αは僕を好きにならない

宇井

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黒崎の誘い

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 朝より酷い。
 洗面の大きな鏡の前でがっくりした。
 目も鼻の天辺も真っ赤。このままじゃ普通に道を歩くのも恥ずかしい。
 気持ちを切り替えるんだと、豪快に顔を洗って拭って、服までびしゃびしゃになるが構わない。
 楓が押しかけてきて、蓮との姿を見せつけられた。それだけでは済まず、黒崎にも散々な事を言われたのだ。最後のは和解なのか何なのか……とにかく、踏んだり蹴ったりとはこの事を言うのだろう。
 まさか、こんなことになるなんて……
 鏡の中の自分としばらく見つめ合っても、理人の顔は心をどこかに置いて来ているような、ぼんやりした輪郭をしていた。


「なっ、なんでいるんだよ」

 水滴を適当に拭いトイレを出ると、壁に体を預け人待ち顔だった黒崎に遭遇した。走って振り切ってきたし、何より黒崎が後を追ってくるとは想定外だ。

「何でってそりゃ、理人を置き去りにしたって蓮に知れたらどれだけ怒られるか。それに、俺たちだってデートしてる最中じゃない?」

 さっきまでの事なんて無かったかのように、やけに明るい黒崎に言葉を失う。

「デートって言うけど、黒崎さんって、ゲイなの?」
「ゲイじゃなくてバイ。どっちもいける俺と蓮って得だろう」

 得意げに笑ってるこの人って本当に能天気だ。
 ちなみに僕はゲイじゃない。蓮さんが好きなだけだ。自分の嗜好がどれに当てはまるかなんて考えもしてこなかった。

「理人って可哀想だよね。中身はこんなに弱いのに、どうしてみんな、気付かないんだろうな」
「そうだろ。そう思うなら、少しは優しくしろよ」

 散々言われた恨みもあって、下からになるが睨みつけてやる。

「わかった。だったらちょっとだけ、蓮の事も、楓の事も、忘れてみよう」
「忘れられるようなこと、何かあるの?」
「ああ、昼間から酒かっくらって……その後でホテル、行ってみる?」

 黒崎の不思議な問いかけに、理人はただ黒崎を見上げる。
 この人、ホテルって、言った。
 すうっと黒崎の顔が近付いて耳元でそっと囁く。

「俺が、忘れさせてあげるよ」

 艶のある声に首の後ろがぞくりとする。
 ホテル。
 言われた事の意味をようやく理解して、頬が発熱するのがわかった。こんな事を言われ誘われるのは初めてだ。
 実は恋人ができた事がない、遊んだ経験もない、理人はこの年にしてキスさえ未体験の童貞だ。

 冗談?
 じっと黒崎の顔を見つめるけれど、その顔に笑いはない。真剣な顔は決して理人からぶれない。
 黒崎がなかなかのイケメンだと言う事に、理人は今になってようやく気付いた。
 何で、気付かなかったんだろ。
 先入観もあって軽いイメージしかなかったが、黙った黒崎の顔は冷たい印象が強い。
 一重だけと小さくない瞳、幅がない高い鼻、薄い唇。立体的に遊ばせている髪がばっちり似合っているのが小憎らしい。仕事をする時はその髪も下ろしているのだろうけれど、その姿だって人に溜息をつかせるに違いない。
 それに対して僕ときたら、ただのキツイ猫顔の平凡。冷静に見れば僕は黒崎さんともつり合っていない。
 僕なんかでいいのか……でも、誘ってきたのは彼だ。
 男同士のセックスなんてドライなんて事は聞き知っている。楓だって高校を卒業してから簡単に経験した。だったら……僕だって……
 迷いはすぐにふり切れた。
 何の気紛れかは知らないが、自分を誘うような真似をする人は、この先もう二度と現れないかもしれない。

「……いいよ。連れてって」
「うん、了解」

 伏し目がちにそう言うと、黒崎は拍子抜けするほどあっさりとそう返事をした。
 冗談に決まってるだろうと否定されれる事も予想してただけに、理人はほっとして息を吐いた。
 ここでまた馬鹿にされるような事を言われたら、きっと立ち直れない。

「じゃあ、早速行こうか」
「え、どこに?」
「どこにって、ホテルでしょ」
「あっ、そっか」
「理人って、面白いよね」

 黒崎はニヤリと笑い腕をつかんで、ぐいぐい引っぱって行く。
 辿り着いたのはタクシー乗り場で客待ちの空車に押し込まれる。理人にのしかかるようにして黒崎も乗りながら口を開く。

「運転手さん、ラブホテルに行ってもらえます?」
「ここからっていうと、十九号線の向こうに洒落た新しいのがあるし、あとは近いけど古くて安い所が」
「そこに行ってください」

 安さにでも食いついたのか、きっぱりと言い放つ黒崎。まずはお酒じゃないのかと、理人がつっ込む暇はなかった。
 ラブホの話、しかも男同士のカップル。しかも今は昼間だというのに、運転手も慣れたものなのか顔色も変えていない。黒崎も堂々としているし、何も喋っていない理人のほうがよほど照れている。
 動き出した車内、手の甲に黒崎の温もりを感じる。やがてそれが恋人繋ぎになったのが気になったが、これがムード造りの一環だとしたら文句は言えなかった。

 流れる景色を見るともなしに見ていたら、タクシーは数分でタイル張りの建物の前に止まる。
 そして、理人はそれを見上げる隙も与えられないまま、中に連れ込まれて足がもつれそうになった。

 室内は古くさいって一言で説明がつく。なるほど安いはずだと納得がいく。
 設備は入れ替えられているらしく、この部屋には不釣り合いなほど大きなテレビが壁に掛かっている。スリッパやリネンは清潔そうで、ひとまず安心した。

「ラブホテルって初めて」

 この台詞が自分ではなく黒崎から出たことに驚いた。一瞬気の抜けた自分の声が漏れたのではないかと錯覚しそうになったほどだ。
 この人も初めてなんだ。だけど、経験は豊富そう。真っ先にお風呂にお湯を入れてくる所とか、手慣れてる感じ。何となくだけど。

「ねえ、面白いボタンがあるから、おいで」

 子供のようにうきうきした様子を隠さない黒崎が手招きする。もちろん理人も色々触りたいし、気になるので意地を張らないでおいた。
 ベッドに腹這いになり、ピローの上のパネル部分に指を当てる黒崎。ボタンの数はそれほどなかいが、そのうちの一つを押すと、ごく普通の電球色の照明に変化が起きた。

「ピンク色……」
「これって肌を綺麗に見せる効果があるんだ。ほら、理人の肌がすごく艶っぽくてエロい」
「……そんな事、言うんだ……」

 相手が恋人でもなくても……
 その細い指先が理人の頬を掠める。

「ああ、まずいわ。暴走しそう。理人ってさ、初めて?」
「うん……ごめん」
「謝る必要はないだろう。そうか、やっぱり理人は蓮に大切にされてきたんだな。だったら、普通にしようか」

 蓮に大切にされてきた。でもそれは弟としてだ。その事実に影が差しそうになるのを誤魔化すように、声を意識して高くした。

「普通って?」
「このまま押し倒してもいいけど、きちんとお風呂入って綺麗にして、それからの方がいいだろう?」

 脱いで、シャワーを浴びて、この人の前で裸になる。
 黒崎の言う手順を自分達がするのだと置き換えると恥ずかしすぎて、口許を押さえ視線を外してしまう。
 理人は当然の反応をしただけなのに、黒崎が思わずといった風に噴き出した。

 理人はこれで蓮をふっきる事ができるとは思っていない。
 ほんの少しの出来心に好奇心。
 楓も知っているセックスを自分も知ってみたいとチラリと思った。経験する最初で最後の機会だとも思った。
 でも、どうして僕はここにいるんだろ、この黒崎さんと……
 理人は黒崎の笑顔を見ながらふと我に返り、名前と年齢しか知らない男に戸惑いを見せる。

「あの……やっぱり……」
「理人。風呂に入ろうか」
「あ……えっと……うん……」

 理人が言いだす内容を遮り封印するように、黒崎が笑顔ながらも強く言葉を乗せてくるから、やっぱりやめにして帰りたいとは言いだせなくなってしまった。
 つい数十分までポンポンと言葉を交わせていたのは、理人にとって異常な事態であって、頂点にまで興奮していたからだ。
 普段の状態の理人なら蓮の友人である人に対して、あそこまでヒートアップしない。

「理人、緊張しなくていい」
「うん」

 理人の緊張を解く方法をもうこのい男は知っている。
 髪を撫でられ、大丈夫大丈夫と、呪文のように言葉を乗せられる。

「初めては誰にでもある。セックスなんて、誰でもしてる」
「……そう、だよね」
「そうだよ。それに俺は、とびきり優しくする。後悔させない」

 黒崎はもう笑っていなかった。
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