オメガの家族

宇井

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8 運命

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 異変はいつも突然だ。
 季節は夏だった。湿気のせいか呆けた俺の耳の奥にしつこく蝉の鳴き声が残っていた。いや、本当に蝉だっただろうか。もしかしたら秋の虫の音だったのかもしれない。正確な季節はわからない。
 それほどあの時の俺は皮膚感覚もなく、時間の経過にも鈍くなっていた。
 
 誠は大学を卒業してからずっと宗賀の関連グループに所属していた。
 一年目の営業から始まり、すべての課を経験。順調に出世していって二十代にして取締役になり三十代になって増々精力的に働いていた。予定されていた道を進んでいたのだ。
 いつもスーツ姿で出勤して、たまに出張があって、たまに酒臭くて、たまに家に仕事を持ち込んで。でもどんなに疲れていても朝は必ずみんなで食卓を囲む優しい父親であり夫だった。
 これまでに誠の浮気は、何度かあったと思う。
 顔も金も権力もある誠。そんな彼が庶民のΩと結婚した子沢山の愛妻家だと知れると、誰もが誠を好意的に見るようになる。それは仕事をする上で有利だと聞いていた。それに付随して誘惑しようとする人も増えるのは悩ましい事だ。
 妙に浮かれていたり、スマホを持ってこそこそしたり。誠の態度はわかりやすい。それでも特定の人と継続している様子がなかったから目をつぶった。
 俺と子供達が特別であり、浮気は出来心だと、日々の態度と言葉で信じさせてくれたからだ。
 そんな誠が心変わりしたのは、彼曰く『運命の番』との出会いがあったからだ。

 
 朝は笑顔で出勤した誠が、その晩初めての無断外泊をした。いくら連絡をしても繋がらないから、母屋にいる蓉子さんにも確認してもらった。でもやっぱり連絡がとれない。
 不安なまま末っ子を寝かしつけて、眠れない夜が明けて上の子三人を学校へ送り出す。
 ざわざわする胸を抱えたまま昼がきて、ようやく蓉子さんから誠が会社へきちんと出社しているらしいと連絡がきた。蓉子さんは口を濁しながらも誠は病気ではなく怪我もしてないと言う。
 だったらどうして?
 いやな予感がした。誠はそもそも人に心配をかけるようなことをしない。
 名家のお坊ちゃんらしく、穏やかで喧嘩をしなくて、たまに見せる我がままだって子供みたいに可愛いものだった。
 だったらどうして連絡してこない……? 俺がどれだけ心配してるかわかるはずなのに。

『史さん、ごめんなさいね。あの子を許してあげて』

 その夜、説明の為に呼ばれた母屋の廊下で末っ子の面倒を蓉子さんにお願いすると、蓉子さんは涙声になりそう謝った。
 予感だったのものが確定したのはこの時だ。

 広間に入るのは二度目だった。
 屋敷の中でもここへ続く廊下は鴬張りで、歩くたびにキュっとなる。歴史ある建物じゃなく個人宅にこれがあるのが信じられない。
 最初は、結婚の許しをもらいに来た時に通された。それからは入ったことはない場所。だからここは、人生に関わるような重要な話をする時だけ、俺の立ち入りが許される場所なのだと思った。
 和室の正面には義父が座り、はす向かいには誠が青白い顔で、でも背筋を伸ばして正座していた。
 俺は誠の横に、少し距離をとって座る。すると誠は前触れなく、がばっと畳に頭をすりつけた。

『史、昨夜は心配かけてすまない。僕がこれからお願いすることが、どれだけ史を傷つけるかわかっている。だけど、出会ってしまったんだ。どうしようもないんだ。すまないっ』

 顔を少し上げくっと唇を噛む。だけど、これから告げることは変えようもない、そんな苦しそうな表情。

『僕と離婚してほしい。運命の番に……出会ったんだ』
『……運命?』

 本当に何を言っているのか理解できなかった。
 運命って何だよ、運命って……

『僕もこれまで運命なんてありえないって思ってた。だけど違ったんだ。これまで自分が守っていたもの全部をひっくり返してもいいって思った。やっと半身に出会えた感動で涙を流していた。相手を強く求めるのも初めての衝動だった。相手は仕事を通して出会った、男性のΩだ』

 血が引いていく。座ってるのにサーサーと血が下へ降りて、気持ち悪くなって口を押さえる。
 頭の中で誠の言葉がぐわんぐわん揺れる。
 運命の番、聞いたことがある。それはおとぎ話に出てくる言葉で、現実世界では滅多にないと言われている。
 滅多にないってことは、稀にあるということ。それでも多くの人間がその言葉を聞いたら、薄ら笑うだろう。そんなのあり得ないって。
 しかも俺と同じ男性のΩだなんて。
 誠の頭を見ていただけの義父が、小さく息を吸いかっと目を見開いた。

『誠、宗賀がΩに頭を下げるなっ。二度とするな!』

 義父の一喝に俺は身を縮ませ、誠はゆっくりと頭をあげ機嫌をうかがうみたいな目を父親にむけた。

『私の言う通りにして、身寄りのないΩなど外で囲えば十分だったんだ。宗賀の籍に入れるから、これほど面倒で、恥さらしな事態になっているんだぞっ』
『申し訳ございません、父さん』

 義父は俺を無視して誠に怒りをぶつける。

『傷物のΩなど価値がない。お前にはお前に見合ったΩが幾らでもいたんだ。そんな私の言葉を忘れていないだろうな』
『忘れていません。すべては僕のわがままでした……』

 義父は誠から聞いて知っていたようだ。俺が性虐待を受けていたこと。やっぱりそうだった。義父はいまだに俺を受け入れていなかったのだ。
 義父は俺を冷たく見やる。

『施設育ちのΩにはわからないだろうが、この日本には純然とした身分と言うものがある。誠には宗賀の名を持つ者としての責任があるというのに、教育が足りずにお前に簡単に騙されてしまった。お前はこの家が目当てで誠に近付いたのだろう。それに気付かぬ誠にも問題があった』

 義父の言葉が次々に刺さる。誠に向けられているようでいて、俺を責める鞭が傷の上に傷を重ねていく。
 本来なら妊娠の報告に来た時にぶつけられるべき言葉だった。でもお腹の子を気遣って口にすることはできなかったのだろう。
 妊娠していなければ、金目当てのΩとして追い出されていた。とめるべき物が外れてしまった今、義父からそれがマグマのように噴き出したのだ。

『親に虐待されていたΩ。身辺調査をしても身元を遡れないのは、それほど酷い背景があると言う証拠だ。正式に表に出さなくてよかった。このΩに、誠を繋ぎ止める技量はないと踏んだのは正しかった。それだけが不幸中の幸いだ』

 完治していたはずの俺の傷をえぐり白日の下へと晒す。
 幼い時の風呂での光景が脳ミソの裏にフラッシュバックする。醜い体をもった男、男、男……
 短い息でどうにか呼吸をしている状態になっても、義父の追い詰める声は緩められなかった。

『身寄りのないΩだから簡単に捨てられると思ったら大間違いだ。誠、お前は甘い。この穢れたΩの血を引く子供が既に宗賀を名乗っている。しかも、もう四人もいるんだぞ』
『すみませんでした、父さん』
『繁殖能力だけは高いとは、ただの獣ではないか』

 その一言で、一瞬視界のすべてが真っ赤になった。
 誠はただ謝り続けるだけで、義父の言葉を否定してくれなかった。子供を穢れ、俺を獣だと言い切る父に、何も言ってくれない。
 だから、大人の男は、おっさんは嫌いなんだ……
 Ω性なだけで個にある名前を認識せず、Ωと呼び捨てる。自分だってΩから生まれたのに、配偶者だってΩなのに。
 世間から見れば俺たちの関係は良好だった。子供が四人できたことで、頑なな義父も少しは認めてくれたと思っていた。だけど、抑圧されていただけで俺への見方は何らかわってなかった。
 誠が運命を見つけたことで状況が変わってしまえば、もう俺は卑しいΩでしかないのだ。
 ぐらぐらする……
 思わず前に手をつき、指先で畳の目を掴んだ。
 幼い俺をおもちゃにした大人と、今の義父の年頃は近い。毒を吐く口が開く度に蠢く赤が見える。
 いやらしく、ずるく……汚いのは俺じゃない。そっちだ。
 だけど、あの頃みたいに俺は何も言えなかった。言いたいことは沢山あるのに唇が動くだけで、どうしても声が出てこない。
 ずっと思っていた。どうして誰も俺を被害者だと言ってくれないのか。どうして見てはいけないものみたいに目を背けるのか。
 Ωがそんなに悪いのか、Ωは俺が選び取った性じゃない。
 どうして誠は、俺を守ってくれないんだ。答えが知りたくて誠を見ても、もう決してこちらに顔を向けてくれなかった。
 義父は俺に憤り、誠はただ口をつぐみ、俺は心の痛みに涙を流した。
 誰の了解も得ずに立ち上がり母屋を出たけれど、誰にも何も咎められなかった。
 

 誠は家に帰ってこなくなった。
 最初は息子を非難していた蓉子さんも、運命の番だからしょうがないと零した。
 運命の番といえば全てが許されるみたいに、何度もその単語を繰り返す。
 運命の番いだから、運命だから、運命だから……
 頭がおかしくなりそうだった。蓉子さんまでそれを使いだしたからだ。

『希望があれば何でも言ってちょうだい。わたし達の間に遠慮はいらないのよ』

 俺と誠との離婚は避けられないと。親身なふりをして説得されている気分だった。
 子供たちも両親がおかしなことに気付く。とても誤魔化せる状況ではなかった。
 パパには運命の番が現れ、俺とは離婚を望んでいることを、まだ中学生と小学生の子に隠さず説明した。まだプリスクールの郁也には、もう少し事が運ぶまで言うつもりはない。パパは仕事で忙しい、そう言って納得させるしかなかった。
 できるだけ今までと変わらない生活を送るように心がけた。
 決まった時間に起きてご飯を作って子供達を送り出す。泣き出しそうになる頬を叩いて、笑え笑え自分の為じゃない子供の為に笑えと命令した。
 酷い話を切り出されてから二週間がたっていた。 
 誠は自分が愛する人を待たせない為に、俺との関係に決着をつけたがった。ようやく話し合いに応じようと、家に帰ってくる事になった。

『今夜誠がそっちに行くから。よく話し合って』

 そんな伝言を蓉子さんから聞かれて、俺は自分の立場がわからなくなっていた。
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