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仕事のあるサイラスとその場で別れてからは、アケメと一緒に緑の豊かな丘へと足をのばすことになった。
そこは王城管理地ながら解放されていて、少し小高くなっているから、街よりも城が見えると言うのだ。
休憩を入れながら歩いて一時間かかる場所だが、王都でも庶民の交通手段は馬か人力か徒歩だから、人々は歩きでの移動を苦ともとらない。
当然コウもアケメもそうで、往復二時間ならば昼過ぎには家に帰れるだろうと計算していた。
街の中心から外側へ向かうのだから、大きな建物もなくなり人の姿もちらほらとなっていく。道は土を踏み固めてあるから埃はないし、飛び出している石もないから歩きやすい。
途中、地面に穴を掘り、そこで篝火をあげている場面に出くわした。直径は三メートル、深さは三十センチほどで、その周りでは五人の男女が座りこんでいる。
何をしているのかとアケメが話し掛けると、彼等流の儀式のようなものだと教えられた。それでウタリの病が抜けるように祈祷しているのだ。
王都には各地から様々な種族部族の人がやってくる。あまり目立たないようにしながら彼等の種族のやり方で願っているのだ。
もう儀式は終わったところらしいが、そこにアケメもコウも仲間に入れてもらい一度休憩を取った。
やっと着いた!
すっかり運動不足になっていたコウに、万年引きこもりのアケメは同時に安堵の溜息をついた。
街中にも緑は多いがそこは別格だ。
斜面の草原に名もないような小さな花が咲き、草がゆれている。木があるのはもっと天辺の方だ。少しだけ故郷を思い出してしまう。
どうせなら上まで行こうと誘われ、そこからも頑張って歩いてようやくたどり着いたのだ。 普段家にこもりきりのアケメとコウには辛い道のりだった。しかし互いに引き返そうという気にならなかった。
「疲れたぁー。でも来てよかった。見晴らしがよくて気持ちがいいね」
「はい」
「ほら、下にいるよりお城が見えるでしょ。壁は中にも二重にあって立派だよね。ほら重なって見えるでしょ」
アケメが指をさす方向に目を凝らす。
「はい、とても立派です」
「お弁当もってくればよかったね」
「本当です。外はとても気持ちがいいです」
腰を降ろすと二人とも手を後ろについて、荒れた息を整える。平日にここまで来る人はおらず、コウとアケメの二人きりだ。
神域にあった緑とは違い、こちらの緑は風に揺れているせいか、光が反射して生き生きとして見える。
「ちょびっと休憩ね」
アケメはふわぁと欠伸をしてから足を投げ出して座る。
脱力するのもしかたがない。普段は人との関わりがほとんどないのに、コウと暮らすことになったし、久しぶりに遠くまで来たのだ。
コウはお城の鐘打ち塔の先端が見えることが嬉しくて、アケメの横でずっとそこを眺めていた。
鐘は鳴っていない。
ウタリが亡くなることで鳴るのなら、ずっと鳴らなければいい。
リジルヘズにきて、三人での暮らしに慣れてきて、でも会いたい人には会えない……
色んなことがありすぎて、そこに悲しみが襲ってきて、それでもコウは生きている。アスランに会うという、たった一つの願いがあるからだ。
今朝はちょっとお腹が減って、昨夜の残りのスープが胃にしみるみたいに美味しかった。
そう、コウの周りには人がいて、美味しい食べ物がある。
幸せだと思った。
アスランがいればもっと幸せになる。
あの神域での二人きりの生活は本当に夢のようだった。だからと言って夢で終わらせたくはない。
小さな小屋、それに寄り添う小花。息が詰まるほどの緑、葉の天井からこぼれる光……
「アスラン様……」
会いたいです。
コウは巻いていたストールを外して膝におき、亀のマスコットに守られた金貨を取り出そうとする。もう何度とやってきた動作に皮の紐がからまり、主様にいただいていた首飾りも飛び出した。
それは淡い色をしていて、光を受けると散らした粉のようにキラキラとして七色に輝く。
そういえば、これはお返しするべきものだ。
しかし当人が死の淵にいる。
これをお返しする時、その時のコウがどんな立場にあるか想像できないけれど、当たり前にやってくるのだと思っていた。
主様はロミーのようにひょいっと現れたりするかもしれない、神域を出たあとには必ず顔を合わせるのだと。
そこでコウはあることを思い出す。これはただの首飾りではなく、笛であったのだと。
どちらに口をあて息を吹き込むんだろう。
コウは細まっている方に唇に近付け、遠慮気味に息を吹きかけた。しかし音はならない。楽器には触れる機会がなかったコウは、やはり自分には難しく何度か練習が必要なのだと思い、少し恥ずかしくなってしまう。
アケメはたまに目を閉じたりして何もなに場所を見ている。眠そうにしているものの昼寝する気はないらしく、コウと目が合っても微笑むだけで何も言わなかった。
「これは笛らしいのですが、僕には無理のようです」
えへっと照れ隠しして今度はもっと息が通るように、触れるギリギリにまでよせて息を一本の糸になるように意識してみた。
ふーっ。
空気が抜けて息が抜ける音だけがして、反応してくれなかった。
これでは神域で鳴らしたとしても、リジルヘズにいる主様にはとても届かなかっただろう。仮に高く大きな音が鳴ったとしても何もかもを飛び越えて響くものだろうか。
龍であればそれもできるのかな。
コウは音を出すことを諦めて金貨と首飾りを戻し、またストールを巻き付ける。
すると隣にいるアケメが座ったまま飛び上がった。視界のはじっこでそんなふうに見えた。
「アケメさん?」
「……っ……な……っ……!」
アケメが驚きの声をあげる。
喉の奥にあるのは悲鳴で、でも出てくる前に自分で押しとどめているようだ。
アケメの声にびくりとしたコウは、アケメが震え見つめる正面に自分も顔を向けた。
あれは……
お城の方向の空にはコウが見たことがない何かが浮かんでいた。コウが見たことのある飛ぶ獣の中で一番大きな生き物が鷹だった。
でもそれは鷹よりも大きくて、お城を潰すこともできるほど大きくて、そもそも飛ぶための翼もなく、まったく違う形状をしている。
「あれって……龍のお姿……だよね。ねえ、コウちゃん!?」
龍は滅多に変異せず、公務のお時はすべて人の姿。
たまたま空に姿を見られた人々は、自然に膝をつき手を組み、地上に現れてくれた歓びに感謝の祈りをするという。
アケメもまたそうように、体が勝手に動き祈りのように構え頭を垂れた。
リジルヘズの民は大切な龍を失いそうになり光を失っている。この先にやってくる龍のいなくなる未来を憂いていることとも重なってもいる。
一番国民に近く長く国を支えてきたウタメ。彼を私たちから奪わないでください。神の元へと還るのはまだ早すぎるのです。
そんな時に民が雄々しい龍の姿を見ることができれば、それは何よりの慰めと励みになる。
この瞬間を見ている者はアケメとコウだけではないだろう。城下ではきっと大騒ぎになっているはずだ。
「……なんて、ありがたい……えっ、ええっ……なんでっ」
アケメが呆けるようにつぶやいたあと、その形相を変える。
それもそのはず、その龍がこちらへ向かってやってくるように見える。いや、実際に来ているのだ。
その巨体で尾を一かきすれば風をともないながらずいっと進む。
「……怒ってる…ように見えない?」
「すごく、怒っているようです」
震えるアケメに対して、冷静にみえたのがコウだった。しかし心臓がバクバクと体中に血を送ってくるから、耳の後ろがうるさい。
龍……これが龍……
アスランが地面に描いていた絵とはまったく違う。
その後に受けた説明のようにヘビのように長い体を持ち、リジルヘズを縦断する大河のように蛇行している。
翼はなくとも頭から尾まである羽のようなものは、ゆらりゆらりと順に左右に揺れ空気をかいているようだ。
鱗が光に反射しているけれど、背は青、腹はうすい藤色だ。口は大きく鼻は突きだし、頭には二本の枝のような角がある。
「……アスラン様です……」
「えっ、あれってアスラン様なの? コウちゃんがここにいるって、きっとわかってるんだろうけど……」
アケメはそれが誰であるかまでの特定ができない。
ぐんと近付く龍はまっすぐにこちらを目指していた。
ここまでくるとアケメにもそれがわかる。龍の目的はコウだと。赤紅の瞳がコウだけを狙っている。
「アケメさん……アスラン様に、やっと会えました……」
つぶやくとコウは笑う。
青の鱗を持つ龍は雄々しく美しい。キラキラと光を反射するさまはあの泉と似た尊さを思わせる。
そして何よりコウが目を奪われるのは、その瞳の赤。何度となく自分を追いつめ、息さえ奪われそうになった色。
そのギラギラとした瞳は、出会った頃を思い出させる。アスランは何度もコウに言ったのだ。
お前を食べたいと。食べていいのかと。
「……アスラン様が、僕を見つけて来てくれました……」
僕を食べるために。
アケメには言えない。でもコウが感じていたのは、アスランが自分を喰らおうとしている猛々しさだった。
でもそれでいい。こんなに寂しい別れがまた訪れるとしたら自分はもう耐えられないだろう。だったらアスランにこの場で食い殺された方がましだ。
アスランと別れ、この地に来てからずっと堪えてきたものが決壊する。
ぼろぼろ流れる涙を隠すみたいに両手で顔を覆ってゴシゴシこする。
「うぁぁ……ん……」
嗚咽がとまらなくなった。
生まれて初めて、みっともないほどに泣いた。
「うっく……ひぃ……」
変な声が出て、鼻水まで出てくる。赤ん坊でもこれほど醜く泣かないだろう。肩が震えて体全体で呼吸して息が間に合わない。
コウはアケメもサイラスも好きだ。泉の亀様も好きだ。だけどそれ全部が束になってもアスランを思う気持ちには敵わない。それはもう別次元にあるので比べようがない。
アスランが好きなのだ。
「コウ……危ないっ。ここを離れようっ」
龍から発せられるただならぬ怒気を感じたのだろう、アケメはコウを庇うように抱き来た道を戻ろうとする。しかしコウは抱き付かれる以上の力でその腕を引き離した。
「僕は逃げません」
「どうして!? このままじゃ危ないよ。悪い予感しかしないんだ。何て言うか、あの龍は違うよ。アスラン様であってもビブレスにいたアスラン様はとは違うんじゃないの!?」
「ごめんなさい、アケメさん。何があっても、起こっても、心配しないでください。僕は……アスラン様のもとへ戻ります。帰るだけなんです……どんなアスラン様もアスラン様です。あの龍は間違いなく、アスラン様なのです」
コウはその場面を目撃することになるアケメを気遣う。
その腕でひねりつぶされるのか、それとも鋭い牙のある歯でとどめを刺されるのか。どんな方法でもいい、アスランが自分を食べるのであれば、なんでもいい……
「今まで本当に、ありがとうございました。短い間だったけど、とっても楽しくて……出会えて良かったです。サイラスさんにもそう伝えてください……」
ザアァアア。
コウの言葉は風音に途切れる。
龍が連れてきた風が丘を襲い、木だけでなく足元の短い草も根元から揺らす。首にまいていたストールの端が風の渦に取られ、コウの首をぐっと絞めつける。
舞い上がった砂がチリチリと肌に攻撃してくる。
「コウ、大丈夫……!?」
「……大丈夫です……アケメさん、危ないから、伏せてください……伏せてっ」
根ごと剥がされた草が舞い、土が跳ね、アケメは姿勢を低くして腕で顔を覆う。
さっきまで自分たちの上にあった光はなくなり、嵐のように緑と土色が舞っている。
「アスラン様……いいのです。約束を守れなかった、僕を許さなくていいのです……!」
聞こえているだろうか。
顔に何かがぶつかり痛みを感じ、口を開ければ土や葉が入ってくる。それでもコウは大きく声に出した。
龍となったアスランは姿を現してから数十秒でコウの前に辿り着いた。その次の動作も速かった。その大きな顔にある大きな口をガバリと開け、コウを飲み込んだ。すべての出来事は一瞬だった。
その瞳はどこまでも赤く、縦に割れた瞳孔にある火勢にも怒気しか感じられない。
龍は元々生物のなかでもっとも凶猛な容姿を持っている。目にしたとしてもいつも遠く小さな姿。それを息遣いを知るほど間近で見る機会など、生涯一度もないのが当たり前だ。
それを現実としたアケメは伏せたまま腰を抜かしていた。顔を庇い細めた目の隙間から、コウが龍の口に喰われるのを見ていることがしかできなかった。悲鳴さえ上げられなかった。
そこは王城管理地ながら解放されていて、少し小高くなっているから、街よりも城が見えると言うのだ。
休憩を入れながら歩いて一時間かかる場所だが、王都でも庶民の交通手段は馬か人力か徒歩だから、人々は歩きでの移動を苦ともとらない。
当然コウもアケメもそうで、往復二時間ならば昼過ぎには家に帰れるだろうと計算していた。
街の中心から外側へ向かうのだから、大きな建物もなくなり人の姿もちらほらとなっていく。道は土を踏み固めてあるから埃はないし、飛び出している石もないから歩きやすい。
途中、地面に穴を掘り、そこで篝火をあげている場面に出くわした。直径は三メートル、深さは三十センチほどで、その周りでは五人の男女が座りこんでいる。
何をしているのかとアケメが話し掛けると、彼等流の儀式のようなものだと教えられた。それでウタリの病が抜けるように祈祷しているのだ。
王都には各地から様々な種族部族の人がやってくる。あまり目立たないようにしながら彼等の種族のやり方で願っているのだ。
もう儀式は終わったところらしいが、そこにアケメもコウも仲間に入れてもらい一度休憩を取った。
やっと着いた!
すっかり運動不足になっていたコウに、万年引きこもりのアケメは同時に安堵の溜息をついた。
街中にも緑は多いがそこは別格だ。
斜面の草原に名もないような小さな花が咲き、草がゆれている。木があるのはもっと天辺の方だ。少しだけ故郷を思い出してしまう。
どうせなら上まで行こうと誘われ、そこからも頑張って歩いてようやくたどり着いたのだ。 普段家にこもりきりのアケメとコウには辛い道のりだった。しかし互いに引き返そうという気にならなかった。
「疲れたぁー。でも来てよかった。見晴らしがよくて気持ちがいいね」
「はい」
「ほら、下にいるよりお城が見えるでしょ。壁は中にも二重にあって立派だよね。ほら重なって見えるでしょ」
アケメが指をさす方向に目を凝らす。
「はい、とても立派です」
「お弁当もってくればよかったね」
「本当です。外はとても気持ちがいいです」
腰を降ろすと二人とも手を後ろについて、荒れた息を整える。平日にここまで来る人はおらず、コウとアケメの二人きりだ。
神域にあった緑とは違い、こちらの緑は風に揺れているせいか、光が反射して生き生きとして見える。
「ちょびっと休憩ね」
アケメはふわぁと欠伸をしてから足を投げ出して座る。
脱力するのもしかたがない。普段は人との関わりがほとんどないのに、コウと暮らすことになったし、久しぶりに遠くまで来たのだ。
コウはお城の鐘打ち塔の先端が見えることが嬉しくて、アケメの横でずっとそこを眺めていた。
鐘は鳴っていない。
ウタリが亡くなることで鳴るのなら、ずっと鳴らなければいい。
リジルヘズにきて、三人での暮らしに慣れてきて、でも会いたい人には会えない……
色んなことがありすぎて、そこに悲しみが襲ってきて、それでもコウは生きている。アスランに会うという、たった一つの願いがあるからだ。
今朝はちょっとお腹が減って、昨夜の残りのスープが胃にしみるみたいに美味しかった。
そう、コウの周りには人がいて、美味しい食べ物がある。
幸せだと思った。
アスランがいればもっと幸せになる。
あの神域での二人きりの生活は本当に夢のようだった。だからと言って夢で終わらせたくはない。
小さな小屋、それに寄り添う小花。息が詰まるほどの緑、葉の天井からこぼれる光……
「アスラン様……」
会いたいです。
コウは巻いていたストールを外して膝におき、亀のマスコットに守られた金貨を取り出そうとする。もう何度とやってきた動作に皮の紐がからまり、主様にいただいていた首飾りも飛び出した。
それは淡い色をしていて、光を受けると散らした粉のようにキラキラとして七色に輝く。
そういえば、これはお返しするべきものだ。
しかし当人が死の淵にいる。
これをお返しする時、その時のコウがどんな立場にあるか想像できないけれど、当たり前にやってくるのだと思っていた。
主様はロミーのようにひょいっと現れたりするかもしれない、神域を出たあとには必ず顔を合わせるのだと。
そこでコウはあることを思い出す。これはただの首飾りではなく、笛であったのだと。
どちらに口をあて息を吹き込むんだろう。
コウは細まっている方に唇に近付け、遠慮気味に息を吹きかけた。しかし音はならない。楽器には触れる機会がなかったコウは、やはり自分には難しく何度か練習が必要なのだと思い、少し恥ずかしくなってしまう。
アケメはたまに目を閉じたりして何もなに場所を見ている。眠そうにしているものの昼寝する気はないらしく、コウと目が合っても微笑むだけで何も言わなかった。
「これは笛らしいのですが、僕には無理のようです」
えへっと照れ隠しして今度はもっと息が通るように、触れるギリギリにまでよせて息を一本の糸になるように意識してみた。
ふーっ。
空気が抜けて息が抜ける音だけがして、反応してくれなかった。
これでは神域で鳴らしたとしても、リジルヘズにいる主様にはとても届かなかっただろう。仮に高く大きな音が鳴ったとしても何もかもを飛び越えて響くものだろうか。
龍であればそれもできるのかな。
コウは音を出すことを諦めて金貨と首飾りを戻し、またストールを巻き付ける。
すると隣にいるアケメが座ったまま飛び上がった。視界のはじっこでそんなふうに見えた。
「アケメさん?」
「……っ……な……っ……!」
アケメが驚きの声をあげる。
喉の奥にあるのは悲鳴で、でも出てくる前に自分で押しとどめているようだ。
アケメの声にびくりとしたコウは、アケメが震え見つめる正面に自分も顔を向けた。
あれは……
お城の方向の空にはコウが見たことがない何かが浮かんでいた。コウが見たことのある飛ぶ獣の中で一番大きな生き物が鷹だった。
でもそれは鷹よりも大きくて、お城を潰すこともできるほど大きくて、そもそも飛ぶための翼もなく、まったく違う形状をしている。
「あれって……龍のお姿……だよね。ねえ、コウちゃん!?」
龍は滅多に変異せず、公務のお時はすべて人の姿。
たまたま空に姿を見られた人々は、自然に膝をつき手を組み、地上に現れてくれた歓びに感謝の祈りをするという。
アケメもまたそうように、体が勝手に動き祈りのように構え頭を垂れた。
リジルヘズの民は大切な龍を失いそうになり光を失っている。この先にやってくる龍のいなくなる未来を憂いていることとも重なってもいる。
一番国民に近く長く国を支えてきたウタメ。彼を私たちから奪わないでください。神の元へと還るのはまだ早すぎるのです。
そんな時に民が雄々しい龍の姿を見ることができれば、それは何よりの慰めと励みになる。
この瞬間を見ている者はアケメとコウだけではないだろう。城下ではきっと大騒ぎになっているはずだ。
「……なんて、ありがたい……えっ、ええっ……なんでっ」
アケメが呆けるようにつぶやいたあと、その形相を変える。
それもそのはず、その龍がこちらへ向かってやってくるように見える。いや、実際に来ているのだ。
その巨体で尾を一かきすれば風をともないながらずいっと進む。
「……怒ってる…ように見えない?」
「すごく、怒っているようです」
震えるアケメに対して、冷静にみえたのがコウだった。しかし心臓がバクバクと体中に血を送ってくるから、耳の後ろがうるさい。
龍……これが龍……
アスランが地面に描いていた絵とはまったく違う。
その後に受けた説明のようにヘビのように長い体を持ち、リジルヘズを縦断する大河のように蛇行している。
翼はなくとも頭から尾まである羽のようなものは、ゆらりゆらりと順に左右に揺れ空気をかいているようだ。
鱗が光に反射しているけれど、背は青、腹はうすい藤色だ。口は大きく鼻は突きだし、頭には二本の枝のような角がある。
「……アスラン様です……」
「えっ、あれってアスラン様なの? コウちゃんがここにいるって、きっとわかってるんだろうけど……」
アケメはそれが誰であるかまでの特定ができない。
ぐんと近付く龍はまっすぐにこちらを目指していた。
ここまでくるとアケメにもそれがわかる。龍の目的はコウだと。赤紅の瞳がコウだけを狙っている。
「アケメさん……アスラン様に、やっと会えました……」
つぶやくとコウは笑う。
青の鱗を持つ龍は雄々しく美しい。キラキラと光を反射するさまはあの泉と似た尊さを思わせる。
そして何よりコウが目を奪われるのは、その瞳の赤。何度となく自分を追いつめ、息さえ奪われそうになった色。
そのギラギラとした瞳は、出会った頃を思い出させる。アスランは何度もコウに言ったのだ。
お前を食べたいと。食べていいのかと。
「……アスラン様が、僕を見つけて来てくれました……」
僕を食べるために。
アケメには言えない。でもコウが感じていたのは、アスランが自分を喰らおうとしている猛々しさだった。
でもそれでいい。こんなに寂しい別れがまた訪れるとしたら自分はもう耐えられないだろう。だったらアスランにこの場で食い殺された方がましだ。
アスランと別れ、この地に来てからずっと堪えてきたものが決壊する。
ぼろぼろ流れる涙を隠すみたいに両手で顔を覆ってゴシゴシこする。
「うぁぁ……ん……」
嗚咽がとまらなくなった。
生まれて初めて、みっともないほどに泣いた。
「うっく……ひぃ……」
変な声が出て、鼻水まで出てくる。赤ん坊でもこれほど醜く泣かないだろう。肩が震えて体全体で呼吸して息が間に合わない。
コウはアケメもサイラスも好きだ。泉の亀様も好きだ。だけどそれ全部が束になってもアスランを思う気持ちには敵わない。それはもう別次元にあるので比べようがない。
アスランが好きなのだ。
「コウ……危ないっ。ここを離れようっ」
龍から発せられるただならぬ怒気を感じたのだろう、アケメはコウを庇うように抱き来た道を戻ろうとする。しかしコウは抱き付かれる以上の力でその腕を引き離した。
「僕は逃げません」
「どうして!? このままじゃ危ないよ。悪い予感しかしないんだ。何て言うか、あの龍は違うよ。アスラン様であってもビブレスにいたアスラン様はとは違うんじゃないの!?」
「ごめんなさい、アケメさん。何があっても、起こっても、心配しないでください。僕は……アスラン様のもとへ戻ります。帰るだけなんです……どんなアスラン様もアスラン様です。あの龍は間違いなく、アスラン様なのです」
コウはその場面を目撃することになるアケメを気遣う。
その腕でひねりつぶされるのか、それとも鋭い牙のある歯でとどめを刺されるのか。どんな方法でもいい、アスランが自分を食べるのであれば、なんでもいい……
「今まで本当に、ありがとうございました。短い間だったけど、とっても楽しくて……出会えて良かったです。サイラスさんにもそう伝えてください……」
ザアァアア。
コウの言葉は風音に途切れる。
龍が連れてきた風が丘を襲い、木だけでなく足元の短い草も根元から揺らす。首にまいていたストールの端が風の渦に取られ、コウの首をぐっと絞めつける。
舞い上がった砂がチリチリと肌に攻撃してくる。
「コウ、大丈夫……!?」
「……大丈夫です……アケメさん、危ないから、伏せてください……伏せてっ」
根ごと剥がされた草が舞い、土が跳ね、アケメは姿勢を低くして腕で顔を覆う。
さっきまで自分たちの上にあった光はなくなり、嵐のように緑と土色が舞っている。
「アスラン様……いいのです。約束を守れなかった、僕を許さなくていいのです……!」
聞こえているだろうか。
顔に何かがぶつかり痛みを感じ、口を開ければ土や葉が入ってくる。それでもコウは大きく声に出した。
龍となったアスランは姿を現してから数十秒でコウの前に辿り着いた。その次の動作も速かった。その大きな顔にある大きな口をガバリと開け、コウを飲み込んだ。すべての出来事は一瞬だった。
その瞳はどこまでも赤く、縦に割れた瞳孔にある火勢にも怒気しか感じられない。
龍は元々生物のなかでもっとも凶猛な容姿を持っている。目にしたとしてもいつも遠く小さな姿。それを息遣いを知るほど間近で見る機会など、生涯一度もないのが当たり前だ。
それを現実としたアケメは伏せたまま腰を抜かしていた。顔を庇い細めた目の隙間から、コウが龍の口に喰われるのを見ていることがしかできなかった。悲鳴さえ上げられなかった。
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