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早春

世界を作り替えろ:アイラ

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 美しい。
 
 魔力で世界を見ているアイラにとって、その言葉はあまり理解できなかった。魔力にあるのは模糊か明瞭か。そのどちらか。

 後は、どれだけ密度があり、整っているか。色や魔力の感情というものは、美しさには入らない。

 だからこそ、二度目だった。たぶん、二度目だったのだと思う。

 その黄金の魔力を見た瞬間、アイラは自然に美しいと思ったのだ。

 そして、今、その魔力の持ち主が、優しい深緑の魔力の石板を取り出し、机の上に置いた。

「アイラは、字は書けるかの?」
「……書けているかどうかは分かっていませんが、一応」

 そういって、アイラはいつもと同じ場所においてある羽ペンを手に取り、これまたいつもと同じ場所に置いてある紙を手に取る。

 共に、多分に魔力が含まれている物だから見間違えたりはしないが、それでもアイラの自室に置かれている物は、全て寸分の狂いなく規定された場所に置かれている。

 部屋の掃除をしているリーナは、いつもそれに気を使っている。

 そして、アイラは手に取った羽ペンで文字を書いていく。

 一応、インクにも多分の魔力は込められているが、紙の魔力と混じってしまうのと、濃淡に差ができてしまい、あまり書けているかどうかは分かっていない。

「ふむ。相当の努力をしたようだの」

 だが、キチンと流麗な文字が書けていた。だから黄金の魔力の持ち主、つまりクラリスはアイラの頭を優しく撫でる。

 アイラはリーナや母以外で自分の頭を撫でてもらったことがなく、それ故に少しだけこそばゆそうに閉じている目をさらに細める。

「リーナも」

 それからクラリスは、後ろで控えていたリーナを手招きする。リーナはクラリスに逆らうことはできず、静々と近くへ来た。
 
 そして、クラリスは一瞬の動きでリーナの頭も撫でた。今年で二十二歳になるリーナは、とても恥ずかしいが、少しだけ心地が良い。

 そうして、幾分か経った後、クラリスは撫でていた手を離し、そして深緑の石板を手に取り、酷なことを聞いた。

「では、アイラ。お主は字を読めるかの?」
「ッ。クラ――」

 リーナが直ぐにアイラを庇うように突っかかるが、黄金の瞳に射貫かれ、黙るしかなくなる。

 それに。

「――〝描光〟で書かれた文字なら読むことが可能です。それ以外は読めません」

 リーナの言葉を遮るように、アイラの態度と声音が毅然とした様子だったから。アイラはできないことを、悔しいと思っても、恥ずかしいと思わないことにした。

 できないという事実は、どんなに嫌だと恥ずかしいと思って逃避しても絶対に変わることはなく、動くことでしか変わらない。

 だが、その『変わる』も今ではなく未来の話だ。だから、今を認めなければならない。その向き合う強さが自分には必要なのだ。

 そしてリーナは、無詠唱で空中に魔力で模様を描く〝描光〟を使い、右手を空に走らせ、文字を書いていく。

「なるほどの。こっちの方が綺麗に書けておる」

 クラリスは、ただただ先ほど書かれた字と比較して、感心した様子だった。無詠唱で魔法を使ったことは、決して取り上げなかった。

 そしてとても冷たい声をアイラに向ける。

「しかし、〝描光〟を使える者はどれだけいる? 初級魔法とはいえ、皆が皆直ぐに消えてしまう使い勝手が悪い魔法を使う者が、どれだけいるかの?」
「……いません」

 冷たい気持ちが体全体に広がる。未だ、早春の時期ではあるが、クラリスがやってきてからはアイラの自室はとても暖かい。

 けれど、その暖かさに比例するように体は冷えていく。

「紙に書かれている文字を全て口にしてくれる者はおるか? リーナがいなくなった後は? そもそもそんな彼らを雇うお金をどこから捻出する? 文字も読めず、力も歩くこともできないお主が?」

 知らず知らずのうちに、下唇を噛んでいて、うっすらと瞼を開けてクラリスを睨む。右の拳は強く握りしめられ、あるはずのない左の拳すら握っている気分になる。

 とても悔しい。悲しい。憎い。どうして。

 やるせなさと、現実に向き合った恐怖が襲ってくる。

「ふぅ」

 だが、それでもあの日向き合うと決めた瞬間から、どんなに嫌なことがあったとしても、何度転んでも立ち上がると決めたのだ。

 だから、ゆっくりと深呼吸して心を落ち着かせ――

「――のお主は悪くない。悪いのは社会だ。国だ」

 ――る瞬間、クラリスが呟いた。

「え……」

 てっきり、それでも自分の努力不足を、もっと色々な方法を使ってでも、一般人が書いた文字を読めるようにしろだの言われるかと思っていた。

 だが、発せられたのは社会が悪い。国が悪い。

 そして、自分は悪くない。

 どういう事だと思っ――

「……今の……ですか」

 ――て、クラリスの言葉を一句違わず思い返した。

「うむ。今のお主は悪くない」
「……それは、過去の私が悪いということでしょうか?」

 リーナは、また後ろに控えた。どっちにしろ、戦おうとしているアイラの邪魔をしてはいけない。

 もし、自分が何かするとしたら、後ろで見守り、夜の寝る際にゆっくりとあやしてあげることだ。メイド服が涙にぬれても、頭を撫でることだけだ。

 だから、悔しい思いをしながら後ろで見守っている。

「いや、違うぞ。もし悪いと言うならば、それは未来のお主だの」
「未来の私……ですか。それに、社会や国が悪いというのは……それは今のことですか?」
「いや、過去も今も未来もだ」

 どういう事なのか、アイラは首を捻る。

 ただ、クラリスはクスリと笑い、手に持った石板をアイラに差し出した。

「現時点において、目が視えない、通常の視界を持っていない者でも読める字を作らなかった社会が、国が悪い」

 そしてゆっくりとアイラの右手を手に取り、その石板の上に走らせた。

「そして、未来で現時点と同じような状況であった場合、それはお主が悪い」
「……私が盲目の者でも読める字を作らなかったからですか?」
「もしくは、そういう社会へ変えようと、そういう社会を作ろうとしなかったからだの」

 アイラは、石板の凹凸を右手で感じながら、クラリスの言葉を考える。

「アイラ、これが『a』だ」
「……『a』……」

 その瞬間、スルリと右手を動かされとある凹凸を触らされた。そして、ようやく凹凸が何を意味しているかが分かった。

「次にこれが『i』だ」
「……『i』……」

 アイラの言葉が徐々に熱を帯びていく。後ろでリーナが驚き目を見張る。

「……『u』ですか」
「そうだ」

 アイラは閉じていた瞼を開き、透明な瞳でじっくりと石板を見た。そして、込められた魔力が緻密で濃密であったからこそ、その凹凸の輪郭を捉える事ができた。

 それは盲目の者よりも、物質的な意味でアイラは見える世界が広いのだ。それは、アイラの才能だ。

「喜ぶのだ、アイラ。お主が生きる時代には、その社会を変えようとを作る者がいる」
「物を作る……」

 クラリスの言葉を反芻する。確かにこれは物だ。文字が読めない物が、手の感触だけで文字を読めるようになる道具だ。

「ところが、物があったとしても社会は変わらん」
「……何故ですか。これほど良い物があれ……あ。……人が、社会が受け入れないからでしょうか?」

 そしてアイラは考える。

 クラリスは言ったのだ。社会や国が悪いと。そして未来の自分が、盲目の者でも一人で字が読める社会を作らなかった事が悪いと。

「お主は、何を目指すのだ? 物を、技術を創造して、社会が変われる基盤を作る者か? それともその基盤の上に大きな旗を立てる者か?」
「旗……」

 国王である父が言っていた。国王は旗でなくてはならないと。民が進む先を示す旗でなくてはならないと。

 だからこそ、その旗を立てる場所を見誤ってはいけないと。

「人はの、他の動物、魔物と比べて異物なのだ。子供でもない、肉体的に、精神的に弱い者が生きられる社会を、少なからず持っておるからだ。他の生物なら自然淘汰されている存在が生きているからだ」
「ッ」

 それはまるで自分のことのようでは。こんな左腕も右足もない。見ている世界すらおかしい。

 そんな存在が生きている。生きられている。

 それは、自分が王族だから。王族という社会システムがあるから。

「発展している国とはの、どんな弱者であろうが、技術的に、そして社会的な力によって、強者と同様の可能性・・・を得られる国のことなのだ」
「可能性」

 では、もし自分が王族でなかったら。

 それでも、働いてお金を稼いで、生きて、結婚して、子供を作って……そして寿命で死んで……そういう存在になれると許される……

「そうだ。それは強者よりは努力しなければならないだろう。人生全てを賭けなければならないかもしれない。されど、可能性はある。0パーセントも100パーセントもない。そういう社会を持っている国が発展している国なのだ」

 ……いや、許す許されるのではなく、身分や貧富に関わらず、そういう存在が生きていても、問題なく回る社会が……

 誰もがその存在を優遇するわけではない。普通に扱い、普通に生きられるための技術と社会システムが……

「よいか。生まれは悪くない。悪いのは社会だ。それでも社会を怨むでないぞ。自分を怨むでないぞ」

 クラリスが、アイラの右手をしっかりと握りしめた。

 そして、透明な瞳を黄金の瞳で射貫いた。

「と、ここまで御託を並べたがの、言いたいことはただ一つ」

 アイラも、透明な瞳で黄金の存在を射貫く。

「世界を自分中心に回せ! 自分中心に回るような世界を創り出せ!」

 傲慢ともいえるその言葉は、けれど多くの者が望む未来世界を積み上げて作った今があるからこそ、とても強い意志を宿す。

「言いたいことはそれだけだの。……では、その点字を教えるとするか」

 そしてアイラは、点字を覚えた。
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