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第一章 忌まわしき世界
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◇三峯瞬/城ヶ崎市、自宅マンション
リビングの時計は午後十時を指していた。
いつもなら、風呂から上がり、明日の支度を済ませ、テレビを見たり、マンガを読んだりしながら就寝前のひとときを楽しむ時間だ。一日のうちでもっとも憩いに満ちた時間だと言っていい。
しかし――今日は。
リビングのソファに浅く腰掛けながら、ぼくは借りてきた映画に集中しようと懸命の努力を重ねながらも、ついにそれを果たせないでいた。
映画がつまらないわけではない。ひいきにしている監督の最新作で、レンタルの開始を今や遅しと待っていた作品だ。おもしろくないわけがない……はずだ。
にもかかわらず集中できない原因は、廊下からわずかに漏れ聞こえてくる、春の雨のように細かく弾ける水音だ。
その音はかそけく、注意しなければ聞き漏らしそうなくらい小さなものなのに、ぼくの意識的な努力とは裏腹に、その水音の含む過剰な意味がぼくの意識を圧倒し、いやが上にも注意を惹きつける。
水音が止んだ。浴室の扉が開く音が聞こえる。防音にもそれなりに配慮されたマンションなので、それ以上の物音は聞こえてこない。そのことに安堵しつつもどこかでがっかりしていることは認めないわけにはいかない。
数分間の静寂。いや、リビングのテレビには借りてきた映画が流れてるんだけど、ぼくの脳はその音声を完全にフィルタリングすることに決めてしまったらしく、まとまった意味を持たない雑音としか認識されない。心の中でひいきの監督に謝りながら、ぼくはリモコンの停止ボタンを押した。
洗面所と廊下を隔てる扉の開く音に控えめな足音が続く。リビングのドアが遠慮がちにノックされた。ノックの音はごく弱いものだったのに、ぼくの心臓は不自然に跳ねた。
「く、久瀬倉さん?」
「……うん」
リビングのドアが開いた。そこに現れたのはもちろん、久瀬倉さんだったのだが――
「……わっ、え、あっ!?」
ぼくの口から言葉にならない声が漏れた。
リビングに現れた久瀬倉さんは、その白い身体にバスタオルを一枚巻いているだけの姿だったのだ。
頬は桜色に染まり、長い黒髪は湿り気を帯びて肌に張りつき、白くて華奢な肩には、絶妙のラインを描く鎖骨が剥きだしになっている。ついさっき一糸まとわぬ姿を見たばかりではあるけれど、それで見慣れるなんてことはもちろんなく、目のやりどころに困ったぼくは、意味もなくそばのインターフォンと食器棚を見比べてしまった。
「服……なかったから」
久瀬倉さんがうらめしそうに言った。
「え、あ、あぁ……たしかに」
と、間の抜けた返事をしてしまう。
あの後、化け物の血肉にまみれた全裸の久瀬倉さんを放っておくわけにはいかず、「わたし、くさいよ?」などと遠慮する久瀬倉さんにブレザーをかぶせ、ぼくは久瀬倉さんの手を引いてぼくの住んでいるマンションへと駆け込んだ。
久瀬倉さんを浴室に押し込み、バスタオルを用意して、リビングに戻ってはじめて、ぼくは自分のやっていることの「意味」に思い至り、食器を磨いたり、おちつきなく部屋を歩き回ったり、映画をつけてみたりしながら、久瀬倉さんが風呂から上がってくるのを待っていた――というわけだ。
そういえば、バスタオルこそ用意したものの、久瀬倉さんに着替えがいることなど頭の中からすっ飛んでしまっていた。
「……そういう意味なのかと思った」
「そういう意味?」
「その、これからすることに服なんていらないだろ……みたいな」
ぼくは一瞬ぽかんとしてから、久瀬倉さんの言わんとしていることに気がついた。
「い、いや! まさか! そんなつもりはなくて、ただ動転して忘れてただけで……!」
あわてて否定するぼくを見て、久瀬倉さんはくすりと笑った。
「ふふっ。だよね。わたしったら勘違いして焦って、ばかみたい」
「ぼ、ぼくのほうこそ気がつかなくてごめん。すぐに着替え、用意するから」
「ありがとう。でも、わたし、三峯君なら――」
「え、ええっ!?」
「なんでもない」
久瀬倉さんはまた小さく笑った。
「からかわないでよ」
言いながら、ぼくは自分の部屋に入って、室内着用のジャージとシャツをとりだす。
久瀬倉さんは小柄だけど、ぼくも同級生の中では小さい方だから大丈夫だろう。
「これでいい?」
「うん」
久瀬倉さんはジャージを受け取ると、いったん洗面所に戻り、ジャージに着替えはじめる。
ぼくはそのあいだにティーバッグの紅茶を入れた。
紅茶を入れたマグを食卓に置いたところで、久瀬倉さんが戻ってきた。
「ちょっと大きかったね」
ジャージは袖や裾があまってだぶつき、シャツの裾もだらしない感じだ。
「わたし、小さいから」
久瀬倉さんは食卓に着き、マグを手に取る。
「冷めないうちにどうぞ。ティーバッグだけど」
久瀬倉さんはうなずいてマグに口をつける。ぼくも自分用に入れた紅茶をすする。
「あの、ご家族は?」
久瀬倉さんが上目づかいに聞いてくる。
「ああ、ぼくは一人暮らしなんだ」
「え……」
「両親はそれぞれ海外に出張中でさ。しばらくのあいだ、学校に近いここを借りて、ぼくだけで住んでる」
「……そ、そうなんだ」
「いやその、何もしないよ?」
「う、うん。わかってる……」
と言う割に身を固くしてるんだけど、女の子としてはしょうがないのかな。
「久瀬倉さんのこと……聞いていい?」
「……うん」
久瀬倉さんは迷った様子を見せたが、うなずいてくれた。
「ええっと、どこから話したらいいかな……」
久瀬倉さんは思案しつつ、語り始めた。
あの化け物、久瀬倉さんの異能、久瀬倉家の秘密、そして――世界そのものの成り立ちに至るまで。
久瀬倉さんの桜色の唇から紡がれていく、にわかには信じがたい、現実離れした話を、ぼくは異国の香でも嗅いでいるかのような酩酊感を覚えながら聞き続けた。
リビングの時計は午後十時を指していた。
いつもなら、風呂から上がり、明日の支度を済ませ、テレビを見たり、マンガを読んだりしながら就寝前のひとときを楽しむ時間だ。一日のうちでもっとも憩いに満ちた時間だと言っていい。
しかし――今日は。
リビングのソファに浅く腰掛けながら、ぼくは借りてきた映画に集中しようと懸命の努力を重ねながらも、ついにそれを果たせないでいた。
映画がつまらないわけではない。ひいきにしている監督の最新作で、レンタルの開始を今や遅しと待っていた作品だ。おもしろくないわけがない……はずだ。
にもかかわらず集中できない原因は、廊下からわずかに漏れ聞こえてくる、春の雨のように細かく弾ける水音だ。
その音はかそけく、注意しなければ聞き漏らしそうなくらい小さなものなのに、ぼくの意識的な努力とは裏腹に、その水音の含む過剰な意味がぼくの意識を圧倒し、いやが上にも注意を惹きつける。
水音が止んだ。浴室の扉が開く音が聞こえる。防音にもそれなりに配慮されたマンションなので、それ以上の物音は聞こえてこない。そのことに安堵しつつもどこかでがっかりしていることは認めないわけにはいかない。
数分間の静寂。いや、リビングのテレビには借りてきた映画が流れてるんだけど、ぼくの脳はその音声を完全にフィルタリングすることに決めてしまったらしく、まとまった意味を持たない雑音としか認識されない。心の中でひいきの監督に謝りながら、ぼくはリモコンの停止ボタンを押した。
洗面所と廊下を隔てる扉の開く音に控えめな足音が続く。リビングのドアが遠慮がちにノックされた。ノックの音はごく弱いものだったのに、ぼくの心臓は不自然に跳ねた。
「く、久瀬倉さん?」
「……うん」
リビングのドアが開いた。そこに現れたのはもちろん、久瀬倉さんだったのだが――
「……わっ、え、あっ!?」
ぼくの口から言葉にならない声が漏れた。
リビングに現れた久瀬倉さんは、その白い身体にバスタオルを一枚巻いているだけの姿だったのだ。
頬は桜色に染まり、長い黒髪は湿り気を帯びて肌に張りつき、白くて華奢な肩には、絶妙のラインを描く鎖骨が剥きだしになっている。ついさっき一糸まとわぬ姿を見たばかりではあるけれど、それで見慣れるなんてことはもちろんなく、目のやりどころに困ったぼくは、意味もなくそばのインターフォンと食器棚を見比べてしまった。
「服……なかったから」
久瀬倉さんがうらめしそうに言った。
「え、あ、あぁ……たしかに」
と、間の抜けた返事をしてしまう。
あの後、化け物の血肉にまみれた全裸の久瀬倉さんを放っておくわけにはいかず、「わたし、くさいよ?」などと遠慮する久瀬倉さんにブレザーをかぶせ、ぼくは久瀬倉さんの手を引いてぼくの住んでいるマンションへと駆け込んだ。
久瀬倉さんを浴室に押し込み、バスタオルを用意して、リビングに戻ってはじめて、ぼくは自分のやっていることの「意味」に思い至り、食器を磨いたり、おちつきなく部屋を歩き回ったり、映画をつけてみたりしながら、久瀬倉さんが風呂から上がってくるのを待っていた――というわけだ。
そういえば、バスタオルこそ用意したものの、久瀬倉さんに着替えがいることなど頭の中からすっ飛んでしまっていた。
「……そういう意味なのかと思った」
「そういう意味?」
「その、これからすることに服なんていらないだろ……みたいな」
ぼくは一瞬ぽかんとしてから、久瀬倉さんの言わんとしていることに気がついた。
「い、いや! まさか! そんなつもりはなくて、ただ動転して忘れてただけで……!」
あわてて否定するぼくを見て、久瀬倉さんはくすりと笑った。
「ふふっ。だよね。わたしったら勘違いして焦って、ばかみたい」
「ぼ、ぼくのほうこそ気がつかなくてごめん。すぐに着替え、用意するから」
「ありがとう。でも、わたし、三峯君なら――」
「え、ええっ!?」
「なんでもない」
久瀬倉さんはまた小さく笑った。
「からかわないでよ」
言いながら、ぼくは自分の部屋に入って、室内着用のジャージとシャツをとりだす。
久瀬倉さんは小柄だけど、ぼくも同級生の中では小さい方だから大丈夫だろう。
「これでいい?」
「うん」
久瀬倉さんはジャージを受け取ると、いったん洗面所に戻り、ジャージに着替えはじめる。
ぼくはそのあいだにティーバッグの紅茶を入れた。
紅茶を入れたマグを食卓に置いたところで、久瀬倉さんが戻ってきた。
「ちょっと大きかったね」
ジャージは袖や裾があまってだぶつき、シャツの裾もだらしない感じだ。
「わたし、小さいから」
久瀬倉さんは食卓に着き、マグを手に取る。
「冷めないうちにどうぞ。ティーバッグだけど」
久瀬倉さんはうなずいてマグに口をつける。ぼくも自分用に入れた紅茶をすする。
「あの、ご家族は?」
久瀬倉さんが上目づかいに聞いてくる。
「ああ、ぼくは一人暮らしなんだ」
「え……」
「両親はそれぞれ海外に出張中でさ。しばらくのあいだ、学校に近いここを借りて、ぼくだけで住んでる」
「……そ、そうなんだ」
「いやその、何もしないよ?」
「う、うん。わかってる……」
と言う割に身を固くしてるんだけど、女の子としてはしょうがないのかな。
「久瀬倉さんのこと……聞いていい?」
「……うん」
久瀬倉さんは迷った様子を見せたが、うなずいてくれた。
「ええっと、どこから話したらいいかな……」
久瀬倉さんは思案しつつ、語り始めた。
あの化け物、久瀬倉さんの異能、久瀬倉家の秘密、そして――世界そのものの成り立ちに至るまで。
久瀬倉さんの桜色の唇から紡がれていく、にわかには信じがたい、現実離れした話を、ぼくは異国の香でも嗅いでいるかのような酩酊感を覚えながら聞き続けた。
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