ねむれない蛇

佐々

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あの季節

あの秋

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色々あって情緒不安定な高校生の凛太朗と担任の先生の話です。


 新しい体育館が出来てから部活動以外では使われなくなった体育館の裏が、俺のいつもの休憩場所だった。
 壁に背中を預け、正面の林をなんとなく眺めながら煙草に火をつける。私立でも進学校でも関係なく喫煙者は一定数いるが、数は格段に少なくなっている。そして煙草を吸えるスペースはどこの学校にも皆無と言っていい。
 肩身が狭いとは思わないが、こうして他の教師や生徒の目を避けて一服するのは少し後ろめたい。
「あれ、先生もサボり?」
 建物の外壁に沿って設けられた通路を歩いてやって来たのは、俺の担当しているクラスの乃木凛太朗だった。他の生徒だったらもう少し動揺したかもしれないが、こいつならまぁいいか、と俺は煙草を吸い続けた。
「お前と一緒にするな……というかお前はサボるな。ホームルームにも居なかっただろ」
「一限には間に合ったよ?」
 ネイビーのラインの入った白いカーディガンを着た乃木が伸びをする。そのカーディガンも色付きのワイシャツももちろん学校指定の物ではない。ついでに両耳に開いたピアスも赤みのない暗い灰色に染められた髪も決して学校は推奨していないが、校則違反という訳でもない。都内の偏差値の高い私立高は自由な校風を売りにしている学校も多く、ここもその一つだった。
「だって英語かったるいんだもん」
「なんでだよ、得意だろ」
 以前ネイティブの外国人教師と楽しそうに話す乃木を、下級生の女子生徒が遠巻きに眺めているのを見かけたことがある。
「あの先生、発音がいまいちなんだよね」
 今日の授業は英会話ではなく文法の方らしい。時折いるこういう生徒を見る度に、俺はつくづく英語教師でなくて良かったと思う。
「お前なぁ……あの人T大出だぞ? 授業内容は面白いだろ」
「この学校の先生の授業はみんな面白いよ。でも受けなくてもテストで良い点取れるからさ」
「出席足りなくなるぞ」
「ちゃんと計算してるって。てか普段はちゃんと受けてるの知ってるでしょ?」
 本当にこいつは……。俺はため息をついて話題を変えることにした。
「そういやお前、三者面談の用紙出てないぞ」
「あ、出し忘れてた。でも来れないって言ってたよ」
 乃木が誤魔化すように視線を逸らすのを俺は見逃さなかった。
「お前いま忘れてたって言ったよな? ちゃんと保護者に見せたのか?」
「うん。でも不参加でお願いします」
「だからなんでお前が決めるんだよ」
「保護者いないんで」
 その一言で俺は簡単に言葉に詰まる。しかしすぐに思い出す。
「兄ちゃんがいるだろ。イケメンの」
「え、なんで知ってんの?」
 乃木は本当に驚いた顔をしている。俺の方が驚きだ。
「当たり前だろ。担任だぞ」
 これでも担当している全生徒の保護者と顔を合わせたことくらいある。こいつは特別な事情を抱えているし、似ていない若い兄の顔はなおさら強く印象に残っていた。
「先生、それ美味しい?」
「は?」
 ぼんやりしていたらくわえていた煙草を取り上げられた。
「あ、おい!」
 止める間もなく乃木はそれを唇に運び、初めてにしては慣れた様子で煙を吐き出す。
「なんか変な味だね。匂いがいいから味も甘いのかと思ってた」
「やめとけよお前……」
 突き返された煙草を受け取り、火を消して携帯灰皿にねじ込む。
「お前、普段から吸ってないよな?」
 妙に複雑な気持ちになってきいた。乃木は目立つ生徒だが比較的まじめで、こうして時折授業を抜け出すことはあるものの、素直で賢い生徒だ。普段ならこんな疑いを抱いたりしない。そもそも今時、未成年の喫煙なんて珍しくないし、何度もそういう生徒の指導をしたことはある。べつに特別心配する必要などないのかもしれない。でも、なぜかこのとき俺は、乃木の変化を見過ごしてはいけないような気がした。
「そんなに俺のことが心配?」
 一気に険しくなった俺の顔を覗き込んで、乃木が笑う。
「乃木……俺は……」
 言葉に迷って黙り込む。悩みがあるなら相談に乗る。お前の力になりたいからなんでも話してくれ。思い浮かぶのはそんな、ありきたりな言葉ばかりだ。そのどれもが独りよがりで、彼の求めるものではないような気がした。
「先生は優しいね」
 乃木は大人びた顔で微笑んだ。そしてわずかに首を傾け、俺にキスをした。
 誰だって一度は通る道なのかもしれない。俺だって、今でこそ教師として生徒を指導する立場にいるが、当時もそれほど品行方正な生徒ではなかった。ルールを破った人間が、その後必ず、良くない道に進むとは限らない。大人になるまでの間に迷ったり、道を逸れることは誰にでもあることだろう。
 でも、乃木の境遇はあまりにも残酷だ。同じ年ごろの子供たちがしなくてもいい経験をし、それを知らない子供たちと同じ生活を送ることを強いられている。そこにどれだけの痛みを伴うのか、俺に知る術はない。それでも俺は、乃木の担任教師として、人として、彼を引き留めたかった。
「どうしたの? 先生、そんなに怖い顔しないでよ」
 普段の快活さも素直さも感じられない表情で俺の唇をなめた乃木が慣れたように俺の顔の横に手をつく。彼にされたことが未だに信じられなかった。こいつは本当に俺の生徒なのか?
「こっちのせりふだ……どうしたんだよ、お前」
「何が?」
「乃木、俺はお前の先生だ」
「うん? 知ってるよ?」
 言うわりに、乃木は教師と生徒ではあり得ない距離感を崩そうとしない。それどころか片手を俺の腰に回し、背中をなで始めた。
「俺は先生だから、だからな……」
 ジャケットの上から背中や腰をなでる乃木の手に混乱を禁じ得ない。なんだ? 何が起きている? こいつは何を考えている? 俺はどうすればいい?
「先生、なんで止めないの?」
 その通りだ。本来俺がとるべき行動を思い出したときには既に遅く、乃木のやけにきれいな指が俺の顔を上向かせ、再び唇が重ねられていた。
「のっ……」
 角度をつけて、先ほどよりも深く合わせられた唇に乃木の舌が侵入してくる。嘘だろ? とか思ったのは一瞬で、俺は今度こそすぐに乃木の肩を掴んで押し返した。
「乃木! なに考えてんだお前!」
「おーようやく怒ったね」
「ふざけるな!」
 乃木はなんとも言えない表情で笑った。普段、同級生と一緒の時には絶対に見せない顔だった。
「ごめんね、先生」
 それだけ言うと、校舎の入り口に向かって歩き出す。
「乃木!」
 呼び止められて振り向いた乃木は、もう笑ってはいなかった。端正な顔の切れ長の瞳は恐ろしいほど冷たかった。
「ちゃんと、何かあったらちゃんと話せよ! 俺は、お前の先生だからな!」
 当たり前のことしか言えない俺に、乃木は唇の端を持ち上げた。
「ありがとう! 先生のこと好きだよ!」
 かつての、俺の知る年相応の笑顔を見せた乃木は校舎へ戻って行った。時計に目を落とすとちょうど四限目が終わる時間だった。
 秋も終わりに近づく季節だった。風に吹かれた落ち葉が乾いた音を立てて舞う。暖かい午後の日差しの中に、冷たい冬の気配が混じっている。
 あの秋の日以来、乃木がかつてと同じ顔で笑うことは二度となかった。
 卒業式の後、挨拶に来た乃木は最後まで大人びた笑みを崩さなかった。俺は、これから先の人生で、彼がもう一度心から笑える日が来ることを願った。
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