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たとえ全てが嘘であっても
#09
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パーティーの前日、凛太朗は午前中のトレーニングを一通り終えてシャワーを浴び、いつものようにラウンジに降りた。自分で作ったプロテインを飲みながら休憩していると、真がやって来た。
「久しぶりだな」
実際はそうでもなかったが、その時はなぜか凛太朗も、柔らかく微笑む兄を懐かしく感じた。
「元気だったか?」
「うん。兄さんは? 相変わらず忙しい?」
兄の顔は心なしか疲れているように見えた。明日の準備や打ち合わせに追われているのかもしれない。
「ああ、でもやっと時間がとれたんだ。これから出かけないか? 髪を切って、スーツも取りに行かないとな」
アストリアに来て間もない頃に真が作ってくれたスーツは、本当はもっと前に完成していたのだが、真が色々と細かい修正を命じたため、まだ受け取りができていなかった。
「用意してくるからちょっと待ってて」
「ゆっくりでいいぞ」
真の口調はいやに優しい。しかし違和感よりも、久しぶりに真と出かけられることへの期待のほうが強かった。
最初に向かったのはどこかの旧市街だった。
車を降り、狭い路地をしばらく歩く。真は一つのビルの前で足を止めた。打放しコンクリートのビルに、地下に続く階段が伸びている。
「ここは?」
「行けばわかる」
真に続いて、やけに傾斜のきつい階段を下りる。その先にある鉄の扉にはCLOSEDと書かれた札がかかっている。それだけ見ると何かの店のようだが、看板も店名も出ていない外観からはなんの店かを推測することは難しい。
閉店の文字を無視して真は躊躇なく扉を開けた。
店内は意外に広々としていた。剥き出しのコンクリートに囲まれた空間に、散髪用と思われる大きな鏡と椅子が一つだけ設置されている。それだけ見ると美容室のようだが、反対側のスペースにはソファセットとバーカウンターが置かれている。
いよいよなんの店かわからなくなった凛太朗をよそに、真は店の奥へと歩みを進め、地下へ続く螺旋状の階段の手すりから身を乗り出した。
「おい! 客を待たせんな!」
階下へ呼びかけてしばらくすると、長身の男が階段を上がってきた。
「うるさいわねぇ……まだ開店前なんだけど。文字が読めないのかしら?」
男は上半身裸で、背中や腕に刺青が入っていた。凛太朗はなぜかその刺青に既視感があるような気がして、見つめていると男と目が合った。
「んん?」
足早に近づいてきた男は長い前髪に隠れていない方の目で、様々な角度から凛太朗を観察した。
「ちょっとこの子!」
男が何か言いかけた矢先、真が男に蹴りを入れた。
「いたっ、何するのよ!」
「何じゃねぇ近いんだよ! リンから離れろ!」
腕を引かれて真の背中に庇われる。男は口元に手をやり、尚も思案げな顔で見つめてくる。
「やっぱりあんたの弟? 噂には聞いてたけどほんとに似てないのね」
「なんだよ噂って」
「あんたと違って滅茶苦茶かわいいって話よ。リンっていうの? 私はナインよ。よろしくね」
「馴れ馴れしくすんな!」
人好きのする笑顔を浮かべた男が右手を差し出す。割って入ろうとする真を制して、凛太朗はその手を握った。
「凛太朗です。よろしく」
「やだもー素直で可愛い! あんたほんとにシンの弟?」
「てめぇマジでいい加減にしろよ」
怒りを溜めている真を気に留める様子もなく、ナインは周囲を見回すと壁際に置かれたソファの方へ歩いて行った。
「それで? わざわざ可愛い弟を自慢しに来てくれたわけ?」
「あ? んな訳ねーだろ。頭沸いてんのか」
「リン、何か飲む? 美味しいコーヒー淹れてあげるわよ」
「こいつマジで殺したい」
真の殺意のこもった視線も構わず、ナインがソファから取り上げたシャツを被る。
「ここはなんの店? 髪も切ってくれるの?」
辺りを見回しながら尋ねると、ナインはなぜか残念そうな顔をした。
「ああ、そっちね。いいわよ。座って」
促されるまま凛太朗は鏡の前の椅子に腰かけた。
「この後どこか行くの?」
クロスを広げながらナインが尋ねる。
「今日は……」
鏡越しに真を窺うと、ソファに座って煙草をくわえていた彼は意外にすんなり先の予定を口にした。
「明日アインツのパーティーがあんだよ。今日はその準備だ」
「あら、良いわね。リンもスーツ着るの?」
「うん。後で取りに行くよ」
「見たかったわぁ」
ナインは少し髪に触れていたかと思うと、いきなり鋏を入れだした。仕上がりのイメージをすり合わせることなく始まった散髪に、始めは不安を覚えたが、骨ばった大きな手が繊細に、そして迷いなく動く様を見てすぐにそんな気持ちは消失した。時折肌に触れる指のくすぐったさも決して不快ではない。本当にこの男は人の髪を切る仕事をしているのだろう。
「リンはいくつなの?」
「今年で二十一」
「若いわねぇ、羨ましいわぁ」
「ナインも若く見えるけど」
「ふふ、美容に気を使ってるからね。アストリアは楽しい?」
「楽しいかな、非現実的で」
「あら、リンは普通の子なのね。こんな所にいていいの?」
「普通にしてたって、普通に生きられるとは限らないからね」
ナインは優しく微笑んだ。その表情はどこか悲しげに見えた。
「久しぶりだな」
実際はそうでもなかったが、その時はなぜか凛太朗も、柔らかく微笑む兄を懐かしく感じた。
「元気だったか?」
「うん。兄さんは? 相変わらず忙しい?」
兄の顔は心なしか疲れているように見えた。明日の準備や打ち合わせに追われているのかもしれない。
「ああ、でもやっと時間がとれたんだ。これから出かけないか? 髪を切って、スーツも取りに行かないとな」
アストリアに来て間もない頃に真が作ってくれたスーツは、本当はもっと前に完成していたのだが、真が色々と細かい修正を命じたため、まだ受け取りができていなかった。
「用意してくるからちょっと待ってて」
「ゆっくりでいいぞ」
真の口調はいやに優しい。しかし違和感よりも、久しぶりに真と出かけられることへの期待のほうが強かった。
最初に向かったのはどこかの旧市街だった。
車を降り、狭い路地をしばらく歩く。真は一つのビルの前で足を止めた。打放しコンクリートのビルに、地下に続く階段が伸びている。
「ここは?」
「行けばわかる」
真に続いて、やけに傾斜のきつい階段を下りる。その先にある鉄の扉にはCLOSEDと書かれた札がかかっている。それだけ見ると何かの店のようだが、看板も店名も出ていない外観からはなんの店かを推測することは難しい。
閉店の文字を無視して真は躊躇なく扉を開けた。
店内は意外に広々としていた。剥き出しのコンクリートに囲まれた空間に、散髪用と思われる大きな鏡と椅子が一つだけ設置されている。それだけ見ると美容室のようだが、反対側のスペースにはソファセットとバーカウンターが置かれている。
いよいよなんの店かわからなくなった凛太朗をよそに、真は店の奥へと歩みを進め、地下へ続く螺旋状の階段の手すりから身を乗り出した。
「おい! 客を待たせんな!」
階下へ呼びかけてしばらくすると、長身の男が階段を上がってきた。
「うるさいわねぇ……まだ開店前なんだけど。文字が読めないのかしら?」
男は上半身裸で、背中や腕に刺青が入っていた。凛太朗はなぜかその刺青に既視感があるような気がして、見つめていると男と目が合った。
「んん?」
足早に近づいてきた男は長い前髪に隠れていない方の目で、様々な角度から凛太朗を観察した。
「ちょっとこの子!」
男が何か言いかけた矢先、真が男に蹴りを入れた。
「いたっ、何するのよ!」
「何じゃねぇ近いんだよ! リンから離れろ!」
腕を引かれて真の背中に庇われる。男は口元に手をやり、尚も思案げな顔で見つめてくる。
「やっぱりあんたの弟? 噂には聞いてたけどほんとに似てないのね」
「なんだよ噂って」
「あんたと違って滅茶苦茶かわいいって話よ。リンっていうの? 私はナインよ。よろしくね」
「馴れ馴れしくすんな!」
人好きのする笑顔を浮かべた男が右手を差し出す。割って入ろうとする真を制して、凛太朗はその手を握った。
「凛太朗です。よろしく」
「やだもー素直で可愛い! あんたほんとにシンの弟?」
「てめぇマジでいい加減にしろよ」
怒りを溜めている真を気に留める様子もなく、ナインは周囲を見回すと壁際に置かれたソファの方へ歩いて行った。
「それで? わざわざ可愛い弟を自慢しに来てくれたわけ?」
「あ? んな訳ねーだろ。頭沸いてんのか」
「リン、何か飲む? 美味しいコーヒー淹れてあげるわよ」
「こいつマジで殺したい」
真の殺意のこもった視線も構わず、ナインがソファから取り上げたシャツを被る。
「ここはなんの店? 髪も切ってくれるの?」
辺りを見回しながら尋ねると、ナインはなぜか残念そうな顔をした。
「ああ、そっちね。いいわよ。座って」
促されるまま凛太朗は鏡の前の椅子に腰かけた。
「この後どこか行くの?」
クロスを広げながらナインが尋ねる。
「今日は……」
鏡越しに真を窺うと、ソファに座って煙草をくわえていた彼は意外にすんなり先の予定を口にした。
「明日アインツのパーティーがあんだよ。今日はその準備だ」
「あら、良いわね。リンもスーツ着るの?」
「うん。後で取りに行くよ」
「見たかったわぁ」
ナインは少し髪に触れていたかと思うと、いきなり鋏を入れだした。仕上がりのイメージをすり合わせることなく始まった散髪に、始めは不安を覚えたが、骨ばった大きな手が繊細に、そして迷いなく動く様を見てすぐにそんな気持ちは消失した。時折肌に触れる指のくすぐったさも決して不快ではない。本当にこの男は人の髪を切る仕事をしているのだろう。
「リンはいくつなの?」
「今年で二十一」
「若いわねぇ、羨ましいわぁ」
「ナインも若く見えるけど」
「ふふ、美容に気を使ってるからね。アストリアは楽しい?」
「楽しいかな、非現実的で」
「あら、リンは普通の子なのね。こんな所にいていいの?」
「普通にしてたって、普通に生きられるとは限らないからね」
ナインは優しく微笑んだ。その表情はどこか悲しげに見えた。
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