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8 森の大きな動物
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はっきりと危険を感じたのは、地を揺るがすような、地響きのような唸り声と空気の振動があったからだった。
豚とは違う大きな獣がくる。
本能が危険を感じ取り鳥肌が立ち産毛が逆立つ。
そうは思っても体はビクリとしたまま固まって動いてくれない。動け動けと祈っているうちに、振動は容赦なく近付き、その物体が現れた。
そいつとの距離は目測でほんの十メートル。
そいつは四足で登場したのに、俺の存在に気付くと前脚をあげて大きく伸びた。俺が子供化して小さくなっている事を考慮しても、縦も横も三メートルは軽く超えているだろう。
鋭い目つきに強く睨まれる。
熊だ……
森の熊さん、なんて優しいもんじゃない。鋭い爪をもった凶悪な獣だ。
正確に言えば熊とは違うけれど、表現するならそれが一番近い。熊にしては毛が長く、脚が長すぎる気がする。そしてこちらを怯えさせるようなきつい臭いがする。
そいつは俺を威嚇しているのではなく、襲うつもりで大きな体とは対照的に俊敏な動きで立ち上がったに違いない。
この世界に来た途端、死ぬのか……!
瞬きもできず豚を抱え身を小さくした時、目の前に壁が現れ、一瞬熊の姿が見えなくなる。
ビュッ!
空気を切るような音とともに、体と繋がっていたはずの熊の前足二本が宙で切り離され、飛んでいく。
そしてびしゃっと上から雨が、いや、赤の温い粒が顔に降り注ぐ。
そこから噴き出た血を俺は浴びたのだ。
鋭い切れ味でスパンと脚を切ったのは、細く長い、ひとふりの動きにも刀身をしならせるような剣。そしてその剣を振り切ったのは男。
俺の前にこの男が躍り出て来ていたのだ。
熊の咆哮は空気を大きく震わせ、鼓膜をビリビリと破るように揺らす。
男はそれに怯みもせず、横に移動すると前のめりになり前脚の付け根に近い場所を突いた。男の倍以上の大きさがある熊の体勢が崩れもせず、なおも男に襲い掛かろうとするのは急所を外したせいなのかもしれない。
脚を失い体を刺されているというのが、熊をかえって興奮させたのか、牙をむき出しにして歯ぎしりのような唸り声を上げ男に襲いかかろうとする。
しかし男は素早く剣を引き抜きながら後退し、同じ場所を二度突いた。その男の体も剣と同じくしなやかに動く。
濃茶色のマントの隙間からは、黒のシャツとズボンの上に革でできた武具をつけているのが見える。仰々しいものではないけれど、明らかに日用品ではない。しかし熊と対峙するには心細い装備と言える。
漫画のように素手一本、ナイフ一本で熊を倒すのは絶対に無理だ。
目にはあり得ない光景を映しながらも、現実逃避するようにそんな事を考えていると、熊の巨体が沈み地を揺らした。
震度二くらいの小さな揺れを感じていると、座ったまま腰を抜かした俺の体はようやくブルブル震え出した。
「おいっ、大丈夫か!?」
それに答えることはできなかった。
初めて出会った人類だけど、顔面血に塗れで髭面、油断なく射る瞳。あまりの衝撃に目を逸らしたかったけどできなかった。その奥を確かめようとしてしまったのはどうしてか。
「……だいじょ……ぶ……」
じゃなかった。ほっとする間もなく強烈な眠気に襲われ、頭部がぐらぐらと左右に揺れる。
緊張と興奮で精神が迷走しまだ混乱しているかのようだ。気を失うとは違う状態が俺を襲い、ゆっくりと重くなる瞼が重なる直前まで、俺は瞬きもせず男の顔を見つめていた。
温かい物に包まれてゆらゆらと揺られていた。
抱いてくれているのは……天使か? 自分の失敗した仕事を反省してやってきたのか。
そう思ってしまったのは、俺を包む物から血だけでなくお日様の匂いがしたからだ。それは決して天使の香りに近くはなかったけれど共通する物があった。だからもう安心できる場所にいるのだと思えた。
でも、天使じゃない。
これは、誰かの、人間の腕の中だ。背中に回された二つの腕がしっかりと俺を抱えてくれている。
おっきな手……
俺は力なく腕をかけるだけだった肩にすがりついた。
「起きたのか? もうすぐ宿だ」
俺が目覚めたのがわかったのか声がする。けれど、俺は頭から覆う布を顔にまで被っていて、その声の主を見ることはできなかった。
それに一旦目覚めはしたものの、不規則に上下に揺れるリズムがまた眠りへと誘う。人が作り出す動きは眠りを誘う。遠い昔、俺をこうして眠らせてくれた人がいたのだろう。だから懐かしい。
「眠っていい」
低く落ちついたバリトンボイス。声フェチじゃなくても惚れてしまいそうなイケ声だ。
「……いいの?」
おっ、やっぱり可愛い声。
それが自分の口から出た音だとわかり、そして幼い体に戻っていた事も同時に思い出す。
「なぁ……いいの?」
何がいいのかなんて、言っている自分自身でもよくわからなかった。眠気と疲れとショックで弱くなった頭は上手く回ってくれない。
「いいよ。安心しろ、小さいさん。何があったか知らないが、しばらくは私が面倒を見よう」
「……ありがと」
誰だか知らないが助かった。
自体が好転していることはわかる。俺は怪鳥の泣き声から逃れられ、熊の化物からこの身を助けられた。その上、この人はきっと大丈夫な人だ。
拾った俺をイタズラしちゃうとか、金儲けや何かに利用するなんて事はないだろう。
だって命を助けてくれた。それに、何より声が優しいんだ。
しばらくという期間限定を示す単語がひっかかりはしたが、背中を二度トントンとされると、俺はそれに促され力を抜いた。
子供になった俺には、その広い胸は、とてつもなく大きく深かった。
小さいさんって、俺のことか。
背の低い俺のコンプレックスを刺激する言葉だけど、今だけはそう呼ばれるのが嬉しかった。
小さいさん、もう一回それを聞きたいなって、そう思った。
豚とは違う大きな獣がくる。
本能が危険を感じ取り鳥肌が立ち産毛が逆立つ。
そうは思っても体はビクリとしたまま固まって動いてくれない。動け動けと祈っているうちに、振動は容赦なく近付き、その物体が現れた。
そいつとの距離は目測でほんの十メートル。
そいつは四足で登場したのに、俺の存在に気付くと前脚をあげて大きく伸びた。俺が子供化して小さくなっている事を考慮しても、縦も横も三メートルは軽く超えているだろう。
鋭い目つきに強く睨まれる。
熊だ……
森の熊さん、なんて優しいもんじゃない。鋭い爪をもった凶悪な獣だ。
正確に言えば熊とは違うけれど、表現するならそれが一番近い。熊にしては毛が長く、脚が長すぎる気がする。そしてこちらを怯えさせるようなきつい臭いがする。
そいつは俺を威嚇しているのではなく、襲うつもりで大きな体とは対照的に俊敏な動きで立ち上がったに違いない。
この世界に来た途端、死ぬのか……!
瞬きもできず豚を抱え身を小さくした時、目の前に壁が現れ、一瞬熊の姿が見えなくなる。
ビュッ!
空気を切るような音とともに、体と繋がっていたはずの熊の前足二本が宙で切り離され、飛んでいく。
そしてびしゃっと上から雨が、いや、赤の温い粒が顔に降り注ぐ。
そこから噴き出た血を俺は浴びたのだ。
鋭い切れ味でスパンと脚を切ったのは、細く長い、ひとふりの動きにも刀身をしならせるような剣。そしてその剣を振り切ったのは男。
俺の前にこの男が躍り出て来ていたのだ。
熊の咆哮は空気を大きく震わせ、鼓膜をビリビリと破るように揺らす。
男はそれに怯みもせず、横に移動すると前のめりになり前脚の付け根に近い場所を突いた。男の倍以上の大きさがある熊の体勢が崩れもせず、なおも男に襲い掛かろうとするのは急所を外したせいなのかもしれない。
脚を失い体を刺されているというのが、熊をかえって興奮させたのか、牙をむき出しにして歯ぎしりのような唸り声を上げ男に襲いかかろうとする。
しかし男は素早く剣を引き抜きながら後退し、同じ場所を二度突いた。その男の体も剣と同じくしなやかに動く。
濃茶色のマントの隙間からは、黒のシャツとズボンの上に革でできた武具をつけているのが見える。仰々しいものではないけれど、明らかに日用品ではない。しかし熊と対峙するには心細い装備と言える。
漫画のように素手一本、ナイフ一本で熊を倒すのは絶対に無理だ。
目にはあり得ない光景を映しながらも、現実逃避するようにそんな事を考えていると、熊の巨体が沈み地を揺らした。
震度二くらいの小さな揺れを感じていると、座ったまま腰を抜かした俺の体はようやくブルブル震え出した。
「おいっ、大丈夫か!?」
それに答えることはできなかった。
初めて出会った人類だけど、顔面血に塗れで髭面、油断なく射る瞳。あまりの衝撃に目を逸らしたかったけどできなかった。その奥を確かめようとしてしまったのはどうしてか。
「……だいじょ……ぶ……」
じゃなかった。ほっとする間もなく強烈な眠気に襲われ、頭部がぐらぐらと左右に揺れる。
緊張と興奮で精神が迷走しまだ混乱しているかのようだ。気を失うとは違う状態が俺を襲い、ゆっくりと重くなる瞼が重なる直前まで、俺は瞬きもせず男の顔を見つめていた。
温かい物に包まれてゆらゆらと揺られていた。
抱いてくれているのは……天使か? 自分の失敗した仕事を反省してやってきたのか。
そう思ってしまったのは、俺を包む物から血だけでなくお日様の匂いがしたからだ。それは決して天使の香りに近くはなかったけれど共通する物があった。だからもう安心できる場所にいるのだと思えた。
でも、天使じゃない。
これは、誰かの、人間の腕の中だ。背中に回された二つの腕がしっかりと俺を抱えてくれている。
おっきな手……
俺は力なく腕をかけるだけだった肩にすがりついた。
「起きたのか? もうすぐ宿だ」
俺が目覚めたのがわかったのか声がする。けれど、俺は頭から覆う布を顔にまで被っていて、その声の主を見ることはできなかった。
それに一旦目覚めはしたものの、不規則に上下に揺れるリズムがまた眠りへと誘う。人が作り出す動きは眠りを誘う。遠い昔、俺をこうして眠らせてくれた人がいたのだろう。だから懐かしい。
「眠っていい」
低く落ちついたバリトンボイス。声フェチじゃなくても惚れてしまいそうなイケ声だ。
「……いいの?」
おっ、やっぱり可愛い声。
それが自分の口から出た音だとわかり、そして幼い体に戻っていた事も同時に思い出す。
「なぁ……いいの?」
何がいいのかなんて、言っている自分自身でもよくわからなかった。眠気と疲れとショックで弱くなった頭は上手く回ってくれない。
「いいよ。安心しろ、小さいさん。何があったか知らないが、しばらくは私が面倒を見よう」
「……ありがと」
誰だか知らないが助かった。
自体が好転していることはわかる。俺は怪鳥の泣き声から逃れられ、熊の化物からこの身を助けられた。その上、この人はきっと大丈夫な人だ。
拾った俺をイタズラしちゃうとか、金儲けや何かに利用するなんて事はないだろう。
だって命を助けてくれた。それに、何より声が優しいんだ。
しばらくという期間限定を示す単語がひっかかりはしたが、背中を二度トントンとされると、俺はそれに促され力を抜いた。
子供になった俺には、その広い胸は、とてつもなく大きく深かった。
小さいさんって、俺のことか。
背の低い俺のコンプレックスを刺激する言葉だけど、今だけはそう呼ばれるのが嬉しかった。
小さいさん、もう一回それを聞きたいなって、そう思った。
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