αは僕を好きにならない

宇井

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夜の続き

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 酒を半分残して店を出ると黒崎が立っていた。

「お前、トイレ長すぎ」
「トイレじゃないし……それより何で黒崎さんがいるわけ」
「どうしてだろうな。あのまま帰るつもりだったのに、気になって引き返してきてた」

 初めて会って泣いて、トイレに逃げ出した時と同じように、理人が驚いているのも想定内だと言う様に笑っている。
 この人には全てを知られている。自分の蓮に対する思いも、そして楓との関係も、過去にあった事も、そして泣き顔も、恥ずかしい部分も。誰よりも知られているのだと思うと、今さら取り繕う事はないのだろう。

「ずっと待ってたとか?」
「すごく待った」
「蓮さんとどうなったか、気になった?」
「まあな」
「せっかく時間を作ってくれたけど、僕はへたれだよ。お酒一杯ご馳走されて終わり。蓮さんには何も言えてない」
「別に、理人が気持ちに蹴りさえつけられたら、中身なんてどうでもいいだろうが」

 適当な言い草に笑いだしそうになってしまう。

「黒崎さんは弱った人間がほっとけないんだね。この前だってそうだった」
「そうかもな。今回は俺が勝手に誘導した責任もあるしな……なあ理人、これからちょっと付き合ってくれるか?」

 付き合うのはいいけど、どこに行くのだろう。この前みたいにホテルに直行なのはちょっと、と戸惑うが、すぐに思い直した。
 自分は楓とは違う。相手をされてもあの一回がせいぜいだ。この誘いに大きな意味などない。

「いいよ……あ、でも、やっぱり……帰ろうかな」
「どうして、時間はあるんだろ?」
「あるといえばあるけど……」

 黒崎と二人きりになるのは、蓮と二人きりになるのとは別の意味で緊張感がある。
 理人の中を過るのは、あの時自分を見下ろしていた黒崎の顔と、恥ずかしげもなく晒した自分の痴態だ。
 気持ちよくて喘いで、最後はキスまで強請った。
 あーっ! だめだ、思い出すなっ!
 恥ずかしくなって俯くのだが、理人の赤くなった耳は丸見えだ。

「あ、何か変なこと思い出した?」

 黒崎は何か言いたげにニヤリと笑う。
 まさか頭の中まで丸見えになるはずもないのだが、態度にでも出ていたのかと焦る。

「ち、違うっ。絶対違うから。何も思い出してないからっ」
「ふうん、そんなに赤くなって否定する事って、俺達の間に何かあったっけ?」

 理人がむきになるほど黒崎は愉快そうにする。遊ばれている事にそこで気付くのだが、上がってしまった心拍はそうそう収まらず、それどころか顔も紅潮していく。何だか心の内を見透かされたみたいで恥ずかしい。
 本当に黒崎という男には調子を狂わされてばかりだ。

「理人、少し飲み足りないだけだ。この前は酒をかっくらうって約束したのに、できなかっただろ、奢るよ」

 冗談は終わりだと黒崎に二回腕を軽く叩かれ、理人はその背中に続いた。
 着いた場所は、華やかさに欠ける古びたペンシルビルだった。飲食店が多く入っているのだろう。看板が幾つも掲げられている。
 黒崎は歩いている途中に何度か上半身をひねり、理人が付いて来ているか確かめていたが、店の扉の前につくと、先に理人を促すようにそっと背中を押した。

 大きくはない店だ。顔を動かす必要もなく店内は見渡す事ができる。カウンターの上には光量を絞ったライト。酒の並んだ棚も間接照明で幻想的に照らし出されている。
 ビルは古くとも、最近手を入れたばかりの店だとわかる。一部の壁が鏡張りになっていて、店内が映りこみ奥行を感じるようになっている。
 客はテーブル席に二人だけ。残りのテーブルが二つ空いているから、理人はそこに行きたかったのだが、黒崎はカウンターへと腰を下ろしてしまった。

「あら、久しぶり」

 男性らしいしっかりした体を持つ店主が黒崎に声を掛ける。見た目は三十代のごく普通の男性だが、口調は若干女性に寄せているようだ。唇が艶めいているのは色の薄いリップをしているからだろう。
 黒崎はそれに笑顔で答え、何を飲むかと理人に聞く。
 困った。
 バーと言われる場所に来るのはこれで二度目だ。酒好きでもないからこれまでビール一辺倒できた。別にビールを注文しても構わないのだろうが、それでは面白味がなさすぎだろう。
 さっき自分が店で飲んだ甘い酒は何という名前だったのか、今後の為にも店員に聞いておけばよかったと後悔する。

「俺と同じだとビールになるけど?」
「うん、同じで」
「迷うのも面倒な時はいつもビールなんだ。クラフトビールは美味いし、市内で作ったやつがここで飲めるんだ。珍しいだろ?」

 早速グラスがやってきて、無言で乾杯する。口をつけてすぐに、いつもの良く知る味わいとは違う事がわかる。

「ちょっと、苦い?」
「香りは爽やかだから裏切られる。この苦みが段々癖になるんだ」

 黒崎はそう言って、長くグラスに口を付けている。みるみるうちに減っていく液体は、当然黒崎の体内に入っている訳で、豪快に飲む黒崎の姿に理人は驚いた。一気に量が半分まで減っている。
 場所が洒落ているからと言って、畏まることはないらしい。理人も黒崎を見習ってピッチを上げる。もうさっきのカクテルで下地は出来上がっているのか、泡がすんなり身に染みるようだ。思ったより胃に負担を感じない。

「やっぱり、おいしい。これ」
「こっちも口に入れとけ。がっつり食べた後だからあまり入らないだろうけど」

 黒崎は銀色の器に盛られたナッツを差し出す。理人は儀礼的にひとつを摘み、ポリポリと齧った。
 そう言えば、食べた後だった……
 途端に胃が重くなったのは、無言で食べ続け完食した肉を思い出したからだ。それまでは別の事に意識がいきすぎて、自分が食事をした感覚を失っていた。
 久しぶりに胃の膨らみを意識をするが、せり上がるような気持ち悪さがないのは救いだ。
 そこから黒崎との会話はなくなってしまったが、静かに肩を並べて飲むのは、四人での食事より窮屈ではなかった。
 グラスが空になると、黒崎と相談し次の一杯を決める。
 理人は自分の限界を確かめた事はなく、知ろうと思った事もないのだが、今晩はそれを試すような量を飲む事になった。
 ビールは最初の一杯で終わり、カクテルに変わる。
 ふわっと軽くなった頭の中で、理人はその色の美しさに酔う。
 理人よりピッチが速いはずの黒崎は、まるで飲んでいませんとでもいった澄ました顔をしている。一方理人は顔にも体にも出ていて、気持ちも軽くなっていた。
 辛い事から逃げるようにアルコールを頼ってしまえば自己嫌悪に陥るだろうが、隣に人がいるだけで孤独が薄くなる。たとえ飲みすぎて潰れたとしても、面倒見のいい黒崎は自分を置いて行かないだろうと言う甘えも少しはあった。

「理人、これで最後にしよう」
「……うん……そうだね……」

 黒崎の二度目の苦言に理人はこっくり頷く。
 酔っ払いになっても素直な理人に黒崎は優しい目を向ける。カウンターに片肘を置き、体を理人に向けた。

「なあ、どうする。終電はもう出たそ」
「帰れます。歩くの好きだし……」
「お前、どれだけ歩く気だ」
「頑張るし……」

 ククッと黒崎は喉をならす。この理人の状態で家まで歩くとなると、どれだけ頑張っても夜が明けるだろう。もしかしたら、途中で自動販売機の隙間にでも入り込んで眠ってしまうかもしれない。

「何だかんだ、ここは朝までいさせてくれるから、それもいいぞ」

 勝手な事を言う黒崎に店主は適当な事を言うなと目を向けるが、黒崎は相手もせずに流してしまう。

「泣き言でも愚痴でも聞く。ここまで酔えば話せるだろ」
「うん……沢山あったはずなんだけどね、なんか……忘れちゃったかも」
「そうか。聞き出すにには遅かったか」

 酔いに任せて淀んだ思いが出てくればいいのに、理人の場合はそれでも頑ななようだ。
 それよりも顔が近すぎるだろうと、黒崎は理人のまっすぐな視線にたじろぎそうになっていた。
 さっきからずっと理人が息の触れそうな距離で、何が面白いのか顔だけをしつこいほどに見つめてくるのだ。しかし理人本人にはそんな自覚はない。

「ねえ、さっき蓮兄と喧嘩してなかった?」

 やはり見ていたのかと言いたげに黒崎は口を歪める。もっと動揺すればいいと思ったのにあまり変化は見られず残念だ。

「ちょっとした言い争いだ。長い付き合いだしあの程度は珍しくないさ」
「友達なのに? 僕は楓と険悪な空気になった事ないのに」
「それもある意味凄いな。俺たちの場合は目指す所が違うからライバルではなかったけど、あいつはどんな問題も難なくこなすから、学生の頃からとにかくカンに触る存在だった」

 昔を思い出したのか、黒崎は含み笑う。

「じゃあ、今は違うの?」
「それでも胸クソ悪い時はある」
「複雑だね……」

 やはり別の世界にいる二人だと改めて思う。
 二人とも賢い大人のはずなのに、何を争いの種にして口論になるのか、それほど熱くなるのかわからない。
 そういえば終電がないと言っていたが何時だろう、と理人は今頃になって腕にある時計の針を見る。
 しかし棒の作る角度がわるだけで、数字が入ってこない。そういえばさっきも同じ動作をした気がする。
 近い記憶から順にぽろぽろと零れていってしまうのは何故だろうと、理人は指先でごしごしと眉間を擦った。
 何が面白いのか黒崎は理人の顔を覗きこんでくる。さっきとは逆だ。
 黒崎は夜が更けても男前のいい顔をしてる、普通はもっと崩れるだろう。この男の欠点はどこにあるのか見つけてやろう。
 二人はしばらく見つめ合う形になった。

「ねえ、黒崎さんはさ……一度寝たら終わりなの、二度目はないの? こういう店で夜な夜な相手探したりしてるの?」

 ぼやっとした理人から飛び出した台詞に黒崎は面食らう。

「理人の中で俺は遊び人とか、やり捨てとか、そんな鬼畜設定なわけ?」
「……そっか、黒崎さんみたいな人の事を、鬼畜って言うんだね」
「違うだろ、俺は鬼じゃない。思い出してみろよ、俺はあの時優しかっただろ?」

 否定されない自信があるのか、黒崎は余裕のある口ぶりだ。それが気にいらず知らずに理人の口が尖る。

「優しい人はあんな事しない……お風呂場でとか」

 湯気でむせる浴室、あのバスタブで一人いかされたのは恨みの方が勝る。理人は黒崎の胸を背に、やめてくれと懇願し、音が響く中であられもない声を出すはめになったのだ。

「嫌だったか?」
「嫌だよ。いじめられてるのかと思った」
「だったら今度はしないから」
「うん、そうして」

 今度などないのだから、理人はさらりと返事をする。

「誰がお前に触れているのか、はっきりさせたかったんだ。もし蓮と間違えられたらたまらない。あの時は理人が、手つかずでまっさらってわかって……悪戯心が起こったんだ」
「いたずら……」

 あれは悪戯だったのか。
『蓮は本当に理人を大切にしてきたんだな』
 そう理人に告げたのは黒崎だった。その時は何とも思わなったけれど、今それを思い返すと意味が違ってくる。
 蓮が大切にしてきた存在である自分。だから、俺が穢してやる。どんなものか味見してやる。言葉の続きをそう穿ってもおかしくはない。
 黒崎は蓮と仲が良いといえ、少しの憎らしさを互いに持っているのだ。
 僕は、蓮兄の弟だったから抱かれた。そんな価値があったから抱かれた。
 その事で黒崎は蓮に対して秘かに優越感を抱けるだろう。自分はその為の道具だったのだ。
 理人の思いはおかしな方へと走っていた。
 違う……だめだ……
 どうしてこうも自分はマイナス思考なのだと嫌気がさす。その考えは黒崎にも失礼だ。
 失礼すぎる……
 さっきから襲ってきている眠気にも抗っているのだが、瞼がゆっくりと降り白目になってハッとして首を振る。
 そんな理人の顔を肴に、黒崎はゆったりと酒を含む。

「眠いか?」
「うん。すごく、疲れたし、今日は。どうしてだろう……すごく……一人になりたくない。一人は、嫌だ……眠りたくない。考えなきゃいけない事もいっぱいあるのに」

 ようやく出た理人の本音は、小さくつぶやかれるのに助けを求める悲鳴のようだった。

「考えるって何を」
「家を出るつもりだけど、まだ動けない。比賀さんちとも縁がなくなって、蓮さんにも会わなくなって……そこに……楓が来ると思うと怖い。僕だけの場所が取られて、なくなって……本当に、ひとりぼっちになるようで、怖い」

 お前はひとりじゃない。もし今それを黒崎が告げられたとしても、理人は納得もしないし満たされもしないだろう。
 現実理人は、たった一人なのだ。小さな頃から一人で懸命に立ってきた。そこに蓮と言う支えが現れたのに、友達に攫われてしまった。それも、何でも持っているはずの親友にだ。

「楓とはずっと友達だった。これからもそう。だけど……あいつが羨ましくてしょうがない。友達なのに、本当は憎くて仕方ないんだ。僕は……楓になりたい……僕なんて存在を消して……楓になりたい……」

 苦しげに絞り出すような声に、黒崎の心までぎりぎりする。

「さっきだって、せっかく黒崎さんが時間作ってくれたのに、何も言えなかった。好きだって本当は言いたかった。でも言えなかった。僕は、蓮さんの前ではいい子でありたい。蓮さんを困らせたくない。見捨てられたくない……この年になっても、そう思われていたいんだ」

 ここには蓮も楓もいない。だったら楓の悪口を幾ら言ってもいいのに理人はそうしない。
 ずっと蓮を好きだったのは自分だ、それを横取りするのかと詰め寄ってもいい。それでも友達なのかと責めてもよかったのだ。
 それでも理人がそんな事を口にする事はないのだろう。蓮に対して思いを口にする事は一生ないのだろう。それができない理人が憐れに見える。
 理人は自分が何を言っているのかわかっているのだろうか。楓の名をつぶやいて謝り涙を流した。

「可哀想にな。今夜は酔わせて発散させるつもりだったのに、お前はどこまでいっても礼儀正しい、いい子だ」

 黒崎はそう言うと、理人に唇を重ねた。
 何が起こっているのかわからなかった。ここは二人きりの密室ではない。店内には理人達と同様、終電に乗らなかった客が多く残っている。
 それでも、理人は受け入れるように目を閉じていた。
 そうだ、黒崎のキスはこんなだった。触れた瞬間に思い出していた。
 唇はすぐに離れてしまったのに、まだ互いの鼻先は触れあっている。
 目を伏せた理人のまつ毛を黒崎は目を細めて見ていた。そして、そこから潤み香るような色に引かれ、またそっと重ねる。

「……い、や……」

 それが本心かはわからなかった。でもそれを言っておかなければ、理人は自分が傷つくような気がした。
 黒崎に首に手をまわされると、理人は拘束されているかのように動けなくなる。だからそれは好都合だった。自分に言い訳ができる。
 これは自分の意思じゃない。黒崎に無理矢理されているのだ。
 後頭部を固定され、ちゅっちゅっと重ねるだけのキスを数えきれないほどにされる。
 顔の角度を変え、時に頬と頬をすりあわせれば、それがキスの代わりになった。
 黒崎の唇からは知らない酒の味がする。しっとりと柔らかなそれが唇の端に触れ、頬を撫で、耳を食む。
 早く戻ってきて欲しいと目じりが震えると、悲しみごと封じるようにまた優しく押し付けられた。
 ここが店の中、そしてひと目があるせいか、黒崎はその先を仕掛けて来ない。唇を薄くあけ迎え入れようとしても、黒崎はそれを素通りするのだ。でも理人はそんな戯れのようなキスに夢中になった。
 理人は黒崎とのキスしか知らない。それでも、これほどの心地良さを与えてくれるのはこの世界で黒崎しかいないと思った。
 いつしか理人の手は黒崎の鼓動の上にあり、その手を黒崎が上から包んでいた。
 トクトクと心臓が刻む音はさっきまで黒崎の物だった。そうだったのに、手の平から流れ込んできたリズムが自分の中で同調し膨張し叩いてくる。
 側頭部の髪を後ろへ撫でつけられ、うっとりとしてしまう。理人の唇の隙間からふわっと吐息が漏れ、とうとう理人は半ば意識を失うように、黒崎の胸のなかに倒れ込んだ。
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