こうもりのねがいごと

宇井

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 眠りから覚める。
 しっとりとした肌触りは、神域でもアケメと眠るベッドとも違う。
 ここがどこであるかわかったコウは隣にあってほしい存在がないことに気付き、手をついて上半身を起こす。
 室内は暗く明かりも灯っておらず、大きく開け放った窓からのほの暗い星明りが、壁や床に白い線を描いている。
 窓の外はテラスへと続いているが、アスランは窓枠に右手をつき外を見ていた。
 幅広のゆったりしたズボン。膝まで丈がある上着のボタンは留めず、ガウンのように羽織っている。金糸の飾りがついた裾は風に重たそうに揺れる。
 その瞳は何もとらえず、ただ風に当たっているように見える。神気を感じるほど透明な空気を周りにまとわせたアスランの顔は清々しそうにみえた。
 
「アスラン様」
「コウ、体は大丈夫か?」
「ひと眠りしたので平気です」

 コウはアスランに肩を抱きしめられた。夜気にあたったせいか、肌の表面はひんやりしている。
 このまま再び、というのが神域でのアスランだったが、続きをするといった気配はなく、じゃれるようにコウの額にしっとりとした唇をよせる。

「コウ、私はしばらくリジルヘズに残るつもりでいる。近くロミーが正式に宰相に就くことになるだろう。私は階級を持たないままのフレイマリクとして今世国王と宰相の私的補佐をするつもりだ」

 コウは久しぶりに難解な文章に出会った時のような顔をする。
 アスランの言いたいことはわかる。しかしコウには無縁の言葉がたくさん出てきた。
 アスランが元国王であることは知っていても、それに携わるアスランを見たことはなく、言葉のままの意味としてしか理解できていなかった。
 だが今の情況は違う。
 ここはコウ一人の力では入ることができなかった壁の中。王城内だ。
 コウが眠っていたベッドは広く天蓋がついている。そのベッドがある部屋はどの方向を見ても艶々石が張られ、天井には絵まで描かれている。
 フレイマリクというのは、王の座を退いた者につけられる尊名だと言う。ただし一般には浸透していないのでその名で呼ばれることは城内で稀にしかないらしい。

「あの頃は、神域からリジルヘズに戻るつもりもなく、コウとリジルヘズで婚姻する必要はないと思っていた。しかしジイが倒れて状況は一変し、私はこの国に残り国王とロミーを支えたいと思ったのだ。だからコウがここで不自由なく暮らせるように国民登録は済ませてある。それと……」

 言い淀んだと思えばコウを抱く手に力が入る。

「事後報告で申し訳ないが、コウは既に私とリジルヘズの法にのっとって既に婚姻しているのだ」
「婚姻って結婚ってこと」
「本来はコウ本人の署名が必要になるがそこは割愛させ受理させた。すまない」
「あの……僕は嬉しいですよ。番と言われただけでもそうですが、まさか、アスラン様の国であるリジルヘズに認められるなんて、こんな嬉しいことってないです」

 アスランはコウの承諾なくしてしまったことを気に病んでいるのだろうが、コウにとってはちっぽけなことだった。
 自分はどこにいても無力だった。自分はリジルヘズの民でもない。かといってあの崖の上の国で民と認められていたかも怪しい。そんなただの蝙蝠が、アスランの番というだけでリジルヘズの正式な民となり、結婚まですることが許されたのだ。

「まずコウが国民となるには強い後ろ盾が必要だった。そこは軍務尚書であるルルアの父に頼んだ。書類上、軍務尚書はコウの養父、ルルアとは姉弟だ」
「そんなことをお願いしてよかったのですか。だってルルア様のお父様は、アスラン様とルルア様を結婚させたがっていたはずです」
「怪我をしたルルアを隣国トゥルに置いたままだったがそれがよかったらしい。トゥルは小さな国だがルルアはそこで恋人ができた。私を追いかけて家出までした娘を尚書も持て余していたから渡りに舟だったろう。トゥル国、ルルア、ルルアの父である尚書、それぞれが納得いく形に納まるようロミーが調整している。ロミーは手練手管にたけている。王族の男性率が高いトゥルに置いてきたのはその狙いもあったのだろう。まさに宰相向きの男だ」

 ロミーには目端が利く知謀家の一面があるらしい。
 怪我をしたルルアを他国に置いてきたと聞いた時は驚いた。少し冷たいのではないかと思った。けれどロミーにはそれに至る考えがあり、ルルアを思いやる気持ちだってあったのだ。

「つまりルルア様は幸せで、僕は、気兼ねなくアスラン様のお近くにいられるのですね。でしたらアスラン様が謝る必要はなにもないです」
「しかしここにいればコウの動きは制限される。これまでのような家事がここではできない。食事も洗濯も掃除も使用人の仕事だ」
「僕がしてきたアスラン様のお世話の必要が、なくなる……」
「まったくこれまで通り、というのは無理だ。フレイマリクの伴侶が使用人に混じって労働することは許されない。城外で働くことも許されない。気軽に街へ降りることもできない。すまない」

 国の尊い人の伴侶が使用人に混じって働くのが異様だとコウにもわかる。もしもルルアがここの水場で洗濯でもしていたら、コウだって驚いてとめに入るだろう。
 自分はもう既に十分なことをしてもらっている。アスランの隣にいられるだけで、それ以上を望まない。このお城の部屋に閉じ込められる生活になったとしても、コウはそれほど不満を持たないだろう。
 だけど……

「僕は、リジルヘズに来てから夢中になれたことがあるんです。アスラン様と会えないかもしれないって恐怖も、それでつかの間、忘れることができました」

 コウはアスランの憂いを吹き飛ばすような提案をすぐに思いていた。

「それは、アケメさんに教えてもらった手工芸です。技術を身に着ければ生計を立てられる立派なお仕事です。だから、それを続けてもいいでしょうか。お金をもらえるまでになるのは、時間がかかるかもしれないけれど、それを学びながら、アスラン様がお役目が終わるのを待っていてもいいですか」
「コウにやりたいことができたのは喜ばしいことだ。それを私が応援しないわけない」
「あ、でも、その場合はアケメさんにお願いをして、お返事をもらう必要があります。あと、アケメさんのお家に通うか、ここまで通ってもらうことになるのでしょうか。とにかく、アケメさんが受け入れてくれるのか、そこからになってしまいます」
「わかった。二人でアケメにお願いをしよう」
「アスラン様も一緒に頼んでくださるのですか」
「もちろんだ。ここを出るその日まで窮屈だけを強いるつもりはない」

 アスランはコウの願いを叶えるためであれば、頭をさげることを厭わない。アケメもコウの願いであれば快く引き受けるに決まっている。
 ただ当のコウがそれをわかっていないだけだ。
 
「ずっと思っていたのですが、アスラン様にはここを出てからの予定があるのですか?」

 それはビブレスにいた頃から何となく思っていたことでもある。あの時からアスランはリジルヘズには戻らないと言っていた。だったら、この緑の森を出てアスランはどこを目指すのだろうと。

「まずは、コウの故郷の洞窟に行きたいと思っている」
「あの、でも、そこはもう……」
「見たいという私の我がままだ、コウが嫌だと言うなら行かなくてもいい。ただ、その洞窟にまだカンカラが残っているか確かめてみたい。コウが生活していた国を見たい。この目と肌で感じたい」
「カンカラのこと、覚えていてくださったんですね」

 こうはあの時の生活を思い出してしんみりしてしまうのだが、すぐにそれを振り切った。

「やはり神域にはもう戻らないのですか?」
「二度と行くつもりはない。コウがいなくなった衝撃を、もう私は思い出したくない」
「じつは亀様も戻ってくるなと言っていました。自分は最後の龍を待つのだと。亀様はひとりになってしまいますが、あそこには僕達の思い出があると言っていました」
「精霊の昼寝は数年とも言う。あいつにとって、私達との時間はほんの瞬き程度の時間。それほど感傷的ではないだろう」

 美しい少年だった精霊は、やはり少し俗っぽくて現実感があった。その分、少し見せた憂いは記憶に残っている。
 コウには亀様の気持ちはわからない。勝手に想像するだけだ。だけど人間らしい亀様だからこそ、わずかに滲ませた憂いは本物だったのだと思うのだ。
 しかしアスランはもう神域には踏み込まない。亀様とのことも思い出になるのだろう。
 あそこにはアスランの作ったコウの巣が残され、二人が生活していた形跡がそのままに残っている。
 コウの作った瓶詰、泉の横に干したままの服……
 その場から人だけが忽然と消えてしまったような光景。
 時を経てもそれを動かす人はおらず、息遣いだけがずっと残されるのだ。

「まずは海の近くに暮らして、そこで舟を作るつもりでいる。コウは海が見たくないか?」
「泉より湖より大きな水、見てみたいです」
「ではそこで一緒に舟を作ろう。二人乗りの舟を作る。それが出来上がったら、海の果てを目指す。海に漕ぎだすのだ」

 どれだけここに明かりが足りなくても、アスランの瞳が輝くのがわかった。
 コウには見えないけれど、アスランには波の寄せる海岸から大海原へ向かう小さな舟が、波に逆らって漕ぎだす景色が見えているのだ。

「龍の起源は海にあったと言われている。私はそれが本当なのか、どこにあるのかを確かめたい」
「見つかるといいですね」
「コウ、海は厳しい。海には舟を飲み込むほどの高い波があり、櫂がきかない潮流がある。私達の小さな舟などすぐに壊れてしまうかもれん」
「それでも行くのですね」
「いざとなったら、沈む舟を捨てて、コウを背中に乗せて海を渡ろう」
「それではアスラン様が疲れてしまいます」
「いや、コウさえいてくれるのなら、私はどこまででも行ける気がするのだ」

 アスランはコウを抱いたまま、ポスリとベッドに倒れ込んで笑う。
 コウも何だか面白くなって笑ってしまう。

「番を見つけた龍は最強だ。今は何にも負ける気がしない。それほど私は、コウへの愛で強くあれる」
「アスラン様、僕も同じですよ。きっと同じかそれ以上に、愛しています。ずっとアスラン様についていきます。ただ、お願いがあるのです。たったひとつのお願いです」

 コウはその時、アスランにのみ込まれた時の思いを反芻し、アスランの手をとり自分の胸にあてた。

「龍は長く生きるのですよね。たとえアスラン様が龍でなくても、年上でなくても、無理ばかりしていた僕の体はもろく、僕の寿命は短いと思うのです。だから……」

 コクリとコウは喉を動かす。

「……僕が死ぬ前に、僕を食べて欲しい。やっぱり僕は、アスラン様に、食べられたいのです」

 言いたいことの全部が伝えられた、そのことにコウはほっとする。だが逆にアスランの方は困惑していた。

「私はコウを食べない。コウがそう口にする度に同じことを繰り返す。食べないと決めているのだと」
「何度も同じことを言わせてすみません。だけどさっき、アスラン様のお腹の中にいて思ったのです。僕は愛する人に食べられて幸せだなあって。アスラン様の中は暗くて温かくて狭くて、僕の大好きな場所と同じでした。僕がアスラン様より早く召されるのは決まっていることです。だったら……僕はやっぱり、食べられたいのです。土に還されるのでもなく、焼かれて天に昇るのでもなく」
「コウは、本気で言っているのか」

 コウはこっくり頷く。

「僕は食べられるのが怖くない。アスラン様とのお別れの時がきても、食べられるのであれば、安らかでいられる気がするのです。だって僕は、食べられて、アスラン様の肉になる。それは一体になると言うことです。僕も強い龍の一部になるということです」
「そうか……その通りだ。コウの言う通り、コウは私の一部になり、私が召されるまで共にあるのかもしれない」
「ですよね。だから僕の意識があるうちに、がぶっといってくれるともっと嬉しいです。そうしたら、幸せすぎて、きっと涙が出てしまいます……」

 コウは悲しみがこれ以上アスランに伝わらないよう、できるだけ体を丸め、その手を握りしめた。

「わかった。これは約束だ。私はコウを食べる。それでいいか?」
「はい、約束の成立です。だから僕は何があってもアスラン様のそばにいます。ここで暮らして、それから……故郷に行きます。その後は海辺で暮らして、舟で海にでる。その時までずっと隣にいます。ずっとです……」
「ああ、ずっとだ……」

 アスランはコウを抱き寄せ、慰めるようにその耳を噛んだ。噛まれた所がじんじんして、血の流れる音がざあざあと煩くなった。

「アスラン様、まだ、食べてはだめです」
「そうだな。でも、待ちきれないのだ。コウが健気なことを言いだすから、つい、味見をしたくなってしまった」
「アスラン様はせっかちです。僕たちにはまだやることが沢山あるのですから、早まって食べてしまうのはだめです」
「そうだな、コウ。ずっとお前と、こう言い合っていたい。その時が来るまで、ずっとだ」

 コウの髪がサラサラと音を立てる。アスランがいつまでも手遊びをやめないから、コウは眠くなってしまう。
 まるで真っ暗な夜の海の上を、二人で漂っているようだ。
 アスランの長衣は広がり羽を広げた鳥のようになり、コウはそれに寄り添い、決して繋いだ手を離さない。二度と、決して離さない……

 ああ、こんなことがあった。

 それは神域のビブレスで、コウが森で迷って眠り込んでしまった時だった。あの時もコウの耳元でサラサラと音が流れていた。
 もうあの場所には帰らない。
 だけどたまにあの頃の生活を思い出しては、アスランに語るのだ。
 僕達はあそこで出会ったのですね。
 あの時はとても楽しかったですね、と。
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