは誠も卒業した名門と言われる桐城学園に通っている。近所のプリスクールに通っている郁也も小学校からは桐城に入学させる予定でいた。できれば通わせてあげたい。だけど無理だ。
三人のαの子供を宗賀に残せばこれまで通りの教育を受けさせられる。
四人全員連れてここを出ることになったら、経済的な苦労を強いることになり、子供の将来を曲げてしまう可能性が高い。
どっちを選べばいいんだ……
そう考えたところで俺ははっとした。これでは光流が最初に言った通りになってしまう。俺は誠に提示された二つの中で決断しようと思案を始めていた。
違う。それ以外の道は幾つもあるはずだ。
不貞で誠の相手を訴えることができるはず、となると弁護士を雇う必要があるのか……裁判って選択もあるはずだ……
誠に会わない間に考えていてもよかったことなのに、今になって頭が回りだす。こんなの、焦る。ただ答えを急かされても、迂闊な返事はしないようにしなきゃいけない。
考えろ、考えろ。
今までろくに働いたことのない自分の頭を必死に回転させる。
すると光流の手が俺の傷だらけの手に重なった。
『母さんごめんね。僕は、母さんと郁也に慰謝料をあげられない。とてもじゃないけど、こんな傲慢な人達と一緒に暮らせないよ。でも僕達がいれば母さんは凄い価値を手に入れられると断言できる。な、怜もそう思うだろう』
『当然さ。僕はまだ小学生で何も生み出せないけど、将来有望なのは間違いないさ』
光流が言い切ると怜がそう同意した。そして怜が覚悟したように父親に向き合った。
『ずっと聞きたかったんだけどさ、運命運命って何でそんなにうるさいの。それってそんなに凄いの? 法律で守られた母さんの権利を侵しているのはそっち。運命の番なんて曖昧な言葉、日本の法律には使われていない。つまり父さんがしているのは、ただの不貞行為なの。しかも父さんとその人は母屋に挨拶に来てたよね。その人名家の出身だって言うけど、常識も慎みもないじゃない。出会ってすぐにそれって異常だし、僕たちに対しても不誠実じゃないの?』
小学生の怜の言い分に誠の顔色が悪くなっている。でも怜はとまらなかった。
『母屋に綺麗な人がいるってはしゃいでいたのは、何も知らない郁也だけ。僕たちは父さんに裏切られて悲しかった。それに……父さん浮かれてて、すごく……気持ち悪かった』
怜は途中で悔しそうに泣き出してしまった。それでも言葉を最後まで言い切った。
誠の運命は名家出身の美しいΩ。しかも俺の知らない所で母屋に招かれ、子供たちとも顔を合わせていた。それは作為的だったのか、ただの偶然なのか。
俺はまだ、直接離婚を切り出されてもいなかったのに。
ぎりぎりまで堪えていた糸がプツリと切れた。
そして思い出したのは、施設で一緒だったΩ、ナツキのセリフだった。
なんだっけ、最後は由緒正しきαと美しきΩが結ばれるだっけ? ナツキと別れてから何年たったかわからないけど、彼と再会することがあったら認めるしかない。お前の言っていたことが正解、現実だったって。
でもどんな言い訳があっても、それを盾に人を傷つけていいわけがない。
俺は、誠に何を言われても離婚しないとごねるつもりでいた。今は興奮している誠だって、時間を置いて冷静になれば話が通じると思っていた。
大きな困難のなかった俺達の結婚生活。ちょっとの不満は我慢しあって、揉め事も喧嘩もなくやってこられた。これは本当に凄いことだと俺は思っている。自慢していいことだって思っている。
熱に浮かされている今は忘れているだろうけど、家族への思いやりは決してなくなってはいないはず。だからそれを誠に思い出して欲しかった。それまで待つつもりだった。
だけど、これだけ子供が傷ついているのを見て、もう元には戻れないとわかった。
気持ち悪いって口にした怜の言葉がすべてだ。
誠はもう、父親としての威厳を失ってしまった。父親という立場を放棄して、運命の番を求めるただの男になってしまった。
もう遅い。どうにか説得して運命と別れてもらい、また元の家族に戻っても、それは元の完全な形には戻らない。
俺だけが必死に、修復する方法を探していた。俺だけが必死に。
いらない。
答えは簡単だ。
こんな家族、誰もいらない。俺だっていらない。
俺の使命は誠を頂点としたこの家族を守ることだと思っていた。でももう違う。俺は、俺の子供を一番に守らなきゃいけない。
相手が誠でも義父でも、俺が立ち上がらなきゃ、これからもっと傷つけられる。
くっそ……涙とまらない……
歯を食いしばっていると、重なっていた光流の手の力が強くなった。震えていた手がもっと揺れて暴れている。俺の制御なんてきかなくて、他人の手みたいに言うこと聞かなかった。
見慣れたスーツ姿のはずなのに、いつもと違って表情に隙がない。
『お前たちも同席するのか?』
誠はリビングに座り込む子供達を見渡す。俺の両脇には子供達がいて誠とは対峙している。これまで家族の笑顔がたえなかった場所が冷え冷えとしていた。
子供達に大人の話し合いを見せるわけない。
『光流、空、怜。悪いけど、郁也つれて少しの間だけ二階へ行ってくれるか? 何かあれば呼ぶし、父さんに言いたいことがあるなら後で時間を作るから。な、誠、子供達に黙って帰ったりしないよな?』
膝にいる末っ子の郁也が久しぶりのパパに笑顔で抱っこをせがむ。それでも誠はその指先を握るだけで抱いてはくれない。
郁也は父親とは距離が縮まらないのを不審がっている。泣きもせず、わがままも言わないのは、この空気がおかしな事を郁也なりに察しているから。
言葉もなく沈黙が続く。
『……抱っこさえしない理由があるのか』
あまりにも冷たい誠の態度が次男の空を苛立たせた。それを長男の光流がそっと制する。
『父さん、僕達が同席するのは当然の権利だ。今の母さんの様子を見たらわかるだろう。自分が傷つけて、こんなにやつれているって言うのに、父さんだけが何も変わってなくて驚くよ。もう父さんは、この家族を見ても、何も感じないんだね』
光流の言うとおり誠は以前と変わらない出で立ちだ。表情は冴えなくても、俺みたいに疲れていない。
『それに、父さんと二人きりにしたら、母さんなんて簡単に言いくるめられる。母さんはまだ父さんを愛している。僕達はもう父さんがフェアじゃないのもわかっている。僕達は当事者だからここから動く気はない』
中学生の息子の冷静な物言いに誠は表情も動かさず、一瞬目を伏せただけだった。了承したようだ。
これから子供も同席の上重要な話しをするって言うのに、なぜか部屋の隅にある埃に目がいって、そういえば掃除機を出したのはいつだっけ、なんて今考えるべきでないことが気にかかる。
俺の指には爪を隠すために絆創膏がぐるぐる巻きつけられている。指しゃぶりをやめるために。そこには郁也が可愛いシールが貼ってくれているけれど、剥がれかけているのが気になった。
そういえば誠が来るっていうのに、飲み物も何も用意してなかった。
リビングの大きな楕円のセンターテーブルを挟んで向き合うと、何も置かれていないことが気になり、意識が流れるようにそっちへいってしまう。
俺、直前まで何をしていたんだろう。これから、何するんだっけ。
今からでもお茶、淹れた方がいいのかな。
現実逃避なのか、そうじゃないのか。自分でもよくわからない精神状態だった。
『早速話しに入ろう』
『あ……うん……わかった』
誠が俺の目を見据え、俺は誠につられるように意識を正した。
『母屋で父と何度も話し合った。史も納得できる金額を提示できるはずだ。これだけあれば十分な生活が送れるだろう。慰謝料は五千万円。それを受け取って郁也とともにここを出て行ってほしい。父の主張を押し切って、その数字で決着させるのに随分骨が折れた。理解してほしい』
場に沈黙が落ちる。
誠の発言が異次元すぎて息をするのも忘れていた。
宗賀は金を押し付けて郁也と俺をここから追い出そうとしている。必然的に上の三人の子は宗賀に残る。
おかしい。俺達の子は四人だ。子供を置いていけと言うなら、俺だけを放り出せばいいはずだろう。
それに獣が生んだ子供だと四人を毛嫌いした発言をしていたはずだ。
いち早く噛みついたのは、いつもクールなはずの三男怜だった。
『おい、母さんと郁也を追い出すってどういうことだよ! 必要なのはαだけ、Ωは、孫であっても宗賀家にいらないってことかっ』
今までこんな言葉遣いをしたことがない怜。美しい物が大好きな怜。いつも穏やかで優しい空も黙っていられないと被せるように続ける。
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空が俺の膝にいた郁也を抱えあげ、きょとんとしている所をぎゅっと抱くと部屋を飛び出した。
扉がバタンとしまり家を震わせた後、ダダダッと階段を駆け上がる音がする。
あげそうになった悲鳴が喉で凍っていた。なのに心臓だけがあり得ないくらいにバクバク叫ぶみたいに動いていた。
郁也の温度が消えて寒くなる。でも、空が郁也を連れて行ってくれてよかった。大好きな父親からこんな言葉を投げられるなんて残酷すぎる。
Ωは宗賀に必要ない、義父だけでなく誠もそう思っている。だから誠の声は、子供たちの叫びにも動じない。全然、心が動いてない。
『では、これではどうだろう。僕自身の稼ぎから養育費を払う。月に三十万。それと財産分与。それで納得してくれれば、子供全員の親権養育権をそちらに譲ろう』
『はっ!?』
思わず声を出したのは光流だった。
『父さん、いったい宗賀家の本音はどっちにあるんだ?』
意味がわからないと光流が心底不思議そうにしたが、自分で解決して答えを出していた。
『前者の提案はαが惜しいお祖父さまの考え。後者は父さん……でも、この問題を長引かせたくない事だけは一致している』
すぐに気持ちを切り替えたのか光流は俺を見る。
『母さん、父さんの提示する額で僕達がこれまで通り学園に通って生活できる?』
『それは、どうだろう……難しいかもしれない』
学校費は義父母ではなく誠の口座から引き落としされている。誠はあまり気にしてないみたいで毎月チェックしているのは俺だけだ。だから数字はすぐに出てくる。
誠が持って来てくれる収入だけで四人の生活費と学費が賄えるか? 答えはノー。足りない。義父母の援助があったから、これまでやってこられただけだ。
『僕達には幾らかかっているの?』
『授業料は……三人分、年間で五百万くらい。寄付金とかは別。寄付金は幼稚舎の時から蓉子さん任せで、俺には実態がよくわからないんだ』
『やっぱり、結構かかるんだね。学校は公立に転校するとしても、ここから独立するとなると家賃が一番負担になる。最初にまとまった額がないと、生活基盤さえできないのか』
光流が溜息をつく。
月30万。
苦しくても親子五人なんとか暮らせるかもしれないと思った俺は浅はかだ。それでは私立の学費さえ払う事ができない。
誠からの養育費をもらっても、俺が正社員の職を得ないと生活は困窮するだろう。財産分与と言われても、具体的な数字がなくては先の見当が付けられない。
子供たちは誠も卒業した名門と言われる桐城学園に通っている。近所のプリスクールに通っている郁也も小学校からは桐城に入学させる予定でいた。できれば通わせてあげたい。だけど無理だ。
三人のαの子供を宗賀に残せばこれまで通りの教育を受けさせられる。
四人全員連れてここを出ることになったら、経済的な苦労を強いることになり、子供の将来を曲げてしまう可能性が高い。
どっちを選べばいいんだ……
そう考えたところで俺ははっとした。これでは光流が最初に言った通りになってしまう。俺は誠に提示された二つの中で決断しようと思案を始めていた。
違う。それ以外の道は幾つもあるはずだ。
不貞で誠の相手を訴えることができるはず、となると弁護士を雇う必要があるのか……裁判って選択もあるはずだ……
誠に会わない間に考えていてもよかったことなのに、今になって頭が回りだす。こんなの、焦る。ただ答えを急かされても、迂闊な返事はしないようにしなきゃいけない。
考えろ、考えろ。
今までろくに働いたことのない自分の頭を必死に回転させる。
すると光流の手が俺の傷だらけの手に重なった。
『母さんごめんね。僕は、母さんと郁也に慰謝料をあげられない。とてもじゃないけど、こんな傲慢な人達と一緒に暮らせないよ。でも僕達がいれば母さんは凄い価値を手に入れられると断言できる。な、怜もそう思うだろう』
『当然さ。僕はまだ小学生で何も生み出せないけど、将来有望なのは間違いないさ』
光流が言い切ると怜がそう同意した。そして怜が覚悟したように父親に向き合った。
『ずっと聞きたかったんだけどさ、運命運命って何でそんなにうるさいの。それってそんなに凄いの? 法律で守られた母さんの権利を侵しているのはそっち。運命の番なんて曖昧な言葉、日本の法律には使われていない。つまり父さんがしているのは、ただの不貞行為なの。しかも父さんとその人は母屋に挨拶に来てたよね。その人名家の出身だって言うけど、常識も慎みもないじゃない。出会ってすぐにそれって異常だし、僕たちに対しても不誠実じゃないの?』
小学生の怜の言い分に誠の顔色が悪くなっている。でも怜はとまらなかった。
『母屋に綺麗な人がいるってはしゃいでいたのは、何も知らない郁也だけ。僕たちは父さんに裏切られて悲しかった。それに……父さん浮かれてて、すごく……気持ち悪かった』
怜は途中で悔しそうに泣き出してしまった。それでも言葉を最後まで言い切った。
誠の運命は名家出身の美しいΩ。しかも俺の知らない所で母屋に招かれ、子供たちとも顔を合わせていた。それは作為的だったのか、ただの偶然なのか。
俺はまだ、直接離婚を切り出されてもいなかったのに。
ぎりぎりまで堪えていた糸がプツリと切れた。
そして思い出したのは、施設で一緒だったΩ、ナツキのセリフだった。
なんだっけ、最後は由緒正しきαと美しきΩが結ばれるだっけ? ナツキと別れてから何年たったかわからないけど、彼と再会することがあったら認めるしかない。お前の言っていたことが正解、現実だったって。
でもどんな言い訳があっても、それを盾に人を傷つけていいわけがない。
俺は、誠に何を言われても離婚しないとごねるつもりでいた。今は興奮している誠だって、時間を置いて冷静になれば話が通じると思っていた。
大きな困難のなかった俺達の結婚生活。ちょっとの不満は我慢しあって、揉め事も喧嘩もなくやってこられた。これは本当に凄いことだと俺は思っている。自慢していいことだって思っている。
熱に浮かされている今は忘れているだろうけど、家族への思いやりは決してなくなってはいないはず。だからそれを誠に思い出して欲しかった。それまで待つつもりだった。
だけど、これだけ子供が傷ついているのを見て、もう元には戻れないとわかった。
気持ち悪いって口にした怜の言葉がすべてだ。
誠はもう、父親としての威厳を失ってしまった。父親という立場を放棄して、運命の番を求めるただの男になってしまった。
もう遅い。どうにか説得して運命と別れてもらい、また元の家族に戻っても、それは元の完全な形には戻らない。
俺だけが必死に、修復する方法を探していた。俺だけが必死に。
いらない。
答えは簡単だ。
こんな家族、誰もいらない。俺だっていらない。
俺の使命は誠を頂点としたこの家族を守ることだと思っていた。でももう違う。俺は、俺の子供を一番に守らなきゃいけない。
相手が誠でも義父でも、俺が立ち上がらなきゃ、これからもっと傷つけられる。
くっそ……涙とまらない……
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