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前編
03
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日付が変わっても……マーティンは戻る事は無かった。
「奥様、先に食事を召し上がっては如何ですか?」
決して豪華ではないけれど、わざわざ使用人に買い出しをしてもらい、侍女と共に私自らが彼の好物を作った。 ソレを知っているからこそ気の毒そうに向けられる使用人達の視線が痛い。
「彼は次男とは言え、侯爵家の子。 特別な用を言いつけられたのかもしれません」
声が震えていた。
「えぇ、そうですとも!!」
「もしかすると、奥様が迎えにいったのかもしれません」
「そうですよね。 奥様はやんちゃなマーティン様を何時だって心配してますから」
使用人達が次々とフォローの言葉をかけてくれる。
だけどその言葉は長くは続かなかった私も……使用人達も。
「そうね……」
侍女は声の震えに気付かないふりをしてくれたけれど……惨めだった。
「そういえば!! マーティンが帰って来ると思って大切な仕事を放ってしまったの。 本当、先に連絡の1つでも下されば、仕事を放置して帰ってこなかったものを……。 仕事に、戻ろうかと思います。 食事はサンドイッチにしてくださるかしら? 後、馬車の準備を……残りの食事はアナタ達好きにお食べておいてくれるかしら?」
身体の内側が冷ややかに冷めていく気がした。
「こんな時間にですか?!」
「こんな時間でも、研究を抱えている者には仕事があるんですよ。 知りませんでした?」
私は初日から研究室が与えられた。 一応、学園時代に有用な研究成果を上げていたからと言う理由付けがされているけれど、研究室室長が身内に持つ事の意味は大きい。
「そうですね。 ですが、シッカリとお休みになる事も大切ですよ。 侯爵家の御子をお生みになる身なのですから」
侯爵家から年配の侍女が差し向けられた理由は『子ども』その一言に尽きるだろう。
侯爵家次期当主であり、研究室室長であるマーティスは未婚なうえに研究に明け暮れ実家にも滅多に戻らない。 だからこそ侯爵家は私に子を強く期待していた。
色々な事が重なり、私は微妙な微笑みを浮かべる事しかできない。
「わかりました。 直ぐに準備をさせましょう」
「お願いするわ」
馬車の規則正しい振動。
夜の暗さ。
そんなものが、私の心を冷静にしていく。
「はぁ……私って馬鹿ね……」
アンジェの部屋に入って行くマーティンを見たのだから、食事の支度等する必要等なかった……。 騎士団の先輩方の言葉に、はしゃいでしまった自分が恥ずかしい。
アンジェの部屋の窓から侵入する男性が、マーティンでは無かった。 背格好が似ているだけの、髪色が同じだけの別人なのだ。
そう信じたくて、確信も無い騎士の方々の言葉を信用してしまった。
信じたい事を信じ、信じたくない事から目を反らした。
「馬鹿ね……ずっと、そうやって誤魔化すつもりだったの?」
私はポソリと小さな小窓に映る自分の姿に語りかけた。 そして……結婚自体が間違いだったのでは? と、考え始めていた。
職場につけば、銀縁眼鏡に無精髭の男が大きな欠伸をしながら眼前に現れた。 仮眠から目覚めたばかりなのか? 眠気覚ましか? 顔やひげ、中途半端におりた前髪から水滴が零れ落ちていた。
「おや、こんな時間にどうしたんですか?」
マーティンの兄マーティス室長だ。
「室長こそ、こんな時間にどうされたのですか?」
そう言いながら、タオルを差し出せばソレを手に受け取り室長は眼鏡を外し濡れた顔と前髪を拭った。 普段は似ているとは思わないのだけど、顔を拭った瞬間、夫であるマーティンと似ていて兄弟なのだなと実感し、心が激しく波打った。
「これは申し訳ない。 洗って返しますね。 私は……別に珍しい事ではないよ? それより、あなたは……目が赤いし腫れぼったい……何かあったんですか? 相談に乗りますよ」
「いえ、忙しい室長の手を煩わせるような事ではありませんわ。 タオルも私のささやかな悩みも」
「では、変わりと言ってはなんですが、私の悩みを聞いて下さいますか? さぁさぁ、コチラに、えっと……こんな時間ですが、コーヒーで大丈夫ですか?」
「えぇ、ありがとうございます」
眠れそうにないのだから、コーヒーでも問題はない。
そうして室長に与えられた広い執務室へと通された。
「さぁ、さぁ座って、座って」
ソファに座るように手が指示され、勢いの良さに苦笑いをしながらソファに座れば、微かに体温が残っていた。
居心地が悪い。
少し身体をずらそうとすれば、ソファ越しに背後から両肩に手を置かれる。
「それで、室長の悩みとはどのようなものなのでしょうか?」
肩に触れた手。
背後からのぞき込んでくる顔。
鋭く見える視線に、心が見透かされそうでドキッとし……そして逃げたくなった。
「実は、私、物凄くお腹がすいているんですよ!! あなたからとても美味しそうな匂いがして、我慢ができなくて……」
「ぇ、あぁ……コレですね。 夕食の残りをサンドイッチにしましたの。 どうぞ、召し上がってください」
「あはははっは、図々しいお願いをして申し訳ありませんね」
「いえ、お気遣いなく」
私はサンドイッチの入った包みをテーブルの上に置き、そして、肩から手が離れた瞬間に立ち上がった。
「研究に戻らせていただきますね。 室長、余りご無理をなさらないように。 お家の方がご心配されておりましたわ」
私への……生まれて来るだろう子供への心配は、元をたどれば彼に向けられるものなのだから……。
「コーヒーは?」
「診療が始まる前に仮眠をとる事にしました。 なので、また、改めてご馳走してください」
「そう、残念だな。 だけど、まぁ、その方がいい。 行きなさい」
「はい、お気遣いありがとうございます」
扉に手をかけた時、もう一度声がかけられた。
「何か辛い事があったら、私が何時だって相談に乗りますから」
私は少しだけ振り返り、笑みを浮かべた。
「ご配慮に感謝します」
私は自分の研究室へ向かい、隠してあるドライフルーツがタップリ入ったパウンドケーキを取り出し、水をグラスに注ぎ溜息をついた。
「相談……出来るはずがない」
ブライト侯爵家が、私に望むのは働く事ではなく健康な子を産む事なのだから。 もし、マーティンとアンジェの間に子が生まれると知れば、私は用無しになってしまう。
そうなれば……受けていた恩恵は全て失われてしまう。
マーティンに問題があったとしても……私が欲しいのは一時的な慰謝料ではなく、この王宮治療院での仕事なのだから……。
「奥様、先に食事を召し上がっては如何ですか?」
決して豪華ではないけれど、わざわざ使用人に買い出しをしてもらい、侍女と共に私自らが彼の好物を作った。 ソレを知っているからこそ気の毒そうに向けられる使用人達の視線が痛い。
「彼は次男とは言え、侯爵家の子。 特別な用を言いつけられたのかもしれません」
声が震えていた。
「えぇ、そうですとも!!」
「もしかすると、奥様が迎えにいったのかもしれません」
「そうですよね。 奥様はやんちゃなマーティン様を何時だって心配してますから」
使用人達が次々とフォローの言葉をかけてくれる。
だけどその言葉は長くは続かなかった私も……使用人達も。
「そうね……」
侍女は声の震えに気付かないふりをしてくれたけれど……惨めだった。
「そういえば!! マーティンが帰って来ると思って大切な仕事を放ってしまったの。 本当、先に連絡の1つでも下されば、仕事を放置して帰ってこなかったものを……。 仕事に、戻ろうかと思います。 食事はサンドイッチにしてくださるかしら? 後、馬車の準備を……残りの食事はアナタ達好きにお食べておいてくれるかしら?」
身体の内側が冷ややかに冷めていく気がした。
「こんな時間にですか?!」
「こんな時間でも、研究を抱えている者には仕事があるんですよ。 知りませんでした?」
私は初日から研究室が与えられた。 一応、学園時代に有用な研究成果を上げていたからと言う理由付けがされているけれど、研究室室長が身内に持つ事の意味は大きい。
「そうですね。 ですが、シッカリとお休みになる事も大切ですよ。 侯爵家の御子をお生みになる身なのですから」
侯爵家から年配の侍女が差し向けられた理由は『子ども』その一言に尽きるだろう。
侯爵家次期当主であり、研究室室長であるマーティスは未婚なうえに研究に明け暮れ実家にも滅多に戻らない。 だからこそ侯爵家は私に子を強く期待していた。
色々な事が重なり、私は微妙な微笑みを浮かべる事しかできない。
「わかりました。 直ぐに準備をさせましょう」
「お願いするわ」
馬車の規則正しい振動。
夜の暗さ。
そんなものが、私の心を冷静にしていく。
「はぁ……私って馬鹿ね……」
アンジェの部屋に入って行くマーティンを見たのだから、食事の支度等する必要等なかった……。 騎士団の先輩方の言葉に、はしゃいでしまった自分が恥ずかしい。
アンジェの部屋の窓から侵入する男性が、マーティンでは無かった。 背格好が似ているだけの、髪色が同じだけの別人なのだ。
そう信じたくて、確信も無い騎士の方々の言葉を信用してしまった。
信じたい事を信じ、信じたくない事から目を反らした。
「馬鹿ね……ずっと、そうやって誤魔化すつもりだったの?」
私はポソリと小さな小窓に映る自分の姿に語りかけた。 そして……結婚自体が間違いだったのでは? と、考え始めていた。
職場につけば、銀縁眼鏡に無精髭の男が大きな欠伸をしながら眼前に現れた。 仮眠から目覚めたばかりなのか? 眠気覚ましか? 顔やひげ、中途半端におりた前髪から水滴が零れ落ちていた。
「おや、こんな時間にどうしたんですか?」
マーティンの兄マーティス室長だ。
「室長こそ、こんな時間にどうされたのですか?」
そう言いながら、タオルを差し出せばソレを手に受け取り室長は眼鏡を外し濡れた顔と前髪を拭った。 普段は似ているとは思わないのだけど、顔を拭った瞬間、夫であるマーティンと似ていて兄弟なのだなと実感し、心が激しく波打った。
「これは申し訳ない。 洗って返しますね。 私は……別に珍しい事ではないよ? それより、あなたは……目が赤いし腫れぼったい……何かあったんですか? 相談に乗りますよ」
「いえ、忙しい室長の手を煩わせるような事ではありませんわ。 タオルも私のささやかな悩みも」
「では、変わりと言ってはなんですが、私の悩みを聞いて下さいますか? さぁさぁ、コチラに、えっと……こんな時間ですが、コーヒーで大丈夫ですか?」
「えぇ、ありがとうございます」
眠れそうにないのだから、コーヒーでも問題はない。
そうして室長に与えられた広い執務室へと通された。
「さぁ、さぁ座って、座って」
ソファに座るように手が指示され、勢いの良さに苦笑いをしながらソファに座れば、微かに体温が残っていた。
居心地が悪い。
少し身体をずらそうとすれば、ソファ越しに背後から両肩に手を置かれる。
「それで、室長の悩みとはどのようなものなのでしょうか?」
肩に触れた手。
背後からのぞき込んでくる顔。
鋭く見える視線に、心が見透かされそうでドキッとし……そして逃げたくなった。
「実は、私、物凄くお腹がすいているんですよ!! あなたからとても美味しそうな匂いがして、我慢ができなくて……」
「ぇ、あぁ……コレですね。 夕食の残りをサンドイッチにしましたの。 どうぞ、召し上がってください」
「あはははっは、図々しいお願いをして申し訳ありませんね」
「いえ、お気遣いなく」
私はサンドイッチの入った包みをテーブルの上に置き、そして、肩から手が離れた瞬間に立ち上がった。
「研究に戻らせていただきますね。 室長、余りご無理をなさらないように。 お家の方がご心配されておりましたわ」
私への……生まれて来るだろう子供への心配は、元をたどれば彼に向けられるものなのだから……。
「コーヒーは?」
「診療が始まる前に仮眠をとる事にしました。 なので、また、改めてご馳走してください」
「そう、残念だな。 だけど、まぁ、その方がいい。 行きなさい」
「はい、お気遣いありがとうございます」
扉に手をかけた時、もう一度声がかけられた。
「何か辛い事があったら、私が何時だって相談に乗りますから」
私は少しだけ振り返り、笑みを浮かべた。
「ご配慮に感謝します」
私は自分の研究室へ向かい、隠してあるドライフルーツがタップリ入ったパウンドケーキを取り出し、水をグラスに注ぎ溜息をついた。
「相談……出来るはずがない」
ブライト侯爵家が、私に望むのは働く事ではなく健康な子を産む事なのだから。 もし、マーティンとアンジェの間に子が生まれると知れば、私は用無しになってしまう。
そうなれば……受けていた恩恵は全て失われてしまう。
マーティンに問題があったとしても……私が欲しいのは一時的な慰謝料ではなく、この王宮治療院での仕事なのだから……。
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