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第四章 呪縛
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◇三峯瞬/忌み島、地下鍾乳洞
鍾乳洞の壁面は一部崩れていて、そこからやわらかな清水が洞窟内に流れ込んでいる。清水はいったん洞窟内の岩のくぼみに溜まるが、くぼみからは常時同じだけの水が溢れていて、それらは壁面の隅にある暗渠へと流れ出ていく。
崩れた壁面から日の光が射し込んでいるおかげで、この一帯は洞窟内にもかかわらず一定の明るさが保たれていた。
ぼくは岩のくぼみに溜まった水でタオルを絞ると、地面に寝かせた真琴さんに近づいた。
と、
「っああああああああ!」
「うわっ!」
真琴さんがすごい悲鳴を上げて飛び起きた。
青白い顔にびっしりと汗を浮かべ、胸を押さえて荒い呼吸を繰り返す。
「だ、大丈夫ですか?」
「……あ、ああ」
真琴さんはまだ息が荒いまま、周囲を見回した。
ぼくは手にしたタオルを真琴さんに差し出す。
「すまん。ありがとう」
真琴さんは濡れたタオルで顔をぬぐった。
ぬぐってから、自分の状態に気づいたらしい。
「……手当てしてくれたのか?」
「は、はい。消毒と、包帯だけは」
ボートから真琴さんの持ち込んだメディカルキットを持ち出してきたのは正解だった。
その代わりに銃器や弾薬は放棄してくることになってしまったが、背に腹は代えられない。
ボートが忌み島に着いたとき、真琴さんはエンジンの爆発で負った怪我で意識が朦朧としていた。
ぼくはメディカルキットだけを手に、真琴さんに肩を貸してボートを下り、忌み島中央にある社を目指した。
忌み島は二つの岩山とその間にある社だけでできていると言って過言ではない小さな島だ。
諸正が追撃してくる可能性を考えれば、身を隠せる場所を探さなければならなかった。
もちろん、その社で問題の〈万代〉がはじまりつつある可能性もあったが――その時はその時で、様子をうかがいながら次の行動を決めるしかないと割り切ったのだ。
が、案に相違して社は無人だった。
社の奥には仏壇とも神棚ともつかない祭壇があったが、その祭壇は脇に寄せられていて、元々祭壇があった場所の先には地下へとつながっているらしい鍾乳洞が口を開けていた。
ぼくは真琴さんに肩を貸しながら鍾乳洞に入った。
どこからなにが襲ってくるかわからない状況で、真琴さんも戦える状態にないとなると、相当に危ない賭けだったが、ぼくのなかで諸正への恐怖が勝った。
鍾乳洞は想像以上に広く、枝道が多かった。
これなら追っ手から身を隠すことができそうだと思ったぼくは、枝道から枝道へと道を伝っていった。
そして運よく、比較的安全そうで、手当てのために水が使える場所を見つけることができた。
かろうじて意識を保っていた真琴さんは、ここにたどり着いたとたんに意識を失った。ぼくは真琴さんをその場に寝かし、真琴さんの怪我の手当てをしながら、真琴さんが目を覚ますのを待った。
幸い、真琴さんの怪我はあまり深いものではなかった。エンジンの破片が鋭い切り傷を作り、一時的に大量の失血をしたのが真琴さんが意識を失った原因だろう。傷は鋭かったせいでかえってふさがりやすかったらしく、ぼくが止血するまでもなく出血はほとんど止まっていた。
ここにたどり着いてから数時間――崩れた壁面からのぞく太陽が、そろそろ壁面の向こう側に消えかけようという時に、真琴さんが目を覚ましたのだ。
真琴さんは背中の傷の具合を確認すると、メディカルキットのなかから先端に針のついた軟膏のチューブのようなものを取り出し、ぼくに手渡した。
「悪いが、このシレットを背中に注入してくれるか?」
ぼくは真琴さんからシレット――使い捨ての簡易式注射器を受け取り、おっかなびっくり真琴さんの背中に針を刺した。皮下注射で血管を探す必要がなかったから、素人のぼくでもなんとか注射できた。
真琴さんの皮下に注射された薬剤は、ぼんやりとした虹色の光を放ちながらゆっくりと拡散していく。光は、広がるにつれて薄くなり、一分もしないうちに目では識別できないほど弱くなった。後に残された真琴さんの皮膚は、やや強ばってはいるものの、裂傷がふさがり、血の気もよくなっているように見える。
「美奈恵に作らせた魔法薬さ。もったいをつけて〈エリクシル〉と呼んでいる」
美奈恵さんお手製の万能の霊薬は真琴さんの傷をたちどころにふさいでしまったけれど、周辺の皮膚や筋組織がなじむまでは安静にしなければならないらしい。
ぼくは真琴さんの背中に包帯を巻き直した。
「すまんな。おまえには助けられてばかりだ」
「そんなことは……。助けてもらってるのはぼくですよ」
「いや、おまえは依頼主なんだから、わたしたちのために危険を冒すことなどないのだ。それでもわたしたちを助けようとしてくれることには、やはり感謝するべきだろう。……ありがとう」
そう言って頭を下げてくる真琴さん。
――って。
「うわっ! ご、ごめんなさい!」
ぼくはあわてて背を向けた。
「ん? ……ああ、瞬くらいの少年には目の毒だったか?」
真琴さんがからかうように聞いてくる。
手当ての途中だったため、今の真琴さんは、上半身はブラと包帯だけという非常に刺激的な格好をしている。
いまさらだけど、今までは手当てに夢中でそんな余裕もなかったのだ。
「はは。役得だったな。ま、わたしのじゃそう見応えもないだろうがな」
「い、いえ! そんなことは……」
「美奈恵のを見てしまったら物足りないんじゃないか?」
「もう。美奈恵さんみたいなこと言わないでくださいよ……」
ぼくはつい、手当ての最中に見た真琴さんの身体を思い出してしまう。
グレーのスポーティなブラに包まれた双丘は、たしかに真琴さんの言うように、美奈恵さんのそれほど大きくはないだろうが(真琴さんは誤解してるけど、ぼくは結局美奈恵さんの胸を生では見ていない)、十分にふくよかで、なにより形が綺麗だった。
日頃の鍛錬をうかがわせる、筋肉質で引き締まった肢体は、女性として魅力的であるのはもちろん、虎やライオンのような肉食獣や、研ぎ澄まされたナイフを連想させ、発達途上の少年としてはごく純粋に憧れる。
「もうこっちを向いていいぞ」
真琴さんに言われて振り向くと、真琴さんはすでにブラウスを羽織っていた。
「その、美奈恵さんは……」
「わかってる。だが、あいつがそう簡単に死ぬようなタマじゃないこともたしかだ」
忌み島に来るまでの海上で見た美奈恵さんの〈魔法〉を思い出す。
「あいつの忌能は、任意の空間の『限定』を解除して、忌空間を作り出すものだ。作り出した忌空間は、あいつの思うがままに姿・性質を変化させる。まさしく〈魔法〉さ。それに――誤解されやすいし、それを狙ってもいるんだが、美奈恵の口を封じたところで〈魔法〉は使える。あいつが意識を保ってさえいれば、どんな束縛もあいつには無意味なんだ」
捕まったところでどうとでも脱出できる、ということか。
たしかに、真琴さんの言うとおりなら、縄で縛られようが、さるぐつわを噛まされようが、牢屋に閉じ込められようが、美奈恵さんが美奈恵さんである限り、美奈恵さんを拘束し続けることはできない――ということになる。
「どこまでも自由な人ですね」
昨夜のことがどうしても頭からぬぐえなくて、ぼくの言葉はすこし皮肉なものになってしまった。
真琴さんが苦笑する。
「……美奈恵が嫌いか?」
「……いえ、その……」
悪い人ではないのだろう、と思う。
が、自分の欲望にとことんまで素直に生きるその生き方は、遠目にはまぶしく映るかもしれないが、近くに身を置くものにとっては限りなくはた迷惑なものでもある。
「昨夜のことに関して言えば、美奈恵にも美奈恵なりの事情はあるんだ」
「……事情、ですか?」
「ああ。美奈恵の本当の忌能は、〈限定解除〉だなんてちゃちなものじゃないんだ」
「え? でもさっき、とても強力な能力だって――」
「たしかにそれはその通りだ。現在忌累機関が把握している忌能者のうち、美奈恵は最強と目されている忌能者の一人だ」
「真琴さんも……ですか?」
「いや、わたしは相手との相性に大きく左右されるからな。わたしはおそらく、最強と目されている連中を倒しうる唯一の忌能者だが、ランクの低い忌能であっても、現実に対して間接的に作用するようなタイプのものには対抗できない。
たとえば……そうだな、念動力でビルの屋上から鉄骨を落とすだとか、ドライバーに暗示をかけてトラックを高速で突っ込ませるだとか、その手の搦め手に対して、わたしの忌能でできることはなにもない。
美奈恵なら、忌能者との直接対決でもまず負けないし、そのような搦め手に対しても、単純な力押しだけで対処することができる。どのような事態にでも対応できるという意味では、わたしなどより美奈恵の方がよほど『強い』。
が、もしわたしと美奈恵が戦うとすれば、〈絶対遮断〉のあるわたしが圧倒的に有利になるだろう。
要するに、相対的な問題なのさ。同系の忌能であれば、優劣を計る意味もあるだろうが、そもそも定量的に把握できるようなものじゃないんだ、忌能というのは」
「美奈恵さんの本当の忌能というのは……?」
「ああ、その話だったな。――瞬」
「はい?」
「ここから先の話は、忌累機関によって最高機密の指定を受けているものだ。こんな状況だから話すが――」
「わかりました。もちろん、口外したりしません」
真琴さんは小さくうなずいてから、一段低く落とした声で、言った。
「美奈恵は、ある鬼を身中に宿している。そしてそれこそが美奈恵の忌能――系外型外級外〈絶対隔壁〉だ」
「〈絶対隔壁〉――鬼を……宿す!?」
「美奈恵の子宮は鬼を閉じ込めるための牢獄――あるいはゆりかごなのさ。美奈恵は子宮を鬼に提供する代わりに、鬼の持つ圧倒的な忌力を自分のものとして使うことができる。だから、〈限定解除〉は厳密には美奈恵の能力ではなく、美奈恵が鬼から借りている能力なんだ」
「美奈恵さんに……鬼が……」
「が、この忌能には欠陥があってな」
「欠陥……?」
「ああ。人の身に鬼を宿すのは、忌門をもってしても難しいのか、それとも他の理由か。ともかく、美奈恵は定期的に男の精を子宮に取り込まなければ、鬼を封じ続けることができない」
「そんな……! じ、じゃあ、ぼくをその……」
「そろそろ精が必要になる時期だったからな。その上、美奈恵はちょうど相手の男を切らしてしまっていた。〈魔法〉の使用は〈絶対隔壁〉に大きな負担をかけるからな。仕事を受ける前払いの報酬としては、それなりに理にかなったものではあった」
「そんな理由があったんですか……。それなのにぼくは――」
露骨に美奈恵さんを軽蔑するような態度を取ってしまった。
と、そこで気づいた。
忌能が男の精を受けることを美奈恵さんに強いるのだとすれば、美奈恵さんの見境のない性的欲望もまた、忌能によってもたらされたものではないのか?
「まさか……美奈恵さんがああいう性格になったのも、その忌能の影響が――!?」
「……ああ、いや。それはない。美奈恵はもともとあんな性格だ。七年前――わたしと美奈恵ともう一人が忌門に遭遇した時にはもう、美奈恵はあんなだったよ」
「……そうですか」
「そうなんだ、残念ながらな」
ぼくと真琴さんは顔を見合わせてため息をつく。
「ともあれ、美奈恵に心配がいらないことはわかっただろう? 美奈恵に害をなせるものがいるとしたら、全ての忌的存在を否定し、消し去る忌能〈絶対遮断〉を持つわたしくらいのものだ。まして、美奈恵は昨夜、おまえの若くて生きのいい精を取り込んだばかりなんだろう? 〈絶対隔壁〉の制限を気にせず、好きなだけ〈魔法〉が使えるはず――……ん、どうした? 顔色が悪いぞ」
美奈恵さんの真の忌能〈絶対隔壁〉は、鬼を封じるための忌能であり、美奈恵さんは封じた鬼の力を借りて〈魔法〉を行使する。ただし、〈魔法〉の行使には制限がある。〈魔法〉の行使は〈絶対隔壁〉による鬼の封印に綻びを生じさせてしまうのだ。そしてその封印を再度強化するには――男の精が必要となる。
だが、昨夜。
美奈恵さんは、ぼくの精を受けなかった。「春姫ちゃんとしたあとでいいよ♪」――そう言って。
「おい――まさかとは思うが……」
顔色を変えたぼくを見て、真琴さんが真剣な表情になった。
「昨夜、美奈恵は……おまえの精を受けなかったのか?」
「は、はい……。で、でも、『手付け』だと言って、その――キスを……」
「そんなの、足しになるものか! くそっ! あいつは肝心なときに遠慮して――!」
真琴さんはがじがじと頭をかいた。
「まずいぞ! 久瀬倉家の鬼も問題だが――このままでは美奈恵に封じられた鬼まで解放されかねない!」
真琴さんは飛び起きてスーツのジャケットとコートを身につけていく。
ジャケット下のショルダーストックには男の手にもあまりそうな大きな自動拳銃――シグ・ザウエルP226が収められている。今の真琴さんの武装はそれだけのはずだ。
「その……、美奈恵さんはきっと、ぼくのことを思って――」
「ああ、そうなんだろうさ! まったく、ガラにもない仏心を出して、自滅してるんじゃどうしようもない!」
「で、でも、海では遠慮なしに〈魔法〉を使ってたし、まだ余裕があったんじゃ――」
「そうだよ、あの馬鹿はペース配分も考えずに無駄撃ちしてたんだよ! あれだけの〈魔法〉を使ったら、〈絶対隔壁〉の封印期間を一気に半分は消費してしまう!」
「――っ」
ぼくにもようやく事態の切迫性が呑み込めた。
「い、急がないと――!」
「ああ、行くぞ!」
新たに生まれた焦りを胸に、ぼくと真琴さんは、鍾乳洞の暗がりへと駆け込んでいった。
鍾乳洞の壁面は一部崩れていて、そこからやわらかな清水が洞窟内に流れ込んでいる。清水はいったん洞窟内の岩のくぼみに溜まるが、くぼみからは常時同じだけの水が溢れていて、それらは壁面の隅にある暗渠へと流れ出ていく。
崩れた壁面から日の光が射し込んでいるおかげで、この一帯は洞窟内にもかかわらず一定の明るさが保たれていた。
ぼくは岩のくぼみに溜まった水でタオルを絞ると、地面に寝かせた真琴さんに近づいた。
と、
「っああああああああ!」
「うわっ!」
真琴さんがすごい悲鳴を上げて飛び起きた。
青白い顔にびっしりと汗を浮かべ、胸を押さえて荒い呼吸を繰り返す。
「だ、大丈夫ですか?」
「……あ、ああ」
真琴さんはまだ息が荒いまま、周囲を見回した。
ぼくは手にしたタオルを真琴さんに差し出す。
「すまん。ありがとう」
真琴さんは濡れたタオルで顔をぬぐった。
ぬぐってから、自分の状態に気づいたらしい。
「……手当てしてくれたのか?」
「は、はい。消毒と、包帯だけは」
ボートから真琴さんの持ち込んだメディカルキットを持ち出してきたのは正解だった。
その代わりに銃器や弾薬は放棄してくることになってしまったが、背に腹は代えられない。
ボートが忌み島に着いたとき、真琴さんはエンジンの爆発で負った怪我で意識が朦朧としていた。
ぼくはメディカルキットだけを手に、真琴さんに肩を貸してボートを下り、忌み島中央にある社を目指した。
忌み島は二つの岩山とその間にある社だけでできていると言って過言ではない小さな島だ。
諸正が追撃してくる可能性を考えれば、身を隠せる場所を探さなければならなかった。
もちろん、その社で問題の〈万代〉がはじまりつつある可能性もあったが――その時はその時で、様子をうかがいながら次の行動を決めるしかないと割り切ったのだ。
が、案に相違して社は無人だった。
社の奥には仏壇とも神棚ともつかない祭壇があったが、その祭壇は脇に寄せられていて、元々祭壇があった場所の先には地下へとつながっているらしい鍾乳洞が口を開けていた。
ぼくは真琴さんに肩を貸しながら鍾乳洞に入った。
どこからなにが襲ってくるかわからない状況で、真琴さんも戦える状態にないとなると、相当に危ない賭けだったが、ぼくのなかで諸正への恐怖が勝った。
鍾乳洞は想像以上に広く、枝道が多かった。
これなら追っ手から身を隠すことができそうだと思ったぼくは、枝道から枝道へと道を伝っていった。
そして運よく、比較的安全そうで、手当てのために水が使える場所を見つけることができた。
かろうじて意識を保っていた真琴さんは、ここにたどり着いたとたんに意識を失った。ぼくは真琴さんをその場に寝かし、真琴さんの怪我の手当てをしながら、真琴さんが目を覚ますのを待った。
幸い、真琴さんの怪我はあまり深いものではなかった。エンジンの破片が鋭い切り傷を作り、一時的に大量の失血をしたのが真琴さんが意識を失った原因だろう。傷は鋭かったせいでかえってふさがりやすかったらしく、ぼくが止血するまでもなく出血はほとんど止まっていた。
ここにたどり着いてから数時間――崩れた壁面からのぞく太陽が、そろそろ壁面の向こう側に消えかけようという時に、真琴さんが目を覚ましたのだ。
真琴さんは背中の傷の具合を確認すると、メディカルキットのなかから先端に針のついた軟膏のチューブのようなものを取り出し、ぼくに手渡した。
「悪いが、このシレットを背中に注入してくれるか?」
ぼくは真琴さんからシレット――使い捨ての簡易式注射器を受け取り、おっかなびっくり真琴さんの背中に針を刺した。皮下注射で血管を探す必要がなかったから、素人のぼくでもなんとか注射できた。
真琴さんの皮下に注射された薬剤は、ぼんやりとした虹色の光を放ちながらゆっくりと拡散していく。光は、広がるにつれて薄くなり、一分もしないうちに目では識別できないほど弱くなった。後に残された真琴さんの皮膚は、やや強ばってはいるものの、裂傷がふさがり、血の気もよくなっているように見える。
「美奈恵に作らせた魔法薬さ。もったいをつけて〈エリクシル〉と呼んでいる」
美奈恵さんお手製の万能の霊薬は真琴さんの傷をたちどころにふさいでしまったけれど、周辺の皮膚や筋組織がなじむまでは安静にしなければならないらしい。
ぼくは真琴さんの背中に包帯を巻き直した。
「すまんな。おまえには助けられてばかりだ」
「そんなことは……。助けてもらってるのはぼくですよ」
「いや、おまえは依頼主なんだから、わたしたちのために危険を冒すことなどないのだ。それでもわたしたちを助けようとしてくれることには、やはり感謝するべきだろう。……ありがとう」
そう言って頭を下げてくる真琴さん。
――って。
「うわっ! ご、ごめんなさい!」
ぼくはあわてて背を向けた。
「ん? ……ああ、瞬くらいの少年には目の毒だったか?」
真琴さんがからかうように聞いてくる。
手当ての途中だったため、今の真琴さんは、上半身はブラと包帯だけという非常に刺激的な格好をしている。
いまさらだけど、今までは手当てに夢中でそんな余裕もなかったのだ。
「はは。役得だったな。ま、わたしのじゃそう見応えもないだろうがな」
「い、いえ! そんなことは……」
「美奈恵のを見てしまったら物足りないんじゃないか?」
「もう。美奈恵さんみたいなこと言わないでくださいよ……」
ぼくはつい、手当ての最中に見た真琴さんの身体を思い出してしまう。
グレーのスポーティなブラに包まれた双丘は、たしかに真琴さんの言うように、美奈恵さんのそれほど大きくはないだろうが(真琴さんは誤解してるけど、ぼくは結局美奈恵さんの胸を生では見ていない)、十分にふくよかで、なにより形が綺麗だった。
日頃の鍛錬をうかがわせる、筋肉質で引き締まった肢体は、女性として魅力的であるのはもちろん、虎やライオンのような肉食獣や、研ぎ澄まされたナイフを連想させ、発達途上の少年としてはごく純粋に憧れる。
「もうこっちを向いていいぞ」
真琴さんに言われて振り向くと、真琴さんはすでにブラウスを羽織っていた。
「その、美奈恵さんは……」
「わかってる。だが、あいつがそう簡単に死ぬようなタマじゃないこともたしかだ」
忌み島に来るまでの海上で見た美奈恵さんの〈魔法〉を思い出す。
「あいつの忌能は、任意の空間の『限定』を解除して、忌空間を作り出すものだ。作り出した忌空間は、あいつの思うがままに姿・性質を変化させる。まさしく〈魔法〉さ。それに――誤解されやすいし、それを狙ってもいるんだが、美奈恵の口を封じたところで〈魔法〉は使える。あいつが意識を保ってさえいれば、どんな束縛もあいつには無意味なんだ」
捕まったところでどうとでも脱出できる、ということか。
たしかに、真琴さんの言うとおりなら、縄で縛られようが、さるぐつわを噛まされようが、牢屋に閉じ込められようが、美奈恵さんが美奈恵さんである限り、美奈恵さんを拘束し続けることはできない――ということになる。
「どこまでも自由な人ですね」
昨夜のことがどうしても頭からぬぐえなくて、ぼくの言葉はすこし皮肉なものになってしまった。
真琴さんが苦笑する。
「……美奈恵が嫌いか?」
「……いえ、その……」
悪い人ではないのだろう、と思う。
が、自分の欲望にとことんまで素直に生きるその生き方は、遠目にはまぶしく映るかもしれないが、近くに身を置くものにとっては限りなくはた迷惑なものでもある。
「昨夜のことに関して言えば、美奈恵にも美奈恵なりの事情はあるんだ」
「……事情、ですか?」
「ああ。美奈恵の本当の忌能は、〈限定解除〉だなんてちゃちなものじゃないんだ」
「え? でもさっき、とても強力な能力だって――」
「たしかにそれはその通りだ。現在忌累機関が把握している忌能者のうち、美奈恵は最強と目されている忌能者の一人だ」
「真琴さんも……ですか?」
「いや、わたしは相手との相性に大きく左右されるからな。わたしはおそらく、最強と目されている連中を倒しうる唯一の忌能者だが、ランクの低い忌能であっても、現実に対して間接的に作用するようなタイプのものには対抗できない。
たとえば……そうだな、念動力でビルの屋上から鉄骨を落とすだとか、ドライバーに暗示をかけてトラックを高速で突っ込ませるだとか、その手の搦め手に対して、わたしの忌能でできることはなにもない。
美奈恵なら、忌能者との直接対決でもまず負けないし、そのような搦め手に対しても、単純な力押しだけで対処することができる。どのような事態にでも対応できるという意味では、わたしなどより美奈恵の方がよほど『強い』。
が、もしわたしと美奈恵が戦うとすれば、〈絶対遮断〉のあるわたしが圧倒的に有利になるだろう。
要するに、相対的な問題なのさ。同系の忌能であれば、優劣を計る意味もあるだろうが、そもそも定量的に把握できるようなものじゃないんだ、忌能というのは」
「美奈恵さんの本当の忌能というのは……?」
「ああ、その話だったな。――瞬」
「はい?」
「ここから先の話は、忌累機関によって最高機密の指定を受けているものだ。こんな状況だから話すが――」
「わかりました。もちろん、口外したりしません」
真琴さんは小さくうなずいてから、一段低く落とした声で、言った。
「美奈恵は、ある鬼を身中に宿している。そしてそれこそが美奈恵の忌能――系外型外級外〈絶対隔壁〉だ」
「〈絶対隔壁〉――鬼を……宿す!?」
「美奈恵の子宮は鬼を閉じ込めるための牢獄――あるいはゆりかごなのさ。美奈恵は子宮を鬼に提供する代わりに、鬼の持つ圧倒的な忌力を自分のものとして使うことができる。だから、〈限定解除〉は厳密には美奈恵の能力ではなく、美奈恵が鬼から借りている能力なんだ」
「美奈恵さんに……鬼が……」
「が、この忌能には欠陥があってな」
「欠陥……?」
「ああ。人の身に鬼を宿すのは、忌門をもってしても難しいのか、それとも他の理由か。ともかく、美奈恵は定期的に男の精を子宮に取り込まなければ、鬼を封じ続けることができない」
「そんな……! じ、じゃあ、ぼくをその……」
「そろそろ精が必要になる時期だったからな。その上、美奈恵はちょうど相手の男を切らしてしまっていた。〈魔法〉の使用は〈絶対隔壁〉に大きな負担をかけるからな。仕事を受ける前払いの報酬としては、それなりに理にかなったものではあった」
「そんな理由があったんですか……。それなのにぼくは――」
露骨に美奈恵さんを軽蔑するような態度を取ってしまった。
と、そこで気づいた。
忌能が男の精を受けることを美奈恵さんに強いるのだとすれば、美奈恵さんの見境のない性的欲望もまた、忌能によってもたらされたものではないのか?
「まさか……美奈恵さんがああいう性格になったのも、その忌能の影響が――!?」
「……ああ、いや。それはない。美奈恵はもともとあんな性格だ。七年前――わたしと美奈恵ともう一人が忌門に遭遇した時にはもう、美奈恵はあんなだったよ」
「……そうですか」
「そうなんだ、残念ながらな」
ぼくと真琴さんは顔を見合わせてため息をつく。
「ともあれ、美奈恵に心配がいらないことはわかっただろう? 美奈恵に害をなせるものがいるとしたら、全ての忌的存在を否定し、消し去る忌能〈絶対遮断〉を持つわたしくらいのものだ。まして、美奈恵は昨夜、おまえの若くて生きのいい精を取り込んだばかりなんだろう? 〈絶対隔壁〉の制限を気にせず、好きなだけ〈魔法〉が使えるはず――……ん、どうした? 顔色が悪いぞ」
美奈恵さんの真の忌能〈絶対隔壁〉は、鬼を封じるための忌能であり、美奈恵さんは封じた鬼の力を借りて〈魔法〉を行使する。ただし、〈魔法〉の行使には制限がある。〈魔法〉の行使は〈絶対隔壁〉による鬼の封印に綻びを生じさせてしまうのだ。そしてその封印を再度強化するには――男の精が必要となる。
だが、昨夜。
美奈恵さんは、ぼくの精を受けなかった。「春姫ちゃんとしたあとでいいよ♪」――そう言って。
「おい――まさかとは思うが……」
顔色を変えたぼくを見て、真琴さんが真剣な表情になった。
「昨夜、美奈恵は……おまえの精を受けなかったのか?」
「は、はい……。で、でも、『手付け』だと言って、その――キスを……」
「そんなの、足しになるものか! くそっ! あいつは肝心なときに遠慮して――!」
真琴さんはがじがじと頭をかいた。
「まずいぞ! 久瀬倉家の鬼も問題だが――このままでは美奈恵に封じられた鬼まで解放されかねない!」
真琴さんは飛び起きてスーツのジャケットとコートを身につけていく。
ジャケット下のショルダーストックには男の手にもあまりそうな大きな自動拳銃――シグ・ザウエルP226が収められている。今の真琴さんの武装はそれだけのはずだ。
「その……、美奈恵さんはきっと、ぼくのことを思って――」
「ああ、そうなんだろうさ! まったく、ガラにもない仏心を出して、自滅してるんじゃどうしようもない!」
「で、でも、海では遠慮なしに〈魔法〉を使ってたし、まだ余裕があったんじゃ――」
「そうだよ、あの馬鹿はペース配分も考えずに無駄撃ちしてたんだよ! あれだけの〈魔法〉を使ったら、〈絶対隔壁〉の封印期間を一気に半分は消費してしまう!」
「――っ」
ぼくにもようやく事態の切迫性が呑み込めた。
「い、急がないと――!」
「ああ、行くぞ!」
新たに生まれた焦りを胸に、ぼくと真琴さんは、鍾乳洞の暗がりへと駆け込んでいった。
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たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
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