うたかた謳うは鬼の所業なり

源蔵

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二鬼 輝は今日も走る4

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 彼は、その日ふらふらとそこに現れた。

 卵を落としたら、即座に目玉焼きが出来そうな灼熱の黒い黒い地面に焦がされ、彼は舌を出しながら熱さに耐えていた。

 別に何か用事があってそこに来たのではない。

 ただ、なんとなくふらふらとそこに近づいてしまったのだ。

 基本的に、彼は論理で行動しない、きわめて動物的に……己の勘に頼って生きていた。

 彼は暑さに弱かった。

 寒さに強いと言うことでもないが、とにかく茹だるような暑さの前では無力にも等しい存在となる。

 したたり落ちる汗は、アスファルトの上に落ちた瞬間に消滅していた。

 着ているものは、最小限であり、元々清潔感があったはずの白いポロシャツさえも、ぐっしょりと濡れて見る影もない。デニムのハーフパンツにいたては、元々薄い色のはずだったのに、黒く変色している。

 完璧に整えられていたヘアースタイルだって、汗でぺしゃっと哀れにもつぶれさっていた。

 では、彼はどうすればいいか?

 普通に考えて、暑さに弱いのだから、すぐに涼しい家に帰ればいいはず。だが、彼はそうはしなかった。

 何故かは分からない。

 いつだって、自分の胸の内に走る衝動によっては彼は行動している。だからこそ、それが今彼を地獄へと脚を進めさせている。

 何故かは知らないが、彼はここに来なければならない。

 そんな焦燥感とも取れるような観念が彼の心を支配していた。


 そして、それは結果として彼に幸福をもたらした。


 まだそれを彼が知ることはないが、彼の目の前にある光景が飛び込んで来た。

 一瞬それを見たとき、この糞暑いのによくやるなぁと、呆れが出てきた。

 夜ならば、まだ涼しい夜ならば、彼もそういうのは好きだから、好みならば意気揚々と行くかもしれない。しかし、この動くのも辛い地獄の中で、よくもまぁそういう行為に及ぶものだ。

「やれやれや」

 とはいえ、通ろうとしていた通りはこの奥にある。

 仕方なくというか、まぁ横を通るくらい問題ないだろうと、回らない頭で彼はそのまま歩みを進めた。

 目の前の光景、この糞暑いのに黒いパンツルックのリクルートスーツを着た女に、いかにもやんちゃしてますという風体の男が二人絡んでいた。

 壁に手をつき、女が逃げられないようにしている。

「へぇ、あれが壁ドンねぇ……」

 ぼんやりと考えながら、その隣を過ぎようとしたとき、その黒縁メガネの大きめの瞳と彼の瞳が交差した。

「……」

「……」

 その瞬間、彼の心がざわついた。


 なんだ……?


 それに応える解などは存在しない。

 戸惑いが彼の心を占めていく。だがしかし、占めていくにも関わらず、次の瞬間にはその壁に手をつき、その娘に顔を近づけようとしている阿呆の延髄に蹴りをかましていた。

「がっ?!」

 短い悲鳴をあげ、ナンパをしていた頭の駆るそうな男は昏倒していった。

「なっ!?」

 あとは早い。

 急に襲われ、思考が追いついていないもう一人のあごにフックを浴びせ、そのまま意識を闇に突き落としていった。

「弱……」

 さすがにあまりの手応えのなさに、彼はばつの悪そうな顔をしていた。

 そして、彼の早業にスーツ姿の娘は目をぱちくりさせて、彼のことを見ていた。

 短めの黒髪に少しやぼったいような丸い黒縁メガネ、そして黒いリクルートスーツ。この場にいるにしては場違いにもほどがある。なぜならここは、京都の風俗街でもある祇園の中なのだから。昼間なら、まだそういう面もみにくいが、ここは祇園の裏通りなら、そういう客引きの顔もちらほらと見えはする。

「あ、あの……」

「……」

「ありがとうございました」

「なんとなくや。きにせんでええで」

 彼の顔にはすでに先ほどの覇気はなく、暑さにやられ気怠さを前面に押し出した顔があった。

「君、こんなところでなにしてるん? こんな暑い日は、こういう阿呆がわくんやで?」

「し、仕事です」

 まぁ、その格好で遊びに来ていますと言われても、説得力はまるでないだろう。

「何してんのかしらへんけど、ほどほどにしぃや。この辺りは昼でもな……」

「あ、ありがとうございます。でも、自分を守る術くらいありますので」

 その声には確かに意志の力があった。

 彼はぼんやりとした頭で、感心していた。

「あ、そうだ。一つおたずねしたいことがあるんですけど……」

 そう遠慮がちに彼女は切り出してきた。

「?」

「この辺りで、猿が出るって言う噂があるんらしいんですけど、ご存じないですか?」

「さ……る?」

 感心したのもつかの間……というか、彼はその言葉に惚けたように口を開けてしまった。

「……なんや、動物愛護センターか、なんかかいな」

 その呟きに、彼女が激しく反応した。

「ち、違いますよ! わ、私は探偵です」

「た……たんてい……ね、ねぇ」

 彼女……輝の抗議は逆効果で、さらに彼の思考回路は停止してしまいそうだった。

「へぇ、探偵。ちんちくりんやのに」

「なっ!? なにをいうんですか!」

 同様のあまり、思わず本心をもらしてしまった彼の視界が次の瞬間、火花が散っていた。
「うぎっ!?」

 無様な悲鳴と共に、彼は仰向けに……そしてその背を石畳に焼き付けていった。

「あっちぃぃぃい!?!?」

 輝の見事な右ストレートが彼のあごを捕らえていたのだ。

 や、やるじゃねぇか……一瞬遠のきかけた意識は背中の当たる業火で冷め、まるで火を嫌がるスルメのごとく、彼は跳ね上がった。

「あ……すみません」

 一瞬の出来事に、輝は反射的に腰を謝っていた。

 とはいうものの、いきなりちんちくりんと言われれば、誰だって怒るのは当然だ。あの鬼市にすら、そんなことは言われたことはなかった。しかも、密かにだが自分自身の胸には少しだけ自信すらあるのだ。

「なんちゅう……」

 ひりひりとする背中に顔をしかめながら彼はまだちかちかする視界で輝を見下ろしていた。

「まぁ、あれです。何か困ったことがあったら、気軽にご相談ください」

 気を取り直しながら、彼女は一枚の名刺を彼に手渡した。

 そこには名前と連絡先、そして探偵とだけ書いてある、非常にシンプルすぎるものだった。

「えぇと、羽根井ひか……る?」

 彼はそう言いながら、揺れる瞳を彼女へと向けていた。

「俺は……俺はコースケや」

「では、コースケさん。助けてもらってありがとうございました」

 輝は礼をして、くるりと身体を反転させると、壁ドンをしていたチンピラの背中をわざと踏みつけながら歩いて行ってしまった。

 取り残されたコースケは、半場呆然とその後ろ姿を見送っていった。


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