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短編
窓枠
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真と猫の話です。名前のないモブと真の性描写があります。少し暗い話なのでご注意下さい。
その日は雨が降っていた。
湿気た空気はどんよりと重く、地上に近い所にいると息苦しさを覚えるほどだった。
人より目線の低い私は降り注ぐ雨に溺れそうになり、重い体を引きずって建物の階段を一段だけ上った。
安アパートの階段に屋根はないが、水捌けの悪い地面よりは溺死の心配がなさそうだった。
しばし目を閉じていると、人の足音が聞こえてきた。舗装されていない道路の水溜りの上を躊躇いなく歩く音。一度全身濡れてしまえば、あとはいくら雨に降られようと同じことだ。そんな開き直りの感じられる歩調は、アパートの階段の側でぴたりと止まった。
薄く目を開けて見ると、雨や泥に汚れたスニーカーと細身のパンツから伸びる白い足首が見えた。
逃げなければ。そう思い、私は身じろいだ。疲労と空腹と体の痛みでとても素早く動くことのできる状態ではない。それでも、人から虐げられた際の記憶が本能的に私の体をわずかに動かした。
「生きてる?」
男は怪訝そうに言った。私の前に屈み込み、白い手を伸ばしてくる。
攻撃されることを予想し、私は身を強張らせた。最後の気力を振り絞って鳴き、手足をばたつかせる。
「こら、暴れるなよ。怪我してるんだろ」
私が必死に立てた爪で傷つけられることも厭わず、男は私を持ち上げた。投げ捨てられることを覚悟した私はしかし、男の腕に抱かれていた。彼はそのままアパートの階段を上り始める。
これは夢だ。私は思った。そうでなければ、人間が私を助けてくれることなどあり得ない。私は死に際に夢を見ているに違いない。心地よい温もりに包まれながら、私は目を閉じた。
次に目を覚ましたとき、私は別の場所にいた。雨もなく、寒さも感じない。視界は狭く、灰色の壁と白い毛布でうめつくされていた。どうやら私は箱のような物に入れられているらしかった。
体を起こせば部屋の様子がわかるかもしれないが、私の意識はいまだ夢と現の狭間にあり、泥のような気怠さが全身を支配していた。私は柔らかい毛布に横たわったまま、耳をそばだてた。
「珍しいな。お前が俺に頼み事なんて。そんなに猫が好きだったのか?」
「嫌いじゃないけど、さすがにあんな所で倒れてたら助けるでしょ。死んでるのかと思ったけど」
「病院にも連れて行ったし、目が覚めて飯でも食わせてやればすぐ元気になるだろ」
「うん。ありがとう。あんたが居てくれて良かったよ」
私は目を閉じ、聞こえてくる会話をぼんやりと聞いていた。一人は私を運んだ若い男の声だが、もう一人、彼より年嵩の男がいるようだった。
「窓を閉めろ。濡れるぞ」
「暑いから無理。ていうか煙草吸ってるし」
「空調のある所に住めばいい」
「そんなお金ないよ」
「俺が用意してやる」
「これ以上あんたに借りを作れないよ。今日の分もあるのに……」
「猫を助けたことか? そんなこと、お前が気にする必要はない」
「そうはいかないよ。ねぇ、どうしたらいい? 俺に返せるものはあまりないけど、なんでもするよ」
声が潜められたのか、そこで二人の声は聞こえなくなった。意識もしだいに遠ざかり、私は再び眠りに落ちた。
夢を見た。いや、本当は寝ている間に何度か目を覚ましたときの記憶が朧げに残っているだけかもしれない。
私は同じ部屋で寝ていて、日暮れが近いのか、辺りは薄闇に包まれていた。
「暗くてよく見えないな」
「見ないでほしいんだけど……」
「見ないと意味ないだろ? 借りを返したいって自分で言ったくせに」
仄暗い部屋の中、雨音とともにかすかな声が聞こえる。声の主は先ほどの二人だろうか。相変わらず私に彼らの姿は見えない。
「ほら、脚……」
雨が激しさを増し、声がかき消される。それでも湿った空気に混じる息遣いと軋んだベッドの音が私を妙に落ち着かない気分にさせた。
次に目を覚ましたとき、男がこちらを覗き込んでいた。私は驚き、すぐに警戒の姿勢をとった。昨日よりだいぶ動けるようになっている。あまり力は入らないが、いざとなったら逃げだすくらいは出来そうだ。
「良かった。元気そうだな」
男の真意を窺うように、私は箱の隅に体を寄せたまま男を見上げた。
「出してやるから、噛みつくなよ」
男はゆっくりと箱に手を入れた。そのまま掴み出され、私は身をよじりながら男の手に爪を立てた。
「いたっ、爪! 爪刺さってる!」
叫びながらも男は私をそっと床に降ろした。
「ほら、腹減ってるだろ」
やや腹立たし気に言った男は私の前に白い皿と水の入ったコップを置いた。
私は皿に盛られた食事と彼の顔を見比べた。
「もう引っかかないって約束するなら食っていいぞ」
彼の言葉は理解できなかった。そういうことにして私は食事に口をつけた。
久しぶりの食事はどうしようもなく美味しかった。雨水以外も久しぶりで、いつの間にか皿は空になっていた。
夢中でがっついてしまったことが恥ずかしい。子供でもあるまいし……。
しかし食べてしまったものは仕方がない。開き直って手や口の周りをなめていると、男の視線を感じた。
「あんなに警戒してたくせに、現金な奴」
彼は窓枠に腰かけて煙草を吸っていた。昨日と同じように窓を開け放ち、濡れるのも構わず外に煙を吐き出す横顔を、私はしばらく眺めていた。
その日は雨が降っていた。
湿気た空気はどんよりと重く、地上に近い所にいると息苦しさを覚えるほどだった。
人より目線の低い私は降り注ぐ雨に溺れそうになり、重い体を引きずって建物の階段を一段だけ上った。
安アパートの階段に屋根はないが、水捌けの悪い地面よりは溺死の心配がなさそうだった。
しばし目を閉じていると、人の足音が聞こえてきた。舗装されていない道路の水溜りの上を躊躇いなく歩く音。一度全身濡れてしまえば、あとはいくら雨に降られようと同じことだ。そんな開き直りの感じられる歩調は、アパートの階段の側でぴたりと止まった。
薄く目を開けて見ると、雨や泥に汚れたスニーカーと細身のパンツから伸びる白い足首が見えた。
逃げなければ。そう思い、私は身じろいだ。疲労と空腹と体の痛みでとても素早く動くことのできる状態ではない。それでも、人から虐げられた際の記憶が本能的に私の体をわずかに動かした。
「生きてる?」
男は怪訝そうに言った。私の前に屈み込み、白い手を伸ばしてくる。
攻撃されることを予想し、私は身を強張らせた。最後の気力を振り絞って鳴き、手足をばたつかせる。
「こら、暴れるなよ。怪我してるんだろ」
私が必死に立てた爪で傷つけられることも厭わず、男は私を持ち上げた。投げ捨てられることを覚悟した私はしかし、男の腕に抱かれていた。彼はそのままアパートの階段を上り始める。
これは夢だ。私は思った。そうでなければ、人間が私を助けてくれることなどあり得ない。私は死に際に夢を見ているに違いない。心地よい温もりに包まれながら、私は目を閉じた。
次に目を覚ましたとき、私は別の場所にいた。雨もなく、寒さも感じない。視界は狭く、灰色の壁と白い毛布でうめつくされていた。どうやら私は箱のような物に入れられているらしかった。
体を起こせば部屋の様子がわかるかもしれないが、私の意識はいまだ夢と現の狭間にあり、泥のような気怠さが全身を支配していた。私は柔らかい毛布に横たわったまま、耳をそばだてた。
「珍しいな。お前が俺に頼み事なんて。そんなに猫が好きだったのか?」
「嫌いじゃないけど、さすがにあんな所で倒れてたら助けるでしょ。死んでるのかと思ったけど」
「病院にも連れて行ったし、目が覚めて飯でも食わせてやればすぐ元気になるだろ」
「うん。ありがとう。あんたが居てくれて良かったよ」
私は目を閉じ、聞こえてくる会話をぼんやりと聞いていた。一人は私を運んだ若い男の声だが、もう一人、彼より年嵩の男がいるようだった。
「窓を閉めろ。濡れるぞ」
「暑いから無理。ていうか煙草吸ってるし」
「空調のある所に住めばいい」
「そんなお金ないよ」
「俺が用意してやる」
「これ以上あんたに借りを作れないよ。今日の分もあるのに……」
「猫を助けたことか? そんなこと、お前が気にする必要はない」
「そうはいかないよ。ねぇ、どうしたらいい? 俺に返せるものはあまりないけど、なんでもするよ」
声が潜められたのか、そこで二人の声は聞こえなくなった。意識もしだいに遠ざかり、私は再び眠りに落ちた。
夢を見た。いや、本当は寝ている間に何度か目を覚ましたときの記憶が朧げに残っているだけかもしれない。
私は同じ部屋で寝ていて、日暮れが近いのか、辺りは薄闇に包まれていた。
「暗くてよく見えないな」
「見ないでほしいんだけど……」
「見ないと意味ないだろ? 借りを返したいって自分で言ったくせに」
仄暗い部屋の中、雨音とともにかすかな声が聞こえる。声の主は先ほどの二人だろうか。相変わらず私に彼らの姿は見えない。
「ほら、脚……」
雨が激しさを増し、声がかき消される。それでも湿った空気に混じる息遣いと軋んだベッドの音が私を妙に落ち着かない気分にさせた。
次に目を覚ましたとき、男がこちらを覗き込んでいた。私は驚き、すぐに警戒の姿勢をとった。昨日よりだいぶ動けるようになっている。あまり力は入らないが、いざとなったら逃げだすくらいは出来そうだ。
「良かった。元気そうだな」
男の真意を窺うように、私は箱の隅に体を寄せたまま男を見上げた。
「出してやるから、噛みつくなよ」
男はゆっくりと箱に手を入れた。そのまま掴み出され、私は身をよじりながら男の手に爪を立てた。
「いたっ、爪! 爪刺さってる!」
叫びながらも男は私をそっと床に降ろした。
「ほら、腹減ってるだろ」
やや腹立たし気に言った男は私の前に白い皿と水の入ったコップを置いた。
私は皿に盛られた食事と彼の顔を見比べた。
「もう引っかかないって約束するなら食っていいぞ」
彼の言葉は理解できなかった。そういうことにして私は食事に口をつけた。
久しぶりの食事はどうしようもなく美味しかった。雨水以外も久しぶりで、いつの間にか皿は空になっていた。
夢中でがっついてしまったことが恥ずかしい。子供でもあるまいし……。
しかし食べてしまったものは仕方がない。開き直って手や口の周りをなめていると、男の視線を感じた。
「あんなに警戒してたくせに、現金な奴」
彼は窓枠に腰かけて煙草を吸っていた。昨日と同じように窓を開け放ち、濡れるのも構わず外に煙を吐き出す横顔を、私はしばらく眺めていた。
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