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第一章 忌まわしき世界
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◇三峯瞬/久瀬倉家別邸、石庭
屋根の上で出くわした黒い犬のような化け物からは逃がれたものの、庭のあちこちから同じような――いや、まったく同じ外見の化け物がわらわらと現れ、ぼくはすぐに追い詰められてしまった。
(……くっ)
背後には木立と石灯籠があり、正面の枯山水の砂州を蹴立てて化け物たちが距離を詰めてくる。
せめて気持ちで呑まれまいと、正面から近づいてくる化け物を睨みつける。正面の化け物は一瞬動きを止めたが、その合間を縫うようにぼくの死角から何かが飛び出してくる。
ぼくはあわてて身をひねったが、背後の木立から現れた化け物がぼくの腿に牙を突き立てる方が早かった。
激痛に意識が遠くなったぼくに、化け物たちが次から次へと飛びかかってきて、ぼくは地面に押さえつけられてしまった。
「くそっ! 離せ!」
暴れてみるが、化け物たちはびくともしない。
「くそ……っ」
ぼくは抵抗を諦めざるをえない。
恐怖と焦慮に震えながら事態の進展を待つぼくの前に、例の執事――諸正が姿を現した。
「フン、どんなネズミが忍び込んだかと思えば、いつぞやのガキとはな。いっちょ前に色気づいて、贄姫に夜這いでもかけに来たか?」
「くっ……!」
ぼくは不自由な体勢のまま諸正を睨みつけた。
「おうおう、怖い怖い」
諸正は大げさに肩をすくめてみせた。
「……久瀬倉さんはどこだ!」
「久瀬倉さん? 久瀬倉家の敷地で『久瀬倉さん』もないもんだ。その程度の関係の男が、贄姫にいったい何の用だ?」
「……〈万代〉、とか言ったな」
ぼくの言葉に、諸正は片方の眉を跳ね上げる。わざとらしい、驚きの表情だ。
「贄姫はそんなことまで話していたのか。久瀬倉家の外に漏らしていい秘密ではないんだがな。まったく、おまえといい贄姫といい、悲劇の主人公にでもなったつもりか? お守りする身にもなってみろ」
「久瀬倉さんはどうしてるんだ! 学校にも来てない!」
「それで心配になって、見舞いかたがたやってきたと? ハンッ。青すぎるな、クソガキ。――が、存外、おまえの勘も悪くはないのかもしれん。これから贄姫がどんな目に遭わされるのかを思えば、な」
諸正はいやらしく笑った。執事らしいのはそのタキシードだけで、その表情も起居動作もなにもかもが野卑で、正直、こんな男が久瀬倉さんのそばにいると思うだけでゾッとする。
が、男の表情以上に、今はその言葉の方が気になった。
「……どういう意味だ」
ぼくは精一杯の憎しみを込めて諸正を睨みつけたが、もとよりその程度でひるむような男ではない。
「本来、部外者に教えるべきことではないのだがな。贄姫がしゃべったというのなら、構うまい。おまえは〈万代〉についてどう聞いている?」
「……久瀬倉家が封じた太古の鬼を封じ直すために、十年ごとに贄姫が〈万代〉と呼ばれる祭りを行う、と」
「ふん。そんなところか。結局、贄姫は肝心なことを隠したのだな。ま、あたりまえだ。年頃の娘が、慕っている男に告げるにはあまりにも酷な内容だからな」
「酷な……? どういうことだ!」
「焦らずとも教えてやる」
諸正はなぶるような口調で言いながら、ぼくのそばにしゃがみこみ、ぼくの顔を覗き込んできた。
まるで、ぼくの瞳に浮かぶ色を見極めるようとするかのように。
「久瀬倉家の秘祭〈万代〉――それは、十年に一度、久瀬倉家の初潮を迎えた乙女を生け贄として鬼に差し出し、七日七晩なぶりものにさせ、ご満足いただいてお帰りいただくという祭りなのさ」
「――ッ!」
頭がまっ白になった。
それから、聞き間違いかと疑った。
が、諸正の瞳に宿る嘲りと――なにより、わずかばかり滲む哀れみが、諸正の言葉が真実であることを証明している。
ぼくは拳を握りしめた。
「当代の贄姫、久瀬倉春姫は潔斎中だ。明日の夜に控えた〈万代〉に備えてな。男に会うなどもってのほかだ。わかったら帰れ。すぐそこに勝手口がある。俺も忙しい。ガキの遊びに構ってる暇はねえんだよ」
諸正が立ち上がり、ぼくに背を向けた。
「ま、待て……っ」
「惚れた相手が悪かったな。――と?」
捨て台詞を残して立ち去ろうとした諸正が、ふいに足を止め、片手を耳に当てた。
「はい……。は? さようですか。こんなガキに何ができるとも思えませんが」
諸正は手を耳に当てたまま肩越しにぼくを振り返る。
「ま、他ならぬ――さまがそう言うんじゃ、仕方ないですね。事後処理が面倒ですが、なんとかしましょう。ええ、かしこまりました。侵入者のガキは殺しておきますよ」
ぼくは身を固くした。殺す――だって? ぼくを?
「と、いうわけだ、ガキ。恨むなら、身の丈に合わない女に惚れた自分を恨めよ」
諸正はぼくのそばに膝を突くと、手の平をぼくへと向けた。
その手の平の中央に、赤黒い色の突起物があった。突起物は肉を裂く気色の悪い音を漏らしながら伸びていく。突起物は、ぼくの額に届く少し前で伸展を終え、ぶつり、と音を立てて諸正の手のひらから抜け出した。諸正の手の平のすぐ前に浮かんだそれは、肘から先くらいの長さで、血の色をした槍のように見えた。
「これが俺の忌能――〈血鍼衝〉だ。せめてもの情けに、一撃で終わらせてやるよ。安心しろ、おまえの惚れた贄姫もあと一週間の命さ。うまくすればあの世で逢えるだろうよ」
「やめ――!」
「命乞いするくらいなら、はじめからヨソ様の事情に首を突っ込むなって話だ。あばよ、クソガキ」
諸正の生み出した血色の槍が、溜めを作るようにわずかに後じさり、次の瞬間――
屋根の上で出くわした黒い犬のような化け物からは逃がれたものの、庭のあちこちから同じような――いや、まったく同じ外見の化け物がわらわらと現れ、ぼくはすぐに追い詰められてしまった。
(……くっ)
背後には木立と石灯籠があり、正面の枯山水の砂州を蹴立てて化け物たちが距離を詰めてくる。
せめて気持ちで呑まれまいと、正面から近づいてくる化け物を睨みつける。正面の化け物は一瞬動きを止めたが、その合間を縫うようにぼくの死角から何かが飛び出してくる。
ぼくはあわてて身をひねったが、背後の木立から現れた化け物がぼくの腿に牙を突き立てる方が早かった。
激痛に意識が遠くなったぼくに、化け物たちが次から次へと飛びかかってきて、ぼくは地面に押さえつけられてしまった。
「くそっ! 離せ!」
暴れてみるが、化け物たちはびくともしない。
「くそ……っ」
ぼくは抵抗を諦めざるをえない。
恐怖と焦慮に震えながら事態の進展を待つぼくの前に、例の執事――諸正が姿を現した。
「フン、どんなネズミが忍び込んだかと思えば、いつぞやのガキとはな。いっちょ前に色気づいて、贄姫に夜這いでもかけに来たか?」
「くっ……!」
ぼくは不自由な体勢のまま諸正を睨みつけた。
「おうおう、怖い怖い」
諸正は大げさに肩をすくめてみせた。
「……久瀬倉さんはどこだ!」
「久瀬倉さん? 久瀬倉家の敷地で『久瀬倉さん』もないもんだ。その程度の関係の男が、贄姫にいったい何の用だ?」
「……〈万代〉、とか言ったな」
ぼくの言葉に、諸正は片方の眉を跳ね上げる。わざとらしい、驚きの表情だ。
「贄姫はそんなことまで話していたのか。久瀬倉家の外に漏らしていい秘密ではないんだがな。まったく、おまえといい贄姫といい、悲劇の主人公にでもなったつもりか? お守りする身にもなってみろ」
「久瀬倉さんはどうしてるんだ! 学校にも来てない!」
「それで心配になって、見舞いかたがたやってきたと? ハンッ。青すぎるな、クソガキ。――が、存外、おまえの勘も悪くはないのかもしれん。これから贄姫がどんな目に遭わされるのかを思えば、な」
諸正はいやらしく笑った。執事らしいのはそのタキシードだけで、その表情も起居動作もなにもかもが野卑で、正直、こんな男が久瀬倉さんのそばにいると思うだけでゾッとする。
が、男の表情以上に、今はその言葉の方が気になった。
「……どういう意味だ」
ぼくは精一杯の憎しみを込めて諸正を睨みつけたが、もとよりその程度でひるむような男ではない。
「本来、部外者に教えるべきことではないのだがな。贄姫がしゃべったというのなら、構うまい。おまえは〈万代〉についてどう聞いている?」
「……久瀬倉家が封じた太古の鬼を封じ直すために、十年ごとに贄姫が〈万代〉と呼ばれる祭りを行う、と」
「ふん。そんなところか。結局、贄姫は肝心なことを隠したのだな。ま、あたりまえだ。年頃の娘が、慕っている男に告げるにはあまりにも酷な内容だからな」
「酷な……? どういうことだ!」
「焦らずとも教えてやる」
諸正はなぶるような口調で言いながら、ぼくのそばにしゃがみこみ、ぼくの顔を覗き込んできた。
まるで、ぼくの瞳に浮かぶ色を見極めるようとするかのように。
「久瀬倉家の秘祭〈万代〉――それは、十年に一度、久瀬倉家の初潮を迎えた乙女を生け贄として鬼に差し出し、七日七晩なぶりものにさせ、ご満足いただいてお帰りいただくという祭りなのさ」
「――ッ!」
頭がまっ白になった。
それから、聞き間違いかと疑った。
が、諸正の瞳に宿る嘲りと――なにより、わずかばかり滲む哀れみが、諸正の言葉が真実であることを証明している。
ぼくは拳を握りしめた。
「当代の贄姫、久瀬倉春姫は潔斎中だ。明日の夜に控えた〈万代〉に備えてな。男に会うなどもってのほかだ。わかったら帰れ。すぐそこに勝手口がある。俺も忙しい。ガキの遊びに構ってる暇はねえんだよ」
諸正が立ち上がり、ぼくに背を向けた。
「ま、待て……っ」
「惚れた相手が悪かったな。――と?」
捨て台詞を残して立ち去ろうとした諸正が、ふいに足を止め、片手を耳に当てた。
「はい……。は? さようですか。こんなガキに何ができるとも思えませんが」
諸正は手を耳に当てたまま肩越しにぼくを振り返る。
「ま、他ならぬ――さまがそう言うんじゃ、仕方ないですね。事後処理が面倒ですが、なんとかしましょう。ええ、かしこまりました。侵入者のガキは殺しておきますよ」
ぼくは身を固くした。殺す――だって? ぼくを?
「と、いうわけだ、ガキ。恨むなら、身の丈に合わない女に惚れた自分を恨めよ」
諸正はぼくのそばに膝を突くと、手の平をぼくへと向けた。
その手の平の中央に、赤黒い色の突起物があった。突起物は肉を裂く気色の悪い音を漏らしながら伸びていく。突起物は、ぼくの額に届く少し前で伸展を終え、ぶつり、と音を立てて諸正の手のひらから抜け出した。諸正の手の平のすぐ前に浮かんだそれは、肘から先くらいの長さで、血の色をした槍のように見えた。
「これが俺の忌能――〈血鍼衝〉だ。せめてもの情けに、一撃で終わらせてやるよ。安心しろ、おまえの惚れた贄姫もあと一週間の命さ。うまくすればあの世で逢えるだろうよ」
「やめ――!」
「命乞いするくらいなら、はじめからヨソ様の事情に首を突っ込むなって話だ。あばよ、クソガキ」
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