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第一章

16.【脈動⑪】

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 クレイドルが襲撃されて、まだ一日しか経っていない。
 イーリスは自室のベッドで横になりながら、呆然とモニターに映る自然映像を眺めていた。

 今日一日、仕事は禁止。クレイドルのシステムにアクセスするのも、データを閲覧するのも禁止だ。今朝、鏡で見た自分の顔も、オートマトンのくせに酷いものだった。こんな顔は子供達には見せられない。

 なので、イーリスは自室に籠もって神経休ませるといわれる方法を片っ端から試している。

 先ほどはアロマという方法を試してみたが、よくわからなかった。人間は本当にこんなやり方でリラックスしていたのだろうか、といまだに部屋に充満する香りを嗅ぎながら首を捻る。

 すると、こんこんとドアを叩く音がした。こんなことをするのは一人しかいない。一応、チャイムのボタンはついているはずなのだが。
 
「イーリス~? 入るよ~」

 トレイに飲み物とお菓子を乗せて入ってきたのは、アドニシアだった。だが、ドアを開けた途端に顔をしかめる。

「うわっ、なにこの匂い!」
「臭い?」
「臭くはないけど匂いが強すぎるよ! なんで急にアロマ!? そんな趣味あったっけ!?」

 アドニシアは、昨日あったことを正確に覚えていない。襲撃があってイーリスが大怪我をしたが、ティアとベローナのおかげで敵は撃退に成功した。そういうことになっている。

 あの凄惨たる状況のこと覚えていないのだ。

「リラックスできるって聞いたからやってるだけ。ちょっと疲れたのよ」
「そうだよね。でも、ライオンの交尾を見ても癒されないと思うな~……。アロマオイルもちょっとにしようね」

 そんなことを言いながらアドニシアはトレイを置いて、部屋の空調を調整した。

「レモネード作ってきたよ。この間、気に入ってたよね」
「……ありがとう」

 見れば、トレイの上のグラスには薄い黄色の液体に満たされている。子供用のジュースをいくつか試作したときの話だろう。確かに好きな味だったが、美味しいと一言言っただけだ。
 よく覚えているものだ。きっと子供たちの好みも同じように見ているのだろう。

 イーリスは感心したが、グラスに手を伸ばす気にはなれない。

 なぜなら、まだイーリスの右腕はそこになかったからだ。もちろん左腕を使えばいいのだが、どうしても動作がぎこちなくなる。
 きっとそれを見たら、アドニシアは甲斐甲斐しく手伝ってくれるだろう。けれど、イーリスはそれが嫌だったのだ。

 自分が守るべき主人に、そして、実際は守れなかった人に、弱いところを見せたくなかったのだ。

 アドニシアはそんなイーリスの様子に気づいたのか、取り繕うように話題を変える。

「あ……あのね。そうそう! 昨日、一緒につけてくれたポーターズの子に名前つけちゃった」
「なんですって?」
 
 それを聞いて、イーリスは眉間に皺を寄せた。まさか、自分の統制下のオートマトンにおかしな名前をつけられたのではないかと声を低くする。
 
「ひっ! や、やっぱり駄目だった?」

 そんな言葉が出てくる時点で、自分でもちょっとマズいと思ってるじゃない、とイーリスは呆れた。だが、それも内容次第だ。

「……なんてつけたの?」

 聞くと、アドニシアはまず怒られなかったことを喜び、パン、と手を合わせる。
 
「それがね! ほら、この香りの……ラベンダーってつけてあげたの! ほら、ポーターズのみんなは青の制服でしょ? だから、それっぽいお花から取ってみたんだ!」

 この香りはそういう名前の花のものだったのか、と今更知ったイーリスは、自室のネットワークで検索をかける。たしかに。基本は紫の花ではあるが、ブルーラベンダーという青い品種もあるらしい。

 可愛い名前だ。同時に、アドニシアに名付けてもらえるそのポーターズを羨ましく思う。

「……いいと思う」
「よ、よかった~」
「でも、うちの子にはちゃんとした名前つけて。変なのつけたら怒るから」

 気を抜くとまた珍妙な名前をつけそうだ。釘を刺されたアドニシアはえへへ、と笑い、ゆっくりとベッドに腰かけてきた。

「はい、イーリス。……飲める?」
 
 その手にはグラスがあった。差されたストローをこちらの口元に近づけてきて、心配そうに顔を覗き込んでくる。

 ずるい、とイーリスは思った。適当な話をして、アドニシアが去ってから飲もうと思ったのに。これでは拒否などできるわけがない。

 イーリスは渋々、ストローを咥える。ゆっくりと吸うと、甘酸っぱくて冷たい液体が口に流れ込んできて、レモンの爽やかな香りが鼻に抜けた。

「美味しい? 一応、味見はしてみたんだけど……――イーリス!?」
「なんでもない」

 ストローから口を離すと、アドニシアが驚いて顔を覗き込んできた。だが、イーリスは顔を背ける。

 自分の目からゆっくりと涙が落ちているのを、イーリスはわかっていたからだ。この涙も見せたくなかった。だから、グラスを置いておいたのに。酷いマスターだと思った。

 左腕だけでその涙をぬぐっていると、アドニシアに強めの勢いで抱きしめられた。服で涙をぬぐうように、顔を胸に押し付けられる。

「イーリス……」

 名前を呼ばれて目線をあげると、そこには優しく微笑むアドニシアの顔があった。

「私ね。イーリスがこうやってお休みしてると、ちょっと安心するの。いつも色んなこと任せっきりで、この間も私なにもできなくて……悔しかったから。みんな、もっと私を頼ってほしいな、って思ってたから……」

 微笑みが、だんだんと悲しそうな顔に変わる。

 そんな顔をしないでほしい、とイーリスは思った。彼女を悲しませるために自分たちは行動しているわけではない。

「いいの! あたしはあなたがここにいて……。子供たちと笑って過ごしてくれていれば、それでいいの! それだけでいいのよ!」

 アドニシアの体をイーリスはぎゅっと抱き返す。強く、もっと近くにこの体を感じていたかった。

「でも、私はイーリスが怪我をするの、悲しいよ」
「それでも! それでも……私はあなたに穏やかに過ごしてほしいの……!」

 これはエゴだ。イーリスの我儘だ。アドニシアが嫌というのも突っぱねて、自分の思うままを押し付けている。

 それは人間に従うというオートマトンの原則に外れるだろう。だが、イーリスはアドニシアだけに対してだけは、特別でいたかった。

 イーリスの髪がゆっくりと撫でられる。深くと息を吸うと、アドニシアの香りが鼻孔いっぱいに広がった。

 人は好きな香りでリラックスできる、という意味がやっとわかった気がする。この香りを感じているだけで、イーリスの氷のように冷たく固まった心が、じんわりと溶けていくことのがわかった。

 今日の自分は療養のためならなにをしていてもいい。ならば、アドニシアを独占する理由にもなるはずだ。

 そんなことを考えなくとも、自分のマスターはここにいてくれるだろうに。

 何をするにも言い訳をつくる自分に辟易としながら、イーリスはその身を委ねるのだった。

 
 ◇   ◇   ◇
 

 薄暗い廊下に、床をブーツが叩く音が響く。

 ヘクス原体をひとつ取り戻した今のクレイドルならば、廊下の照明を灯す程度の余裕はできた。だが、メインルームから数ブロック離れたこの周辺は、あえて照明を落としていた。
 間違って子供たちやアドニシアが入らないように、という配慮と、警備上の問題だ。
 
 ドアの前に立つ黒い制服のオートマトンが、こちらに敬礼する。数ミリのズレもない完璧な動きだ。ベローナがまったく同じ動作で返礼すると、こちらが手を上げた後に姿勢を戻した。

 彼女たちは【ストリクス】――ベローナ統制下の軍用オートマトンだ。

 基本性能もヘクス出力も、標準以上の性能を誇り、並みの軍隊ならば圧倒できる戦闘力がある。先日の襲撃も彼女たちあってこそ撃退できたといってもいい。
 そんな彼女たちの一人を警備に回している部屋に、ベローナは声かけてから入る。
 
「失礼致しますわ~。ご飯を持ってきましたわ~」

 そこには二人の男女――ジャスパーとレインがいた。

 彼らはポーターズによって保護された人間だ。宗教を中心としたグループから逃れてきて、行く当てのない彼らをイーリスが見捨てきれなかったのだ。

「毎日、本当にすまない。ベローナさん」
「こちらこそ申し訳ないですわ。こんな場所に押し込めてしまって。他に必要なものがあれば言ってくださいまし? あるとは限りませんけども」

 ベローナの独特な言い回しにジャスパーが笑う。

 ここに来たばかりと比べて、この男も表情が豊かになった。ここまでのルートを知られないために、彼らを一度昏倒させてから運んだのだが、どうやら拷問でもされると思ったらしい。

 こうしてコミュニケーションが取れるようになったのも最近の話だ。

「いいんだ。ここは安全だし、食事ももらってしまって……感謝しきれないくらいだ。レインもだいぶ落ち着いている。本本当にありがとう」

 深く頭を下げるジャスパーに、ベローナは軽く目を閉じて会釈して応じる。

 人間の奉仕するため作られた自分たちが、こうして敬われ、感謝されるときが来るとは思いもしなかった。
 彼らを保護すると決めたのはイーリスなのだから、礼ならば彼女に言ってほしいとベローナは思う。
 
 食事のトレイをジャスパーに渡すと、レインがその奥で床に座り込んで何かをしているのが見えた。

「あら、奥様は何を?」
「お、奥様って……」
 
 その言葉に、レインが顔を上げて反応する。その手には毛糸と編み棒があった。

「いいじゃないジャスパー。……あなたたちの子たち、今は三歳くらいなんでしょう? 洋服もそんなに種類もないだろうから、せめてこんなものでもあったらいいのかなって」
「手編みのお召し物ですの? まぁ、可愛らしい」

 レインの手元で編み物は、まだその全体は予想できない。だが、おそらくセーターやカーディガンの類だろう。

 今、子供たちに着せているものは、この艦の制服と同じデザインのベビーウェアだ。アドニシアとイーリスが裁縫道具でサイズなどを調整しているが、基本どれもあまりデザインは変わらない。

 おしゃれ、ということが子供たちにさせられるのは、ベローナにとっても嬉しいことだった。

「私たちにできるのはこれくらいしかないから……」
「きっと、あの子たちも気に入りますわ」

 レインのそばにしゃがみこむと、彼女は少しだけ顔を伏せる。

「結局……大層な計画に参加しても、人ができることなんて限られているものね」

 自嘲気味に言うレインは、プロジェクトに参加したことを後悔しているように見えた。

 ベローナはそれを見て、そう思うのも仕方のないことだと思う。

 当初は皆で生まれてくる子供を成長させ、技術や文化を継承し、新たな世界を作ることが目的だったのだ。そのはずが、終末の世界を生きるだけしかできない未来で覚醒してしまった。

 彼女ほど若ければ、元の時代に残してきたものもあっただろうに。

 ベローナはその手元を見て、首を横に振る。

「いいえ、レイン。今、このクレイドルで編み物をできるのはあなただけなんですの。あなたがいなければ、子供たちはずっと毛糸のお洋服を着ることがなかったかもしれない。それはとっても大きなことで、あなたの本来の役目に繋がることではありませんの?」

 その言葉にレインは顔を上げた。いつの間にかにその目は赤く潤んでいる。
 
「今度、裁縫道具をお持ちしますわね」
「ありがとう。私、頑張るわ」
 
 レインは服の袖で目端を拭い、大きく頷いたのだった。









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