イヴィル・バスターズ ―STEEL LOVES FLOWER―

天宮暁

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第一章 忌まわしき世界

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◇三峯瞬/城ヶ崎市、久瀬倉家別邸

 あの夜以来、久瀬倉さんはぼくの前に姿を現していない。
 ぼくは昨日、勇気を出して久瀬倉さんが住んでいるはずの屋敷に行ってみた。
 久瀬倉家の屋敷は市の文化財にも指定されている有名なものだから、住所なんて調べる必要もなかった。
 武家屋敷風の大きな日本家屋で、高い築地塀の上には忍び返しまでついている。
 江戸時代の大名屋敷のものをそのまま使っているという表門は、重ね合わせた瓦屋根の下に、それこそ〈巨人〉でも余裕で通れそうなほど高くて大きな門扉のある、威圧感たっぷりの代物だった。
 鉄製の門扉は当然のように閉め切られており、中の様子はまったくわからない。
 インターホンを探してうろうろしていると、突然人の声が聞こえた。
『この屋敷にどのようなご用ですか?』
 声はどこかに隠されたスピーカーから出ているようだ。
 言葉遣いは丁寧だが、有無を言わせない口調だった。
 ぼくはしどろもどろに久瀬倉さんに会わせてほしいと伝えたが、「お嬢様はいまお会いすることはできません」の一点張りで、取り次いですらもらえなかった。
 そして、今。
 ぼくは再び、久瀬倉家の屋敷の前にいる。
 夜の帳も落ちたこの時間、闇の中に黒々と佇む武家屋敷は不気味で、それ自体が巨大な怪物のように思えてくる。
 この屋敷は、これだけの規模にもかかわらず、久瀬倉家の本邸ではないそうだ。本邸としては市内の忌鎮きちん神社に隣接する大きな洋館があるのだが、城ヶ崎学園への通学の便は別邸の方がいいということで、久瀬倉さんはそっちに住んでいるらしい。クラスメイトから聞いた噂程度の情報だったけど、久瀬倉さんが歩いて通学していることは確かだから、間違いはないと思う。
 それに、昨日インターホン越しにぼくに応対した使用人は、久瀬倉さんがここにいないとは言わなかった。ただ「会うことができない」と言っただけだ。会えない理由は言わなかったが、たとえば風邪を引いているだけなら、そのくらいのことは教えてくれてもおかしくはない。実際、クラス担任は「久瀬倉は風邪で休みだ」と言っていたのだから。
 久瀬倉さんの身に何かがあったのではないか――ぼくのなかに萌していた不安が膨らんでいく。
 あの夜に見た久瀬倉さんの寂しげな微笑が、脳裏にこびりついて離れない。
 久瀬倉さんは、みずからの義務を引き受けようとしながらも、その義務のあまりの重さに押しつぶされ、ぼくみたいな、会って間もない男にすら、助けを求めずにはいられなかったのだろう。
 結局、ぼくはいてもたってもいられず、こうして久瀬倉さんがいるはずの屋敷の前までやってきてしまった。
 一目会いたい。
 久瀬倉さんの無事を確認したい。
 いや、ちがう。これは久瀬倉さんのためを思ってのことである以上に、自分自身の欲にもとづくものだ。久瀬倉さんのあの淡い笑顔をもう一度見たい。あわよくばそれを独占したい。
 誰かを心配しているといえば、なるほど自分が心優しい人間のように思える。だけど、その優しさは所詮見せかけにすぎなくて、ぼくは「心配している」という大義名分のもとに、自分の欲望を正当化しているだけなのではないか。頼まれたわけでもないのに心配して、不安になって、その不安を相手に鎮めてほしいと望むなんて、身勝手にもほどがある。
 でも、そうとわかっていても止まらない。
 生まれて初めて人を好きになった。恋とはもっと甘くて心地のよいものだと思っていたけれど、実際のところ、会えない時間に募る痛いばかりの寂しさが辛くて、心の落ち着く暇なんてありはしない。
 いまのぼくには、ストーカーになる男の気持ちがわかる。別にまだつきあっているわけでもない、友人とすら認められていないかもしれない相手に会うために、相手の家にまで忍び込もうというのは正気の沙汰ではないと自分自身思う。
 そう――ぼくは今、久瀬倉家の別邸に忍び込もうとしているのだ。
 無茶だということはわかってる。
 久瀬倉さんが本当にトラブルに直面しているのかどうかすらわからない。すべてぼくの妄想かもしれない。
 たしかにあの夜、久瀬倉さんの様子がおかしかったことは確かだけど、それすらも、ぼくが自分の都合のいいように記憶を歪めているだけなのかもしれない。久瀬倉さんの様子がおかしければ、心配するための理由が得られる。久瀬倉さんとの距離を縮めたいぼくにとって、それは格好の口実になるのだ。
(でも――)
 ぼくは首を振った。
 たしかに、すべては妄想なのかもしれない。初めての恋に舞い上がったぼくは、これからとんでもないピエロを演じようとしているのかもしれない。だけどそれでも、久瀬倉さんのことが心配であることに変わりはない。
 それなら、
(やってみるだけだ。もしすべてがぼくの妄想だったとしても、ぼくが笑いものにされるだけで済むんだ)
 久瀬倉さんのもとへと首尾よくたどり着けたとしても、久瀬倉さん自身がぼくを歓迎せず、悲鳴を上げて、家の者を呼ぶかもしれない。例の諸正とかいう銀髪の執事が現れて、ぼくを罵倒し、警察へと引き渡すかもしれない。
 でも、
(久瀬倉さんが本当にトラブルに巻き込まれていたら?)
 久瀬倉さんから聞いた贄姫の役割は、ただでさえ危険で過酷なものだ。
 そのうえ、
(……久瀬倉家の人たちが、久瀬倉さんの味方とは限らない)
 久瀬倉さんはあの夜「帰りたくない」と言った。久瀬倉さんを迎えに来た諸正という執事は、執事という職業への幻想をぶち壊すような荒っぽい人物だった。あの冷たい、すべてを見下すかのような目を思い出すと、ぼくは今でも身体が震える。
(ぼくひとりが笑いものになるだけで、久瀬倉さんを救えるかもしれないのなら。今それをやらなかったら、絶対に後悔する)
 本当に怖いのは、すべてがぼくの妄想だった場合ではなく、ぼくの「妄想」が事実だった場合だ。
 ぼくひとりの体面で久瀬倉さんが救えるのなら、そんなものは躊躇なく投げ捨ててやる。
 ぼくはおかしくなっているのかもしれないが、その渦中にいるぼくにはそれはわからないことだし、なにより、たとえ狂っていたとしても、危機にあるかもしれない久瀬倉さんを見捨てるようなことはできない。
 とはいえ、
(……どうやって忍び込むか、だね)
 ぼくがどれほど久瀬倉さんのことを想っていようと、現実的な問題は現実的な方法でしか解決することができない。世界はぼくの心情を斟酌してくれるほど優しくはないのだ。それこそ、久瀬倉さんの言っていた忌門にでも遭遇しない限りは。
 さっきも見たとおり、別邸には高い築地塀が巡らされ、その上には忍び返しまで設置されている。尖った竹や釘の先が互い違いに組み合わされている奥に、よく見ると監視カメラの赤いパイロットランプが点滅している。
 久瀬倉家に疑いを持ってこの屋敷を見ると、侵入者を過剰なほどに警戒するそのさまに、久瀬倉家の抱える秘密のにおいを嗅ぎとらざるを得なくなる。もちろん、城ヶ崎市随一の資産家である久瀬倉家が邸宅のセキュリティを充実させていたところで、おかしなことではないのだが。
 ぼくは築地塀を右手に屋敷の周囲を歩いてみる。
 こんなところにも監視の目があるかもしれないので、ときどき一本隣の通りにずれたりしながら歩く。ひとまわりするのに結局二十分もかかってしまった。
 が、それだけの甲斐はあった。
 屋敷の裏側――出入りの業者や使用人が出入りするとおぼしい通用門のそばに、一台の電気工事用高所作業車が駐まっていた。
 その高所作業車には大きなクレーンがついていて、その先端はちょうど通用門と築地塀の隙間にうずまるような位置にあった。
 通用門には人の影はなく、高所作業車も無人で放置されている。
 塀の上の監視カメラは通用門に向けられていて、築地塀と通用門との境目は死角になっているように見える。
(……よし)
 ぼくはもう一度周囲を確かめてから、高所作業車にかじりついた。
 クレーンは不安定でのぼりにくかったが、家から持ってきていた滑り止め付きの軍手が役に立ってくれた。
 近づいてみると、木製の古ぼけた忍び返しのそばに、目立たないように有刺鉄線が巡らされているのがわかった。有刺鉄線は錆の浮いていない真新しいものだ。
 ぼくは背筋が冷えるのを感じた。本当にこの久瀬倉家にはなんらかの秘密があるのかもしれない。贄姫のことも秘密ではあるだろうけれど、漏れたとしても誰も信じないような話だし、そもそもバレてまずいことをしているわけではないのだから。
 ぼくは慎重に忍び返しをまたぎ、有刺鉄線の隙間を見つけて足を下ろす。
 屋敷の様子は暗くて見えないが、気づかれた様子はない。
 ぼくの眼下には都合よく小さな東屋があったのだが、
(……ちょっと遠い、かな)
 飛び降りることは無理ではないが、有刺鉄線に制限された足場からでは音を立てずに着地することは難しいだろう。
 ぼくはしばしためらった。
(いや――行くしかない。他の侵入経路はなさそうだし、時間が経てば経つほど見つかりやすくなる)
 そう覚悟を決めて腰を沈め、築地塀の屋根を踏み切ろうとした瞬間、ぼくはふと気配に気づいて横を見た。
 ぼくのいる築地塀の隣――通用門の瓦屋根の上に大きな犬がいた。
 いや、それははたして本当に犬なのか?
 闇の中で赤い目を爛々と光らせるそのフォルムは、たしかにドーベルマンのような大型犬に似ているけれど、なんというか――妙に角張っている。
 まるで折り紙で作られた「犬」のように、その犬の表面は漆黒の多面体で構成されていて、本来の犬に備わっている有機的な要素を微塵も感じさせない。多面体の表面には奇妙な光沢があって、月の光や遠くの街の明かりを反射している。ぼくがこの「犬」に気づいたのもその反射光のせいだった。
 ――ぢぢぢぢッ
 「犬」が可聴域ぎりぎりの電気が弾けるような異音を発した。
「……ッ!」
 動揺を見せたぼくに、「犬」は吠え声を上げて襲いかかってきた。
「じ……冗談じゃない!」
 ぼくは築地塀の屋根を蹴り、眼下の東屋に着地した。

 思えば――この瞬間だった。
 ぼくが、自分の意思で、闇の世界へと足を踏み入れたのは。
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