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アストリア
#17
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レイは密かに凛太朗と気まずくなってしまったことを気にしていた。たまに出入りするジーノの屋敷で彼の姿を見かけても、声をかけられずにいる自分にもどかしさを覚えていた。このままではいけない、今日こそ凛太朗とちゃんと話をしようと、レイはある夜、凛太朗の私室を訪ねた。
物の少ない部屋に彼の姿はなく、バスルームからシャワーの音が聞こえていた。レイはダイニングのソファに腰を下ろし、彼が戻るのを待った。
「え、なんでいんの?」
程なくしてバスルームから出てきた凛太朗は、普段は鋭い目を丸くし、子供のような顔で驚いた。
「邪魔してるわよ。少し話せる?」
タオルを被った凛太朗はまだ状況がうまく飲み込めないのか、怪訝な顔をしている。それでも彼はキッチンで入れたお茶をレイに出してくれた。
「どうぞ」
テーブルに置かれたグラスには薄緑色の液体が入っている。
「ありがとう」
礼を言って一口飲むとよく冷えていて美味しかった。
凛太朗が腰を下ろすのを見計らって、レイは口を開いた。
「怪我の具合はどう?」
髪の毛の水滴を雑に拭った凛太朗はテーブルの上の煙草に手を伸ばした。
「平気だよ。吸ってもいい?」
「ええ、ここはあなたの部屋だもの」
「どうも。そっちは?」
「私は煙草は吸わないの」
「そうじゃなくて、怪我、大丈夫?」
思いのほか優しい問いかけにレイは思わず微笑んだ。
「見ての通りよ。メイクが濃くなって仕方ないわ」
「そう? 十分きれいだと思うけど」
自然に伸ばされた凛太朗の手が優しくレイの頰に触れた。
「まだ痛む?」
「いえ……」
薄く整った凛太朗の顔が寄せられる。シャンプーの甘い香りがした。似ていない兄弟だと思ったが、女を口説く時のやり方はそっくりだ。優しい声と仕草で一気に距離を縮めてくる。
「キスしてもいい?」
「どういう意味?」
「あいさつじゃない方で」
東洋人特有の薄く整った顔はもうすぐそばに迫っていた。すっきりとした目元と繊細な面立ちは確かに魅力的だが、真の弟だと思うだけで異性としての興味は薄れた。
「だめよ。どきなさい」
「ちぇー」
軽く押しやると凛太朗はあっさりレイから身体を離し、煙草に火をつけた。
「で、何しに来たの? 殴ったことを詫びに来たんじゃないの?」
「謝ろうと思ったことは本当よ」
「もうその気は失せた?」
掴み所のない子供に乱されたペースを取り戻そうと、レイはひとまず話題を変えることにした。
「前から思ってたけど、英語が上手ね」
「ありがと。敬語は下手だけどね」
歳上の自分に対して口調が変わらないのはそのためか。
「シンの教育の賜物かしら?」
兄の名前を出しても、凛太朗は動じた様子を見せない。
「どちらかというと映画と音楽で学んだよ。あとは元々の素質かな」
凛太朗はそう言うが、これだけ自然な発音ができるのは並の努力ではなかっただろう。
「大変だったわね」
心底から出た言葉だったが、凛太朗は曖昧に微笑むだけだった。
「今日はお礼を言いにきたの」
レイはなるべく深刻にならないように本題を切り出した。
「なんの?」
「この前、私を助けてくれたでしょう? なのにあの時は殴ったりしてごめんなさい」
「そんなこと言われたら好きになっちゃうよ?」
どこまでもふざけるつもりか。レイが睨みつけるとさすがに思うところがあったのか、凛太朗は大人しく笑った。
「べつに気にしなくていいって。あの時もう散々殴られたり蹴られたりしてたし、ぶっちゃけそんなに痛くなかったし。俺、結構喧嘩慣れしてるから、今さら女の人のビンタくらい全然平気だよ?」
子供に気を遣われているのがわかる。レイは緩く首を振った。
「あなたは平和な国の子供で、本当は一度だってこんな経験をするべきじゃなかった。それなのに私はあなたを危険な目にあわせてしまった。あまつさえ、あんな選択をさせてしまった。それは私の責任よ」
「んー……」
凛太朗は思案するように空を眺めた。
「兄貴はゲスっぽいのに、妹さんは真面目なんですね」
やがて口を開いた凛太朗は優しげに微笑んでいたが、その口調からは先程までとは違う、明らかな拒絶が感じられた。
「俺ね、あなたみたいにきれいで、優しい人が大好きなんですよ」
レイは何も言えなかった。これがいつもの軽口でないことくらいわかっていた。
「そんで、同じくらい大嫌いです」
笑顔で続ける凛太朗にレイは返す言葉を失った。怒りはない。驚きもない。ただ、悲しい。他人に対する彼の拒絶が。そうしなければ生きられなかった彼の過去が悲しい。
「まあ、そういうことだから。話が終わったら出てってくれない?」
レイがすぐに動けずにいると、凛太朗は苛立ちを隠そうともせず、煙草の煙に混ぜてため息をついた。
「お姉さんを思い出すから?」
なぜそんな言葉が口をついたのかわからない。内心の驚きとは裏腹に、レイは笑っていた。
「だから私が嫌いなの? お姉さんみたいに、死んでしまうかもしれないから」
凛太朗は落ち着いた様子で煙草を消して、それからレイの前に立った。レイの顔の両側に手を付き、追い詰めるように距離を縮めてくる。先程は寸前で離れていった彼の唇が、今度は確かに重ねられた。
「姉さんとはこんなことしないだろ?」
角度を変えて再び合わされそうになるのを避ける。
「やめて」
「なんで? 俺を怒らせたかったんだろ? だったら責任とれよ」
鋭い瞳がレイを睨む。そこにはもう、子供の面影は残されていない。
「怒らせたかった訳じゃないわ」
「じゃあ何? 俺をからかうのがそんなに楽しい?」
「からかってなんかない」
凛太朗は舌打ちしてソファに腰を下ろし、新しい煙草に火をつけた。
「出てってよ」
努めて冷静に言った凛太朗の、内心の揺らぎが手に取るようにわかる。
「私はあなたのお姉さんとは違う」
「出てけって言ってんだよ!」
初めて声を荒げた彼に、今はもう何を言っても無駄だと悟った。仕方ない。必死に押さえていた彼の感情の蓋を、レイが外させてしまった。レイは立ち上がった。
「最後に言わせて、あの時、私を助けてくれてありがとう。今日はそれを言いに来たのよ」
凛太朗からの返事はない。彼の頭には過去に経験した絶望や怒りや悲しみが押し寄せているのだろう。せっかく忘れたふりをして、年相応の子供らしい日常を送っていたのに、この国に来てそれも出来なくなってしまった。
しかし今、彼が自分の感情と向き合うのは必要なことだ。これから先、彼の人生は大きく変わるだろう。流されることなく生きるには、彼は自分で考え、過去の絶望を乗り越えて、その上で決断しなければならない。
「今更遅いわね。ごめんなさい」
額を抑えて項垂れる凛太朗の頭にキスをして、部屋を出る。心を乱した彼は誰を頼るのだろう。レイの頭に浮かぶ人物は一人だけだった。彼らは今までもこうして寄り添いながら生きてきたのだ。それが良いことなのかはわからない。
レイも彼から平穏な日々を奪ってしまった大人の一人だ。それならばせめて、彼が自分の選択を悔いることなく生きられるようにしたかった。これから先、どんな事があっても彼が過去を嘆き、二度と絶望にとらわれることのないように。最後まで生きようと思い続けられるように。
それまでの間、レイは全力で彼を守ろう。この命はあの日、彼に救われたのだから。
物の少ない部屋に彼の姿はなく、バスルームからシャワーの音が聞こえていた。レイはダイニングのソファに腰を下ろし、彼が戻るのを待った。
「え、なんでいんの?」
程なくしてバスルームから出てきた凛太朗は、普段は鋭い目を丸くし、子供のような顔で驚いた。
「邪魔してるわよ。少し話せる?」
タオルを被った凛太朗はまだ状況がうまく飲み込めないのか、怪訝な顔をしている。それでも彼はキッチンで入れたお茶をレイに出してくれた。
「どうぞ」
テーブルに置かれたグラスには薄緑色の液体が入っている。
「ありがとう」
礼を言って一口飲むとよく冷えていて美味しかった。
凛太朗が腰を下ろすのを見計らって、レイは口を開いた。
「怪我の具合はどう?」
髪の毛の水滴を雑に拭った凛太朗はテーブルの上の煙草に手を伸ばした。
「平気だよ。吸ってもいい?」
「ええ、ここはあなたの部屋だもの」
「どうも。そっちは?」
「私は煙草は吸わないの」
「そうじゃなくて、怪我、大丈夫?」
思いのほか優しい問いかけにレイは思わず微笑んだ。
「見ての通りよ。メイクが濃くなって仕方ないわ」
「そう? 十分きれいだと思うけど」
自然に伸ばされた凛太朗の手が優しくレイの頰に触れた。
「まだ痛む?」
「いえ……」
薄く整った凛太朗の顔が寄せられる。シャンプーの甘い香りがした。似ていない兄弟だと思ったが、女を口説く時のやり方はそっくりだ。優しい声と仕草で一気に距離を縮めてくる。
「キスしてもいい?」
「どういう意味?」
「あいさつじゃない方で」
東洋人特有の薄く整った顔はもうすぐそばに迫っていた。すっきりとした目元と繊細な面立ちは確かに魅力的だが、真の弟だと思うだけで異性としての興味は薄れた。
「だめよ。どきなさい」
「ちぇー」
軽く押しやると凛太朗はあっさりレイから身体を離し、煙草に火をつけた。
「で、何しに来たの? 殴ったことを詫びに来たんじゃないの?」
「謝ろうと思ったことは本当よ」
「もうその気は失せた?」
掴み所のない子供に乱されたペースを取り戻そうと、レイはひとまず話題を変えることにした。
「前から思ってたけど、英語が上手ね」
「ありがと。敬語は下手だけどね」
歳上の自分に対して口調が変わらないのはそのためか。
「シンの教育の賜物かしら?」
兄の名前を出しても、凛太朗は動じた様子を見せない。
「どちらかというと映画と音楽で学んだよ。あとは元々の素質かな」
凛太朗はそう言うが、これだけ自然な発音ができるのは並の努力ではなかっただろう。
「大変だったわね」
心底から出た言葉だったが、凛太朗は曖昧に微笑むだけだった。
「今日はお礼を言いにきたの」
レイはなるべく深刻にならないように本題を切り出した。
「なんの?」
「この前、私を助けてくれたでしょう? なのにあの時は殴ったりしてごめんなさい」
「そんなこと言われたら好きになっちゃうよ?」
どこまでもふざけるつもりか。レイが睨みつけるとさすがに思うところがあったのか、凛太朗は大人しく笑った。
「べつに気にしなくていいって。あの時もう散々殴られたり蹴られたりしてたし、ぶっちゃけそんなに痛くなかったし。俺、結構喧嘩慣れしてるから、今さら女の人のビンタくらい全然平気だよ?」
子供に気を遣われているのがわかる。レイは緩く首を振った。
「あなたは平和な国の子供で、本当は一度だってこんな経験をするべきじゃなかった。それなのに私はあなたを危険な目にあわせてしまった。あまつさえ、あんな選択をさせてしまった。それは私の責任よ」
「んー……」
凛太朗は思案するように空を眺めた。
「兄貴はゲスっぽいのに、妹さんは真面目なんですね」
やがて口を開いた凛太朗は優しげに微笑んでいたが、その口調からは先程までとは違う、明らかな拒絶が感じられた。
「俺ね、あなたみたいにきれいで、優しい人が大好きなんですよ」
レイは何も言えなかった。これがいつもの軽口でないことくらいわかっていた。
「そんで、同じくらい大嫌いです」
笑顔で続ける凛太朗にレイは返す言葉を失った。怒りはない。驚きもない。ただ、悲しい。他人に対する彼の拒絶が。そうしなければ生きられなかった彼の過去が悲しい。
「まあ、そういうことだから。話が終わったら出てってくれない?」
レイがすぐに動けずにいると、凛太朗は苛立ちを隠そうともせず、煙草の煙に混ぜてため息をついた。
「お姉さんを思い出すから?」
なぜそんな言葉が口をついたのかわからない。内心の驚きとは裏腹に、レイは笑っていた。
「だから私が嫌いなの? お姉さんみたいに、死んでしまうかもしれないから」
凛太朗は落ち着いた様子で煙草を消して、それからレイの前に立った。レイの顔の両側に手を付き、追い詰めるように距離を縮めてくる。先程は寸前で離れていった彼の唇が、今度は確かに重ねられた。
「姉さんとはこんなことしないだろ?」
角度を変えて再び合わされそうになるのを避ける。
「やめて」
「なんで? 俺を怒らせたかったんだろ? だったら責任とれよ」
鋭い瞳がレイを睨む。そこにはもう、子供の面影は残されていない。
「怒らせたかった訳じゃないわ」
「じゃあ何? 俺をからかうのがそんなに楽しい?」
「からかってなんかない」
凛太朗は舌打ちしてソファに腰を下ろし、新しい煙草に火をつけた。
「出てってよ」
努めて冷静に言った凛太朗の、内心の揺らぎが手に取るようにわかる。
「私はあなたのお姉さんとは違う」
「出てけって言ってんだよ!」
初めて声を荒げた彼に、今はもう何を言っても無駄だと悟った。仕方ない。必死に押さえていた彼の感情の蓋を、レイが外させてしまった。レイは立ち上がった。
「最後に言わせて、あの時、私を助けてくれてありがとう。今日はそれを言いに来たのよ」
凛太朗からの返事はない。彼の頭には過去に経験した絶望や怒りや悲しみが押し寄せているのだろう。せっかく忘れたふりをして、年相応の子供らしい日常を送っていたのに、この国に来てそれも出来なくなってしまった。
しかし今、彼が自分の感情と向き合うのは必要なことだ。これから先、彼の人生は大きく変わるだろう。流されることなく生きるには、彼は自分で考え、過去の絶望を乗り越えて、その上で決断しなければならない。
「今更遅いわね。ごめんなさい」
額を抑えて項垂れる凛太朗の頭にキスをして、部屋を出る。心を乱した彼は誰を頼るのだろう。レイの頭に浮かぶ人物は一人だけだった。彼らは今までもこうして寄り添いながら生きてきたのだ。それが良いことなのかはわからない。
レイも彼から平穏な日々を奪ってしまった大人の一人だ。それならばせめて、彼が自分の選択を悔いることなく生きられるようにしたかった。これから先、どんな事があっても彼が過去を嘆き、二度と絶望にとらわれることのないように。最後まで生きようと思い続けられるように。
それまでの間、レイは全力で彼を守ろう。この命はあの日、彼に救われたのだから。
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