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第11話 親友の裏事情
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一時限目の開始までに、十分な余裕を持って目指す教室に着いた清香は、既に机に座っていた親友の朋美に声をかけ、その隣に座った。必要な物をショルダーバッグから取り出し、机の上に並べ終わった清香が、突然何を思ったか、俯いたまま不気味な笑い声を上げる。
「うっふふふふふ」
「……ちょっと清香。何よ、その変な笑いは」
隣席に辛うじて聞こえる程度の、押し殺した笑い声だったが、さすがに耳にしてしまった朋美が、薄気味悪そうな視線を向ける。すると清香が如何にも嬉しそうに、バッグから一冊の本を引っ張り出し、朋美に向かって掲げて見せた。
「これっ! 今日の講義は午後に1コマ空くから、その時間にじっくり読み返そうと思って持って来たの!」
もう頬擦りせんばかりの上機嫌で告げる清香に、朋美は些か呆れ顔になった。
「ああ……、この前聞いた、試写会場で榊原康孝本人に直に会って、サインして貰ったやつね。あんたもつくづく、渋い趣味してるわ」
「ほっといて。だけど何か、最近運気が増してる気がするわ。聡さんに会ったお陰かな? 招待券も貰ったし」
ウキウキと誰に言うとも無く呟いた清香だが、それを耳にした朋美はピクリと反応した。
「ところで清香」
「なあに?」
「その聡さんとやらの事は、お兄さんも知ってるのよね?」
慎重に問い掛けた朋美に、清香は無邪気に答える。
「勿論よ。同窓生だし、今時珍しい親孝行だねとか色々誉めてたわよ?」
「ふぅん、『誉めて』ねぇ……」
(あんたの前で、本心から他の男を誉めるわけ無いじゃない!)
清香とは高校時代からの付き合いがある朋美は、既に清人の性格を看破している為心の中で断言し、今後の方針について一人考えを巡らせた。
(さて、このパターンは初めてだわ。今まで清香に纏わりついてくるのは学生だったから、いつも私から情報発信していたし……)
本人は全く知らない事ながら、清人は清香と仲の良い朋美を《清香に纏わりつく男の情報提供及び工作活動要員》として目を付け、幾らかの交渉を経て、双方合意に至った協力関係にあった。
既に五年目に突入するこの関係により、今では清香に言い寄る男がほぼ皆無であり、その事に対して朋美は多少親友に罪悪感を抱いていた。それで一瞬(あのシスコン兄貴が認めている男なら、清香の恋を応援してあげられるかも)と思ったものの、すぐに(その可能性はあり得ない)と自分自身でそれを否定した。
初めて聡の名前を清香から聞かされてから、注意深くその人となりなどを尋ねていたのだが、清人の方からその人物について何も言ってこないと言うのが、朋美にしてみれば余計に不気味だった。
(これまで聞いた感じでは、まだ好きとか意識してるわけでは無さそうなのよね。それに社会人だから、学内で接触する事はまず有り得ないし、私が知っていなくても良いって事かしら?)
そんな考えを巡らせながら、朋美は相変わらず本を抱えて楽しそうに語る清香に対して、適当に相槌を打ちながら笑顔を向けていた。
そんな状況が一変したのは、その日最後の講義が終わり、二人で帰り支度をしていた時だった。講義中電源を落としていた携帯の電源を立ち上げ、メールチェックをしていた清香が突然当惑した声を上げる。
「え? 聡さん? 嘘、やだ、後五分位しか無い。どうしよう」
急に携帯を握り締めながらオロオロし始めた清香に、朋美は冷静に声をかけた。
「ちょっと落ち着きなさい。例の聡さんがどうかしたの?」
「それが……、聡さんには私がここの学生なのは話してあるけど、今日は午後から営業の仕事で、この近くに来ていたみたいで、『ちょっと顔が見たいのと話したい事があるから、迷惑で無ければ正門の所で待ってる』って。それで到着予定時刻まで、五分切ってるの」
それを聞いた朋美は、素っ頓狂な声を上げた。
「はあぁ!? 清香、あんた別に約束なんかしてないのよね?」
「うん、してないけど」
「それなら『用事があるので失礼します』って断れば良いだけの話でしょ? とっとと西門から帰るわよ!」
「でも朋美、わざわざ聡さんが仕事の途中で立ち寄るなんて、何か大切な話かもしれないし」
「大手総合商社のバリバリエリートサラリーマンが、一介の学生相手にどんな大切な話があるって言うの!」
(まずいわっ! 校内で清香に男が近付くのを黙認なんかしたら、私の入学金がっ!)
教室内の級友達の怪訝そうな視線を一身に浴びながら、朝の心境とは打って変わって、朋美は内心で焦りまくっていた。
実は朋美は高三の夏、実家が自身の進学費用を用立てるのはかなりギリギリだろうと判断し、レベルを上げて地方国立大学を受験して一人暮らしの生活費を何とか工面するか、余裕で入学できる自宅から通学可能な、私立のここにするかの二者択一を迫られていた。そして考えた挙げ句、清香が同じくここを志望校にしていた事から、高一の時から清香の周囲の男どもの情報を横流しする度に、惜しげもなく過分な“お小遣い”をくれていた清人との、直談判に及んだのだ。
「すみません、入学金を全額無利子十二年返済の条件で貸して下さい。その代わり大学内で、清香には一切男を近付けさせません!」
その申し出を聞いた清人は如何にも楽しそうに笑い、幾つかの条件を出した。
《清香に気付かれると拙いので、男との多少の接触は許容範囲とする。その代わり、2人きりにはさせない》
《卒業まで虫除けができたら、貸した全額は返却しなくて構わない》
《もし失敗したら全額返済、当然銀行金利程度の利子はつけて貰う》
その条件で清人と手を結んだ朋美としては、かなり切実な問題だった。
(この不景気な時代に、卒業したって稼ぎの良い職にありつけるかどうかなんて分からないわ。百万単位のお金がチャラになるなら、悪魔にだって魂だろうが何だろうが、売ってやる!)
そう決意を新たにしながら、未だに某財団から奨学金を貸与されたと本気で信じている両親に対しても、腹を立てた。
(大体、保護者に書類の一枚も見せない書かせないで、ポンとお金を渡すなんてあり得ないでしょ? それを疑いもしないなんて、そんな事だから出世コースから弾かれて、うだつが上がらないのよ! もう頼りにできるのは、自分自身だけだわ!)
頭の中で脳天気な親への八つ当たりも済ませ、しっかり気持ちを落ち着けた朋美は、素早く頭を回転させながら清香に声をかけた。
「ねえ、清香。この場合、わざわざ相手に付き合う義理は無いと思うんだけど、清香としては取り敢えず話を聞きたいのね?」
「うん。わざわざここに立ち寄るなんて始めてだし、電話じゃ出来ない話なのかと思うと、気になるし」
「じゃあ取り敢えず門まで行きましょう。案外すぐ済む話かもしれないわよ? 私も付き合うから」
「ありがとう、そうしてくれる?」
「私は構わないわ」
鷹揚に頷いて見せた朋美だが、実は(変に引き止めてムキになられても困るし、この際相手の男を、徹底的に観察させて貰うわ)という思惑の結果だった。
話が纏まり、何やら朋美が携帯を操作してから2人連れ立って校舎から正門への真っ直ぐな道を歩いて行くと、門柱の側に佇む1人の男性の姿が目に入ってきた。
「ねえ、清香。もしかしてあの人?」
「うん、あの人が小笠原聡さんよ」
「……へぇ」
相手も歩いてくる清香を認めたらしく、鞄を持っていない方の手を軽く振りつつ、笑顔で真っ直ぐ二人の方に向かってくる。校内では見掛ける事の少ないビジネスマンの出で立ちの彼と、それに近付いていく自分達に周囲の視線が集中していくのが分かったが、朋美はそれには構わず徐々に近付いてくる聡を、食い入る様に眺めた。
(清人さんとはまた毛色が違ったイケメンだわ。体つきも均整取れてる感じだし、着ている物も上物そう。だけど……、どことなく温室育ちって感じが。あの清人さんに、真正面から刃向かえるだけの根性が有るかしら?)
そんな結構失礼な事を考えている間に、両者は一メートル未満の距離まで接近した。
「こんにちは、清香さん。突然メールして、学校まで押し掛けて悪かったね」
「いえ、ちょうど今日の講義は、全部終わった所でした」
「それは良かった。それでちょっと時間を貰いたいんだけど」
「お話中にすみません。清香、こちらの人に私を紹介してくれないの?」
自分の目の前で二人が和やかに話し出したところで、朋美が些か強引に会話に割って入った。それを受けて、清香が慌てた様に友人を紹介する。
「あ、ごめんね、朋美。……聡さん、こちらは高校時代からの友人で緒方朋美さんです。クラスも一緒で、二人で帰るところだったんです」
「小笠原さんの噂は、清香から色々お聞きしてます。初めまして」
にっこりと笑って清香が親友を紹介すると、今度は聡が愛想笑いを浮かべつつ、目の前の女性の観察を始めた。
「こちらこそ初めまして。知って頂いていて光栄です、宜しく。高校から一緒だと長いし、もう親友って域だね」
「そうですね。若干腐れ縁っぽいですけど」
「酷いわ、朋美」
「そうなると……、当然、彼女のお兄さんとも知り合いかな?」
「ええ、良く存じてます。色々清香の事について相談を受けたりもしてますし」
(この感じ……。やっぱり裏で兄さんと繋がっているか。彼女の親友面して、陰で何をしてるか分からないな)
含みのある会話を交わし、互いに相手の言わんとする所を察した二人は、愛想笑いを更に深くした。
「ところで、小笠原さんは、清香に話があるとか」
「ああ、ちょっとね」
「お時間かかりますか? 実はこの後、私達用事がありまして」
「え? 特に何も無いよね、朋美」
キョトンとして問い掛けてきた清香に、朋美は幾分すまなそうに、しかし余裕で言い返した。
「ごめん、今思い出したの。今度の学祭でのチャリティーオークションに、スタッフでの参加を頼まれてたでしょう? その打ち合わせが後四十分位で始まるのよ」
「えぇ? 聞いてないそんな話!」
「だからごめんって」
当惑した声を上げた清香に朋美は詫びを入れ、改めて聡に向き直った。
「そういう訳なので小笠原さん、清香と話をされても構いませんが、外に出てどこかお店に入ってとなると、それに間に合わなくなる可能性があるんです。宜しかったらあそこの学食で、お話ししませんか? 今の時間はカウンターは開いてませんが、自販機は揃っていますし」
そう言いながら朋美は前庭に面したガラス張りの学食を指差した。
本校舎から渡り廊下で連結されているそれは上層階に図書館や研究室を抱えており、チラホラと調べものや研究に一区切り付けて、一息入れに降りてきたらしい人間の姿も見える。それを無言で眺めてから聡は快諾した。
「俺は構わないよ。君達の都合も聞かずに押し掛けたのはこちらだし。せっかくだから二人に奢るよ。何が良い?」
「それならカフェオレをお願いします」
「分かった。清香さんは?」
そんな事を言いながらさっさと学食に向かって歩き出した聡と朋美を、一歩遅れて清香が追い掛けた。
「え? 朋美も一緒に居るの?」
「何か都合が悪い?」
「俺との話が終わったら一緒に打ち合わせに行くんだろう? 一旦離れてまた呼び出しとかするのは面倒だろうしね。俺は構わないよ」
「そうですよね。一人前の社会人が、人に聞かれちゃ拙い話なんかしないですよね」
「そうだね。相手の都合を聞かずに押し掛ける程度の非常識な事位はするかもしれないけど」
「あら、自覚はおありだったんですね。良かった」
(どうあっても彼女と二人きりにはしないつもりだな? この女)
(ふっ……、一分で打ち合わせ前倒しの根回しは完了よ。意地でも清香は離さないわ!)
笑顔と友好的な口調を取り繕いながら聡は朋美と嫌味の応酬をし、微妙な顔をしながらも、清香ははっきりとそれを認識できないまま学食へと入って行った。そして聡の支払いでそれぞれ好みの飲み物を手に入れた三人は、閑散としている学食の片隅のテーブルに落ち着く。そして聡が幾分迷う素振りを見せてから、自分のコーヒーを入れた紙コップに口をつけないまま、ゆっくりと口を開いた。
「清香さん。呆れないで聞いて欲しいんだけど」
「はい、何ですか?」
一口レモンティーを口に含んでから問い返した清香に、聡が予想外の事を言い出した。
「実は……、三日前に母と喧嘩をしたんだ」
「はい?」
もの凄く深刻そうな顔で語られた内容に、清香と朋美は揃って戸惑った声を上げた。それには構わず、聡が紙コップの中身を見下ろしながら淡々と続ける。
「あまり、詳しい事は言えないけど……。母に良かれと思った事が、実は本人にとってそうでは無かったみたいで。あ、いや、少しは反発みたいな物があるかもしれないとは予想してはいたんだけど、初めて母から大声で叱責されて動揺したと言うか、ついこっちも口を滑らせて、売り言葉に買い言葉で結構酷い事を……」
段々ボソボソとした口調になってくる聡の話を清香は唖然として聞いていたが、恐る恐る尋ねてみた。
「あの、聡さん。喧嘩の内容が全然分からないので、判断出来ないんですが、客観的に見たら悪いのは聡さんですか? それともお母さんですか?」
「殆ど俺が悪いと思う」
がっくりと項垂れてしまった聡を、清香は励ます様に続けた。
「それがちゃんと分かっているなら、一刻も早くお母さんに謝った方が良いですよ?」
「次の日、謝りに行ったんだ。そしたら『気にしてないから』と言われたけど、母の態度がぎこちなくて。でもそれ以上どうしたら良いのか分からなくて。しかも当日俺が飛び出した後、母が体調を崩してナースコールで看護士を呼んだって主治医から聞いて」
「え? お母さん、どうかされたんですか?」
驚いて聡の話の腰を折ってしまった清香だが、聡は力無く笑って続けた。
「狭心症の発作で入院していて予後は良かったんだけど、興奮させたのが拙かったのか、血圧の上昇と不整脈が出て、予定されていた退院日を半月は延ばして、経過を見る事になったんだ。十一月末に退院予定だったのが、年内退院が微妙になった」
「そうだったんですか」
どう言葉をかけて良いか分からなくなってしまったらしい清香の表情を窺いながら、聡は一人自己嫌悪に陥った。
(俺は一体、何をやってるんだ? 全く無関係とは言えないが、彼女にこんな愚痴を聞かせた挙げ句、自分の母親の事にまで気を遣わせる結果になって。情けないにも程があるだろう……)
そうして小さく溜息を吐いた聡は、深刻そうな顔の清香をチラリと見ながら、しみじみとここに来た理由を告げた。
「その他にも色々あって、この二日間どうしても気分が晴れなくて、清香さんの顔が見たいなと切実に思」
「馬っ鹿じゃないの?」
そこで朋美が聡の独白を容赦なくぶった切り、舌戦の火蓋がいきなり切って落とされた。
「うっふふふふふ」
「……ちょっと清香。何よ、その変な笑いは」
隣席に辛うじて聞こえる程度の、押し殺した笑い声だったが、さすがに耳にしてしまった朋美が、薄気味悪そうな視線を向ける。すると清香が如何にも嬉しそうに、バッグから一冊の本を引っ張り出し、朋美に向かって掲げて見せた。
「これっ! 今日の講義は午後に1コマ空くから、その時間にじっくり読み返そうと思って持って来たの!」
もう頬擦りせんばかりの上機嫌で告げる清香に、朋美は些か呆れ顔になった。
「ああ……、この前聞いた、試写会場で榊原康孝本人に直に会って、サインして貰ったやつね。あんたもつくづく、渋い趣味してるわ」
「ほっといて。だけど何か、最近運気が増してる気がするわ。聡さんに会ったお陰かな? 招待券も貰ったし」
ウキウキと誰に言うとも無く呟いた清香だが、それを耳にした朋美はピクリと反応した。
「ところで清香」
「なあに?」
「その聡さんとやらの事は、お兄さんも知ってるのよね?」
慎重に問い掛けた朋美に、清香は無邪気に答える。
「勿論よ。同窓生だし、今時珍しい親孝行だねとか色々誉めてたわよ?」
「ふぅん、『誉めて』ねぇ……」
(あんたの前で、本心から他の男を誉めるわけ無いじゃない!)
清香とは高校時代からの付き合いがある朋美は、既に清人の性格を看破している為心の中で断言し、今後の方針について一人考えを巡らせた。
(さて、このパターンは初めてだわ。今まで清香に纏わりついてくるのは学生だったから、いつも私から情報発信していたし……)
本人は全く知らない事ながら、清人は清香と仲の良い朋美を《清香に纏わりつく男の情報提供及び工作活動要員》として目を付け、幾らかの交渉を経て、双方合意に至った協力関係にあった。
既に五年目に突入するこの関係により、今では清香に言い寄る男がほぼ皆無であり、その事に対して朋美は多少親友に罪悪感を抱いていた。それで一瞬(あのシスコン兄貴が認めている男なら、清香の恋を応援してあげられるかも)と思ったものの、すぐに(その可能性はあり得ない)と自分自身でそれを否定した。
初めて聡の名前を清香から聞かされてから、注意深くその人となりなどを尋ねていたのだが、清人の方からその人物について何も言ってこないと言うのが、朋美にしてみれば余計に不気味だった。
(これまで聞いた感じでは、まだ好きとか意識してるわけでは無さそうなのよね。それに社会人だから、学内で接触する事はまず有り得ないし、私が知っていなくても良いって事かしら?)
そんな考えを巡らせながら、朋美は相変わらず本を抱えて楽しそうに語る清香に対して、適当に相槌を打ちながら笑顔を向けていた。
そんな状況が一変したのは、その日最後の講義が終わり、二人で帰り支度をしていた時だった。講義中電源を落としていた携帯の電源を立ち上げ、メールチェックをしていた清香が突然当惑した声を上げる。
「え? 聡さん? 嘘、やだ、後五分位しか無い。どうしよう」
急に携帯を握り締めながらオロオロし始めた清香に、朋美は冷静に声をかけた。
「ちょっと落ち着きなさい。例の聡さんがどうかしたの?」
「それが……、聡さんには私がここの学生なのは話してあるけど、今日は午後から営業の仕事で、この近くに来ていたみたいで、『ちょっと顔が見たいのと話したい事があるから、迷惑で無ければ正門の所で待ってる』って。それで到着予定時刻まで、五分切ってるの」
それを聞いた朋美は、素っ頓狂な声を上げた。
「はあぁ!? 清香、あんた別に約束なんかしてないのよね?」
「うん、してないけど」
「それなら『用事があるので失礼します』って断れば良いだけの話でしょ? とっとと西門から帰るわよ!」
「でも朋美、わざわざ聡さんが仕事の途中で立ち寄るなんて、何か大切な話かもしれないし」
「大手総合商社のバリバリエリートサラリーマンが、一介の学生相手にどんな大切な話があるって言うの!」
(まずいわっ! 校内で清香に男が近付くのを黙認なんかしたら、私の入学金がっ!)
教室内の級友達の怪訝そうな視線を一身に浴びながら、朝の心境とは打って変わって、朋美は内心で焦りまくっていた。
実は朋美は高三の夏、実家が自身の進学費用を用立てるのはかなりギリギリだろうと判断し、レベルを上げて地方国立大学を受験して一人暮らしの生活費を何とか工面するか、余裕で入学できる自宅から通学可能な、私立のここにするかの二者択一を迫られていた。そして考えた挙げ句、清香が同じくここを志望校にしていた事から、高一の時から清香の周囲の男どもの情報を横流しする度に、惜しげもなく過分な“お小遣い”をくれていた清人との、直談判に及んだのだ。
「すみません、入学金を全額無利子十二年返済の条件で貸して下さい。その代わり大学内で、清香には一切男を近付けさせません!」
その申し出を聞いた清人は如何にも楽しそうに笑い、幾つかの条件を出した。
《清香に気付かれると拙いので、男との多少の接触は許容範囲とする。その代わり、2人きりにはさせない》
《卒業まで虫除けができたら、貸した全額は返却しなくて構わない》
《もし失敗したら全額返済、当然銀行金利程度の利子はつけて貰う》
その条件で清人と手を結んだ朋美としては、かなり切実な問題だった。
(この不景気な時代に、卒業したって稼ぎの良い職にありつけるかどうかなんて分からないわ。百万単位のお金がチャラになるなら、悪魔にだって魂だろうが何だろうが、売ってやる!)
そう決意を新たにしながら、未だに某財団から奨学金を貸与されたと本気で信じている両親に対しても、腹を立てた。
(大体、保護者に書類の一枚も見せない書かせないで、ポンとお金を渡すなんてあり得ないでしょ? それを疑いもしないなんて、そんな事だから出世コースから弾かれて、うだつが上がらないのよ! もう頼りにできるのは、自分自身だけだわ!)
頭の中で脳天気な親への八つ当たりも済ませ、しっかり気持ちを落ち着けた朋美は、素早く頭を回転させながら清香に声をかけた。
「ねえ、清香。この場合、わざわざ相手に付き合う義理は無いと思うんだけど、清香としては取り敢えず話を聞きたいのね?」
「うん。わざわざここに立ち寄るなんて始めてだし、電話じゃ出来ない話なのかと思うと、気になるし」
「じゃあ取り敢えず門まで行きましょう。案外すぐ済む話かもしれないわよ? 私も付き合うから」
「ありがとう、そうしてくれる?」
「私は構わないわ」
鷹揚に頷いて見せた朋美だが、実は(変に引き止めてムキになられても困るし、この際相手の男を、徹底的に観察させて貰うわ)という思惑の結果だった。
話が纏まり、何やら朋美が携帯を操作してから2人連れ立って校舎から正門への真っ直ぐな道を歩いて行くと、門柱の側に佇む1人の男性の姿が目に入ってきた。
「ねえ、清香。もしかしてあの人?」
「うん、あの人が小笠原聡さんよ」
「……へぇ」
相手も歩いてくる清香を認めたらしく、鞄を持っていない方の手を軽く振りつつ、笑顔で真っ直ぐ二人の方に向かってくる。校内では見掛ける事の少ないビジネスマンの出で立ちの彼と、それに近付いていく自分達に周囲の視線が集中していくのが分かったが、朋美はそれには構わず徐々に近付いてくる聡を、食い入る様に眺めた。
(清人さんとはまた毛色が違ったイケメンだわ。体つきも均整取れてる感じだし、着ている物も上物そう。だけど……、どことなく温室育ちって感じが。あの清人さんに、真正面から刃向かえるだけの根性が有るかしら?)
そんな結構失礼な事を考えている間に、両者は一メートル未満の距離まで接近した。
「こんにちは、清香さん。突然メールして、学校まで押し掛けて悪かったね」
「いえ、ちょうど今日の講義は、全部終わった所でした」
「それは良かった。それでちょっと時間を貰いたいんだけど」
「お話中にすみません。清香、こちらの人に私を紹介してくれないの?」
自分の目の前で二人が和やかに話し出したところで、朋美が些か強引に会話に割って入った。それを受けて、清香が慌てた様に友人を紹介する。
「あ、ごめんね、朋美。……聡さん、こちらは高校時代からの友人で緒方朋美さんです。クラスも一緒で、二人で帰るところだったんです」
「小笠原さんの噂は、清香から色々お聞きしてます。初めまして」
にっこりと笑って清香が親友を紹介すると、今度は聡が愛想笑いを浮かべつつ、目の前の女性の観察を始めた。
「こちらこそ初めまして。知って頂いていて光栄です、宜しく。高校から一緒だと長いし、もう親友って域だね」
「そうですね。若干腐れ縁っぽいですけど」
「酷いわ、朋美」
「そうなると……、当然、彼女のお兄さんとも知り合いかな?」
「ええ、良く存じてます。色々清香の事について相談を受けたりもしてますし」
(この感じ……。やっぱり裏で兄さんと繋がっているか。彼女の親友面して、陰で何をしてるか分からないな)
含みのある会話を交わし、互いに相手の言わんとする所を察した二人は、愛想笑いを更に深くした。
「ところで、小笠原さんは、清香に話があるとか」
「ああ、ちょっとね」
「お時間かかりますか? 実はこの後、私達用事がありまして」
「え? 特に何も無いよね、朋美」
キョトンとして問い掛けてきた清香に、朋美は幾分すまなそうに、しかし余裕で言い返した。
「ごめん、今思い出したの。今度の学祭でのチャリティーオークションに、スタッフでの参加を頼まれてたでしょう? その打ち合わせが後四十分位で始まるのよ」
「えぇ? 聞いてないそんな話!」
「だからごめんって」
当惑した声を上げた清香に朋美は詫びを入れ、改めて聡に向き直った。
「そういう訳なので小笠原さん、清香と話をされても構いませんが、外に出てどこかお店に入ってとなると、それに間に合わなくなる可能性があるんです。宜しかったらあそこの学食で、お話ししませんか? 今の時間はカウンターは開いてませんが、自販機は揃っていますし」
そう言いながら朋美は前庭に面したガラス張りの学食を指差した。
本校舎から渡り廊下で連結されているそれは上層階に図書館や研究室を抱えており、チラホラと調べものや研究に一区切り付けて、一息入れに降りてきたらしい人間の姿も見える。それを無言で眺めてから聡は快諾した。
「俺は構わないよ。君達の都合も聞かずに押し掛けたのはこちらだし。せっかくだから二人に奢るよ。何が良い?」
「それならカフェオレをお願いします」
「分かった。清香さんは?」
そんな事を言いながらさっさと学食に向かって歩き出した聡と朋美を、一歩遅れて清香が追い掛けた。
「え? 朋美も一緒に居るの?」
「何か都合が悪い?」
「俺との話が終わったら一緒に打ち合わせに行くんだろう? 一旦離れてまた呼び出しとかするのは面倒だろうしね。俺は構わないよ」
「そうですよね。一人前の社会人が、人に聞かれちゃ拙い話なんかしないですよね」
「そうだね。相手の都合を聞かずに押し掛ける程度の非常識な事位はするかもしれないけど」
「あら、自覚はおありだったんですね。良かった」
(どうあっても彼女と二人きりにはしないつもりだな? この女)
(ふっ……、一分で打ち合わせ前倒しの根回しは完了よ。意地でも清香は離さないわ!)
笑顔と友好的な口調を取り繕いながら聡は朋美と嫌味の応酬をし、微妙な顔をしながらも、清香ははっきりとそれを認識できないまま学食へと入って行った。そして聡の支払いでそれぞれ好みの飲み物を手に入れた三人は、閑散としている学食の片隅のテーブルに落ち着く。そして聡が幾分迷う素振りを見せてから、自分のコーヒーを入れた紙コップに口をつけないまま、ゆっくりと口を開いた。
「清香さん。呆れないで聞いて欲しいんだけど」
「はい、何ですか?」
一口レモンティーを口に含んでから問い返した清香に、聡が予想外の事を言い出した。
「実は……、三日前に母と喧嘩をしたんだ」
「はい?」
もの凄く深刻そうな顔で語られた内容に、清香と朋美は揃って戸惑った声を上げた。それには構わず、聡が紙コップの中身を見下ろしながら淡々と続ける。
「あまり、詳しい事は言えないけど……。母に良かれと思った事が、実は本人にとってそうでは無かったみたいで。あ、いや、少しは反発みたいな物があるかもしれないとは予想してはいたんだけど、初めて母から大声で叱責されて動揺したと言うか、ついこっちも口を滑らせて、売り言葉に買い言葉で結構酷い事を……」
段々ボソボソとした口調になってくる聡の話を清香は唖然として聞いていたが、恐る恐る尋ねてみた。
「あの、聡さん。喧嘩の内容が全然分からないので、判断出来ないんですが、客観的に見たら悪いのは聡さんですか? それともお母さんですか?」
「殆ど俺が悪いと思う」
がっくりと項垂れてしまった聡を、清香は励ます様に続けた。
「それがちゃんと分かっているなら、一刻も早くお母さんに謝った方が良いですよ?」
「次の日、謝りに行ったんだ。そしたら『気にしてないから』と言われたけど、母の態度がぎこちなくて。でもそれ以上どうしたら良いのか分からなくて。しかも当日俺が飛び出した後、母が体調を崩してナースコールで看護士を呼んだって主治医から聞いて」
「え? お母さん、どうかされたんですか?」
驚いて聡の話の腰を折ってしまった清香だが、聡は力無く笑って続けた。
「狭心症の発作で入院していて予後は良かったんだけど、興奮させたのが拙かったのか、血圧の上昇と不整脈が出て、予定されていた退院日を半月は延ばして、経過を見る事になったんだ。十一月末に退院予定だったのが、年内退院が微妙になった」
「そうだったんですか」
どう言葉をかけて良いか分からなくなってしまったらしい清香の表情を窺いながら、聡は一人自己嫌悪に陥った。
(俺は一体、何をやってるんだ? 全く無関係とは言えないが、彼女にこんな愚痴を聞かせた挙げ句、自分の母親の事にまで気を遣わせる結果になって。情けないにも程があるだろう……)
そうして小さく溜息を吐いた聡は、深刻そうな顔の清香をチラリと見ながら、しみじみとここに来た理由を告げた。
「その他にも色々あって、この二日間どうしても気分が晴れなくて、清香さんの顔が見たいなと切実に思」
「馬っ鹿じゃないの?」
そこで朋美が聡の独白を容赦なくぶった切り、舌戦の火蓋がいきなり切って落とされた。
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*R-15は保険です。
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