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前編

05

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 研究室に入れるのは嫌だろうと、応接室の利用を許された。

 マーティス室長の細やかな気遣いの積み重ねが嫉妬を生みだす事を理解したのは最近のこと。 だけど理解出来た頃にはもう手遅れで今更遠慮したところで意味が無かった。 周囲の嫉妬が減る事は無く、むしろ私への攻撃手段が増えたと嬉々とさせてしまったのだ。

 そう考えれば、好意を断る理由等無かった。

「どうぞ、コチラに」

 私はアンジェを幹部用の応接室へと誘う。

 お茶の準備のために背を向けて、私は気づかれないよう深呼吸をした。

 とにかく冷静に対応しないと、周囲は敵ばかりと考えておくべきよ……分かっている? 私。 心の中で言い聞かせる。

 グラスに麦茶を出し、棚から来客用の焼き菓子を取り出す。 麦茶をアンジェの前に置き、正面のソファに座った私は自分の前に麦茶と焼き菓子を置いた。

「ちょっと、そういうのは普通お客様である私に出すべきじゃないかしら?」

「妊婦なら甘いものを控えるべきだわ」

「2人分の栄養が必要なのよ」

「あなたの事なら、そう言い訳をして際限なく食べているんでしょう。 身体に悪いわ」

「……ねぇ……」

「なによ」

「昨日も言ったけど、頼みがあるのよ……いえ、これはジェシカ、あなたの義務と言ってもいい事だわ」

 冷静に、冷静に、冷静に……。

 そう心の中で唱えていても、内臓がヒヤリとして怒鳴りつけそうになる。

「何? 甘いものの食べ過ぎで糖尿にでもなったとか?」

「何よそれ」

 私は深い溜息とともに頭を乱暴にかきながら訊ねた。

「……それで?」

「そうそう、昨日、私の部屋に来るマーティンを見てくれたかしら?」

「ごめんなさい。 仕事が忙しくて昨日はずっと治療院に居ましたの」

「そう……。 まぁ、いいわ。 この子はマーティンの子なの」

「そう……だから?」

 私は腕を組み相手を見つめた。

 昔から、彼女は駆け引きが多くて、自分の思い通りにならない会話は全て拒否する。 いえ、拒否で済めばいい……最悪の場合、媚びて味方にした男性を使い人を貶めに来る。

 だから……ここは話を聞き流すのが正解。 重要な話はマーティンとするの……。 マーティンに責任を問いただし、そして対処させるのが……私の負担が一番少ない……はず。

 とにかく、彼女が私の気持ちを乱そうとしているなら、それに乗らないのが一番なのよ。 

「ようやく話を聞いてくれる気になったのね。 それがお互い賢いやり方だと思うわ」

「……」

 私は早く話を進めるよう手を差し出して見せた。

 アンジェはお腹をうっとりと撫でて見せる。

「この子を、あなたとマーティンの子として育てて欲しいの」

「嫌よ。 虫唾が走るわ」

 脊髄反射のように答えて後悔した。

 そして私を超える反射で、アンジェは言い返してきた。

「酷い!! 私達友達でしょう!! どうして、そんな酷い事を言うのぉおおおお!! この子は侯爵家の子なのよぉおおお!! 今、現在、唯一の跡取りなの!! それなのに、要らないって言うの!! それは侯爵家に対する侮辱、許されるものではないわ!!」

 悲鳴のような甲高い声が耳に響く。

「はいはい、だから……マーティンとは離婚してあげるから、あなたが妻となって子を育てなさいって言っているのよ。 悪い話ではないでしょう」

「それは……ダメよ。 この子の存在が分かれば、冷酷で残忍な侯爵家の人達は、この子を殺せと言うに決まっているわ」

「そんな事はないわ。 何より命を大切にする「あり得ない!! あなた、分かっていないのよ!! あの人達の本性を!! あの人達はね……母に世話になっておきながら、病気の母と私を屋敷から追い出したのよ!! あの人達が……ちゃんと母の治療をしてくれていたなら……私は、一人になる事は無かった!!」

「そんな寂しい事を言わないで……」

「なら!!」

「あなたには、優しくしてくれるパパがいっぱいいるじゃない」

「はぁあああああ!! 今はそんな話、していないでしょう!! どんなにブライト侯爵家の人間が非道で冷酷かを話しているのに、話を中断させないでくれる?!」

「でも、私にはとても良くしてくださっているわ。 私は噂よりも自分が知っている事を信じるわ。 だから、今やるべき事は、あなたがマーティンと共に生きる覚悟を決める事」

「嫌よ!! 私がマーティンと結婚したら、マーティンは侯爵家から追放されてしまうもの」

「治療師としての才能が無くても、騎士として功績をつめば認めてくださるわ」

 治療師である事を誇りに思っている当主に関しては断言できないけれど、義母様はマーティンを愛しているし騎士となった事を誇りに思っている事は、共に時間を過ごす事で分かった……と、思う。

 室長には申し訳ないけれど、子供の頃から利発だったマーティス室長よりも、甘えん坊でやんちゃなマーティンの方を好んでいるようにすら思えた。

「いいえ……言ったでしょう。 あの人達は冷酷だって……治療師になれなかったマーティンを見下しているのよ。 今だって!! 侯爵家から得ている恩恵は、マーティンよりもあなたの方が大きいじゃない」

「それは……、マーティンが任地に出向いていたからもあるんじゃないかしら? 王都に居ると分かれば、義母様のこと頻繁に屋敷に来るように言うはずよ」

「そう言う事を言っているんじゃないのよ!! マーティンはね……治療師であるあなたと結婚したから価値ある人間として認められているだけ……。 私とマーティンは……そういうことよ」

 どういう事なのだろう?

 どうせ、彼女の言い分は、私の知っている侯爵家の姿からかけ離れていて、そして合理性にかけていて、問いただす気になどなれなかった。

 同じ問いただすならマーティンの方が話になるはず。

 それに……浮気をされて傷ついたのだと……目の前の女に知られたくない……伝えるなら、私を愛していると言ったのは嘘なのかと問いただすならマーティンがいい……。

「ちょっと、ちゃんと話を聞いているの?! それに、マーティンの妻である事はあなたにとっても都合がいいはずよ。 何しろ、あなたはブライト侯爵家の自慢の嫁なのですから。 随分と良くしてもらっているって話じゃない。 知っているのよ……。 あなたが侯爵家の名を利用して好き放題している事実を。 もし、あなたがマーティンと離婚したら……ここにはいられなくなるんじゃないの? ねぇ」

 アンジェは身を乗り出してジッと私を見つめて来た。
 私は……弱みを見せまいと見つめ返す。

「あなたがこのままマーティンの妻でいることは、私達3人全員に利益があるのよ。 それに……まだ生まれても来ていない子を、絶望の淵に落とすなんて酷いこと、あなたには出来ないでしょう?」

 私は心の中で舌打ちを打つ。

 しっかりと私の弱点を責めて来たアンジェの狡猾さを目の当たりにして、そう言えば、この子はこういう子だったなぁ……。

 混乱する頭の中を、千々に乱れる心の中を必死に隠し……私は告げる。

「仕事の時間です。 お帰り頂けますか?」





 その日、疲れきった私は……悩みもなく眠れそうだと家に帰ればマーティンが深刻そうな顔で待っていた。
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