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第一章 忌まわしき世界
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◇三峯瞬/城ヶ崎市、センター街から離れた路地裏
ぼくは路地裏で、全裸の少女と見つめあっていた。
路地裏に差し込むのは、頭上にさしかかった満月の光と、遠く路地の奥から届くセンター街のネオンだけで、当然のことながら薄暗い。
にもかかわらず少女の白い――白すぎる裸身は、銀色に輝く月の光と猥雑なネオン光に交互に照らし出されてきらめき、少女の浮き世離れした人を寄せ付けない雰囲気と、それと裏腹になった蠱惑的な色香とがわかちがたく匂い立ち、ぼくの思考回路を麻痺させる。
一糸まとわぬ、と言いたいところだが、厳密にはそうではない。たしかに少女は衣類を身につけていないが、そのかわりに――というべきか、全身にこの世のものとは思えない化け物の血肉を纏っている。
それもそのはず、少女はたった今、化け物の背中を割ってこの路地裏に現れたのだ。
少女は、ぼく――三峯瞬の知り合いだった。
血にまみれた少女は、そこだけはいつも通りの、薄い桜色の唇を開いた。
「三峯……君?」
「……久瀬倉さん」
ぼくと少女――久瀬倉春姫はしばし見つめ合う。
ネオンは一定の間隔でその色を取り替えながら久瀬倉さんの裸身を照らし出し、遠くからは消防車のサイレンの音が聞こえてくる。
どうしてこんなことになったのか?
それを説明するには時間をさかのぼる必要がある。
同級生・久瀬倉春姫の様子がおかしいのに気づいたのは、偶然ではなかった。
それはよく見ていなければ気づかないような変化で、ぼくがそれに気づいたのは、彼女のことをいつしか目で追うようになっていたからに他ならない。
きっかけは些細なことだ。
私立城ヶ崎学園中等部二年A組の教室は旧校舎三階の東端にあり、校庭の隅にあるごみの集積所からはいちばん遠い。ぼくは運悪く週末の日直にあたり、ごみを集積所に捨てに行くことになった。
たいていの女子はこの仕事を嫌がって、それとなく、あるいはあからさまに男子の日直に押しつけるのがふつうで、クラス替えがあったばかりの四月初旬の日直でもその風潮は変わらない。
ぼくとしても面倒には違いないけれど、新しいクラスになって早々にトラブルを起こしたくはないので、同じ日直の女の子にとくに断ることなしにゴミ箱を持って教室を出ようとした。
その時に話しかけてきたのが久瀬倉さんだった。
「わたしも、日直です」
朝から一緒に日直をやっているのだから当然知っている。
「いいよ。ぼくがやっておく」
そう言って教室を出たぼくのあとを、彼女は追ってきた。
ぼくがふりかえって彼女を見ると、
「……そんなの、悪いから」
細い声で、しかしはっきりした口調でそう言ってくる。
結局ぼくらはゴミ箱の縁を片方ずつ持って並んで歩くことになった。
歩幅の小さい彼女にあわせて歩くよりも、ぼく一人で運んだ方が早いのは確かだろうけど、そんな風に気遣ってもらえるのは悪い気分じゃない。
ぼくは改めて彼女を見た。
彼女は、男子としては小柄なはずのぼくよりも背が低くて、自然、軽く見下ろす形になる。
丁寧に櫛づけられた長い黒髪が、頭のまんなかで綺麗に分けられている。歩くたびに揺れる前髪のあいだからのぞくのは、長い睫に縁取られた目と、きめの細かい白磁の肌。
これといった表情を浮かべているわけではないのに、頬や鼻梁のラインのやわらかさのせいで、わずかに微笑んでいるように錯覚する。
率直に言って、とても綺麗な女の子だ。個人の好みを考えなければ、たぶんクラスで一番――いや、学年で一番かもしれない。
「……どうしたの?」
久瀬倉さんが自分を見つめるぼくに気づいて小首をかしげた。
その拍子に髪が揺れて、渡り廊下の曇りガラスを通じて差し込む光で輝いた。日光を受けた久瀬倉さんの髪が、銀色がかった光を返したように見えた。
「……え」
思わず声が漏れた。
久瀬倉さんはゴミ箱を持っていない方の手で髪を軽く梳き、
「わたしの髪は、ちょっと変わってるんです」と言った。
年を取って白髪という人はいるけれど、黒い髪に光を当てればふつうは栗色に透けて見えるはずだ。それに、さっきの髪の輝きはあくまで銀色であって、年を取った人の白髪とは似て非なるものだった。
「……わたしの家のことは知ってる?」
「う、うん。この街の名士だって聞いたけど」
久瀬倉家は城ヶ崎市では知らないもののない名家であり、中央政界にまで根を張る旧財閥家だった。この城ヶ崎学園をはじめ、市内の主要な施設、組織はなんらかの形で久瀬倉家からの出資を受けており、程度の差こそあれ、久瀬倉家の影響下にある。城ヶ崎市は中央政府から地方自治体としては破格の自治権を与えられており、名実ともに久瀬倉家の「城下町」だと言っても過言ではない。
「久瀬倉は、もとは巫女の家系なの」
「巫女?」
話をしている間にぼくらは校庭の隅にある集積所にたどり着いていた。ぼくはゴミ箱を持ち上げてその中身を集積所の大きなダストボックスに移し替える。
「この城ヶ崎には魔が現れるの」
「魔?」
いきなりの話にぼくの手が滑り、ゴミ箱の縁がダストボックスの縁にぶつかって、金属のたわむ間抜けな音を立てた。
「うん。久瀬倉は、その魔を封じる巫女の家系なの。この髪は、わたしが巫女の血を引く証なんだって」
久瀬倉さんは髪を小さく揺すって見せた。落ちかけの日は集積所に斜めに差し込んでいて、その光がちょうど久瀬倉さんの横顔を照らし、その長い髪を銀色にきらめかせる。と同時に、久瀬倉さんの瞳に夕日の朱が差し込んで、さながら炎を移したようにゆらめいた。その光景は、久瀬倉さんがその薄い桜色の唇から漏らした、「巫女」「魔」といった浮き世離れした言葉に、不思議な説得力を与えていた。
「……こんなこと言われても、困るよね?」
久瀬倉さんがぼくの目をのぞきこむように見上げながら、困ったような笑みを浮かべた。
「いや……」
ぼくの返事は曖昧なものになってしまった。
「ううん、いいの。べつに、信じてほしいわけじゃなくて……」
久瀬倉さんは言葉を切って、首をかしげる。自分の気持ちを表現する的確な言葉が見当たらない――という感じだ。
「巫女はこの街を守るために身を捧げているの。でも、そのことを誰も知らないの。それが、わたしにはちょっと……寂しい」
ぼくらの足下にまで迫っていた校舎の陰がわずかに動き、久瀬倉さんの瞳に重なった。久瀬倉さんの瞳に宿っていた夕日はかき消え、そこには暗い虚無のみが残された。
その光景に、ぼくは言いようのない焦りを感じ、考えるより先に口を開いていた。
「ぼくは、知ってるよ。覚えておく」
久瀬倉さんがはっとした表情でぼくを見た。
「今、教えてもらった。この街には、街の平和を願って、祈りを捧げてくれる巫女さんたちがいる。それは、なんていうか、すごく素敵なことだと思うんだ」
祈りに、何の力があるだろう。
心の中で何を念じようと、世界に対してわずかばかりの影響を及ぼすことすらできはしない。
それでも、この街のどこかで、ぼくを含む街の人々のために祈りを捧げてくれている存在がいるのだと知ることは、心の奥底の部分でぼくを支えてくれるような気がする。
久瀬倉さんは目を見開いて、言葉を失っていた。
それから、目を細め、頬を緩めて、言った。
「ありがとう。わたし、がんばる。みんなのために。三峯君のためにも」
夕日が校舎の窓にさしかかったらしく、久瀬倉さんの瞳に再び日の光が点った。
だけど、それ以上にまぶしかったのは久瀬倉さんの浮かべたあどけないその笑顔で――ぼくはその笑顔が忘れられなくて、その次の日も、そのまた次の日も、教室で、廊下で、久瀬倉さんの姿を目で追っていた。
ぼくの視線に気づくと、久瀬倉さんはわずかに目を細めることで答えてくれた。
それは、言葉をかわすこともない、ごくささやかな交流だったけれど、あの日の放課後、久瀬倉さんの瞳に宿った夕日の温度が、ぼくの心の奥底に伝わってくるような、そんな甘やかな感触をぼくは覚えるようになった。
だから、ぼくは久瀬倉さんの変化にはすぐに気がついた。
一緒に日直をしたあの日から三日ほど経った頃から、いつもわずかに微笑んでいるように見える久瀬倉さんの表情が、時折ふいにしかめられたり、強ばったりするのを見かけるようになった。
その頻度が、日に日に増えていく。
「どうしたの?」
思い切って、そう声をかけた。
端正な顔立ちにやさしい表情を添える久瀬倉さんだが、その実、女子からも男子からも敬遠されている。
久瀬倉の名がそれほどまでに重いということもあるけど、他ならぬ久瀬倉さん自身が他人との深い関わりを避けているような節もあった。
そんな久瀬倉さんに教室で話しかけるのは難しくて、情けなくも、放課後、久瀬倉さんが昇降口から出てくるのを待ち伏せさせてもらうことにした。
「……だいじょうぶ、だよ」
久瀬倉さんの声には疲労が滲んでいるように思えた。
「その、巫女としての仕事?」
「うん」
久瀬倉さんの声は少しかすれていた。
力なげなその声には、しかし、何か硬質なものが宿っていて、久瀬倉さんがそれ以上の詮索を望んでいないことがわかる。
「立ち入ったこと聞いちゃったかな」
「そんな……こと」
ない、とは言わなかった。
「ごめんね。でも、ちょっと辛そうに見えたから、気になっちゃってさ」
「……うん」
久瀬倉さんは小さくなった。ぼくに心配をかけたことを気に病んだのかもしれない。
「いや、ぼくが勝手に心配しただけだからさ。気にしないで」
「……うん」
ますます小さくなる久瀬倉さん。
「えーっと……」
かける言葉が見つからず、ぼくは視線を宙にさまよわせた。
それから、なんとかまともそうな言葉を探り出して、口にする。
「その、ぼくにできることがあったら何でもするから。……って、ないよね、そんなの」
久瀬倉さんの元気のなさが久瀬倉家の巫女としての務めによるものだとしたら、部外者のぼくにできることなんて何もないだろう。
ぼくはあわてて他の言葉を探し始める。
が、
「ううん。あるよ、三峯君にしてもらいたいこと」
久瀬倉さんが顔を上げた。
「え、あるの? それって……」
「うん。あのね……祈っていて、ほしいの」
「祈る?」
「そう。わたしはみんなのために務めを果たすから、三峯君はわたしのために祈ってほしいの」
「でも……」
祈ったところで、久瀬倉さんの辛さが和らぐとも思えない。
「三峯君が言ったんだよ? 誰かがじぶんのために祈ってくれてるってことは、とても素敵なことだって」
たしかに言った。街の平和を祈ってくれる巫女さんがいるってことは、とても素敵なことだと思う――このあいだの日直の時にぼくは久瀬倉さんにそう言った。
久瀬倉さんがぼくの言葉を心にとめてくれていたことは、素直にうれしかった。
でも、ぼくとしては、もっと直接久瀬倉さんの役に立つことがしたかった。
そこには、惹かれている女の子に近づきたいという打算もあるのかもしれないけれど、それを差し引いてもやはり、久瀬倉さんが辛そうなのを黙って見ていられないという切迫した感情もあった。
(だけど――)
久瀬倉さんからもらった、心の奥底に湧き出る暖かい何かが、ぼくを説得した。
「うん、わかった。ぼくは久瀬倉さんのために祈るよ。久瀬倉さんがぼくらのために祈ってくれているように」
「……ありがとう」
そう言って微笑んだ久瀬倉さんの表情は、日直の時の表情とよく似てはいたけれど、どこか力がなくて、影が差しているような印象をもたらすものだった。
そして今日。
放課後、城ヶ崎市センター街のレンタルビデオ店に立ち寄ったぼくは、店を出るなり、視界の隅にかすかな銀の光を見たような気がした。
あわてて視線を向けると、かなり離れた路上に、久瀬倉さんがぼくに背を向ける形で立っているのが見えた。
地平線近くにある夕日の逆光が厳しくて見にくいけれど、それはたしかに久瀬倉さんだった。久瀬倉さんはぼくに気づくことなく姿を消した。たぶん、角を曲がったのだろう。
ぼくは早足で久瀬倉さんのいた場所に向かった。
そこには小さな花屋と現在は営業していない古い呉服店とが並んでいた。
久瀬倉さんの興味を惹きそうなものはとくにない。花屋は仏壇や神棚に供える花や榊を扱う地味なお店で、ぼくと同い年の女の子が注目するようなものはなかったし、店じまいして鎧戸が下りたままの呉服店はなおさらだ。
ぼくは久瀬倉さんの姿を探して周囲を見た。
理由なんてない。気になっている女の子を見かけたら、みんなそうするんじゃないかと思う。それに、ここ数日、久瀬倉さんの様子はおかしかった。久瀬倉の巫女としての務めというのは、そんなにも厳しいものなのだろうか?
と、
「わっ!」
花屋と店じまいした呉服屋のあいだから、突然何かが飛び出してきて、ぼくはとっさに飛び退いた。
それは――
「……猫?」
飛び出してきたのは痩せた白猫だった。野良なのだろう、泥や埃で汚れ、毛がからまりあって地肌がのぞいている。その白猫は、目を見開き、小さな牙を剥きだしにしたすごい形相でぼくの前を駆け抜けていった。
ぼくは白猫の飛び出してきた方を見た。
そこには細い路地があった。花屋と呉服屋のあいだに身体を斜めにすれば通れる程度の隙間があり、その奥にもう少し広い空間があるように見える。
(……こんな路地、あったっけ?)
久瀬倉さんを探してこの周囲を見渡したのはついさっきのことで、いくら細いとはいえ、目の前にある路地を見逃したとは思えない。何かに化かされたような気分だ。
そう、何かに――
(「魔」……)
久瀬倉さんの漏らしたそんな言葉が浮かんでくる。
ばかばかしい――そう思ったが、ではなぜ先ほどの白猫は血相を変えて路地から飛び出してきたのか? なぜぼくは目の前にあるこんなわかりやすい路地に気づかなかったのか?
路地には暮れかけた夕日は差し込まず、一足先に夜の闇に包み込まれている。そこから漂ってくるのはかすかな冷気と――
「……声」
それも尋常な声じゃない。それは押し殺されてはいるが、明らかに苦悶の声だった。身をさいなむ苦痛に必死で耐えているような声だ。若い、幼いと言ってもいいような女性の声。
そしてこの通りにはたぶん、久瀬倉さんが入っていった。
「……!」
ぼくはあわてて路地に飛び込んだ。
その瞬間、ごくわずかに身体がひきつるような感覚があったが、そんなものは気にしていられない。
そして――目撃してしまった。
おそらくは商店主が荷の搬出に使うのだろう、路地裏には車が数台止められそうなスペースがあった。
そこにいたのは久瀬倉さんと、血色の巨獣。
身の丈二メートルは超えそうなその巨獣は、ぼくの知るどんな生き物とも似ていない。
しいていえばファンタジー映画に出てくる巨人――単眼鬼(サイクロプス)のような――に似ている。
血肉を粘土のようにこね上げて作ったかのようなグロテスクな身体は、おおまかにいえば人型だ。ただ、先端のとがった擂り鉢形の頭や肩と区別のつかない太い首は特撮映画の宇宙怪獣のようだし、肩から先には熊のような太く毛深い大きな腕がついている。それとは対照的に胴は細くくびれていて、腰から下には、むしろ貧弱に見えそうなくらい華奢な、有蹄類のそれに類似した脚が生えている。
その〈巨人〉が――久瀬倉さんを食べていた。
久瀬倉さんは路地裏のアスファルトの上に倒れ、うつろな瞳で空を見つめながら身じろぎもしていない。
久瀬倉さんには、すでに下半身が、なかった。
「――ッ!!」
ぼくの絶叫には声が伴わなかった。目の前にいる化け物の注意を惹かないように噛み殺した――わけではない。激しい驚愕と動揺でぼくの呼吸が混乱し、呼気と吸気がぶつかりあって、絶叫が声なき擦過音と激しい喉の痛みに変換されたというだけだ。
久瀬倉さんは制服を着ていた。さっきセンター街で見かけたときも制服だったと思う。
学校では折り目正しく整えられていたその制服は、見る陰もない状態になっている。
スカートはびりびりに破れて路上に散らばり、その破片のいくつかは〈巨人〉の牙の隙間から垂れ下がっている。
久瀬倉さんの残された上半身はまだブレザーとブラウスに覆われているが、両者は久瀬倉さんの血でどす黒く染まっていた。
そして、ブラウスの下からのぞくのは、久瀬倉さんの白磁のように透き通った肌ではなく、久瀬倉さんの贓物だった。〈巨人〉は、鋭い爪のついた指で久瀬倉さんの腸をひっぱりだし、中身をすすりあげてから、残された腸管をガムのように噛みしめ、味わっている。肉に埋もれて判然としない〈巨人〉の口許が愉悦に歪んでいるような気がした。
「……あ……っ」
あまりの光景に、ぼくは身じろぎすることすらできなかった。
久瀬倉さんを助けなければ――そう頭の一部が主張するが、やめておけ、どう見ても手遅れだ、それより逃げなければ自分も危うい――そう囁きかける一派もある。大体、どうやってあの化け物から久瀬倉さんを助けられる? これはマンガやゲームじゃない。何の力もないぼくにできることなんてあるのか?
そんな冷酷な、しかし現実的な計算をしながら、それでもやはりぼくは久瀬倉さんを諦めることができない。淡い日だまりのような優しい笑みを浮かべる久瀬倉さんの顔が脳裏一杯に広がってきてぼくを動けなくする。
しかしその久瀬倉さんは今、贓物をこぼしながら痙攣している。〈巨人〉は久瀬倉さんのブラウスを剥ぎ取り、血の気の失せた乳房を削り、喰らうと、胸の周り――肋骨と肩胛骨に囲まれたあたりに拳を打ち付け、骨を砕く。骨が折れ、肉が潰れるその音がぼくの耳にこびりついた。〈巨人〉はそのなかからわずかに収縮をくりかえす心臓をもぎとり、呑み込む。肉のちぎれる音とともに、〈巨人〉の牙の隙間から鮮血が零れた。
もう、どうあっても久瀬倉さんは助からない――そうとわかっても、ぼくの足は動こうとしない。
わたしのために祈ってほしい。
そう言っていた女の子が、こんなわけのわからない化け物に食われて終わる。
そんな理不尽な結末に対する怒りがぼくの足をこの場にとどめる。
それでもぼくにできることといったら、それこそ久瀬倉さんのために祈ることくらいしかない。
せめて見届けたい。そんな実利のない感情に動かされ、〈巨人〉の食餌をぼくは固唾を呑んで見守り続けた。
〈巨人〉は久瀬倉さんの細い両腕をもぎとり、クリスマスに七面鳥を食べるようにして肉を食い散らかし、残った骨は顎の力で破壊し、咀嚼した。
ああ、目が霞む。ぼくの脳が眼前の凄惨な光景に拒否反応を起こし、意識が白んでいこうとする。ぼくは唇を噛み、爪を手のひらに食い込ませ、必死にこらえた。
久瀬倉さんの両腕を呑み込んだ〈巨人〉は、最後に残された久瀬倉さんの頭にも手を伸ばした。
〈巨人〉は大口を開けて久瀬倉さんの頭蓋に噛みつくが、さすがにひと呑みにはできず、口腔の奥にある臼歯で久瀬倉さんの頭蓋骨をかみ砕いた。久瀬倉さんの頭から脳漿が飛び散る。唇から零れたそれを、〈巨人〉は舌を伸ばして舐め取った。
その拍子に、牙の隙間から何かが落ちた。久瀬倉さんの眼球だった。その眼球は地面を転がり、ぼくのほうに黒目を向けて静止した。
その瞳がぼくを見ているような気がして、ぼくは喉の奥で引き攣れたような悲鳴を上げた。
その、次の瞬間だった。
〈巨人〉がふいに動きを止めた。
(……?)
その動きは明らかに不自然だった。
そして。
路地裏の暗がりで暴虐をほしいままにしていた〈巨人〉が、くずおれた。
背を丸めてうずくまった〈巨人〉が、胸を激しくかきむしる。鋭い爪が自らの肉を裂くのにも頓着せず、喉の奥から咆吼と紛う重い苦悶の声を漏らしながら、四肢をめちゃくちゃに動かして暴れ続ける。
〈巨人〉の身体から血煙が舞った。久瀬倉さんを無残に引き裂いた〈巨人〉の鋭い爪が、今度は〈巨人〉自身の肉を裂き、筋を断ち、骨を砕き――そのことでますます激昂して〈巨人〉は荒ぶる。
〈巨人〉が暴れるたびに地面が揺れ、咆吼する度に空気が震え、路地裏に潜むぼくは生きた心地がしなかった。
が、それも長くは続かなかった。自らの力で自らを破壊した〈巨人〉は、やがてまともに立っていることすらできなくなり、血と肉とをまき散らしながら、ひび割れだらけになったアスファルトの上にどっと倒れた。
〈巨人〉はしばらくのあいだ細かな痙攣を繰り返し――やがて、動かなくなった。
そして――その背を割って。
久瀬倉さんが、現れたのだ。
一糸まとわぬ姿で――〈巨人〉の血肉を身に纏って。
ぼくは路地裏で、全裸の少女と見つめあっていた。
路地裏に差し込むのは、頭上にさしかかった満月の光と、遠く路地の奥から届くセンター街のネオンだけで、当然のことながら薄暗い。
にもかかわらず少女の白い――白すぎる裸身は、銀色に輝く月の光と猥雑なネオン光に交互に照らし出されてきらめき、少女の浮き世離れした人を寄せ付けない雰囲気と、それと裏腹になった蠱惑的な色香とがわかちがたく匂い立ち、ぼくの思考回路を麻痺させる。
一糸まとわぬ、と言いたいところだが、厳密にはそうではない。たしかに少女は衣類を身につけていないが、そのかわりに――というべきか、全身にこの世のものとは思えない化け物の血肉を纏っている。
それもそのはず、少女はたった今、化け物の背中を割ってこの路地裏に現れたのだ。
少女は、ぼく――三峯瞬の知り合いだった。
血にまみれた少女は、そこだけはいつも通りの、薄い桜色の唇を開いた。
「三峯……君?」
「……久瀬倉さん」
ぼくと少女――久瀬倉春姫はしばし見つめ合う。
ネオンは一定の間隔でその色を取り替えながら久瀬倉さんの裸身を照らし出し、遠くからは消防車のサイレンの音が聞こえてくる。
どうしてこんなことになったのか?
それを説明するには時間をさかのぼる必要がある。
同級生・久瀬倉春姫の様子がおかしいのに気づいたのは、偶然ではなかった。
それはよく見ていなければ気づかないような変化で、ぼくがそれに気づいたのは、彼女のことをいつしか目で追うようになっていたからに他ならない。
きっかけは些細なことだ。
私立城ヶ崎学園中等部二年A組の教室は旧校舎三階の東端にあり、校庭の隅にあるごみの集積所からはいちばん遠い。ぼくは運悪く週末の日直にあたり、ごみを集積所に捨てに行くことになった。
たいていの女子はこの仕事を嫌がって、それとなく、あるいはあからさまに男子の日直に押しつけるのがふつうで、クラス替えがあったばかりの四月初旬の日直でもその風潮は変わらない。
ぼくとしても面倒には違いないけれど、新しいクラスになって早々にトラブルを起こしたくはないので、同じ日直の女の子にとくに断ることなしにゴミ箱を持って教室を出ようとした。
その時に話しかけてきたのが久瀬倉さんだった。
「わたしも、日直です」
朝から一緒に日直をやっているのだから当然知っている。
「いいよ。ぼくがやっておく」
そう言って教室を出たぼくのあとを、彼女は追ってきた。
ぼくがふりかえって彼女を見ると、
「……そんなの、悪いから」
細い声で、しかしはっきりした口調でそう言ってくる。
結局ぼくらはゴミ箱の縁を片方ずつ持って並んで歩くことになった。
歩幅の小さい彼女にあわせて歩くよりも、ぼく一人で運んだ方が早いのは確かだろうけど、そんな風に気遣ってもらえるのは悪い気分じゃない。
ぼくは改めて彼女を見た。
彼女は、男子としては小柄なはずのぼくよりも背が低くて、自然、軽く見下ろす形になる。
丁寧に櫛づけられた長い黒髪が、頭のまんなかで綺麗に分けられている。歩くたびに揺れる前髪のあいだからのぞくのは、長い睫に縁取られた目と、きめの細かい白磁の肌。
これといった表情を浮かべているわけではないのに、頬や鼻梁のラインのやわらかさのせいで、わずかに微笑んでいるように錯覚する。
率直に言って、とても綺麗な女の子だ。個人の好みを考えなければ、たぶんクラスで一番――いや、学年で一番かもしれない。
「……どうしたの?」
久瀬倉さんが自分を見つめるぼくに気づいて小首をかしげた。
その拍子に髪が揺れて、渡り廊下の曇りガラスを通じて差し込む光で輝いた。日光を受けた久瀬倉さんの髪が、銀色がかった光を返したように見えた。
「……え」
思わず声が漏れた。
久瀬倉さんはゴミ箱を持っていない方の手で髪を軽く梳き、
「わたしの髪は、ちょっと変わってるんです」と言った。
年を取って白髪という人はいるけれど、黒い髪に光を当てればふつうは栗色に透けて見えるはずだ。それに、さっきの髪の輝きはあくまで銀色であって、年を取った人の白髪とは似て非なるものだった。
「……わたしの家のことは知ってる?」
「う、うん。この街の名士だって聞いたけど」
久瀬倉家は城ヶ崎市では知らないもののない名家であり、中央政界にまで根を張る旧財閥家だった。この城ヶ崎学園をはじめ、市内の主要な施設、組織はなんらかの形で久瀬倉家からの出資を受けており、程度の差こそあれ、久瀬倉家の影響下にある。城ヶ崎市は中央政府から地方自治体としては破格の自治権を与えられており、名実ともに久瀬倉家の「城下町」だと言っても過言ではない。
「久瀬倉は、もとは巫女の家系なの」
「巫女?」
話をしている間にぼくらは校庭の隅にある集積所にたどり着いていた。ぼくはゴミ箱を持ち上げてその中身を集積所の大きなダストボックスに移し替える。
「この城ヶ崎には魔が現れるの」
「魔?」
いきなりの話にぼくの手が滑り、ゴミ箱の縁がダストボックスの縁にぶつかって、金属のたわむ間抜けな音を立てた。
「うん。久瀬倉は、その魔を封じる巫女の家系なの。この髪は、わたしが巫女の血を引く証なんだって」
久瀬倉さんは髪を小さく揺すって見せた。落ちかけの日は集積所に斜めに差し込んでいて、その光がちょうど久瀬倉さんの横顔を照らし、その長い髪を銀色にきらめかせる。と同時に、久瀬倉さんの瞳に夕日の朱が差し込んで、さながら炎を移したようにゆらめいた。その光景は、久瀬倉さんがその薄い桜色の唇から漏らした、「巫女」「魔」といった浮き世離れした言葉に、不思議な説得力を与えていた。
「……こんなこと言われても、困るよね?」
久瀬倉さんがぼくの目をのぞきこむように見上げながら、困ったような笑みを浮かべた。
「いや……」
ぼくの返事は曖昧なものになってしまった。
「ううん、いいの。べつに、信じてほしいわけじゃなくて……」
久瀬倉さんは言葉を切って、首をかしげる。自分の気持ちを表現する的確な言葉が見当たらない――という感じだ。
「巫女はこの街を守るために身を捧げているの。でも、そのことを誰も知らないの。それが、わたしにはちょっと……寂しい」
ぼくらの足下にまで迫っていた校舎の陰がわずかに動き、久瀬倉さんの瞳に重なった。久瀬倉さんの瞳に宿っていた夕日はかき消え、そこには暗い虚無のみが残された。
その光景に、ぼくは言いようのない焦りを感じ、考えるより先に口を開いていた。
「ぼくは、知ってるよ。覚えておく」
久瀬倉さんがはっとした表情でぼくを見た。
「今、教えてもらった。この街には、街の平和を願って、祈りを捧げてくれる巫女さんたちがいる。それは、なんていうか、すごく素敵なことだと思うんだ」
祈りに、何の力があるだろう。
心の中で何を念じようと、世界に対してわずかばかりの影響を及ぼすことすらできはしない。
それでも、この街のどこかで、ぼくを含む街の人々のために祈りを捧げてくれている存在がいるのだと知ることは、心の奥底の部分でぼくを支えてくれるような気がする。
久瀬倉さんは目を見開いて、言葉を失っていた。
それから、目を細め、頬を緩めて、言った。
「ありがとう。わたし、がんばる。みんなのために。三峯君のためにも」
夕日が校舎の窓にさしかかったらしく、久瀬倉さんの瞳に再び日の光が点った。
だけど、それ以上にまぶしかったのは久瀬倉さんの浮かべたあどけないその笑顔で――ぼくはその笑顔が忘れられなくて、その次の日も、そのまた次の日も、教室で、廊下で、久瀬倉さんの姿を目で追っていた。
ぼくの視線に気づくと、久瀬倉さんはわずかに目を細めることで答えてくれた。
それは、言葉をかわすこともない、ごくささやかな交流だったけれど、あの日の放課後、久瀬倉さんの瞳に宿った夕日の温度が、ぼくの心の奥底に伝わってくるような、そんな甘やかな感触をぼくは覚えるようになった。
だから、ぼくは久瀬倉さんの変化にはすぐに気がついた。
一緒に日直をしたあの日から三日ほど経った頃から、いつもわずかに微笑んでいるように見える久瀬倉さんの表情が、時折ふいにしかめられたり、強ばったりするのを見かけるようになった。
その頻度が、日に日に増えていく。
「どうしたの?」
思い切って、そう声をかけた。
端正な顔立ちにやさしい表情を添える久瀬倉さんだが、その実、女子からも男子からも敬遠されている。
久瀬倉の名がそれほどまでに重いということもあるけど、他ならぬ久瀬倉さん自身が他人との深い関わりを避けているような節もあった。
そんな久瀬倉さんに教室で話しかけるのは難しくて、情けなくも、放課後、久瀬倉さんが昇降口から出てくるのを待ち伏せさせてもらうことにした。
「……だいじょうぶ、だよ」
久瀬倉さんの声には疲労が滲んでいるように思えた。
「その、巫女としての仕事?」
「うん」
久瀬倉さんの声は少しかすれていた。
力なげなその声には、しかし、何か硬質なものが宿っていて、久瀬倉さんがそれ以上の詮索を望んでいないことがわかる。
「立ち入ったこと聞いちゃったかな」
「そんな……こと」
ない、とは言わなかった。
「ごめんね。でも、ちょっと辛そうに見えたから、気になっちゃってさ」
「……うん」
久瀬倉さんは小さくなった。ぼくに心配をかけたことを気に病んだのかもしれない。
「いや、ぼくが勝手に心配しただけだからさ。気にしないで」
「……うん」
ますます小さくなる久瀬倉さん。
「えーっと……」
かける言葉が見つからず、ぼくは視線を宙にさまよわせた。
それから、なんとかまともそうな言葉を探り出して、口にする。
「その、ぼくにできることがあったら何でもするから。……って、ないよね、そんなの」
久瀬倉さんの元気のなさが久瀬倉家の巫女としての務めによるものだとしたら、部外者のぼくにできることなんて何もないだろう。
ぼくはあわてて他の言葉を探し始める。
が、
「ううん。あるよ、三峯君にしてもらいたいこと」
久瀬倉さんが顔を上げた。
「え、あるの? それって……」
「うん。あのね……祈っていて、ほしいの」
「祈る?」
「そう。わたしはみんなのために務めを果たすから、三峯君はわたしのために祈ってほしいの」
「でも……」
祈ったところで、久瀬倉さんの辛さが和らぐとも思えない。
「三峯君が言ったんだよ? 誰かがじぶんのために祈ってくれてるってことは、とても素敵なことだって」
たしかに言った。街の平和を祈ってくれる巫女さんがいるってことは、とても素敵なことだと思う――このあいだの日直の時にぼくは久瀬倉さんにそう言った。
久瀬倉さんがぼくの言葉を心にとめてくれていたことは、素直にうれしかった。
でも、ぼくとしては、もっと直接久瀬倉さんの役に立つことがしたかった。
そこには、惹かれている女の子に近づきたいという打算もあるのかもしれないけれど、それを差し引いてもやはり、久瀬倉さんが辛そうなのを黙って見ていられないという切迫した感情もあった。
(だけど――)
久瀬倉さんからもらった、心の奥底に湧き出る暖かい何かが、ぼくを説得した。
「うん、わかった。ぼくは久瀬倉さんのために祈るよ。久瀬倉さんがぼくらのために祈ってくれているように」
「……ありがとう」
そう言って微笑んだ久瀬倉さんの表情は、日直の時の表情とよく似てはいたけれど、どこか力がなくて、影が差しているような印象をもたらすものだった。
そして今日。
放課後、城ヶ崎市センター街のレンタルビデオ店に立ち寄ったぼくは、店を出るなり、視界の隅にかすかな銀の光を見たような気がした。
あわてて視線を向けると、かなり離れた路上に、久瀬倉さんがぼくに背を向ける形で立っているのが見えた。
地平線近くにある夕日の逆光が厳しくて見にくいけれど、それはたしかに久瀬倉さんだった。久瀬倉さんはぼくに気づくことなく姿を消した。たぶん、角を曲がったのだろう。
ぼくは早足で久瀬倉さんのいた場所に向かった。
そこには小さな花屋と現在は営業していない古い呉服店とが並んでいた。
久瀬倉さんの興味を惹きそうなものはとくにない。花屋は仏壇や神棚に供える花や榊を扱う地味なお店で、ぼくと同い年の女の子が注目するようなものはなかったし、店じまいして鎧戸が下りたままの呉服店はなおさらだ。
ぼくは久瀬倉さんの姿を探して周囲を見た。
理由なんてない。気になっている女の子を見かけたら、みんなそうするんじゃないかと思う。それに、ここ数日、久瀬倉さんの様子はおかしかった。久瀬倉の巫女としての務めというのは、そんなにも厳しいものなのだろうか?
と、
「わっ!」
花屋と店じまいした呉服屋のあいだから、突然何かが飛び出してきて、ぼくはとっさに飛び退いた。
それは――
「……猫?」
飛び出してきたのは痩せた白猫だった。野良なのだろう、泥や埃で汚れ、毛がからまりあって地肌がのぞいている。その白猫は、目を見開き、小さな牙を剥きだしにしたすごい形相でぼくの前を駆け抜けていった。
ぼくは白猫の飛び出してきた方を見た。
そこには細い路地があった。花屋と呉服屋のあいだに身体を斜めにすれば通れる程度の隙間があり、その奥にもう少し広い空間があるように見える。
(……こんな路地、あったっけ?)
久瀬倉さんを探してこの周囲を見渡したのはついさっきのことで、いくら細いとはいえ、目の前にある路地を見逃したとは思えない。何かに化かされたような気分だ。
そう、何かに――
(「魔」……)
久瀬倉さんの漏らしたそんな言葉が浮かんでくる。
ばかばかしい――そう思ったが、ではなぜ先ほどの白猫は血相を変えて路地から飛び出してきたのか? なぜぼくは目の前にあるこんなわかりやすい路地に気づかなかったのか?
路地には暮れかけた夕日は差し込まず、一足先に夜の闇に包み込まれている。そこから漂ってくるのはかすかな冷気と――
「……声」
それも尋常な声じゃない。それは押し殺されてはいるが、明らかに苦悶の声だった。身をさいなむ苦痛に必死で耐えているような声だ。若い、幼いと言ってもいいような女性の声。
そしてこの通りにはたぶん、久瀬倉さんが入っていった。
「……!」
ぼくはあわてて路地に飛び込んだ。
その瞬間、ごくわずかに身体がひきつるような感覚があったが、そんなものは気にしていられない。
そして――目撃してしまった。
おそらくは商店主が荷の搬出に使うのだろう、路地裏には車が数台止められそうなスペースがあった。
そこにいたのは久瀬倉さんと、血色の巨獣。
身の丈二メートルは超えそうなその巨獣は、ぼくの知るどんな生き物とも似ていない。
しいていえばファンタジー映画に出てくる巨人――単眼鬼(サイクロプス)のような――に似ている。
血肉を粘土のようにこね上げて作ったかのようなグロテスクな身体は、おおまかにいえば人型だ。ただ、先端のとがった擂り鉢形の頭や肩と区別のつかない太い首は特撮映画の宇宙怪獣のようだし、肩から先には熊のような太く毛深い大きな腕がついている。それとは対照的に胴は細くくびれていて、腰から下には、むしろ貧弱に見えそうなくらい華奢な、有蹄類のそれに類似した脚が生えている。
その〈巨人〉が――久瀬倉さんを食べていた。
久瀬倉さんは路地裏のアスファルトの上に倒れ、うつろな瞳で空を見つめながら身じろぎもしていない。
久瀬倉さんには、すでに下半身が、なかった。
「――ッ!!」
ぼくの絶叫には声が伴わなかった。目の前にいる化け物の注意を惹かないように噛み殺した――わけではない。激しい驚愕と動揺でぼくの呼吸が混乱し、呼気と吸気がぶつかりあって、絶叫が声なき擦過音と激しい喉の痛みに変換されたというだけだ。
久瀬倉さんは制服を着ていた。さっきセンター街で見かけたときも制服だったと思う。
学校では折り目正しく整えられていたその制服は、見る陰もない状態になっている。
スカートはびりびりに破れて路上に散らばり、その破片のいくつかは〈巨人〉の牙の隙間から垂れ下がっている。
久瀬倉さんの残された上半身はまだブレザーとブラウスに覆われているが、両者は久瀬倉さんの血でどす黒く染まっていた。
そして、ブラウスの下からのぞくのは、久瀬倉さんの白磁のように透き通った肌ではなく、久瀬倉さんの贓物だった。〈巨人〉は、鋭い爪のついた指で久瀬倉さんの腸をひっぱりだし、中身をすすりあげてから、残された腸管をガムのように噛みしめ、味わっている。肉に埋もれて判然としない〈巨人〉の口許が愉悦に歪んでいるような気がした。
「……あ……っ」
あまりの光景に、ぼくは身じろぎすることすらできなかった。
久瀬倉さんを助けなければ――そう頭の一部が主張するが、やめておけ、どう見ても手遅れだ、それより逃げなければ自分も危うい――そう囁きかける一派もある。大体、どうやってあの化け物から久瀬倉さんを助けられる? これはマンガやゲームじゃない。何の力もないぼくにできることなんてあるのか?
そんな冷酷な、しかし現実的な計算をしながら、それでもやはりぼくは久瀬倉さんを諦めることができない。淡い日だまりのような優しい笑みを浮かべる久瀬倉さんの顔が脳裏一杯に広がってきてぼくを動けなくする。
しかしその久瀬倉さんは今、贓物をこぼしながら痙攣している。〈巨人〉は久瀬倉さんのブラウスを剥ぎ取り、血の気の失せた乳房を削り、喰らうと、胸の周り――肋骨と肩胛骨に囲まれたあたりに拳を打ち付け、骨を砕く。骨が折れ、肉が潰れるその音がぼくの耳にこびりついた。〈巨人〉はそのなかからわずかに収縮をくりかえす心臓をもぎとり、呑み込む。肉のちぎれる音とともに、〈巨人〉の牙の隙間から鮮血が零れた。
もう、どうあっても久瀬倉さんは助からない――そうとわかっても、ぼくの足は動こうとしない。
わたしのために祈ってほしい。
そう言っていた女の子が、こんなわけのわからない化け物に食われて終わる。
そんな理不尽な結末に対する怒りがぼくの足をこの場にとどめる。
それでもぼくにできることといったら、それこそ久瀬倉さんのために祈ることくらいしかない。
せめて見届けたい。そんな実利のない感情に動かされ、〈巨人〉の食餌をぼくは固唾を呑んで見守り続けた。
〈巨人〉は久瀬倉さんの細い両腕をもぎとり、クリスマスに七面鳥を食べるようにして肉を食い散らかし、残った骨は顎の力で破壊し、咀嚼した。
ああ、目が霞む。ぼくの脳が眼前の凄惨な光景に拒否反応を起こし、意識が白んでいこうとする。ぼくは唇を噛み、爪を手のひらに食い込ませ、必死にこらえた。
久瀬倉さんの両腕を呑み込んだ〈巨人〉は、最後に残された久瀬倉さんの頭にも手を伸ばした。
〈巨人〉は大口を開けて久瀬倉さんの頭蓋に噛みつくが、さすがにひと呑みにはできず、口腔の奥にある臼歯で久瀬倉さんの頭蓋骨をかみ砕いた。久瀬倉さんの頭から脳漿が飛び散る。唇から零れたそれを、〈巨人〉は舌を伸ばして舐め取った。
その拍子に、牙の隙間から何かが落ちた。久瀬倉さんの眼球だった。その眼球は地面を転がり、ぼくのほうに黒目を向けて静止した。
その瞳がぼくを見ているような気がして、ぼくは喉の奥で引き攣れたような悲鳴を上げた。
その、次の瞬間だった。
〈巨人〉がふいに動きを止めた。
(……?)
その動きは明らかに不自然だった。
そして。
路地裏の暗がりで暴虐をほしいままにしていた〈巨人〉が、くずおれた。
背を丸めてうずくまった〈巨人〉が、胸を激しくかきむしる。鋭い爪が自らの肉を裂くのにも頓着せず、喉の奥から咆吼と紛う重い苦悶の声を漏らしながら、四肢をめちゃくちゃに動かして暴れ続ける。
〈巨人〉の身体から血煙が舞った。久瀬倉さんを無残に引き裂いた〈巨人〉の鋭い爪が、今度は〈巨人〉自身の肉を裂き、筋を断ち、骨を砕き――そのことでますます激昂して〈巨人〉は荒ぶる。
〈巨人〉が暴れるたびに地面が揺れ、咆吼する度に空気が震え、路地裏に潜むぼくは生きた心地がしなかった。
が、それも長くは続かなかった。自らの力で自らを破壊した〈巨人〉は、やがてまともに立っていることすらできなくなり、血と肉とをまき散らしながら、ひび割れだらけになったアスファルトの上にどっと倒れた。
〈巨人〉はしばらくのあいだ細かな痙攣を繰り返し――やがて、動かなくなった。
そして――その背を割って。
久瀬倉さんが、現れたのだ。
一糸まとわぬ姿で――〈巨人〉の血肉を身に纏って。
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