αは僕を好きにならない

宇井

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理解者

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 不機嫌な母親の声が何度も続き、理人は渋々目を開ける。

「理人、起きて!」

 仕事上で気になる事があり、昨夜は布団に入ってからあれこれと悩み始め目が冴えてしまった。ようやく未明になって眠れたというのに、そんな事を知る由もない母親は理人の肩を叩きはっきりと目覚めさせようとする。

 自分の中で蓮への気持ちに区切りがついてから二ヵ月、理人の生活は日常に戻っている。補助食品は買わなくなり、睡眠も取れている。
 しかし、いまだに実家を出ていないので、変わらずこうして母親に不快な思いをさせられている。

「もうっ、さっきから何度もメールして電話も掛けてるのに、何て出ないの」
「寝てるからに決まってる。せっかくの休みなのに起こさないで。ほっといてくれよ……」

 理人は布団から顔を出さないまま不機嫌に答える。朝っぱらから母親の顔など見たくない。
 平日の今日出社していない事は、靴が玄関にあるからわかったのだろう。
 同じ家にいるというのに、まず携帯で連絡を取ろうという気持ちが理解できない。何度鳴らしても反応がないと、足音を立て怒りに任せてやってくるのだ。

「あんた今日は休み?」

 まともな返事をしたらろくな事がないと経験でわかっている。
 先月急な日曜出勤をしたから、平日のこの日に代休をもらった。だが返事せず黙っておいた。

「あのね、さっき西さんから連絡があって、潮南SC店のバイトが無断欠勤したって報告があったの」
「えっ、西さんから?」

 理人はその名前を聞いてようやく上半身を持ち上げた。ベッドの側に立っている母親から、化粧だが香水だかの匂いがする。それだけで気分が悪くなりそうになる。

「朝一の出勤シフトはひとり体制なの。出勤できない時は必ず西さんに連絡をするのが決まりなのに、それがなかったから大変よ。専門店でうちだけ開店できてないって西さんに連絡が入って、それから慌てて店に飛んで行ったって。それでも四十分も店を開けられなかったんだから……」
「それって大変じゃん……」

 うちの店だけ電気が落ちていて商品ネットもかかったままだと、周りのショップから運営に連絡が行き、その責任者から西へと電話が来たらしい。
 でも西だったらその後の対応もきちんとしたのだろう。運営側から改善の指導がこれから来るのだとしたら頭が痛いに違いない。
 高校生になった時から何度か両親の店の手伝いで駆り出されている理人は、そこで知り合った西蒼汰《にしそうた》の事を慕っている。
 西は両親がとても頼りにし目をかけている人物だ。今後自分達が退く時にはきっと西に後を任せるのだろう。
 父親が立ち上げた店は何年も小さな一店舗のみだったと聞くが、今では郊外のスーパーセンターを中心に六店舗を展開している。そのうちの三店舗を任されている西は最も信頼されているパートナーと言っていい。

「だから、今からあんたに行って欲しいの潮南店に。それで西さんと交代してきて。そうじゃないと彼の予定が先送りになって困るのよ。別に体調が悪いわけでもないんでしょう」
「はぁ? 嫌だよ、せっかくの休みにどうして僕が働かないといけないんだ」
「たまには親孝行しても罰は当たらないでしょ」
「孝行なんていつもしてるだろ。家事もやってる。そっちがやってくれる事なんてほとんどないじゃないか」

 仕事帰りに買い出しへ行くのだって、家での掃除や調理も結構な労働だ。そんな事はこれまで散々さぼってきた母親だってわかっている事なのに。
 西が大変なのはわかるが、母親にそんな言われ方をされては素直に頷けない。

「でも、あんたに投資した分はまだ回収できてないわ。高校に大学、幾らかかったと思ってるの」
「そんなの、親の言う台詞じゃないだろっ」

 投資していたとは驚きだ。隣の家の三兄弟を見てから、外も中も出来損ないの僕を見てはっきり溜息をついていたくせに。何者にもなれない僕をとっくに諦め、見栄の為に大学まで行かせたくせに。
 理人は今さらこの人を相手に声を荒げるのは無駄だと思い、苛ついた気持ちは髪をぐしゃぐしゃと掻く事で誤魔化す。

「行かないっていうなら、あなたから西さんに連絡してちょうだい」

 理人が悪いかのように言い捨てると、母親は扉をきちんと閉める事もせずに部屋を出て行ってしまった。
 しばらく階下で母親がバタバタと動き回る音がし、家の鍵がかかり車のエンジン音が響く。それが遠く小さくなった所で理人は起き上がった。
 母親の為じゃない、西さんの為だ。
 理人は急いで着替え家を出る事にした。

 西に連絡を取ることなく理人は店舗に顔を出していた。店内にいるのは西一人で他の店員の姿はなかった。
 会うのは半年ぶりになるだろう。背は高いのにそれを恥じるように少し丸まっているのは昔からだ。

「理人君、来てくれたんだ。副社長から聞いてたけど本当に来るなんて思わなかったよ。よかったのかい? せっかくの休みに駆り出す事になってしまって」
「来るのが遅くなってごめん。こっちは大丈夫。西さんの方が大変だし、ババアに怒られたんじゃないの? ここは僕が店番するから西さんは帰って」

 西の言う副社長は理人の母親の事だ。
 家を出てから電車で一時間かかってしまったが、西は理人の顔をみて驚いた後、とても申し訳ないと言う顔をした。
 母親をババアと呼ぶ理人を咎めず、困った子供を見るように、西は目を細め少し首をかしげた。
 理人が人をきちんと選んだ上でそう発言している事はわかるし、自分に心を許してくれているのは単純に嬉しい。だがずっとこの家族がすれ違っている事実は複雑だ。

「予定は調整したから大丈夫なんだよ。それに副社長に怒られてもいないから安心して。けど、すぐに検討しなきゃいけない課題ができたな。早番のバイトちゃん、フリーターだけどいい子だったんだ。面接一位通過で採用してもうすぐ勤務半年って所で、店開けも任せたばかりだったんだけど」
「その子とは連絡取れた?」

 西は首を振る。

「全然。携帯呼び出しはするんだけど出なくて、何度かけても繋がらない。あれって着信拒否かな。呼び出し音とは違う音がするんだ、ツーツーって虚しいやつ」
「それって酷すぎる」
「でも何となくそういう兆候はあったようなんだ。さっきタイムカードをチェックしたら遅刻が三回続いてる。周りの店にごめんなさいって挨拶しに行ったら、こうやって消える子は珍しくないんだって教えてもらったよ。でも事件や事故の可能性も捨てきれないし、連絡がつくまで心配だ。もし仕事が辛かったなら言って欲しかったけどな」
「もし仕事が辛いとか不満があったとしても、無断なんて非常識。西さんの責任じゃないって」

 西はいつも飄々として、いくら強い風が吹いても穏やかに受け流し決して折れる事がない。それでもやはり大いに慌ててここへやってきたのだろう。
 周りの店に迷惑をかけすみませんと挨拶し、運営に申し訳ありませんと頭を下げ、副社長にお小言のひとつももらったに違いない。それでも西の表情からはその苦労が窺えない。
 西さんって何気に大物なんだよね。
 彼女大丈夫かなと呟く西は、偽りなくそのバイトちゃんを心配しているようだった。
 理人が初めて西に会ったのは、高校に入った年の夏休みだった。
 夏の予定は家業の手伝いを仕方なくする事になり、人手が足りないからと同級生何人かにも声を掛けた。当然その時にはもう知り合っていた楓もバイトに参加した。
 男ばかりを集めたバイトの内容は倉庫内作業。母親はやはり楓が気に入ったようで、昼間でも暗く電灯が必要な倉庫ではなく店舗の店員にと誘ってきた。
 せっかく楓が仲良くなれそうな連中ばかりを集めてきたのに、ここで連れ出されては意味がない。

『楓は僕達と一緒でいいんだよ』

 倉庫事務所の片隅で母親にそう返した。何度かそう抵抗したのに蒸し返してくるのだから、この争いは本当に実りがないと理人は呆れていた。

『楓ちゃんっていいわよね。磨けば光るって感じ?』
『馬鹿らしい。可愛いとか言うなよ。それで喜ぶ男なんていないんだから』
『あんたは本当に小憎らしいわ。本当にどうしてこんな子に育ったのかしら。蓮君までとは言わなくても、楓ちゃん位に可愛げのある息子だったらよかったのに』

 フンっと子供のように鼻を鳴らしそっぽを向いて去ってしまう母親を見送るのが理人の常だった。
 この人からの愛情が望めないことは知っている、だから筋違いにも楓を妬む事はなかった。持って生まれた変えようもない何かに、いくら抗ったところで意味はない。
 そんな母子の場面を目撃していたのが、その当時二十五歳だった西だった。インテリアに興味があり、学生アルバイトから始めて正社員にと声を掛けられた最初の人だ。
 背が高いが体は細く、服の上から見る限り筋肉の存在はない。髪には軽くパーマをあて、いつも鮮やかな色のカーディガンを着ている姿が印象的だった。
 中性的ではあるが見るからに男。一言でいうと店舗イメージあったお洒落な人だった。
 倉庫事務所で初めて会い挨拶をしただけだったが、その後に西は理人を見かける度に気さくに声を掛けてくる。そうでなければ理人は頭一つ下げその場を去るだけで親しくなる事はなかっただろう。
 そしてその時もやはり西はやってきた。

『ねえ、理人君はこの会社を継ぐの?』
『多分、継がないです。親も期待してるようには見えないし、一度もそんな話をした事ないから』
『そうか、それは残念。さっき立ち聞きしちゃったんだけど、店頭に立つのは副社長の言ってたあの子じゃなくて、理人君の方が向いてると思う』

 西は腕組みをし軽い調子で言う。

『だけど僕は、多分接客とか無理だと思います』
『それはどうかな、何事も試してみないとわからないよ。それに私が一緒に働きたいと思うのは理人君の方だから』
『それってどんな根拠で?』
『どんなって、そんなの説明できないよ、ただの勘だし。どうせなら楽しくお話できる子と働きたいし』
『何ですかその適当さ』

 自分より大人であるはずの西がいつもお茶目に笑うから、最初は警戒していた理人もいつしか心を許していた。
 親の仕事に関わる人だから何か裏があって近付いてきたのかと思えば、まるっきりそれを感じないのだ。

『だけど本当に店に出てみなよ、人も足りないし。倉庫の方が週末までなら、その後は私と一緒に店舗スタッフ。夏の間に稼げるだけ稼いだ方がいい』

 そんな誘いがあって、理人は一年生の夏のバイトを延期する事になった。母親への交渉は西がしてくれる事になり、それに関して母親から特に何も言われなかった。

 西は優しかった。理人には店舗対応だけでなく、慣れてきた所で裏方の発注業務や売上げ計算までもさせ、ディスプレイの相談までしくる。
 家業への理解を深め、親子の溝を埋める手助けになるだろうと、西が気をきかせてやった事だろう。せっかくの気持ちだったが、その後も家族関係は変わる事はなかった。
 しかし西の言う通り、やってみなければわからない事があると理人は知った。バイヤーの仕事の遣り甲斐を聞いて少しはインテリアにも興味を持てた。
 蓮を兄と表現するのなら、西は年に二、三度会う従兄弟という距離感だ。
 その後は長期の休みに入る度に西から連絡が来るから、西を通してバイトをするようになった。たまに打ち合わせや懇親で西が家へやってくる時には、理人は必ず顔を出して言葉を交わした。
 何年経っても西はやはり細い体で、相変わらず好んでカーディガンを着用していた。何でだかそんな事に安心して、つい笑ってしまっていた。
 西の管理する店舗は型にはまらず遊び心がある。
 存在感のあるどっしりしたレザーソファー、複雑なカットが照明に光るシャンデリア、何気なく置かれた小物は西の感性で配置されている。じっくりと時間をかけて店内を回ることになって、手をのばしてしまうのだ。
 平日午前の店内にはまだ人の姿はまばら。理人は手にしていた鞄を窮屈なバックヤードに置き、レジ横でパソコン操作する西の隣に立った。

「僕、会社に副業届け出してないんで、あまりここから出ないようにします。万が一見つかったら困るし」
「かえって見つかった方がいいんじゃない? そうしたら一緒に働く仲間になるし。できたら私の右腕になってもららいたいな」
「嫌ですよ。頑張って内定もらった会社なんですから。それに仕事は楽しいし」

 西は理人が嫌悪しない程度にからかってくる。話ながらも手はキーボードをタイプしていて器用だ。

「見つかっても家業手伝いだからいいだろう。もう少ししたら午後勤の社員が来るから、そこまでいてくれると嬉しいな」
「わかった。一緒に昼食する時間は取れる?」
「もちろん、その為にいてほしいんだよ」

 西はふと何かに気付き笑いを収める。

「あれ、気のせいじゃなくて、理人君、細くなったんじゃない?」
「そう? たまに言われるんだけど、まあ、失恋のせいかな」
「失恋っていうと隣のお兄さん、蓮君?」
「そう。蓮さんと楓に振られて、ついでに黒崎さんにも振られた。でもショックで食べられなかったのは最初だけで今は普通だよ」
「そんなに沢山の人にふられたの? ん、待って、楓君にも?」
「そうだよ」

 西には過去に蓮への恋を聞いてもらっていた。
 出会ったその日から好きになった事、学力が追いつかず同じ学校へ行けなかった事、蓮が推薦した会社へ入社できた事。
 恋愛話をするのが苦手な理人だったが、西は決して冷やかすような事をしないから、安心して話す事ができたのだ。
 楓との事、学校での悩み、西に聞いてもらった話は数えきれない。
 黒崎についてはここで初めて出した名前だが、西は敢えて掘り下げてこなかった。

「うーん、三人にふられたって何があったのか気になるよね。振られたって言うけど本当にそう? 理人君の事だから、ただの傍観者であって当事者ではなかった、なんて事ない?」

 西の言葉は強かった。口調もそうだが、中身もそう。
 たしかに理人は傍観者に近かった。蓮に告白もしていないし、楓に本音をぶつけてもいない。黒崎に至っては……よくわからない感情で動揺してしまっただけとも言える。
 てっきり慰めてくれるだろうと思っていた理人は、ぽかんと西を見つめる。

「ごめんね。理人君は肝心な時に口下手になって感情を押し込むから。それに自分で自分を追い込むのが得意だよね」
「うっ、西さんには何でもお見通しで怖いよ。僕は大事な事を何も告白できなかった。好きな人がくっ付くのを黙って見てただけ。それで苦しくなって塞いでた」
「もっと自分に自信を持っていいのに」
「そんなの無理だ。変われる方法があるなら変わりたいし、あるなら実践してる。どうしたら気楽に生きられるのか、鋼のメンタルが持てるのか、誰でもいいから教えて欲しいよ」

 西に心配をかけ過ぎないよう、理人は最後に笑ってみせる。
 こんな風に笑う理人を見てもう何年だろうと西は思った。
 理人は出会った頃から変わっていない。親に対して言いたい事は言っているようだが、抱えるストレスの中身は変わっていない。
 外へ出ればしっかり者のイメージが強いのだろう。でもその内側は脆くできている。
 西に弱音を吐いた後も、最後には自分は大丈夫だと笑って訴える。本当は大丈夫でも何でもないのに、つい強がってしまうのが癖になっている。

「……君は何もしなくていいよ。変わる必要もない」
「でも、ここは年長者として僕を叱咤する場面じゃない? だって僕は勝手に傷ついて泣いて、人を妬んで恨んでたんだよ」
「私は叱咤するなんて柄じゃないからね。それにそんなの普通の人間だったら当たり前にする事でしょう。最も人間らしい感情だ」
「そうなのかな……」
「性格なんてどうあっても変えようがないと思うよ。表面上では装えるけど、根っこの矯正は無理だろう。人生が狂って錯乱して血を吐くほど大きな事件でもなければ変わらないよ。もしかしたら、それでも変われない」
「やっぱりそうだよね」
「だったら、今のままでいい。少なくとも私は、今の理人君のままでいてほしい。別人の違う理人君になっちゃったら寂しいな。でもずっとストレス抱えるのはこうして体にも影響出ちゃうから、悩みの種はすぐに手放すようにしようね。今現在も理人君は、大きな何かを抱えたままなんだろう」

 自分としては何もかもすっきりと終わらせたはずでいるのに、そうではないと体からサインが出ているのだろうか。
 理人は自分を悩ませている物を突き止めるように、西の後ろの景色に視線をやる。
 しかし西が顔を動かし無理に視界の真ん中に入ってきて、口角を上げにっこりほほ笑んでくる。角度をかえて逸らしても回り込んで入ってくる。

「……西さん、何がしたいの?」
「私の笑顔で、理人君を元気づけようとしてる。ここはお店、難しい顔をするのは許さないよ」

 三十過ぎた男のやる事にしては幼稚すぎて、でも可愛らしすぎて、理人は思考に入るのをやめにした。
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