ねむれない蛇

佐々

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#エンカウント 凛太朗と真 乃木家に初めて会ったときの話

 母が再婚したのは凛太朗が十歳の頃だった。
 その日、滅多に着ないよそ行きのきれいな服を着せられ向かったのは都心のホテルのレストランだった。近所のファミレスともデパートの飲食店とも違う空間に凛太朗は落ち着かない気分になり、何度も母の顔を見上げた。その度に大丈夫よ、と微笑む母はいつもより美しく見えた。
 案内されたテーブルには母より年上と思われる男と高校生くらいの男女が座っていた。二人ともまだ子供と呼べる年齢なのに、きらびやかな店内によく溶け込んでおり、息子に至っては退屈そうにあくびを漏らしては隣に座る女に窘められていた。
「雪音さん、わざわざ悪かったね。遠かっただろう」
 母に気づくと男は立ち上がった。上品で優しげな、それでいて堂々とした振る舞いの男は凛太朗が今まで接した事のない種類の人間だった。
「いいえ、お誘いありがとうございます。凛太朗、こちらはお友達の乃木さん」
「初めまして。藤崎凛太朗です」
 状況はわからないが、凛太朗は反射的に挨拶した。男はその場に膝を折り、凛太朗と目線を合わせた。
「凛太朗くん、初めまして。突然でびっくしただろう。お母さんの友達の乃木です。よろしく」
 握手を交わし、立ち上がった乃木は二人の子供を紹介した。
 姉の楓は美しく、そして優しそうな娘だった。食事中も頻繁に話題を振ってくれ、大人ばかりのテーブルで凛太朗が退屈しないよう気遣ってくれている事がわかった。
 対して、息子の真は最後まで自分から口を開くことはなく、たまに話題をふられても当たり障りのない回答を端正な愛想笑いにのせるだけだった。そして食後のデザートが運ばれてくる前に席を立った息子を、乃木は厳しい口調で呼びとめたが、それを制したのは母だった。
「乃木さん、いいの。もう帰してあげて」
「雪音さん、私は」
「いいんですよ。真くん、今日はありがとう。急にごめんなさいね。会えて嬉しかったわ」
 母が言うと、真は一きわ感じのよい笑顔を浮かべた。
「こちらこそ、お会いできてよかったです。今後とも、父をよろしくお願いします」
 真が帰ると乃木は改めて雪音に謝った。
「本当にすまない。背ばかり高くなって、中身はまるで子供だ。恥ずかしいよ」
「そんな風に言わないで。とても素敵な息子さんじゃない。上品で、笑った顔があなたに似てるわ」
「ごめんなさい、雪音さん。凛太朗くんも、真のことを嫌わないでね。本当はとても優しくて家族思いなの」
 楓が謝ると、母は穏やかに微笑んだ。
「ええ、わかるわ。リンだって、今日私が突然ここに連れてきてしまったから戸惑ってるもの。きっと真くんも同じなのよ」
「ありがとう。今度必ず埋め合わせる。その時はあいつにも、もう少しましな態度をとるよう言っておくよ」
  母はまだ何か思うところがありそうだったが、これ以上他家の教育方針に口を出すまいと思ったのか、少し困ったように微笑むだけだった。


 それから時々、乃木一家と食事をするようになった。乃木はいつも色々な店に連れて行ってくれた。雰囲気のある多国籍料理の店や、窯焼きのピザが食べられる店や、回転寿司屋など、料理の味だけでなく凛太朗が楽しめる店を選んでくれているようだった。
 凛太朗は単純な子供だったので、新幹線の容器がレーンを走る寿司屋に大喜びし、別の店で誕生日にケーキを出してもらい、欲しかったゲームをプレゼントされた日には興奮しすぎて熱を出した。
 そして何よりきれいな楓がいつもとても優しいので、凛太朗はあっという間に彼らを好きになってしまった。
 唯一、ほとんど顔を見せない真だけはいつまでたっても苦手な存在だった。彼は乃木や楓のように構ってくれることも、優しく笑いかけてくれることもない。たまに見せる彼の美しい笑顔の裏に隠された得体の知れない本性が恐ろしかった。


 真と初めてまともに話したのは乃木一家を夕食に招いた日だった。
「リン、ちょっとおつかいに行ってきてくれる?」
 母から買い出しを頼まれてスーパーに行った帰り道、近所の公園のベンチに真が座っていた。制服を着た彼の足元に纏わりつく黒猫は、この辺りで人に懐かないと有名な猫だった。
「何してるの?」
 凛太朗が近づくと黒猫はどこかへ行ってしまった。
「あーあ、逃げちゃった」
 真はベンチから立ち上がり、凛太朗の手からスーパーの袋を取り上げた。
「重いな。お前いつもお使いとかしてんの?」
「まぁ、わりと」
「家どこ? 迷ったから案内してよ」
 家に来るのか。思わず嫌そうな顔をしてしまい、それに気づいた真が笑って雑に凛太朗の頭をなでた。
「素直な奴だな。俺だって邪魔して悪いと思ってるよ。飯食ったらさっさと帰るから」
「いいよ、母さんが呼んだんだろ」
 凛太朗は真の先に立って歩きだした。
「ああ、雪音さんてほんとにいい人だよな。いい人できれいで、父さんにはもったいないよ」
「乃木さんもいい人だよ」
「美味いもん食わしてくれて、欲しいゲームを買ってくれればみんないい人か」
 凛太朗は足を止め、振り返って真を睨んだ。
「あんたは意地悪だ」
「はは、お兄ちゃんて呼んでいいからな」


 真は最初の宣言通り、夕食を終えると早々に退散した。持参した手土産のケーキに手をつけることもなく家を出た真を、凛太朗はなぜか追いかけていた。
「待って!」
 呼び止めると真は足を止め、振り返った。
「俺たちが気に入らないならそう言えよ! 母さんの事も、口ではいい人なんて言ってるけど、ほんとは乃木さんが俺の母さんと仲良くするのが嫌なんだろ?」
 真は一瞬驚いたような顔をして、それから微笑んだ。
「お前はいいのか? 雪音さんが本当のお父さんじゃない人と家族になっても」
「俺は……母さんが幸せならそれでいい。乃木さんはいい人だし、母さんのことを大切にしてくれてると思う。だから母さんが乃木さんを好きなら、俺は二人が結婚するのがいいと思う」
 その場に膝を折った真は今度は優しく凛太朗の頭をなでた。
「お前はいい子だな。でも俺は、これ以上多くのものを守れない」
 穏やかな表情とは裏腹に、彼の物言いは悲し気だった。凛太朗がその意味を知ったのはそれからずっと後のことだった。
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