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精霊様の亀様が消えてから、アスランはとても機嫌がよさそうに見える。もうコウのあとを着け回すことはせず、ソファにゆったりと座っている。
コウはカップを洗い布に伏せると、さっそく物置部屋の整理に乗り出すことにした。
亀様がガラクタ部屋と呼んだにふさわしく、部屋には乱雑に物が積み上げられている。
とりあえず、この辺の物を出しちゃおう。
あまり悩むこともなく、扉付近の棚に目をつける。棚から飛び出している長く丸まった紙類が腰を折り、奥への行く手を阻んでいるからだ。
部屋の前の空いた場所に、見つけてきた布を広げて、部屋から持ち出した物を順に並べる。そうしているとアスランの姿がわずかに視界に入ってくる。やはり今もアスランの口角はあがっている。
アスランはソファに腰かけ、広げられた紙を前にしている。紙の横にはペンもあるのだがそれを手にすることはなく、何事かを頭の中に思い描いているようだ。
アスラン様は横顔も綺麗。
細いペン先でためらいなく引いたような強い線がアスランの輪郭を描いている。
どうして自分はこんなに美しい人の近くにいるのか。ただの痩せた蝙蝠が、どうしてこんな幸福の中にいるのか。
お腹は満たされ、空気は暖かく、まとう衣服は柔らか。
不思議でふしぎでならない。
本当に、こんな美しい人とずっと一緒にいられるのかな。本当にいいのかな。本当にずっと続くのかな。
コウは瞬きも忘れてアスランを見つめていた。
アスランはコウの視線が自分にあることを気づいていたのだろうか、ふっとこちらを見て目が合うと自然に微笑んだ。はっとして手にしたままだった紙を落としそうになったのはコウの方だった。
「コウは何か欲しい物はないのか?」
「あっ、僕ですか。うーんと、そうですね……」
欲しいものと言われても困ってしまう。住む場所に恵まれお腹も減っていない、アスランはとても優しいし、今のコウには満足しかなく足りない物はない。
「ではコウはどんな場所で暮らしてきた?」
「えっと……一番古い記憶にあるのが洞窟です。そこが一番思い出深くて好きだった場所です。狭くて暗くて湿っていて、いい場所だったと思います。なにもなければ……ずっとそこに住んでいたと思います」
「何かあったのだな。崩れた……もしや奪われたのか?」
「ある時帰ってきたら、別の蝙蝠が入り込んでいたんです。じいちゃんは小さな頃に亡くなっていて、僕は一人だったので洞窟を守る人もいなかったし、仕方ないです。ただやっぱり、じいちゃんと使っていた物があったから、それを諦めるのに時間がかかりました。とは言っても物といえるのなんて、角灯くらいしかありませんでしたけど……」
あの後、洞窟には何度も足を運んだけれど、いつ行っても誰かの気配があってコウが入ることはできなかった。
それでもじいちゃんの気配を感じたくて、失ったことが認められなくて、未練がましくその周辺で寝泊まりしていた。
あの頃は泣いてばかりだった。僕もまだ小さかったしね。
きっと今が幸せだから、その頃のことを、その頃の自分を冷静に思い出せるのだろう。そうでなければ、こんなことアスランにも言えなかったはずだ。
「コウがおじいさんと住んだ家か……」
「家なんてものじゃなくて、ただの薄暗い小さな洞窟です」
「しかし、大切な思いが残る場所なのだろう」
「そうですね。唯一の明かりになる角灯のことを僕はカンカラって呼んでいて、それが世間の呼び名と同じだと信じてました。角灯がよく滑って落ちて、カンカラと音をさせていたから勘違いしてたんです。じいちゃんと『カンカラまた落ちたよ』って笑った記憶があって……」
そういえばそんなことが日常だったと思い出して、懐かしさとともに涙が滲む。
工場で働いていた時はその日をどうしのぐかで精一杯だったけれど、ここへ来てからは何かとすぐにじいちゃんの顔が思い浮かんでしょうがない。
「決めた。二人の愛の巣をつくるつもりだったが、蝙蝠になったコウが住むための巣を作ろう」
「僕の巣ですか? 僕だけの?」
「私が今作りたいのはそれだ。蝙蝠のコウであればそれほど大きな巣は必要ないだろう。手始めにつくるには丁度いい。蝙蝠の巣には何があれば事足りる?」
「そうですね。屋根とぶらさがれる棒があれば、それだけあれば巣になります」
「狭くて暗いのが好きと言ったな」
「はい。その方が落ち着きます」
「よし、私はコウの巣を作る」
アスランはコウに話を振りながら、ふんふんと機嫌良さそうに手元になにかを書きつけていく。
アスラン自身が使えるものではないのにとても楽しそうだ。
自分の為の巣。それをアスランに作らせてしまって本当にいいのだろうかとは思ったが、ご機嫌なアスランの気分を削ぐことはしたくなくて、コウは遠慮する言葉を必死に耐えた。
一時間くらいはたっただろうか。
入り口から数歩しか入ることができなかったガラクタ部屋には、人がひとり通って奥までいける通路ができた。
そうすると大工道具や、釘や定規なども見つけることができたし。奥の本棚に手が届くようになった。
嬉しいことに本の中には料理本があって、これはいいとコウは取り出し、卓に三冊を置いた。
コウは字が読めない。それでもその中の一冊には詳しい図解が入っていて文字の解説など必要がないほど丁寧に描かれている。
野菜の切り方に肉の処理まで、まるで絵本のようだ。
「あっ……ここにエイの単独語がある。ここにも……こっちは、えっと……単独じゃ繋がらないから、じゃなくて、なんだっけ……」
本の中に知っている文字を見つけてつい嬉しくなってしまい、ひとり言が漏れる。
「これは後ろとくっついて発音が変わる」
「アスラン様!……文字って難しいですね。僕はまだ勉強の途中で、ほとんど読めなくて」
覚えている文字に夢中になっていて、アスランがこちらにやってくるのに気づかなかった。
コウの背中にアスランが重なる。まるでコウをそっと覆うように、腕から手までも囲われる。息が髪にかかる。
ビクリと身を縮めてしまったけれど、それも最初だけだった。
コウは職場の人にもらった本で文字というのを独学していた。だけどまた独立単語が拾えるだけの状態に過ぎない。
コウの周りにきちんと文字を読める者は少なかった。きっとじいちゃんも読めなかったはずだ。
自分の名前さえかければ十分なこともあるし、上層の子供しか教育を受ける機会がない国の識字率は昔から変わらず低いままだ。
それに大陸で多く使われている共用語は一覧表にするととても膨大な桝が必要になる。
補助記号も加えて書かれているとコウの頭は一気に混乱してしまう。だけど勉強をやめようとは一度も思わなかった。
「半分までを覚えたら、あとは自然に入ってくる。それまでの辛抱だ。それで、こっちは発音記号」
「その記号はこっちもあります。くっついて変形したのがこれ、ですよね?」
「正解だ」
「見てください。またエイがありました……ほら、こっちにもです」
二人で開いた本の文字を指さし、一緒に移動させる。小さく細い指を追うように、長く節のある指が追いかける。たまにいたずらな指が絡んでくる。
新しい遊びみたいで時折クスクスと笑い合って、そうしているうちに自然に唇を重ねていた。
コウはカップを洗い布に伏せると、さっそく物置部屋の整理に乗り出すことにした。
亀様がガラクタ部屋と呼んだにふさわしく、部屋には乱雑に物が積み上げられている。
とりあえず、この辺の物を出しちゃおう。
あまり悩むこともなく、扉付近の棚に目をつける。棚から飛び出している長く丸まった紙類が腰を折り、奥への行く手を阻んでいるからだ。
部屋の前の空いた場所に、見つけてきた布を広げて、部屋から持ち出した物を順に並べる。そうしているとアスランの姿がわずかに視界に入ってくる。やはり今もアスランの口角はあがっている。
アスランはソファに腰かけ、広げられた紙を前にしている。紙の横にはペンもあるのだがそれを手にすることはなく、何事かを頭の中に思い描いているようだ。
アスラン様は横顔も綺麗。
細いペン先でためらいなく引いたような強い線がアスランの輪郭を描いている。
どうして自分はこんなに美しい人の近くにいるのか。ただの痩せた蝙蝠が、どうしてこんな幸福の中にいるのか。
お腹は満たされ、空気は暖かく、まとう衣服は柔らか。
不思議でふしぎでならない。
本当に、こんな美しい人とずっと一緒にいられるのかな。本当にいいのかな。本当にずっと続くのかな。
コウは瞬きも忘れてアスランを見つめていた。
アスランはコウの視線が自分にあることを気づいていたのだろうか、ふっとこちらを見て目が合うと自然に微笑んだ。はっとして手にしたままだった紙を落としそうになったのはコウの方だった。
「コウは何か欲しい物はないのか?」
「あっ、僕ですか。うーんと、そうですね……」
欲しいものと言われても困ってしまう。住む場所に恵まれお腹も減っていない、アスランはとても優しいし、今のコウには満足しかなく足りない物はない。
「ではコウはどんな場所で暮らしてきた?」
「えっと……一番古い記憶にあるのが洞窟です。そこが一番思い出深くて好きだった場所です。狭くて暗くて湿っていて、いい場所だったと思います。なにもなければ……ずっとそこに住んでいたと思います」
「何かあったのだな。崩れた……もしや奪われたのか?」
「ある時帰ってきたら、別の蝙蝠が入り込んでいたんです。じいちゃんは小さな頃に亡くなっていて、僕は一人だったので洞窟を守る人もいなかったし、仕方ないです。ただやっぱり、じいちゃんと使っていた物があったから、それを諦めるのに時間がかかりました。とは言っても物といえるのなんて、角灯くらいしかありませんでしたけど……」
あの後、洞窟には何度も足を運んだけれど、いつ行っても誰かの気配があってコウが入ることはできなかった。
それでもじいちゃんの気配を感じたくて、失ったことが認められなくて、未練がましくその周辺で寝泊まりしていた。
あの頃は泣いてばかりだった。僕もまだ小さかったしね。
きっと今が幸せだから、その頃のことを、その頃の自分を冷静に思い出せるのだろう。そうでなければ、こんなことアスランにも言えなかったはずだ。
「コウがおじいさんと住んだ家か……」
「家なんてものじゃなくて、ただの薄暗い小さな洞窟です」
「しかし、大切な思いが残る場所なのだろう」
「そうですね。唯一の明かりになる角灯のことを僕はカンカラって呼んでいて、それが世間の呼び名と同じだと信じてました。角灯がよく滑って落ちて、カンカラと音をさせていたから勘違いしてたんです。じいちゃんと『カンカラまた落ちたよ』って笑った記憶があって……」
そういえばそんなことが日常だったと思い出して、懐かしさとともに涙が滲む。
工場で働いていた時はその日をどうしのぐかで精一杯だったけれど、ここへ来てからは何かとすぐにじいちゃんの顔が思い浮かんでしょうがない。
「決めた。二人の愛の巣をつくるつもりだったが、蝙蝠になったコウが住むための巣を作ろう」
「僕の巣ですか? 僕だけの?」
「私が今作りたいのはそれだ。蝙蝠のコウであればそれほど大きな巣は必要ないだろう。手始めにつくるには丁度いい。蝙蝠の巣には何があれば事足りる?」
「そうですね。屋根とぶらさがれる棒があれば、それだけあれば巣になります」
「狭くて暗いのが好きと言ったな」
「はい。その方が落ち着きます」
「よし、私はコウの巣を作る」
アスランはコウに話を振りながら、ふんふんと機嫌良さそうに手元になにかを書きつけていく。
アスラン自身が使えるものではないのにとても楽しそうだ。
自分の為の巣。それをアスランに作らせてしまって本当にいいのだろうかとは思ったが、ご機嫌なアスランの気分を削ぐことはしたくなくて、コウは遠慮する言葉を必死に耐えた。
一時間くらいはたっただろうか。
入り口から数歩しか入ることができなかったガラクタ部屋には、人がひとり通って奥までいける通路ができた。
そうすると大工道具や、釘や定規なども見つけることができたし。奥の本棚に手が届くようになった。
嬉しいことに本の中には料理本があって、これはいいとコウは取り出し、卓に三冊を置いた。
コウは字が読めない。それでもその中の一冊には詳しい図解が入っていて文字の解説など必要がないほど丁寧に描かれている。
野菜の切り方に肉の処理まで、まるで絵本のようだ。
「あっ……ここにエイの単独語がある。ここにも……こっちは、えっと……単独じゃ繋がらないから、じゃなくて、なんだっけ……」
本の中に知っている文字を見つけてつい嬉しくなってしまい、ひとり言が漏れる。
「これは後ろとくっついて発音が変わる」
「アスラン様!……文字って難しいですね。僕はまだ勉強の途中で、ほとんど読めなくて」
覚えている文字に夢中になっていて、アスランがこちらにやってくるのに気づかなかった。
コウの背中にアスランが重なる。まるでコウをそっと覆うように、腕から手までも囲われる。息が髪にかかる。
ビクリと身を縮めてしまったけれど、それも最初だけだった。
コウは職場の人にもらった本で文字というのを独学していた。だけどまた独立単語が拾えるだけの状態に過ぎない。
コウの周りにきちんと文字を読める者は少なかった。きっとじいちゃんも読めなかったはずだ。
自分の名前さえかければ十分なこともあるし、上層の子供しか教育を受ける機会がない国の識字率は昔から変わらず低いままだ。
それに大陸で多く使われている共用語は一覧表にするととても膨大な桝が必要になる。
補助記号も加えて書かれているとコウの頭は一気に混乱してしまう。だけど勉強をやめようとは一度も思わなかった。
「半分までを覚えたら、あとは自然に入ってくる。それまでの辛抱だ。それで、こっちは発音記号」
「その記号はこっちもあります。くっついて変形したのがこれ、ですよね?」
「正解だ」
「見てください。またエイがありました……ほら、こっちにもです」
二人で開いた本の文字を指さし、一緒に移動させる。小さく細い指を追うように、長く節のある指が追いかける。たまにいたずらな指が絡んでくる。
新しい遊びみたいで時折クスクスと笑い合って、そうしているうちに自然に唇を重ねていた。
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