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第一章 忌まわしき世界
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◇三峯瞬/城ヶ崎市、自宅マンション
そこまで語った久瀬倉さんは、わずかにためらう様子を見せてから、言った。
「わたしは、〈贄姫〉なの」
「ニエ……ヒメ?」
生け贄の「贄」にお姫さまの「姫」で贄姫――だという。
「……なんだか不吉な言葉だね」
「そう……だね」
久瀬倉さんは再びためらいを見せてから、口を開く。
「贄姫は、鬼に食われることで鬼を食うの」
「食われることで……食う」
ぼくの脳裏に、ついさっき目撃した光景が浮かぶ。
月明かりしか差し込まない路地裏。グロテスクな化け物――〈巨人〉。そしてそれに食われる久瀬倉さん。〈巨人〉はその後、突然苦しみはじめ、その背中から全裸の久瀬倉さんが現れた――。
「つまり、久瀬倉さんはああして化け物に食われることで、化け物に取り込まれて、化け物を内側から食い破ることで倒す――ってこと?」
久瀬倉さんはうなずいた。
「そんな……」
ぼくは路地裏に入る前に久瀬倉さんのものらしい苦悶の声を聞いている。ぼくが駆けつけたときの久瀬倉さんは、もうほとんど動けなくなっていたけれど、まだ息はあるように見えた。つまり久瀬倉さんは、化け物に生きながらに食われる苦痛を堪え忍んでからでなくては化け物を倒すことができない……ということになる。
「痛く……ないの?」
思わず、そう聞いてしまう。
久瀬倉さんはうつむいて、
「……痛いよ。すごく、痛い。それに……怖い」
「怖い?」
「ときどき、自分が本当は誰なのか、わからなくなるの。〈追儺(ついな)〉の時は、自分の身体がすこしずつ食べられていって、気がついたときには忌獣の身体の中にいて、わたしはその血肉をとりこんで自分を再構成するの。もといたわたしはとっくの昔にいなくなっていて、今生きてるわたしは忌獣を利用して生み出した分身にすぎないんじゃないか――そんな風に思うと、怖くて――怖く、て……」
久瀬倉さんは両腕で自分の肩を抱いた。驚くほど華奢な久瀬倉さんの肩が小刻みに震えている。
「でも、わたしがやらなくちゃ。この街のために――三峯君のためにも、ね」
そうだ。ぼくは久瀬倉さんになんと言った?
――この街には、街の平和を願って、祈りを捧げてくれる巫女さんたちがいる。それは、なんていうか、すごく素敵なことだと思うんだ。
なんて、残酷なことを言っていたんだろう。
久瀬倉さんの苦痛と恐怖を知りもしないぼくは、安全な場所から手だけ振ってみせ、無責任に「がんばれ」と励ましていた。そのことが恥ずかしく――久瀬倉さんに対して申し訳ない。
「他の手段はないの?」
久瀬倉さんの他にも忌能を持つ人はいるはずだ。久瀬倉さんの話のなかでも、忌累機関という、忌能者を保護・監視しているらしい政府機関が出てきた。それに、筋から言えば、本来は政府機関が対処すべき問題だという気がする。
「今日みたいに忌獣を追儺するだけなら、ふつうの忌能者の人でもいいんだけど……わたしが今日、自分で追儺したのは、別の理由だから」
「別の理由?」
「今度、お祭りがあるの。久瀬倉家の封じてきた太古の鬼を封印し直す、十年に一度の大きなお祭り――当代の贄姫以外には詳細を伝えられない秘祭――〈万代〉」
「秘祭……〈万代〉」
「〈万代〉のために、わたしはすこしでも忌力を高めておく必要があるの。もし〈万代〉が失敗したら、封じられた太古の鬼が野に放たれてしまうから」
そう語る久瀬倉さんの顔は真剣で、荒唐無稽とすら言えそうな話を聞かせれているのに、真偽を疑う気にはなれなかった。
うつむいて黙り込んでしまった久瀬倉さんに声をかけようと、口を開きかけた時だ。
突然、部屋のチャイムが鳴った。
久瀬倉さんがぎくりと身をすくませた。
ぼくは久瀬倉さんを手で制してインターホンに出る。
そこに映っていたのは、タキシードを着た銀髪の男だ。
細身の男で、銀髪をうしろになでつけ、やや色の黒い端整な顔にどこか皮肉げな表情を浮かべている。
その奇異な出で立ちのせいで、いったいいくつくらいの男なのか、想像がつかない。
もちろん、ぼくにこんな知り合いはいない。
「どちら様で――」
『贄姫はそこにいるか』
ぼくの言葉を遮り、男は言った。
男の声が聞こえたらしく、久瀬倉さんが立ち上がり、ぼくのそばまでやってくる。
「代わって」
ぼくはインターホンの受話器を久瀬倉さんに手渡す。
「諸正さん」
『やはりそこか。早く出てこい』
「……わかりました」
諸正というらしい男はそれだけ言うとインターホンの通話ボタンを離した。久瀬倉さんの返事は途中だった。
「なんだよ、あいつ」
「久瀬倉家の執事をしている諸正さん。仕事の後に回収してもらう予定だったの」
「え? でもじゃあ……」
ぼくが久瀬倉さんをマンションに連れてきたのは余計なお世話だったのか。
「ううん。うれしかった。追儺のあとは、久瀬倉の人たちも、わたしのことを化け物でも見るかのような目で見るから」
久瀬倉さんの言葉に、ぼくは何も言えなくなる。
「……帰りたくない、な」
「久瀬倉さん……」
久瀬倉さんがぼくの胸にことりと頭を預けてきた。目の前で震える華奢な肩を抱きしめる勇気もないまま、ぼくはただ立ち尽くすことしかできない。
部屋に落ちた静寂を、乱暴なノックが破った。諸正だろう。
ぼくは玄関へ向かい、大きく深呼吸してからドアを開けた。
「贄姫を出せ」
諸正はぼくをろくに見もせずそう言った。
叩きつけられた言葉に脳が沸騰しそうになった。
「ここにいます」
久瀬倉さんが後ろからぼくのシャツを引きながらそう言った。
「……帰るぞ。おまえには男遊びしてる暇なんてないんだ」
あまりの言いように、ぼくは思わず口を挟んだ。
「ちょっと、贄姫としての務めを果たした久瀬倉さんに、そんな言い方はないでしょう!」
諸正ははじめてぼくの方を振り返り、
「これは久瀬倉家の問題だ。ガキが口を挟んでいいことじゃねえ」
「……ッ!」
「やめて!」
激昂しかけたぼくの前に、久瀬倉さんが割り込んだ。
久瀬倉さんは諸正の方を振り返り、
「もう、帰ります。それに、三峯君はわたしを助けようとしてくれたんです。いくらあなたでも、口が過ぎるようなら贄姫としての権限で処罰します」
諸正は露骨に舌打ちをした。
「……時期を考えろ、贄姫」
「わたしにやましいことはなにもありません」
諸正は舌打ちを重ねた。
「……五分で支度しろ」
諸正はぼくの部屋の前を離れ、マンションの非常階段へ向かった。闇の中に赤い光点が明滅する。煙草を吸っているのだろう。
「ごめんね」
久瀬倉さんが言うのに、
「べつに、久瀬倉さんは悪くないよ」
ぼくの顔にはあからさまに不機嫌が出ていたのだろう、久瀬倉さんは申し訳なさそうに眉を下げた。
支度といっても、ここに来たとき久瀬倉さんは裸だったのだから、持っていくものなど何もない。
「服、あとで返すから」
そう言って部屋を出て行く久瀬倉さんをぼくは見送るしかない。
胸のむかつきが抑えられず、ぼくはその夜、明け方近くまで寝つけなかった。
そこまで語った久瀬倉さんは、わずかにためらう様子を見せてから、言った。
「わたしは、〈贄姫〉なの」
「ニエ……ヒメ?」
生け贄の「贄」にお姫さまの「姫」で贄姫――だという。
「……なんだか不吉な言葉だね」
「そう……だね」
久瀬倉さんは再びためらいを見せてから、口を開く。
「贄姫は、鬼に食われることで鬼を食うの」
「食われることで……食う」
ぼくの脳裏に、ついさっき目撃した光景が浮かぶ。
月明かりしか差し込まない路地裏。グロテスクな化け物――〈巨人〉。そしてそれに食われる久瀬倉さん。〈巨人〉はその後、突然苦しみはじめ、その背中から全裸の久瀬倉さんが現れた――。
「つまり、久瀬倉さんはああして化け物に食われることで、化け物に取り込まれて、化け物を内側から食い破ることで倒す――ってこと?」
久瀬倉さんはうなずいた。
「そんな……」
ぼくは路地裏に入る前に久瀬倉さんのものらしい苦悶の声を聞いている。ぼくが駆けつけたときの久瀬倉さんは、もうほとんど動けなくなっていたけれど、まだ息はあるように見えた。つまり久瀬倉さんは、化け物に生きながらに食われる苦痛を堪え忍んでからでなくては化け物を倒すことができない……ということになる。
「痛く……ないの?」
思わず、そう聞いてしまう。
久瀬倉さんはうつむいて、
「……痛いよ。すごく、痛い。それに……怖い」
「怖い?」
「ときどき、自分が本当は誰なのか、わからなくなるの。〈追儺(ついな)〉の時は、自分の身体がすこしずつ食べられていって、気がついたときには忌獣の身体の中にいて、わたしはその血肉をとりこんで自分を再構成するの。もといたわたしはとっくの昔にいなくなっていて、今生きてるわたしは忌獣を利用して生み出した分身にすぎないんじゃないか――そんな風に思うと、怖くて――怖く、て……」
久瀬倉さんは両腕で自分の肩を抱いた。驚くほど華奢な久瀬倉さんの肩が小刻みに震えている。
「でも、わたしがやらなくちゃ。この街のために――三峯君のためにも、ね」
そうだ。ぼくは久瀬倉さんになんと言った?
――この街には、街の平和を願って、祈りを捧げてくれる巫女さんたちがいる。それは、なんていうか、すごく素敵なことだと思うんだ。
なんて、残酷なことを言っていたんだろう。
久瀬倉さんの苦痛と恐怖を知りもしないぼくは、安全な場所から手だけ振ってみせ、無責任に「がんばれ」と励ましていた。そのことが恥ずかしく――久瀬倉さんに対して申し訳ない。
「他の手段はないの?」
久瀬倉さんの他にも忌能を持つ人はいるはずだ。久瀬倉さんの話のなかでも、忌累機関という、忌能者を保護・監視しているらしい政府機関が出てきた。それに、筋から言えば、本来は政府機関が対処すべき問題だという気がする。
「今日みたいに忌獣を追儺するだけなら、ふつうの忌能者の人でもいいんだけど……わたしが今日、自分で追儺したのは、別の理由だから」
「別の理由?」
「今度、お祭りがあるの。久瀬倉家の封じてきた太古の鬼を封印し直す、十年に一度の大きなお祭り――当代の贄姫以外には詳細を伝えられない秘祭――〈万代〉」
「秘祭……〈万代〉」
「〈万代〉のために、わたしはすこしでも忌力を高めておく必要があるの。もし〈万代〉が失敗したら、封じられた太古の鬼が野に放たれてしまうから」
そう語る久瀬倉さんの顔は真剣で、荒唐無稽とすら言えそうな話を聞かせれているのに、真偽を疑う気にはなれなかった。
うつむいて黙り込んでしまった久瀬倉さんに声をかけようと、口を開きかけた時だ。
突然、部屋のチャイムが鳴った。
久瀬倉さんがぎくりと身をすくませた。
ぼくは久瀬倉さんを手で制してインターホンに出る。
そこに映っていたのは、タキシードを着た銀髪の男だ。
細身の男で、銀髪をうしろになでつけ、やや色の黒い端整な顔にどこか皮肉げな表情を浮かべている。
その奇異な出で立ちのせいで、いったいいくつくらいの男なのか、想像がつかない。
もちろん、ぼくにこんな知り合いはいない。
「どちら様で――」
『贄姫はそこにいるか』
ぼくの言葉を遮り、男は言った。
男の声が聞こえたらしく、久瀬倉さんが立ち上がり、ぼくのそばまでやってくる。
「代わって」
ぼくはインターホンの受話器を久瀬倉さんに手渡す。
「諸正さん」
『やはりそこか。早く出てこい』
「……わかりました」
諸正というらしい男はそれだけ言うとインターホンの通話ボタンを離した。久瀬倉さんの返事は途中だった。
「なんだよ、あいつ」
「久瀬倉家の執事をしている諸正さん。仕事の後に回収してもらう予定だったの」
「え? でもじゃあ……」
ぼくが久瀬倉さんをマンションに連れてきたのは余計なお世話だったのか。
「ううん。うれしかった。追儺のあとは、久瀬倉の人たちも、わたしのことを化け物でも見るかのような目で見るから」
久瀬倉さんの言葉に、ぼくは何も言えなくなる。
「……帰りたくない、な」
「久瀬倉さん……」
久瀬倉さんがぼくの胸にことりと頭を預けてきた。目の前で震える華奢な肩を抱きしめる勇気もないまま、ぼくはただ立ち尽くすことしかできない。
部屋に落ちた静寂を、乱暴なノックが破った。諸正だろう。
ぼくは玄関へ向かい、大きく深呼吸してからドアを開けた。
「贄姫を出せ」
諸正はぼくをろくに見もせずそう言った。
叩きつけられた言葉に脳が沸騰しそうになった。
「ここにいます」
久瀬倉さんが後ろからぼくのシャツを引きながらそう言った。
「……帰るぞ。おまえには男遊びしてる暇なんてないんだ」
あまりの言いように、ぼくは思わず口を挟んだ。
「ちょっと、贄姫としての務めを果たした久瀬倉さんに、そんな言い方はないでしょう!」
諸正ははじめてぼくの方を振り返り、
「これは久瀬倉家の問題だ。ガキが口を挟んでいいことじゃねえ」
「……ッ!」
「やめて!」
激昂しかけたぼくの前に、久瀬倉さんが割り込んだ。
久瀬倉さんは諸正の方を振り返り、
「もう、帰ります。それに、三峯君はわたしを助けようとしてくれたんです。いくらあなたでも、口が過ぎるようなら贄姫としての権限で処罰します」
諸正は露骨に舌打ちをした。
「……時期を考えろ、贄姫」
「わたしにやましいことはなにもありません」
諸正は舌打ちを重ねた。
「……五分で支度しろ」
諸正はぼくの部屋の前を離れ、マンションの非常階段へ向かった。闇の中に赤い光点が明滅する。煙草を吸っているのだろう。
「ごめんね」
久瀬倉さんが言うのに、
「べつに、久瀬倉さんは悪くないよ」
ぼくの顔にはあからさまに不機嫌が出ていたのだろう、久瀬倉さんは申し訳なさそうに眉を下げた。
支度といっても、ここに来たとき久瀬倉さんは裸だったのだから、持っていくものなど何もない。
「服、あとで返すから」
そう言って部屋を出て行く久瀬倉さんをぼくは見送るしかない。
胸のむかつきが抑えられず、ぼくはその夜、明け方近くまで寝つけなかった。
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