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選べない手を伸ばしたまま
#18
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「殺して」
繭にそう言われた時、凛太朗は以前、銃を向けた少女のことを思い出した。
テロリストに唆され、ユーリを拉致した哀れな少女。
彼女を撃った時は今よりも冷静だった気がする。いや、戸惑い、迷いはしたが、こんな風に怒りにも似た感情を覚えたりはしなかった。
助からない少女の悲痛な願いにこんなにも心をかき乱されることはなかった。
それでも銃口を逸らさなかったのは、続いて思い出されたのが兄の顔だったからだ。
彼はかつて、姉を殺した。彼にとっても大事な、かけがえのない存在をその手にかけた彼の痛みを、自分も一緒に背負わねばならないと思った。
昨日、帰りに寄った中華屋で真と一緒に夕食をとった。
油でべたついたテーブル、やにで汚れた壁紙、換気扇は時折からからと喧しい音を立てて回る。初めて来た店なのに、どこか懐かしい気がするのは実家の近所にあった店に似ているからかもしれない。
学生の頃はよく行っていた。あそこの麻婆ラーメンが好きだった。
次々と運ばれてくる料理でテーブルはあっという間にいっぱいになった。
「頼みすぎじゃない?」
「食えるだろこれくらい」
平然と箸を割る真に違和感を覚える。彼は昔からこんなに大食だっただろうか。
いや、どちらかと言うと食は細かったはずだ。よく、母が小食の真を案じて声をかけていた。
「真くんもういいの?」
「すみません、あまり食欲がなくて」
「大丈夫? 体調が悪いんじゃ……」
「いえ、平気です。残してしまってごめんなさい」
母が再婚して間もない頃はそんなやり取りがあった。
そのまま席を立った真を凛太朗は袖を引いて呼び止めた。
「真くん」
子供の頃、凛太朗は兄のことをそう呼んでいた。
「カボチャの天ぷら、俺が食べていい?」
こっそり尋ねると、彼は驚いた顔をして、それから笑い出した。
「いいよ、好きな物は全部食べな。俺の残りで嫌じゃなければ」
「なんで嫌なの? 家族なのに」
「……そうだな。ありがとう」
あの頃はなぜお礼を言われたのかわからなかった。子供の頃はいつもお腹が空いていたし、母の料理はどれも好物だったので、自分の好きなものを分けてくれる真に感謝していたのは凛太朗の方だった。
それからも、母が真の分だけ食事を減らすことはなかったので、彼が食べきれない分はいつも凛太朗が平らげた。
「お前ほんとによく食べるな」
あの近所の中華屋にも、真と一緒によく行った。ラーメンと餃子のセットを平らげ、追加の炒飯を頼んだ凛太朗を見て、真が言った。
「だって美味いじゃん。食ってる時ってほんと幸せ!」
あの頃は本当にそう思っていた。美味しい食事が空腹と共に心も満たしてくれると思っていた。
凛太朗の食欲が減退したのは両親と姉が死んでからだ。
しばらくの間は食べるという行為が辛く、固形物を口に入れるだけで戻してしまうこともあったため、ゼリー飲料や栄養剤だけで生きていた。
ある日、真と出かけた帰りに久しぶりに例の中華屋に寄った。
凛太朗は相変わらず食欲がなかったが、真は凛太朗の分まで料理を注文した。
程なくして一人前のラーメンと餃子、炒飯のついた定食が運ばれてきた。
「多すぎじゃない? 俺食欲が……」
「食えよ。残したら食ってやるから」
そう言う真の前にも同量の定食が置かれている。箸を取り、淡々と料理を口に運ぶ真は別人のようだった。
「食えって」
未だ箸を取りあぐねている凛太朗に、真はもう一度言った。
仕方なく蓮華を取り、ラーメンのスープを口に運ぶ。旨味と痺れるような辛さが広がって、懐かしい感覚に襲われた。
以前、楓や両親ともこの店に来たことがあった。二階のテーブル席に通されて、ちょうど宴会をしていた近所の大学生が騒がしくて、会話をかき消すほどの笑い声が上がるたび、楓と目を見合わせて苦笑した。
真はやはり少食で、半分ほどしか手のつけられていない中華丼を、さり気なく凛太朗の空の器と入れ替えていた。なんの疑問も抱かずにそれを食べ始める凛太朗を、楓がおかしそうな顔で見ていた。
一瞬で蘇った美しい思い出に、目頭が熱くなったのを覚えている。
あれから数年経った今でも、真は相変わらずよく食べる。
以前はあんなに食が細かったのに、家族の死を境に、真は人が変わったようにたくさん食べるようになった。でもその顔は、どうしたって幸せそうには見えなかった。
「食えよ。残したら俺が食ってやるから」
一瞥と共に向けられた言葉。あの日も同じことを言われた。
子供の頃は、真の食べきれない分を消化するのは凛太朗の役目だった。でも今は、彼がその役を買って出ようとしてくれている。急に食欲が増したわけでも、食べる喜びに目覚めたわけでもないことは、彼の顔を見ればわかる。それなのに。
久々にあの店で食事をした日から、真は頻繁に凛太朗を食事に連れ出した。忙しい仕事の合間を縫って、幾度となく共にした食卓で、同じ会話を繰り返してきた。そんなことも忘れていた。
心のどこかで、辛いのは、苦しいのは自分だけだと思っていた。家族を、楓を失っても真は何も変わらない。彼は非道な男で、身内の死に何も感じないほど壊れてしまっているのだと、そう思わなければ耐えられなかった。
だから見ないふりを、気づかないふりをしてきた。どんな言葉も、優しさも、彼の本心ではないと、決して心を揺らされることのないようにしてきた。
でも時々、彼の部屋のごみ箱はティッシュで溢れていた。目元や鼻の頭が赤いことを、乾燥のせいだと言い訳をしていた。
悟られないよう、声を殺して一人で泣く真の姿を思うと心臓を鷲掴みにされたような心地がした。
悲しくないわけがない。楓や家族の前で見せた穏やかな表情が、凛太朗に向けられた優しい笑顔が、嘘であるはずがない。
彼はずっと一人で耐えてきた。痛みも苦しみも悟らせず、ただ凛太朗を気遣い、守ってくれていた。
このままじゃ駄目だ。唐突に蘇った記憶と共に再確認する。
いつまでも真に気遣われる弟では、守られるだけでは駄目だ。
これからは、全部自分で決める。自分の人生を、彼と同じ場所で、対等に生きていくことを。
構えた銃身が震えていないことを確認して、凛太朗は彼女の胸に照準を合わせた。
引き金は驚くほど軽かった。
右手に発砲の衝撃がないことを不思議に思う。
正面から撃ったはずなのに、彼女の体は横に倒れた。
銃を下ろし、凛太朗は廊下の先に視線を向けた。
数メートル離れた場所に、銃を構えた真が立っていた。
繭にそう言われた時、凛太朗は以前、銃を向けた少女のことを思い出した。
テロリストに唆され、ユーリを拉致した哀れな少女。
彼女を撃った時は今よりも冷静だった気がする。いや、戸惑い、迷いはしたが、こんな風に怒りにも似た感情を覚えたりはしなかった。
助からない少女の悲痛な願いにこんなにも心をかき乱されることはなかった。
それでも銃口を逸らさなかったのは、続いて思い出されたのが兄の顔だったからだ。
彼はかつて、姉を殺した。彼にとっても大事な、かけがえのない存在をその手にかけた彼の痛みを、自分も一緒に背負わねばならないと思った。
昨日、帰りに寄った中華屋で真と一緒に夕食をとった。
油でべたついたテーブル、やにで汚れた壁紙、換気扇は時折からからと喧しい音を立てて回る。初めて来た店なのに、どこか懐かしい気がするのは実家の近所にあった店に似ているからかもしれない。
学生の頃はよく行っていた。あそこの麻婆ラーメンが好きだった。
次々と運ばれてくる料理でテーブルはあっという間にいっぱいになった。
「頼みすぎじゃない?」
「食えるだろこれくらい」
平然と箸を割る真に違和感を覚える。彼は昔からこんなに大食だっただろうか。
いや、どちらかと言うと食は細かったはずだ。よく、母が小食の真を案じて声をかけていた。
「真くんもういいの?」
「すみません、あまり食欲がなくて」
「大丈夫? 体調が悪いんじゃ……」
「いえ、平気です。残してしまってごめんなさい」
母が再婚して間もない頃はそんなやり取りがあった。
そのまま席を立った真を凛太朗は袖を引いて呼び止めた。
「真くん」
子供の頃、凛太朗は兄のことをそう呼んでいた。
「カボチャの天ぷら、俺が食べていい?」
こっそり尋ねると、彼は驚いた顔をして、それから笑い出した。
「いいよ、好きな物は全部食べな。俺の残りで嫌じゃなければ」
「なんで嫌なの? 家族なのに」
「……そうだな。ありがとう」
あの頃はなぜお礼を言われたのかわからなかった。子供の頃はいつもお腹が空いていたし、母の料理はどれも好物だったので、自分の好きなものを分けてくれる真に感謝していたのは凛太朗の方だった。
それからも、母が真の分だけ食事を減らすことはなかったので、彼が食べきれない分はいつも凛太朗が平らげた。
「お前ほんとによく食べるな」
あの近所の中華屋にも、真と一緒によく行った。ラーメンと餃子のセットを平らげ、追加の炒飯を頼んだ凛太朗を見て、真が言った。
「だって美味いじゃん。食ってる時ってほんと幸せ!」
あの頃は本当にそう思っていた。美味しい食事が空腹と共に心も満たしてくれると思っていた。
凛太朗の食欲が減退したのは両親と姉が死んでからだ。
しばらくの間は食べるという行為が辛く、固形物を口に入れるだけで戻してしまうこともあったため、ゼリー飲料や栄養剤だけで生きていた。
ある日、真と出かけた帰りに久しぶりに例の中華屋に寄った。
凛太朗は相変わらず食欲がなかったが、真は凛太朗の分まで料理を注文した。
程なくして一人前のラーメンと餃子、炒飯のついた定食が運ばれてきた。
「多すぎじゃない? 俺食欲が……」
「食えよ。残したら食ってやるから」
そう言う真の前にも同量の定食が置かれている。箸を取り、淡々と料理を口に運ぶ真は別人のようだった。
「食えって」
未だ箸を取りあぐねている凛太朗に、真はもう一度言った。
仕方なく蓮華を取り、ラーメンのスープを口に運ぶ。旨味と痺れるような辛さが広がって、懐かしい感覚に襲われた。
以前、楓や両親ともこの店に来たことがあった。二階のテーブル席に通されて、ちょうど宴会をしていた近所の大学生が騒がしくて、会話をかき消すほどの笑い声が上がるたび、楓と目を見合わせて苦笑した。
真はやはり少食で、半分ほどしか手のつけられていない中華丼を、さり気なく凛太朗の空の器と入れ替えていた。なんの疑問も抱かずにそれを食べ始める凛太朗を、楓がおかしそうな顔で見ていた。
一瞬で蘇った美しい思い出に、目頭が熱くなったのを覚えている。
あれから数年経った今でも、真は相変わらずよく食べる。
以前はあんなに食が細かったのに、家族の死を境に、真は人が変わったようにたくさん食べるようになった。でもその顔は、どうしたって幸せそうには見えなかった。
「食えよ。残したら俺が食ってやるから」
一瞥と共に向けられた言葉。あの日も同じことを言われた。
子供の頃は、真の食べきれない分を消化するのは凛太朗の役目だった。でも今は、彼がその役を買って出ようとしてくれている。急に食欲が増したわけでも、食べる喜びに目覚めたわけでもないことは、彼の顔を見ればわかる。それなのに。
久々にあの店で食事をした日から、真は頻繁に凛太朗を食事に連れ出した。忙しい仕事の合間を縫って、幾度となく共にした食卓で、同じ会話を繰り返してきた。そんなことも忘れていた。
心のどこかで、辛いのは、苦しいのは自分だけだと思っていた。家族を、楓を失っても真は何も変わらない。彼は非道な男で、身内の死に何も感じないほど壊れてしまっているのだと、そう思わなければ耐えられなかった。
だから見ないふりを、気づかないふりをしてきた。どんな言葉も、優しさも、彼の本心ではないと、決して心を揺らされることのないようにしてきた。
でも時々、彼の部屋のごみ箱はティッシュで溢れていた。目元や鼻の頭が赤いことを、乾燥のせいだと言い訳をしていた。
悟られないよう、声を殺して一人で泣く真の姿を思うと心臓を鷲掴みにされたような心地がした。
悲しくないわけがない。楓や家族の前で見せた穏やかな表情が、凛太朗に向けられた優しい笑顔が、嘘であるはずがない。
彼はずっと一人で耐えてきた。痛みも苦しみも悟らせず、ただ凛太朗を気遣い、守ってくれていた。
このままじゃ駄目だ。唐突に蘇った記憶と共に再確認する。
いつまでも真に気遣われる弟では、守られるだけでは駄目だ。
これからは、全部自分で決める。自分の人生を、彼と同じ場所で、対等に生きていくことを。
構えた銃身が震えていないことを確認して、凛太朗は彼女の胸に照準を合わせた。
引き金は驚くほど軽かった。
右手に発砲の衝撃がないことを不思議に思う。
正面から撃ったはずなのに、彼女の体は横に倒れた。
銃を下ろし、凛太朗は廊下の先に視線を向けた。
数メートル離れた場所に、銃を構えた真が立っていた。
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