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ホーリーブルー
東堂少年との出会い
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2008年7月15日午後3時
薬師寺美鶴は事務所の肘掛けにもたれ込んで煙草を吹かす。そして昨晩の後悔を二日酔いという形で思い返していた。項垂れ力なくため息と共に吐き出される煙があたりに立ちこめる。
「あぁいやだ。こんな仕事やめちゃおうかな」
これは美鶴にそう思わせる前日の話。東堂千歳と言う15歳の少年が彼女の事務所に突然訪問してきた。
美鶴はこの少年を見たとき他の人間にはない『何か』に驚かされた。
顔立ちは少女にも見えたが、その学ラン姿でようやく少年であることが解るぐらいの人形のような美少年だった。東堂という苗字に心当たりというか痼りのようなものを感じながらも、美鶴は彼を見た時、手を出したら犯罪だな、と思うぐらいの感想だけが残った。
特別記憶力のいいわけでもない彼女は、まさか彼が過去に起きた惨憺たる事件の関係者だとは思わなかった。
美鶴は思う。この少年は女より変態にモテそうだ。彼の通う学校の男子生徒は何人か性癖を破壊されているに違いない。無粋にも放たれた質問というか邪推は当たっていた。彼の通う私立高校の男子生徒の何人かに告白されたことがある。彼は辟易するように答えた。
そんな罪作りの少年が美鶴に相談することとはなにか。勿論そんなくだらない悩みをここで吐露することではない。
それは、薬師寺美鶴がこれから担当するであろう案件の中でも、とびっきり胸糞悪い部類の事件だった。
東堂少年は美鶴が案内すると一礼してから応接用の椅子に礼儀正しく座る。その一連の動作で育ちが良いことがよく解った。
この事務所に入ってからの彼の顔はとても暗く、美鶴はなんとなくただ事ではないと薄々感じた。
美鶴は来客には挽きたてのコーヒーを出す流儀を持っていたが、少年は匂いの強いものが苦手らしく、できればと緑茶を所望した。
初めは緊張していた少年だったが、美鶴の淹れた一煎目のお茶を飲むとその味に少し驚いていた。美鶴は探偵として売れているわけでもないのに無駄に高級趣向なのだ。本題になかなか踏みこめない少年のために彼女はお茶についての考えを語った。
「どうだ?美味いだろう。一煎目を捨てるのは無知な人間がやることだと私は思っている。まぁこいつは新茶なんだが、そうでなくとも栄養価は一番高い」
美鶴の持論に少し関心しながらお茶を飲み終えた少年は少しだけ落ち着きを取り戻した。
「だが、二煎目がさらに美味いことは事実だ」と美鶴がもう一度淹れた熱々の二杯目を急須で注ぐ。最初より熱いお茶はすぐには飲めそうもない。立ち上がる湯気を暫く眺めていた少年は、ついに本筋に向けたある質問を美鶴に投げた。
「突然押しかけてしまって申し訳ありません。本日は薬師寺先生にとある事件の解決をお願い致したくまいりました」
美鶴がもう少し砕けた言い方でよいと言うと東堂少年は言い方を変えた。
「では、まずご依頼するその前に何点かお尋ねしたいことがあります。先生は5年前に起きた七夕誘拐殺人事件をご存知ですか?東堂百華と言う当時5才の女の子の話です」
「そうか。君はあの子の兄だったんだな」
5年前、美鶴は大学生だった。しかし、東堂百華のことはよく知っていた。2003年7月7日、東堂百華ちゃんが祭り会場から突然姿を消した。そのことでテレビではその少女に関しての報道で持ちきりだった。
これは事件後の記述なのだが、百華ちゃん失踪の2日後。犯人を名乗る男から身代金の要求があったのだ。資産家の東堂家を狙った計画的な犯行であった。
事件が起きる2週間前から無言電話が7件ほどあったようだ。電話越しに聞こえる声から、いつ誰がどの時間に東堂家にいるのかを特定するためだったのだろう。
しかし事件は七夕祭りで決行された。
美鶴は思う。何故犯人は百華ちゃんが七夕祭りに来ると解ったのだろう。もし、無言電話でかの情報を得たなら、家の前または一人で遊んでいるところを狙わないのか。
無論警察も同じことを思い、百華ちゃんのスケジュールを把握している者を容疑者にした。東堂家には家政婦が一人いたが、事件当日夫人東堂紗織と自宅にいた。
犯人はヘリウムガスを使用して東堂家に身代金を要求。その声の種類から自宅班は男であると断定。家政婦の容疑は晴れた。
身代金の要求額は5千万円だったが、当主の東堂明夫は迷うことなくその要求額を用意した。
7月12日
犯人の要求に従って身代金はトラベラーバックに入れられ、地元南房総市にある喫茶店『かがり』で明夫本人が犯人に直接手渡した。警察はこの時に犯人を現行犯逮捕したが、その者は犯人が用意した受け子であった。受け子は犯人との面識はなく、前金として2万円を渡されていた。受け子の証言では、背格好は170センチ前後。年齢は40代。そして男性だということがわかった。
しかし誘拐犯との信用は崩れてしまった。その日から犯人からの電話はこなくなってしまった。
7月15日
大雨の日。百華ちゃんが遺骨の状態で東堂家に送りつけられた。郵便ではなく、犯人が直接置いていった可能性があった。
捜査は誘拐事件から殺人事件に移った。しかし、遺骨やダンボールからも犯人の手掛かりとなるものは一切見つからなかった。
この事件は警察の判断ミスによるものだと世間から大バッシングを受けた。なんとも痛ましい事件だ。
美鶴は当時の事を思い出し、僅かながら目の前の人物に同情する。
美鶴もまた悲惨な人生を送っている。
17歳の時に刑事の父が殉職し、母はその1年後に父の後を追った。
だが、そんな経験をした美鶴でさえ、この東堂一家の悲劇には目も当てられない。
どうせ人はいつか死ぬ。しかし少女が燃やされ、遺族に送りつけられるなんて、想像するだけで吐き気がする。当時の美鶴は新聞越しに沸々と怒りを露わにしていたものだ。
そんな悪意のある事件を彼は10歳の時に経験している。
「その後、僕たちは千葉から東京に越してきました。元の家にいても事件のことを思い出すだけなんで」
「東京?では何故この春日部まで?別に調べても出てくるほど私は有名でもないが」
「・・・・・・・」
美鶴は東堂少年のその沈黙で、彼が何故ここに来て何を美鶴に依頼するかおおよその想定ができた。
約1週間前の7月7日に千葉県野田市の七夕祭りの会場で少女が行方不明になった。新聞の記事になったのは10日のことだ。被害者の名前はまだ公開されていない。犯行声明はないがこの事実に含みを持たせるなら誘拐事件の可能性があると美鶴は思う。七夕という部分を見れば5年前の事件と重なる。
東堂少年はその日から東京にある探偵事務所に片っ端から相談を持ちかけては断られ、「暇な探偵を知ってる」と紹介されて遂にここまでやってきたのだ。暇ではない、と言ってやりたがったが、こうも拘りを持って茶を淹れる人間は暇だと決まっている。だが、事実そうだとしても、今の美鶴ができることと言えば他と同じく、この少年に警察に任せるようにと諭してあげることぐらいだ。
しかし、考えて見れば酷なことだ。その警察の不手際で妹が惨殺されてしまったのだから、警察に対する強い恨みがあるに違いない。そして東堂少年の依頼はやはり警察への遺恨を残した物言いだった。
「今回の七夕誘拐事件を警察よりも先に解決してください!」
美鶴は眉間を摘んだ。それは無理難題という奴だ。警察の捜査力を一人の探偵が出し抜くのは不可能。さらにこの失踪事件がまだ誘拐事件だと断定していない。少なくともニュースや新聞記事にはそう書いていない。実は警察はもうすでにその線で動いているのかもしれないが、情報は後手後手だ。国家機関との情報戦とは昨日のレースの馬券を買うようなものだ。何より東堂家に起きた悲劇と同一犯だとは考えにくい。同じ千葉でも房総半島と野田市では距離があり過ぎる。模倣犯の可能性だってある。よしんば今回の失踪事件が誘拐事件であったとして、もし犯人が捕まったとして、例えそうなったとしても東堂家の無念を晴らせるかはまた別問題だ。もし同一犯だったとしても東堂百華殺害の証拠はない。それを残すような相手なら、未だなんの手掛かりも残さないで生きてはいけないだろう。相手は相当の知能犯に違いない。
美鶴は適温になった緑茶に口を付け、その後に煙草に火を点けた。
東堂少年は匂いの強いものは苦手だと予め伝えたのにも関わらず、煙草を吹かす美鶴の神経を疑ったが、その感情は直ぐに消えた。美鶴の目を見た。その獣を狩る目を。
彼女は今大きな決断をしている。そう感じ取ったのだ。
美鶴はこの仕事を始めてまだ1年目である。だが、そうなる以前から加算して、これまでに大きな事件を5つ解決に導いた。今回の依頼はその中で最も遅れたスタートになる。
東堂少年は前の探偵事務所で「暇な探偵を知っている」以外に「きっと頼りになる人だ」とも聞いていた。藁にもすがる思いだったが、ここでそう確信した。
応接の間が靄のように包まれ、その中で美鶴の眼光が際立つ。
美鶴は今、東堂千歳の依頼を受けるための理由を考えている。
これは慈善活動ではない。これは彼への同情ではない。こんな無名の探偵に依頼した彼への報いでもない。ではなんのためにこの依頼を受けるか。
笑ってしまう。
理由がないとやっちゃいけないのか。
美鶴は答えを出した。
そんな糞のような人間を野放しにはできない。ただ、やりたいからやる。一番シンプルで自分にとって後腐れがない。
しかし、それ以上に東堂少年の覚悟を確かめないわけにはいかなかった。なぜなら、東堂少年はこれから警察以外に美鶴を恨むことになるかもしれないからだ。
「では東堂さん。この案件を受けるにあたって、私から君に2つほど条件を出させてもらう」
「僕のことは千歳と呼んでください。あと、どんな条件でも呑みます!」
美鶴は東堂少年改め千歳に2つの絶対条件を提示した。
一つはこの案件の達成非達成に関わらず先払いとして100万円を支払うこと。もう一つは、この事件を解決するのは東堂千歳本人であること。
「以上が私からの条件だ。私はあくまで君の指示に従う護衛だ。無論知識は貸す。しかし、この事件はまだ誘拐と決まっていない。そして君たちに起きた事件との関係性も掴めていないのだ。こんなことを言っては心苦しいが、私は犯人の見えない事件に関しては一般人並の推理しかできん」
そんな条件を呑める筈はない。そう言おうとした彼であったが、美鶴の言葉の意味を反芻するように振り返ると、次に出る言葉は変わっていた。
「それはつまり・・・いや・・」
何か言葉のあやかもしれない。しかし、あまりに聞き捨てならなかった。捨てたとしても拾いなおす程。
「・・・まるで犯人を見ればどんな事件でも解決できるように聞こえますが?」
美鶴は彼の目を一瞥してから言った。
「あぁ。そうだと言った。私はたとえどんな相手でも嘘を吐く人間、殺しをした人間を見極められる生まれつきの病気を持っているんだ。信じられないかもしれないが、探偵になった理由はこの病気を使って楽に稼ごうと思ったからなのだよ」
「それは冗談じゃないですよね?」
「誰にも公言したことはない。死んだ両親にさえな。勿論信じてもらおうなんて思っていない。東京でたらい回しにされたのだろう?藁にもすがる思いで私に依頼したいのであれば、これぐらい無理にでも信じてみせろ」
「・・・・・・少し時間をください」
そう言って千歳は帰って行った。曇った顔。虚しくなるようなドアベルが美鶴の脳裏に残った。
これが二日酔いに至る前日の出来事だった。15歳の少年に随分酷な条件を出したことによる自己嫌悪で普段よりも一層深酒をしてしまった。せめてオカルトめいたこの病気のことは伏せておくべきだったと今になって思う。
昼下がりの事務所で頭痛に項垂れながら煙草を吹かすだけの、いつも通りの光景に戻っている。
「あぁいやだ。こんな仕事やめちゃおうかな」
楽だと思った道が一番険しいなんてよくある話だ。しかもどんな事件を解決しても後に残るのは虚しさだけ。いつだって被害者は死んでいる。だが、今回はまだ生きている。そう思いたい。
美鶴が考え事に耽っていると事務所のドアベルが鳴った。頭をあげるのも一苦労。美鶴が見た先には千歳がいた。
まさか、昨日の今日で決断するとは思わなかった。
千歳は美鶴の前まで来て、茶封筒を彼女に渡した。
「中に200万入ってます。僕は先生のことを全面的に信じます!だから可能な限りでいいので事件を一緒に追ってください。もしこれで足りなければ、なんとかしてまた用意します。だからどうか妹の無念を一緒に晴らしてください!」
昨日見せなかった涙がそこにあった。美鶴は思い違いをしていた。彼は強くない。普通の少年なのだ。常人と同じ精神で今日まで苦しみもがいてきたのだ。それは美鶴も同じだった。やはり同情抜きにはこの少年と向き合うことはできない。
美鶴は彼の顔を見て一種の救いを得た。彼の真摯な心が美鶴を探偵であることに繋ぎ止めた瞬間だった。
美鶴はもらい泣きしそうになりながらも、茶封筒から余分なお金を取り出し少年に渡した。
「君の覚悟、しかと受け取ったよ。見掛けによらず男気があるじゃないか。しかし私は提示額以上は受け取らない。そしてこの100万を我々の活動資金とする。それでいいな?」
千歳は精悍な顔つきで返事をした。
美鶴は物心付いた時から、大小関係なく人の罪が見える。故に人のことを心から信じたことはない。たとえ親でさえも。
誰にも言わなかった秘密。決して信じてもらえないと思っていた秘密。それを人生で初めてこの少年に打ち明けたのは、彼の心が他の人間にはない『美しさ』を持っていたからだ。
美鶴は彼を見たときからその言葉に偽りがないことを知っていた。彼女は恩人以外に初めて心から信じられる人間に出会った。
そして東堂千歳も薬師寺美鶴を信じると言った。その心の真偽は、本人と薬師寺美鶴にしか解らない。
「では、まず5年前の事件現場に行こう。当時の事件から犯人の人間性を少しでも理解したい。しかし、その前に寄らなければ行けない所がある」
「え?どこですか?」
真夏にも関わらず、美鶴は革製の赤いコートを羽織った。
「君の大っ嫌いな連中がいるところさ」
「・・まさか警察署ですか?」
「そう。そこに私の大恩人がいる」
第二話「情報収集」に続く。
薬師寺美鶴は事務所の肘掛けにもたれ込んで煙草を吹かす。そして昨晩の後悔を二日酔いという形で思い返していた。項垂れ力なくため息と共に吐き出される煙があたりに立ちこめる。
「あぁいやだ。こんな仕事やめちゃおうかな」
これは美鶴にそう思わせる前日の話。東堂千歳と言う15歳の少年が彼女の事務所に突然訪問してきた。
美鶴はこの少年を見たとき他の人間にはない『何か』に驚かされた。
顔立ちは少女にも見えたが、その学ラン姿でようやく少年であることが解るぐらいの人形のような美少年だった。東堂という苗字に心当たりというか痼りのようなものを感じながらも、美鶴は彼を見た時、手を出したら犯罪だな、と思うぐらいの感想だけが残った。
特別記憶力のいいわけでもない彼女は、まさか彼が過去に起きた惨憺たる事件の関係者だとは思わなかった。
美鶴は思う。この少年は女より変態にモテそうだ。彼の通う学校の男子生徒は何人か性癖を破壊されているに違いない。無粋にも放たれた質問というか邪推は当たっていた。彼の通う私立高校の男子生徒の何人かに告白されたことがある。彼は辟易するように答えた。
そんな罪作りの少年が美鶴に相談することとはなにか。勿論そんなくだらない悩みをここで吐露することではない。
それは、薬師寺美鶴がこれから担当するであろう案件の中でも、とびっきり胸糞悪い部類の事件だった。
東堂少年は美鶴が案内すると一礼してから応接用の椅子に礼儀正しく座る。その一連の動作で育ちが良いことがよく解った。
この事務所に入ってからの彼の顔はとても暗く、美鶴はなんとなくただ事ではないと薄々感じた。
美鶴は来客には挽きたてのコーヒーを出す流儀を持っていたが、少年は匂いの強いものが苦手らしく、できればと緑茶を所望した。
初めは緊張していた少年だったが、美鶴の淹れた一煎目のお茶を飲むとその味に少し驚いていた。美鶴は探偵として売れているわけでもないのに無駄に高級趣向なのだ。本題になかなか踏みこめない少年のために彼女はお茶についての考えを語った。
「どうだ?美味いだろう。一煎目を捨てるのは無知な人間がやることだと私は思っている。まぁこいつは新茶なんだが、そうでなくとも栄養価は一番高い」
美鶴の持論に少し関心しながらお茶を飲み終えた少年は少しだけ落ち着きを取り戻した。
「だが、二煎目がさらに美味いことは事実だ」と美鶴がもう一度淹れた熱々の二杯目を急須で注ぐ。最初より熱いお茶はすぐには飲めそうもない。立ち上がる湯気を暫く眺めていた少年は、ついに本筋に向けたある質問を美鶴に投げた。
「突然押しかけてしまって申し訳ありません。本日は薬師寺先生にとある事件の解決をお願い致したくまいりました」
美鶴がもう少し砕けた言い方でよいと言うと東堂少年は言い方を変えた。
「では、まずご依頼するその前に何点かお尋ねしたいことがあります。先生は5年前に起きた七夕誘拐殺人事件をご存知ですか?東堂百華と言う当時5才の女の子の話です」
「そうか。君はあの子の兄だったんだな」
5年前、美鶴は大学生だった。しかし、東堂百華のことはよく知っていた。2003年7月7日、東堂百華ちゃんが祭り会場から突然姿を消した。そのことでテレビではその少女に関しての報道で持ちきりだった。
これは事件後の記述なのだが、百華ちゃん失踪の2日後。犯人を名乗る男から身代金の要求があったのだ。資産家の東堂家を狙った計画的な犯行であった。
事件が起きる2週間前から無言電話が7件ほどあったようだ。電話越しに聞こえる声から、いつ誰がどの時間に東堂家にいるのかを特定するためだったのだろう。
しかし事件は七夕祭りで決行された。
美鶴は思う。何故犯人は百華ちゃんが七夕祭りに来ると解ったのだろう。もし、無言電話でかの情報を得たなら、家の前または一人で遊んでいるところを狙わないのか。
無論警察も同じことを思い、百華ちゃんのスケジュールを把握している者を容疑者にした。東堂家には家政婦が一人いたが、事件当日夫人東堂紗織と自宅にいた。
犯人はヘリウムガスを使用して東堂家に身代金を要求。その声の種類から自宅班は男であると断定。家政婦の容疑は晴れた。
身代金の要求額は5千万円だったが、当主の東堂明夫は迷うことなくその要求額を用意した。
7月12日
犯人の要求に従って身代金はトラベラーバックに入れられ、地元南房総市にある喫茶店『かがり』で明夫本人が犯人に直接手渡した。警察はこの時に犯人を現行犯逮捕したが、その者は犯人が用意した受け子であった。受け子は犯人との面識はなく、前金として2万円を渡されていた。受け子の証言では、背格好は170センチ前後。年齢は40代。そして男性だということがわかった。
しかし誘拐犯との信用は崩れてしまった。その日から犯人からの電話はこなくなってしまった。
7月15日
大雨の日。百華ちゃんが遺骨の状態で東堂家に送りつけられた。郵便ではなく、犯人が直接置いていった可能性があった。
捜査は誘拐事件から殺人事件に移った。しかし、遺骨やダンボールからも犯人の手掛かりとなるものは一切見つからなかった。
この事件は警察の判断ミスによるものだと世間から大バッシングを受けた。なんとも痛ましい事件だ。
美鶴は当時の事を思い出し、僅かながら目の前の人物に同情する。
美鶴もまた悲惨な人生を送っている。
17歳の時に刑事の父が殉職し、母はその1年後に父の後を追った。
だが、そんな経験をした美鶴でさえ、この東堂一家の悲劇には目も当てられない。
どうせ人はいつか死ぬ。しかし少女が燃やされ、遺族に送りつけられるなんて、想像するだけで吐き気がする。当時の美鶴は新聞越しに沸々と怒りを露わにしていたものだ。
そんな悪意のある事件を彼は10歳の時に経験している。
「その後、僕たちは千葉から東京に越してきました。元の家にいても事件のことを思い出すだけなんで」
「東京?では何故この春日部まで?別に調べても出てくるほど私は有名でもないが」
「・・・・・・・」
美鶴は東堂少年のその沈黙で、彼が何故ここに来て何を美鶴に依頼するかおおよその想定ができた。
約1週間前の7月7日に千葉県野田市の七夕祭りの会場で少女が行方不明になった。新聞の記事になったのは10日のことだ。被害者の名前はまだ公開されていない。犯行声明はないがこの事実に含みを持たせるなら誘拐事件の可能性があると美鶴は思う。七夕という部分を見れば5年前の事件と重なる。
東堂少年はその日から東京にある探偵事務所に片っ端から相談を持ちかけては断られ、「暇な探偵を知ってる」と紹介されて遂にここまでやってきたのだ。暇ではない、と言ってやりたがったが、こうも拘りを持って茶を淹れる人間は暇だと決まっている。だが、事実そうだとしても、今の美鶴ができることと言えば他と同じく、この少年に警察に任せるようにと諭してあげることぐらいだ。
しかし、考えて見れば酷なことだ。その警察の不手際で妹が惨殺されてしまったのだから、警察に対する強い恨みがあるに違いない。そして東堂少年の依頼はやはり警察への遺恨を残した物言いだった。
「今回の七夕誘拐事件を警察よりも先に解決してください!」
美鶴は眉間を摘んだ。それは無理難題という奴だ。警察の捜査力を一人の探偵が出し抜くのは不可能。さらにこの失踪事件がまだ誘拐事件だと断定していない。少なくともニュースや新聞記事にはそう書いていない。実は警察はもうすでにその線で動いているのかもしれないが、情報は後手後手だ。国家機関との情報戦とは昨日のレースの馬券を買うようなものだ。何より東堂家に起きた悲劇と同一犯だとは考えにくい。同じ千葉でも房総半島と野田市では距離があり過ぎる。模倣犯の可能性だってある。よしんば今回の失踪事件が誘拐事件であったとして、もし犯人が捕まったとして、例えそうなったとしても東堂家の無念を晴らせるかはまた別問題だ。もし同一犯だったとしても東堂百華殺害の証拠はない。それを残すような相手なら、未だなんの手掛かりも残さないで生きてはいけないだろう。相手は相当の知能犯に違いない。
美鶴は適温になった緑茶に口を付け、その後に煙草に火を点けた。
東堂少年は匂いの強いものは苦手だと予め伝えたのにも関わらず、煙草を吹かす美鶴の神経を疑ったが、その感情は直ぐに消えた。美鶴の目を見た。その獣を狩る目を。
彼女は今大きな決断をしている。そう感じ取ったのだ。
美鶴はこの仕事を始めてまだ1年目である。だが、そうなる以前から加算して、これまでに大きな事件を5つ解決に導いた。今回の依頼はその中で最も遅れたスタートになる。
東堂少年は前の探偵事務所で「暇な探偵を知っている」以外に「きっと頼りになる人だ」とも聞いていた。藁にもすがる思いだったが、ここでそう確信した。
応接の間が靄のように包まれ、その中で美鶴の眼光が際立つ。
美鶴は今、東堂千歳の依頼を受けるための理由を考えている。
これは慈善活動ではない。これは彼への同情ではない。こんな無名の探偵に依頼した彼への報いでもない。ではなんのためにこの依頼を受けるか。
笑ってしまう。
理由がないとやっちゃいけないのか。
美鶴は答えを出した。
そんな糞のような人間を野放しにはできない。ただ、やりたいからやる。一番シンプルで自分にとって後腐れがない。
しかし、それ以上に東堂少年の覚悟を確かめないわけにはいかなかった。なぜなら、東堂少年はこれから警察以外に美鶴を恨むことになるかもしれないからだ。
「では東堂さん。この案件を受けるにあたって、私から君に2つほど条件を出させてもらう」
「僕のことは千歳と呼んでください。あと、どんな条件でも呑みます!」
美鶴は東堂少年改め千歳に2つの絶対条件を提示した。
一つはこの案件の達成非達成に関わらず先払いとして100万円を支払うこと。もう一つは、この事件を解決するのは東堂千歳本人であること。
「以上が私からの条件だ。私はあくまで君の指示に従う護衛だ。無論知識は貸す。しかし、この事件はまだ誘拐と決まっていない。そして君たちに起きた事件との関係性も掴めていないのだ。こんなことを言っては心苦しいが、私は犯人の見えない事件に関しては一般人並の推理しかできん」
そんな条件を呑める筈はない。そう言おうとした彼であったが、美鶴の言葉の意味を反芻するように振り返ると、次に出る言葉は変わっていた。
「それはつまり・・・いや・・」
何か言葉のあやかもしれない。しかし、あまりに聞き捨てならなかった。捨てたとしても拾いなおす程。
「・・・まるで犯人を見ればどんな事件でも解決できるように聞こえますが?」
美鶴は彼の目を一瞥してから言った。
「あぁ。そうだと言った。私はたとえどんな相手でも嘘を吐く人間、殺しをした人間を見極められる生まれつきの病気を持っているんだ。信じられないかもしれないが、探偵になった理由はこの病気を使って楽に稼ごうと思ったからなのだよ」
「それは冗談じゃないですよね?」
「誰にも公言したことはない。死んだ両親にさえな。勿論信じてもらおうなんて思っていない。東京でたらい回しにされたのだろう?藁にもすがる思いで私に依頼したいのであれば、これぐらい無理にでも信じてみせろ」
「・・・・・・少し時間をください」
そう言って千歳は帰って行った。曇った顔。虚しくなるようなドアベルが美鶴の脳裏に残った。
これが二日酔いに至る前日の出来事だった。15歳の少年に随分酷な条件を出したことによる自己嫌悪で普段よりも一層深酒をしてしまった。せめてオカルトめいたこの病気のことは伏せておくべきだったと今になって思う。
昼下がりの事務所で頭痛に項垂れながら煙草を吹かすだけの、いつも通りの光景に戻っている。
「あぁいやだ。こんな仕事やめちゃおうかな」
楽だと思った道が一番険しいなんてよくある話だ。しかもどんな事件を解決しても後に残るのは虚しさだけ。いつだって被害者は死んでいる。だが、今回はまだ生きている。そう思いたい。
美鶴が考え事に耽っていると事務所のドアベルが鳴った。頭をあげるのも一苦労。美鶴が見た先には千歳がいた。
まさか、昨日の今日で決断するとは思わなかった。
千歳は美鶴の前まで来て、茶封筒を彼女に渡した。
「中に200万入ってます。僕は先生のことを全面的に信じます!だから可能な限りでいいので事件を一緒に追ってください。もしこれで足りなければ、なんとかしてまた用意します。だからどうか妹の無念を一緒に晴らしてください!」
昨日見せなかった涙がそこにあった。美鶴は思い違いをしていた。彼は強くない。普通の少年なのだ。常人と同じ精神で今日まで苦しみもがいてきたのだ。それは美鶴も同じだった。やはり同情抜きにはこの少年と向き合うことはできない。
美鶴は彼の顔を見て一種の救いを得た。彼の真摯な心が美鶴を探偵であることに繋ぎ止めた瞬間だった。
美鶴はもらい泣きしそうになりながらも、茶封筒から余分なお金を取り出し少年に渡した。
「君の覚悟、しかと受け取ったよ。見掛けによらず男気があるじゃないか。しかし私は提示額以上は受け取らない。そしてこの100万を我々の活動資金とする。それでいいな?」
千歳は精悍な顔つきで返事をした。
美鶴は物心付いた時から、大小関係なく人の罪が見える。故に人のことを心から信じたことはない。たとえ親でさえも。
誰にも言わなかった秘密。決して信じてもらえないと思っていた秘密。それを人生で初めてこの少年に打ち明けたのは、彼の心が他の人間にはない『美しさ』を持っていたからだ。
美鶴は彼を見たときからその言葉に偽りがないことを知っていた。彼女は恩人以外に初めて心から信じられる人間に出会った。
そして東堂千歳も薬師寺美鶴を信じると言った。その心の真偽は、本人と薬師寺美鶴にしか解らない。
「では、まず5年前の事件現場に行こう。当時の事件から犯人の人間性を少しでも理解したい。しかし、その前に寄らなければ行けない所がある」
「え?どこですか?」
真夏にも関わらず、美鶴は革製の赤いコートを羽織った。
「君の大っ嫌いな連中がいるところさ」
「・・まさか警察署ですか?」
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