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第三章 9歳
7 空城
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翌日までに、峠を越え、ふもとに集結した敵軍の数は、およそ五千にまで膨れ上がっていた。
敵軍は、ザスターシャ兵が三分の二。残る三分の一が、赤い奇妙な甲冑をつけた集団だ。
昨日の兵の言葉にならって、「ザリガニ兵」とでも呼んでおこう。
無人の関を通過した兵たちは、関の前の森を切り開き、そこに陣を築いていた。
時刻は夜。
そこらへんの木を伐り倒して作った急造の逆茂木の奥で、鉄鎧を脱いだザスターシャ兵たちが、破城槌や櫓、投石機などの攻城用兵器を作ってる。
薄暗い篝火を頼りに突貫で作業を進める兵たちには、疲労と不満の色が濃い。
(あの峠道じゃ、大型の攻城用兵器を運んでくるのは不可能だ。最初から現地で「調達」するつもりだったんだろうな)
作業をしてるのはみなザスターシャ兵だ。
ザリガニ兵が出す指示に、ザスターシャ兵たちが、のろのろとした動きで従ってる。ザスターシャ兵たちの目には、自分たちを顎で使うザリガニ兵たちへの憎悪の色が浮かんでいた。
(あきらかに、ザリガニ兵がザスターシャ兵を従えてるな)
ザリガニ兵は、いずれも険しい顔でザスターシャ兵を監視していた。
敵兵以上に、ザスターシャ兵の反乱に神経を尖らせてるようだ。
一個の軍団を形成しているはずの両者の間には、一目でわかるほどに張り詰めた緊張感があった。
で。
それを観察してる俺はどこにいるのか? って話だが、もちろん、陰の中に潜んでる。
森から陰を伝って陣地に近づいた俺は、適当な陰へと飛び込んで、敵の陣地に潜入していた。
ザスターシャ兵が不満たらたら作業を続ける空間を抜け、ザリガニ兵の姿が目立つ陣の奥の方へと進んでいく。
ザリガニ兵の密度が濃い方向に、黒地に逆三角の赤という、例の特徴的な旗が翻っていた。篝火に浮かび上がったその紋章は、血に塗れた野獣の牙を連想させる。
(あの天幕が本陣か)
敵軍の本陣は、ザリガニ兵たちだけで固められていた。
(奥から、本陣、ザリガニ兵の陣地、ザスターシャ兵の陣地って配置だな。要は、ザスターシャ兵を盾にしてる)
ランペジネ方向から敵が攻めてきたら、矢面に立つのはザスターシャ兵だ。
ザスターシャ兵たちが消耗していい戦力として連れてこられたのは明らかだろう。
(さてさて……敵さんの正体はなんだろうな?)
本来ならプレッシャーを感じてしかるべき場面だが、今の俺はストレスを感じない。むしろ、緊張感を楽しむ余裕すらあった。
もっとも、見つかったらヤバいかもしれないという恐怖は感じてる。
(恐怖はあるがストレスはない……か。いまいち慣れない感覚だな)
ああ危険なんだな、と人ごとのように受け止められるというか。
危険を感じた上で、その危険を避けるにはどうしたらいいかを冷静に考えるだけの余裕がある。
(って、いまは【無荷無覚】のことを考えてる場合じゃなかった)
――私に策がある。
父さんはそうかっこつけたが、その策を献上したのはもちろん俺だ。
かなり大胆な策なので、重臣たちの反発はあったが、最後には無理やり「折れて」もらった。
ザスターシャ兵たちは、見るからにだるそうというか、嫌々動員されてきた感じだった。
食糧も足りないようで、ふもとの森に分け入って動物を狩ろうとしてる兵までいた。
みなやつれ、げっそりしてる。
だが、空腹と不満で爆発しそうになりながらも、ザリガニ兵に逆らおうとはしていない。彼らがザリガニ兵を見る目には、押し殺された恐怖があった。
ザスターシャ兵たちの陣地を抜け、ザリガニ兵の陣地に入ると空気が変わった。
(ザリガニ兵のほうは士気が高そうだ)
赤い有機的なフォルムの鎧に身を包んだザリガニ兵は、その中の身体も、全体的に大柄でがっしりしてる。きびきびした動きとあいまって、鍛え抜かれた精鋭という印象を受けた。
何人か観察してるうちに俺は気づく。
(赤髪、赤目、赤銅色の肌。ザリガニ兵には火しかいないみたいだな)
火魔法の使い手しかいないってことだ。
火魔法は戦場では便利な魔法だが、それにしたって一軍まるまるジトにするなんて話は聞いたことがない。
それに、連中の着てる赤い鎧も気になるな。
(ジトにしか使えない特殊な鎧……とかか?)
倍の数のザスターシャ兵を率いてることから考えても、ザリガニ兵の戦闘力はザスターシャ兵を圧倒してると見るべきだろう。
ザリガニ兵一人でザスターシャ兵を二、三人相手にできるくらいじゃないと、兵の統率が取れないはずだ。
(さすが、赤いだけはあるらしい)
しょうもない感想を抱きながら、俺は陰を縫って陣を進む。
ザリガニ兵たちの中心にある、ひとつだけ豪華な天幕が近づいてきた。
黒地に赤い逆三角の旗が掲げられた天幕は、死角を作らないようにか、いくつもの篝火で囲まれてる。
その篝火から伸びる陰に紛れ込み、俺は天幕の内側へと飛び込んだ。
天幕は、作戦室のようだった。
大きな机があり、その上に地図が広げられている。
天幕の中は、無人ではなかった。
赤毛の美女が、机に片手をついて、目を地図へと落としてる。
(わお。なかなかの美人さん)
腰まで届く赤い巻き毛。燃えるように赤い瞳。
吊り上がった眦と先の反った高い鼻からは、よく言えば意志の強さが、悪く言えば性格のキツさが感じられる。厚めの唇には、血のように真っ赤なルージュが塗られていた。
肌だけが白いのは……そうか、純粋なジトじゃなくて、火風なのか。
(同じジトヒュルの美人でも、母さんとは方向性が真逆だな)
俺の母さんがどこかほんわかした雰囲気のある小柄な美人なのに対し、この美女は長身でスタイルがよく、性格も見るからにキツそうだ。
鎧は、他のザリガニ兵と同じく、まがまがしさを感じさせる炎のようなフォルムだ。
だが、女性将官向けにか、大きな胸から豊かな腰もとにかけてのラインが優美にアレンジされている。
こういっちゃなんだが、けっこうエロい。
全身鎧なので露出度は低いが、それがかえって中身への想像力をかきたてる。
これをデザインしたやつを褒めてやりたくなるな。
鎧の下には、生地の薄いタイツみたいなスーツを着てるけど……まさかそれだけじゃないよな?
裸にタイツスーツで鎧なんて、それなんてエロゲとつっこみたくなる格好だぞ。蒸れて気持ち悪くならないんだろうか。それとも、着心地も魔法でどうにかできるのか。
「ふむ。ここまでは順調だが……」
美女が地図から顔を上げてつぶやいた。
「ザスターシャ兵の士気が想像以上に低いな。ふん、所詮は敗戦国の兵ということか。まあ、数合わせには使えよう」
あいつらのやる気がないのは、
・強制動員で峠越え
・ろくな食糧も与えられない
・ザリガニ兵が横柄な態度でこき使う
あたりが原因だと思うぞ。
そんな状況でやる気を出せるやつがいたら見てみたい。
前世で勤めてた会社だったら、ブラックな社訓でがんじがらめにして無理やりモチベを上げさせたりしたかもしれないが。
(って、ザスターシャは負けたのか?)
商業で成り立つ国ではあるが、鉄を産する鍛治の盛んな国で、各部族は尚武の気風溢れる騎馬民族だと聞いている。
そんな国を、外に情報を漏らさずに滅ぼした?
「陛下から賜ったわが赤装歩兵は温存したい。ランペジネの攻囲はザスターシャ兵にやらせればよい。適度に数を減らしたほうが、扱いやすくもなるだろう」
悪い顔をしてるところから察するに、ザスターシャ兵をすり潰すつもりだな。
ザスターシャ兵に街を囲ませた上で、背後からザリガニ兵に見張らせて逃げ場をなくし、死に物狂いで城壁にとりつかせようってことだ。
エグいやりかただが、戦争ではむしろよくあることらしい。ハーグ陸戦協定なんてこの世界にはないからな。
そこで、天幕の入り口である幕が開いた。
「ネルズィエン様! 敵に動きがありましたぞ」
そう言いながら飛び込んできたのは、白いひげを蓄えた、赤目で赤銅色の肌の壮年男性だ。年齢は五十を超えてると思うが、歳に似合わない筋骨たくましい巨漢である。
威厳のある顔つきや鎧の飾りから察するに、ザリガニ兵の将軍のような存在か。
(でもそうすると、この美女は?)
美女のほうが将軍で、この威厳のある老将が副官なのか?
こんな堂々とした副官が……いないとは言い切れないが。
ネルズィエンと呼ばれた美女が、老将へと目を向ける。
「動きだと? なんだ?」
「ランペジネです。領主を筆頭に、住民たちが避難を始めたようなのです」
「なんだと? 街を捨てるというのか?」
「そのようです。兵たちが力を貸して、老人や女子どもに至るまで、総員で脱出を図っていると……」
「ううむ……。こちらとしては助かるが、拍子抜けだな」
「で、ありますな。ランペジネの領主とその夫人は、強力な複合魔法の使い手と聞いておったのですが」
「いくら高位の魔術師とはいえ、この数の前には勝てぬと踏んだか。たしかに正しくはあるが、大胆な判断をするものだ。戦わず領地を捨てたとあらば、領地を召し上げられるおそれもあろうに」
「ブランタージュ伯は領民想いで有名とのことです。おのが立場より、民の安全を優先したのでしょうな」
「なるほどな。国境を守護する軍人としては疑問符がつくが、それはそれで筋の通った判断ではあるか」
美女――ネルズィエン?がうなずいた。
「して、どうなさいますか?」
「せっかく無血で開城してくれたのだ。ありがたく使わせてもらおうではないか。古いが堅固な城塞都市だという話だしな」
「このまま王都へ向かいたいところではありますが、北の街道から攻め入る緑装騎兵とも動きを合わせる必要がありますからな」
「そうだな。いかにわれらネオデシバルの兵が強くとも、いまはまだ頭数が足りていない。奇襲を電撃的に成功させねば、衆寡敵せずで押し返されるおそれもある」
「唯一の退路が、あの狭く険しい峠ですからな。その点、ランペジネを根城にできれば、不測の事態にも対応しやすくなりましょう」
ネルズィエンと老将がうなずきあう。
(ネオデシバル……? 聞いたことのない名前だな)
このザリガニ兵は「赤装歩兵」で、それとはべつに「緑装騎兵」とやらがいるらしい。
そっちは北の街道経由で、このミルデニア王国に攻め込んできてる。
どちらも精鋭だが数は少ない。両者の連携が悪いと各個撃破されるおそれあり……と。
有意義な情報提供ありがとさん。
「では、皇女殿下。われらはランペジネに兵を入れるということでよろしいですかな?」
「うむ。こうなるのであれば、ここに陣を敷く必要もなかったな」
「それは結果論でございましょう。無駄になるやもしれぬ備えこそ、怠りなくやっておくべきなのでございます。そのような手抜かりを見破られれば、敵は必ずそこを突いてまいりますからな」
「やれやれ。じいの兵法は聞き飽きたよ。
だが、どうやら今回の敵は、そのような奸智とは無縁のようだ。それどころか、戦わずして逃げる臆病者だ」
「勝てぬ戦いを避けたと思えば、ある意味では賢明ともいえましょう。出世するタイプではないでしょうがな」
「まったくだ」
ネルズィエン「皇女」と「じい」が笑い合う。
(笑いたいのはこっちだよ)
ものの見事に、こっちの想定通りに動いてくれるな。
陰の中でほくそ笑んでると、ネルズィエンが弾かれたように振り返った。
「むっ……?」
ネルズィエンは、何もないはずの地面をじっと見る。
そこは、俺が陰の中に潜んでる、まさにその場所だった。
こっちを睨んでくる「皇女」と視線が合う。
(なっ……気づかれた、か?)
一瞬ギクリとしてしまったが、ネルズィエンの視線は、俺の潜んでる位置とは微妙にだがズレていた。
なにか気配のようなものを察知したようだが、はっきり俺の存在を捉えたわけではなかったようだ。
(お、脅かすな……)
俺は内心で胸をなでおろす。
向こうにこっちは見えてない(ただの陰にしか見えない)はずだからな。
(もし俺が動揺して術の制御が甘くなるようなことがあったら危なかったかもな)
驚きはしたが、【無荷無覚】に救われたようだ。
ネルズィエンはまだ、眉根を寄せてこっちを見てる。
まるで「だるまさんが転んだ」のような硬直が数秒も続いた。
「む? いかがされました、殿下?」
「……いや。気のせいか。何かいたような気がしたのだがな」
ネルズィエンが首をひねる。
「森の中ですからな。野生動物か何かでしょう。戦場で気が昂ぶっておいでなのでは?」
「うむ……わたしとしたことが」
「よくあることにございますよ。いくさが近いと感じただけで、人は耐えがたい圧迫感を覚えます。錯乱する者も珍しくはありませぬ。皇女殿下は、初陣とは思えぬほど落ちついていらっしゃいます」
「だと、いいがな」
ようやく視線をそらしたネルズィエン。
俺はそっと息をつく。
陰の中にいるから、そんな感じの気持ちだったってくらいだけどな。
翌払暁。
ネオデシバル帝国の皇女ネルズィエン率いる赤装歩兵とその隷下にあるザスターシャ王国軍は、なんの抵抗も受けずに街道を進み、その日のうちに、ブランタージュ伯爵領領都ランペジネへの入城を果たしたのだった。
この時点では、彼女たちは想像すらしていなかった。
この時こそ、「地獄の三日間」の幕開けだった……なんてことはな。
敵軍は、ザスターシャ兵が三分の二。残る三分の一が、赤い奇妙な甲冑をつけた集団だ。
昨日の兵の言葉にならって、「ザリガニ兵」とでも呼んでおこう。
無人の関を通過した兵たちは、関の前の森を切り開き、そこに陣を築いていた。
時刻は夜。
そこらへんの木を伐り倒して作った急造の逆茂木の奥で、鉄鎧を脱いだザスターシャ兵たちが、破城槌や櫓、投石機などの攻城用兵器を作ってる。
薄暗い篝火を頼りに突貫で作業を進める兵たちには、疲労と不満の色が濃い。
(あの峠道じゃ、大型の攻城用兵器を運んでくるのは不可能だ。最初から現地で「調達」するつもりだったんだろうな)
作業をしてるのはみなザスターシャ兵だ。
ザリガニ兵が出す指示に、ザスターシャ兵たちが、のろのろとした動きで従ってる。ザスターシャ兵たちの目には、自分たちを顎で使うザリガニ兵たちへの憎悪の色が浮かんでいた。
(あきらかに、ザリガニ兵がザスターシャ兵を従えてるな)
ザリガニ兵は、いずれも険しい顔でザスターシャ兵を監視していた。
敵兵以上に、ザスターシャ兵の反乱に神経を尖らせてるようだ。
一個の軍団を形成しているはずの両者の間には、一目でわかるほどに張り詰めた緊張感があった。
で。
それを観察してる俺はどこにいるのか? って話だが、もちろん、陰の中に潜んでる。
森から陰を伝って陣地に近づいた俺は、適当な陰へと飛び込んで、敵の陣地に潜入していた。
ザスターシャ兵が不満たらたら作業を続ける空間を抜け、ザリガニ兵の姿が目立つ陣の奥の方へと進んでいく。
ザリガニ兵の密度が濃い方向に、黒地に逆三角の赤という、例の特徴的な旗が翻っていた。篝火に浮かび上がったその紋章は、血に塗れた野獣の牙を連想させる。
(あの天幕が本陣か)
敵軍の本陣は、ザリガニ兵たちだけで固められていた。
(奥から、本陣、ザリガニ兵の陣地、ザスターシャ兵の陣地って配置だな。要は、ザスターシャ兵を盾にしてる)
ランペジネ方向から敵が攻めてきたら、矢面に立つのはザスターシャ兵だ。
ザスターシャ兵たちが消耗していい戦力として連れてこられたのは明らかだろう。
(さてさて……敵さんの正体はなんだろうな?)
本来ならプレッシャーを感じてしかるべき場面だが、今の俺はストレスを感じない。むしろ、緊張感を楽しむ余裕すらあった。
もっとも、見つかったらヤバいかもしれないという恐怖は感じてる。
(恐怖はあるがストレスはない……か。いまいち慣れない感覚だな)
ああ危険なんだな、と人ごとのように受け止められるというか。
危険を感じた上で、その危険を避けるにはどうしたらいいかを冷静に考えるだけの余裕がある。
(って、いまは【無荷無覚】のことを考えてる場合じゃなかった)
――私に策がある。
父さんはそうかっこつけたが、その策を献上したのはもちろん俺だ。
かなり大胆な策なので、重臣たちの反発はあったが、最後には無理やり「折れて」もらった。
ザスターシャ兵たちは、見るからにだるそうというか、嫌々動員されてきた感じだった。
食糧も足りないようで、ふもとの森に分け入って動物を狩ろうとしてる兵までいた。
みなやつれ、げっそりしてる。
だが、空腹と不満で爆発しそうになりながらも、ザリガニ兵に逆らおうとはしていない。彼らがザリガニ兵を見る目には、押し殺された恐怖があった。
ザスターシャ兵たちの陣地を抜け、ザリガニ兵の陣地に入ると空気が変わった。
(ザリガニ兵のほうは士気が高そうだ)
赤い有機的なフォルムの鎧に身を包んだザリガニ兵は、その中の身体も、全体的に大柄でがっしりしてる。きびきびした動きとあいまって、鍛え抜かれた精鋭という印象を受けた。
何人か観察してるうちに俺は気づく。
(赤髪、赤目、赤銅色の肌。ザリガニ兵には火しかいないみたいだな)
火魔法の使い手しかいないってことだ。
火魔法は戦場では便利な魔法だが、それにしたって一軍まるまるジトにするなんて話は聞いたことがない。
それに、連中の着てる赤い鎧も気になるな。
(ジトにしか使えない特殊な鎧……とかか?)
倍の数のザスターシャ兵を率いてることから考えても、ザリガニ兵の戦闘力はザスターシャ兵を圧倒してると見るべきだろう。
ザリガニ兵一人でザスターシャ兵を二、三人相手にできるくらいじゃないと、兵の統率が取れないはずだ。
(さすが、赤いだけはあるらしい)
しょうもない感想を抱きながら、俺は陰を縫って陣を進む。
ザリガニ兵たちの中心にある、ひとつだけ豪華な天幕が近づいてきた。
黒地に赤い逆三角の旗が掲げられた天幕は、死角を作らないようにか、いくつもの篝火で囲まれてる。
その篝火から伸びる陰に紛れ込み、俺は天幕の内側へと飛び込んだ。
天幕は、作戦室のようだった。
大きな机があり、その上に地図が広げられている。
天幕の中は、無人ではなかった。
赤毛の美女が、机に片手をついて、目を地図へと落としてる。
(わお。なかなかの美人さん)
腰まで届く赤い巻き毛。燃えるように赤い瞳。
吊り上がった眦と先の反った高い鼻からは、よく言えば意志の強さが、悪く言えば性格のキツさが感じられる。厚めの唇には、血のように真っ赤なルージュが塗られていた。
肌だけが白いのは……そうか、純粋なジトじゃなくて、火風なのか。
(同じジトヒュルの美人でも、母さんとは方向性が真逆だな)
俺の母さんがどこかほんわかした雰囲気のある小柄な美人なのに対し、この美女は長身でスタイルがよく、性格も見るからにキツそうだ。
鎧は、他のザリガニ兵と同じく、まがまがしさを感じさせる炎のようなフォルムだ。
だが、女性将官向けにか、大きな胸から豊かな腰もとにかけてのラインが優美にアレンジされている。
こういっちゃなんだが、けっこうエロい。
全身鎧なので露出度は低いが、それがかえって中身への想像力をかきたてる。
これをデザインしたやつを褒めてやりたくなるな。
鎧の下には、生地の薄いタイツみたいなスーツを着てるけど……まさかそれだけじゃないよな?
裸にタイツスーツで鎧なんて、それなんてエロゲとつっこみたくなる格好だぞ。蒸れて気持ち悪くならないんだろうか。それとも、着心地も魔法でどうにかできるのか。
「ふむ。ここまでは順調だが……」
美女が地図から顔を上げてつぶやいた。
「ザスターシャ兵の士気が想像以上に低いな。ふん、所詮は敗戦国の兵ということか。まあ、数合わせには使えよう」
あいつらのやる気がないのは、
・強制動員で峠越え
・ろくな食糧も与えられない
・ザリガニ兵が横柄な態度でこき使う
あたりが原因だと思うぞ。
そんな状況でやる気を出せるやつがいたら見てみたい。
前世で勤めてた会社だったら、ブラックな社訓でがんじがらめにして無理やりモチベを上げさせたりしたかもしれないが。
(って、ザスターシャは負けたのか?)
商業で成り立つ国ではあるが、鉄を産する鍛治の盛んな国で、各部族は尚武の気風溢れる騎馬民族だと聞いている。
そんな国を、外に情報を漏らさずに滅ぼした?
「陛下から賜ったわが赤装歩兵は温存したい。ランペジネの攻囲はザスターシャ兵にやらせればよい。適度に数を減らしたほうが、扱いやすくもなるだろう」
悪い顔をしてるところから察するに、ザスターシャ兵をすり潰すつもりだな。
ザスターシャ兵に街を囲ませた上で、背後からザリガニ兵に見張らせて逃げ場をなくし、死に物狂いで城壁にとりつかせようってことだ。
エグいやりかただが、戦争ではむしろよくあることらしい。ハーグ陸戦協定なんてこの世界にはないからな。
そこで、天幕の入り口である幕が開いた。
「ネルズィエン様! 敵に動きがありましたぞ」
そう言いながら飛び込んできたのは、白いひげを蓄えた、赤目で赤銅色の肌の壮年男性だ。年齢は五十を超えてると思うが、歳に似合わない筋骨たくましい巨漢である。
威厳のある顔つきや鎧の飾りから察するに、ザリガニ兵の将軍のような存在か。
(でもそうすると、この美女は?)
美女のほうが将軍で、この威厳のある老将が副官なのか?
こんな堂々とした副官が……いないとは言い切れないが。
ネルズィエンと呼ばれた美女が、老将へと目を向ける。
「動きだと? なんだ?」
「ランペジネです。領主を筆頭に、住民たちが避難を始めたようなのです」
「なんだと? 街を捨てるというのか?」
「そのようです。兵たちが力を貸して、老人や女子どもに至るまで、総員で脱出を図っていると……」
「ううむ……。こちらとしては助かるが、拍子抜けだな」
「で、ありますな。ランペジネの領主とその夫人は、強力な複合魔法の使い手と聞いておったのですが」
「いくら高位の魔術師とはいえ、この数の前には勝てぬと踏んだか。たしかに正しくはあるが、大胆な判断をするものだ。戦わず領地を捨てたとあらば、領地を召し上げられるおそれもあろうに」
「ブランタージュ伯は領民想いで有名とのことです。おのが立場より、民の安全を優先したのでしょうな」
「なるほどな。国境を守護する軍人としては疑問符がつくが、それはそれで筋の通った判断ではあるか」
美女――ネルズィエン?がうなずいた。
「して、どうなさいますか?」
「せっかく無血で開城してくれたのだ。ありがたく使わせてもらおうではないか。古いが堅固な城塞都市だという話だしな」
「このまま王都へ向かいたいところではありますが、北の街道から攻め入る緑装騎兵とも動きを合わせる必要がありますからな」
「そうだな。いかにわれらネオデシバルの兵が強くとも、いまはまだ頭数が足りていない。奇襲を電撃的に成功させねば、衆寡敵せずで押し返されるおそれもある」
「唯一の退路が、あの狭く険しい峠ですからな。その点、ランペジネを根城にできれば、不測の事態にも対応しやすくなりましょう」
ネルズィエンと老将がうなずきあう。
(ネオデシバル……? 聞いたことのない名前だな)
このザリガニ兵は「赤装歩兵」で、それとはべつに「緑装騎兵」とやらがいるらしい。
そっちは北の街道経由で、このミルデニア王国に攻め込んできてる。
どちらも精鋭だが数は少ない。両者の連携が悪いと各個撃破されるおそれあり……と。
有意義な情報提供ありがとさん。
「では、皇女殿下。われらはランペジネに兵を入れるということでよろしいですかな?」
「うむ。こうなるのであれば、ここに陣を敷く必要もなかったな」
「それは結果論でございましょう。無駄になるやもしれぬ備えこそ、怠りなくやっておくべきなのでございます。そのような手抜かりを見破られれば、敵は必ずそこを突いてまいりますからな」
「やれやれ。じいの兵法は聞き飽きたよ。
だが、どうやら今回の敵は、そのような奸智とは無縁のようだ。それどころか、戦わずして逃げる臆病者だ」
「勝てぬ戦いを避けたと思えば、ある意味では賢明ともいえましょう。出世するタイプではないでしょうがな」
「まったくだ」
ネルズィエン「皇女」と「じい」が笑い合う。
(笑いたいのはこっちだよ)
ものの見事に、こっちの想定通りに動いてくれるな。
陰の中でほくそ笑んでると、ネルズィエンが弾かれたように振り返った。
「むっ……?」
ネルズィエンは、何もないはずの地面をじっと見る。
そこは、俺が陰の中に潜んでる、まさにその場所だった。
こっちを睨んでくる「皇女」と視線が合う。
(なっ……気づかれた、か?)
一瞬ギクリとしてしまったが、ネルズィエンの視線は、俺の潜んでる位置とは微妙にだがズレていた。
なにか気配のようなものを察知したようだが、はっきり俺の存在を捉えたわけではなかったようだ。
(お、脅かすな……)
俺は内心で胸をなでおろす。
向こうにこっちは見えてない(ただの陰にしか見えない)はずだからな。
(もし俺が動揺して術の制御が甘くなるようなことがあったら危なかったかもな)
驚きはしたが、【無荷無覚】に救われたようだ。
ネルズィエンはまだ、眉根を寄せてこっちを見てる。
まるで「だるまさんが転んだ」のような硬直が数秒も続いた。
「む? いかがされました、殿下?」
「……いや。気のせいか。何かいたような気がしたのだがな」
ネルズィエンが首をひねる。
「森の中ですからな。野生動物か何かでしょう。戦場で気が昂ぶっておいでなのでは?」
「うむ……わたしとしたことが」
「よくあることにございますよ。いくさが近いと感じただけで、人は耐えがたい圧迫感を覚えます。錯乱する者も珍しくはありませぬ。皇女殿下は、初陣とは思えぬほど落ちついていらっしゃいます」
「だと、いいがな」
ようやく視線をそらしたネルズィエン。
俺はそっと息をつく。
陰の中にいるから、そんな感じの気持ちだったってくらいだけどな。
翌払暁。
ネオデシバル帝国の皇女ネルズィエン率いる赤装歩兵とその隷下にあるザスターシャ王国軍は、なんの抵抗も受けずに街道を進み、その日のうちに、ブランタージュ伯爵領領都ランペジネへの入城を果たしたのだった。
この時点では、彼女たちは想像すらしていなかった。
この時こそ、「地獄の三日間」の幕開けだった……なんてことはな。
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