上 下
66 / 68
第5章 日々是修行

2.戻って来た日常

しおりを挟む
「おっはようございまーす!」
 ドアを勢い良く開け放つなり、室内に向かって大声を張り上げたエリーシアを見て、既に出勤していた同僚達は、揃って笑顔になった。

「よう、エリー、おはようさん」
「うわ……。副魔術師長から話は聞いてたが、随分バッサリ切っちまったな……」
「久しぶりだな。ゆっくり休めたか?」
 肩より短い髪になったエリーシアを見て、安堵したり驚いたりしながら口々に声をかけてきた面々に、彼女は力強く宣言した。

「はい、完全復活です。今日からまた宜しくお願いします!」
 そう言って頭を下げた彼女に、周囲の皆は温かい視線を送った。
「復帰早々、元気良いな」
「頑張れよ?」
 そして一人一人に礼を述べつつ、自分の机に向かったエリーシアだったが、隣の席の同僚が前傾姿勢で、静かに机上の書類に目を落としているのが目に入った。

「サイラス、おっはよーう! ……え?」
 勢い良くサイラスの背中をど突きつつ、朝の挨拶をしたエリーシアだったが、「痛いだろうが!?」と盛大に食ってかかるかと思いきや、サイラスの上半身がそのまま前方に勢い良く傾ぎ、目の前に積み重ねてあった分厚い魔術書山に額を打ちつけた。そしてゴスッと鈍い音が響いた直後、その山が向こう側に崩落し、その場に気まずい沈黙が漂う。

「え、ええと……、ごめん、サイラス。ちょっと力を入れ過ぎたわ」
「……ああ」
 殊勝に頭を下げてエリーシアが謝ると、サイラスはそれ以上怒りはせず、ゆっくりと上半身を戻して黙々と魔導書を積み直した。その間に隣の自分の机に荷物を置いて腰掛けた彼女は、少ししてから声を潜めて問いかける。

「ねえ、具合でも悪いわけ?」
「いや、いたって健康だ」
「それにしては、随分暗いじゃない。三日前のソフィアさんとのデートで何かしくじって、まだ引きずってるわけ?」
 エリーシアがそう囁いた途端、サイラスは目を見開き、もの凄い勢いで彼女に向き直った。

「おい! どうしてそれを知ってるんだ!?」
 動揺著しいサイラスに、エリーシアはニヤリと嫌らしく笑いながら、事情を説明する。

「一昨日、ファルス公爵邸にシェリルが私の見舞いに来た時、その前日にソフィアさんが休みを取って、あんたと出かけたって話の合間に言ってたのよ。シェリルは詳しい内容までは、さすがに知らなかったみたいだけど」
「そうか、そっちのルートがあったか……」
「それで? 勿体ぶらずに、さっさと教えなさいよ」
 本気で頭を抱えた同僚を、エリーシアはからかう気満々で小突いたが、サイラスは心底嫌そうに呟いた。

「……あれは、デートなんかじゃない」
「またまた~。そんな照れなくても。らしくないわよ?」
「俺はデートのつもりだったが、相手はそうじゃなかったってだけの話だ」
「え? 何よそれ?」
 なんとなく雲行きが怪しくなって来たが、ここで話を止める訳にはいかず、エリーシアは話の続きを促した。するとサイラスが、暗い顔でボソボソと説明を始める。

「『頑張って従軍してきたんだから、美味しい物を奢ってあげる』と言われて、繁華街に繰り出したんだが……」
「十分デートじゃないの。何が不満なわけ?」
「何か、おかしいとは思ったんだ。待ち合わせ場所で顔を合わせるなり『ちょっと雰囲気を変えたいから、今日一日だけ魔術で、エリーシアさんみたいな銀の髪にしてくれない?』って、頼まれた時には」
 それを聞いたエリーシアは、さすがに面食らった。

「は? 何よそれ? あんたそれでどうしたの?」
「髪を銀色に変える魔術を、その日一日持続する様にかけた」
「……馬鹿って言っても良い?」
「黙って話を聞け」
 エリーシアが(そんな訳が分からない要求、突っぱねなさいよ)と目線で叱りつけたが、サイラスは視線を逸らしながら文句を言った。それで彼女もそれ以上余計な事は口にせずに、続きを促す。

「じゃあ黙って聞くから、さっさと話を進めて」
「そして食事して、お礼にちょっとした小物を買って贈って、お茶を飲んで別れて帰ったんだが……。次の日には、俺がお前似の別な女とデートしていたって噂が、王宮内で広がっていた」
「はい?」
 全く意味が分からなかった彼女が首を傾げると、サイラスが忌々しげな顔付きになりながら、補足説明する。

「お前が行軍中に髪をバッサリ切った事は、近衛軍内から広まった噂で知られてたからな。俺は今現在、王宮内でお前を口説いてるにも関わらず、街で違う女にもちょっかいを出してると思われているんだ」
「ちょっと待って。それって……」
 漸く事の次第が読めてきたエリーシアが顔を引き攣らせると、サイラスが疲れた様な表情で詳細を告げた。

「慌てて彼女の所に確認しに行ったら、『全く! エリーシアさんが髪を切ってた事を最初に言わないから、変な事になったじゃない!』とひとしきり怒られてから、『でもまあ、賭けの行方が益々混沌としてきて、別な意味で盛り上がってるから良しとするわ。『あんな女誑し野郎共には負けられん!』とか言って、エリーシアさん獲得レースに新たに名乗りを上げた人も出てきたしね』と、もの凄くいい笑顔で言われた」
 咄嗟に目の前の同僚にかける言葉が見つからなかったエリーシアは、先程の彼の台詞で、気になった箇所について尋ねてみた。

「サイラス? さっき『女誑し野郎共』って言ってなかった? どうして複数形なの?」
「彼女は銀髪のまま、街で買い込んだ食べ物をディオンの所に差し入れに行ったり、夕飯はアクセス殿と食べに行ったらしい。そして二人にも、俺と同様の噂が立ってる。どうやら彼女は上手く噂を誘導して、停滞気味の賭けを盛り上げるつもりだったらしいな。結果的には予想外の方向で、成功しているようだ」
 あらぬ方を見ながら淡々と状況説明したサイラスを見て、エリーシアは涙を禁じ得なかった。

「サイラス、あんたって……」
「何も言うな」
「…………不憫ね」
「だから、何も言うなって言ってるだろうが!? これ以上一言でも余計な事を口走ったら、窓から放り出すぞ!?」
 そっと指で目尻を拭いつつエリーシアが感想を述べると、サイラスは盛大に机を叩きつつ、紛れもない怒りの声を上げた。それに仰天した周囲が、慌てて二人の所に寄って来る。

「おい、サイラスどうした!」
「落ち着け! 何があったのかは分からんが、短気は損気だぞ!?」
「分かったわよ。ぶっ飛ばされるのは御免だわ。あんただったらできるだろうしね。もう言わないから」
 これ以上怒りを煽らない様に素直に引き下がったエリーシアだったが、心底サイラスに同情した。

(後からこっそりシェリルに頼んで、二人の仲を取り持って貰おうかしら?)
 そんな事を暫く考えているうちに、色々宥められて落ち着きを取り戻したらしいサイラスが、大人しく椅子に座って仕事を再開したのを横目で確認したエリーシアは、声を潜めながら相談を持ちかけた。

「サイラス。話は変わるんだけど、ちょっと協力してくれない?」
「……話の内容による」
 もの凄く面倒くさそうに応じたサイラスだったが、エリーシアは真顔で説明を始めた。

「シュレスタさんが、今度の月末に退職するじゃない。短い間だったけど随分お世話になったし、感謝の気持ちを込めて、盛大に送り出したいのよ」
「なるほど。俺もシュレスタさんには、就任以来何度もフォローして貰ったり、庇って貰ったからな。迷惑もかけたと思うし」
「でしょう? 私も同感。だから協力して?」
 その申し出にサイラスは納得し、快く承諾した。

「分かった。それで、具体的には何をすれば良いんだ?」
「花火の術式作製を手伝って。私、火炎系の高精度で緻密な術式は、他系統と比べるとちょっと自信が無いのよ。ただ強力に爆発させれば良いって代物では無いしね」
「花火? 定時で帰宅する頃は、まだ明るいぞ? 夜にシュレスタさんを呼びつけるのか?」
 確かに火炎系は他と比べると苦手だろうがと、幾分不審に思いながらサイラスが問うと、彼女は小さく首を振った。

「普通に夜に打ち上げるなら、あんたの手は借りないわ。昼に見える様にして打ち上げたいから、手伝って欲しいって言ってるの。皆からの色々なメッセージとかも、空中に一定時間固定化させたいし」
 それを聞いて、サイラスが納得した様に相槌を打つ。

「なるほど……。でもそういうのって、一番得意なのはシュレスタさんじゃないのか?」
 暗に「意見を貰わないのか?」と尋ねた彼に、エリーシアは苦笑した。
「勿論、本人には当日まで秘密にしておいて、驚かせるのよ? それに得意分野だから余計に『こんな事もできるのか』って、感心してくれそうじゃない」
 その主張を聞いたサイラスは、尤もだと深く頷いた。

「それも道理だな。分かった、全面的に協力する。シュレスタさんの花道を、盛大に盛り上げてみせようじゃないか」
「頼りにしてるわよ? 魔術師養成院院長就任祝いも兼ねてるんだから」
 エリーシアがそう述べると、それは初耳だったらしいサイラスが、少し驚いた表情になる。

「そうなのか? シュレスタさんがあそこのトップになるなら、これからどんどん優秀な魔術師が輩出されそうだな」
「そうね。うかうかしてると、王宮専属魔術師の座をあっさり奪われるかもしれないわよ?」
 含み笑いでそう述べると、不敵な笑みが返ってくる。

「誰がそうそう簡単に渡すかよ」
「ソフィアさんとの事も、その意気で頑張りなさいよね」
「一言余計だ」
 軽く睨まれたものの、それを見たエリーシアは我慢できずに噴き出し、それに釣られてサイラスも苦笑いの表情になった。そして騒いでいる所をガルストに窘められる所までいつも通りで、王宮専属魔術師棟はその日から、従来通りの喧騒を取り戻した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

異世界に落ちたら若返りました。

アマネ
ファンタジー
榊原 チヨ、87歳。 夫との2人暮らし。 何の変化もないけど、ゆっくりとした心安らぐ時間。 そんな普通の幸せが側にあるような生活を送ってきたのにーーー 気がついたら知らない場所!? しかもなんかやたらと若返ってない!? なんで!? そんなおばあちゃんのお話です。 更新は出来れば毎日したいのですが、物語の時間は割とゆっくり進むかもしれません。

旦那様は大変忙しいお方なのです

あねもね
恋愛
レオナルド・サルヴェール侯爵と政略結婚することになった私、リゼット・クレージュ。 しかし、その当人が結婚式に現れません。 侍従長が言うことには「旦那様は大変忙しいお方なのです」 呆気にとられたものの、こらえつつ、いざ侯爵家で生活することになっても、お目にかかれない。 相変わらず侍従長のお言葉は「旦那様は大変忙しいお方なのです」のみ。 我慢の限界が――来ました。 そちらがその気ならこちらにも考えがあります。 さあ。腕が鳴りますよ! ※視点がころころ変わります。 ※※2021年10月1日、HOTランキング1位となりました。お読みいただいている皆様方、誠にありがとうございます。

異世界着ぐるみ転生

こまちゃも
ファンタジー
旧題:着ぐるみ転生 どこにでもいる、普通のOLだった。 会社と部屋を往復する毎日。趣味と言えば、十年以上続けているRPGオンラインゲーム。 ある日気が付くと、森の中だった。 誘拐?ちょっと待て、何この全身モフモフ! 自分の姿が、ゲームで使っていたアバター・・・二足歩行の巨大猫になっていた。 幸い、ゲームで培ったスキルや能力はそのまま。使っていたアイテムバッグも中身入り! 冒険者?そんな怖い事はしません! 目指せ、自給自足! *小説家になろう様でも掲載中です

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

婚約破棄された検品令嬢ですが、冷酷辺境伯の子を身籠りました。 でも本当はお優しい方で毎日幸せです

青空あかな
恋愛
旧題:「荷物検査など誰でもできる」と婚約破棄された検品令嬢ですが、極悪非道な辺境伯の子を身籠りました。でも本当はお優しい方で毎日心が癒されています チェック男爵家長女のキュリティは、貴重な闇魔法の解呪師として王宮で荷物検査の仕事をしていた。 しかし、ある日突然婚約破棄されてしまう。 婚約者である伯爵家嫡男から、キュリティの義妹が好きになったと言われたのだ。 さらには、婚約者の権力によって検査係の仕事まで義妹に奪われる。 失意の中、キュリティは辺境へ向かうと、極悪非道と噂される辺境伯が魔法実験を行っていた。 目立たず通り過ぎようとしたが、魔法事故が起きて辺境伯の子を身ごもってしまう。 二人は形式上の夫婦となるが、辺境伯は存外優しい人でキュリティは温かい日々に心を癒されていく。 一方、義妹は仕事でミスばかり。 闇魔法を解呪することはおろか見破ることさえできない。 挙句の果てには、闇魔法に呪われた荷物を王宮内に入れてしまう――。 ※おかげさまでHOTランキング1位になりました! ありがとうございます! ※ノベマ!様で短編版を掲載中でございます。

【取り下げ予定】愛されない妃ですので。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。 国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。 「僕はきみを愛していない」 はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。 『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。 (ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?) そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。 しかも、別の人間になっている? なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。 *年齢制限を18→15に変更しました。

記憶喪失になった嫌われ悪女は心を入れ替える事にした 

結城芙由奈 
ファンタジー
池で溺れて死にかけた私は意識を取り戻した時、全ての記憶を失っていた。それと同時に自分が周囲の人々から陰で悪女と呼ばれ、嫌われている事を知る。どうせ記憶喪失になったなら今から心を入れ替えて生きていこう。そして私はさらに衝撃の事実を知る事になる―。

処理中です...