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第42話 悩みの内容
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仄かな橙色の常夜灯のみの室内で、軽く身体に掛かっていた毛布を押しのけた恭子は、スルリと自然な動作でベットから全裸で抜け出た。そして脱ぎ捨てていた服を拾い上げた彼女は、それで前を隠す様にして静かに立ち上がる。
「じゃあ私、シャワーを浴びて寝ますね。おやすみなさい」
斜め後方を軽く振り返りながら、断りを入れてその場を立ち去ろうとした恭子だったが、その視線の先で片膝を立ててゆっくりと上半身を起こした浩一が、静かに声をかけた。
「……恭子さん」
「はい、何ですか?」
「俺と寝るのはそんなに嫌?」
立てた方の膝に肘を付きながら、真顔でそんな事を問い掛けられた恭子は、正直面食らった。
「え? 別にそんな事はありませんが。嫌なら、そもそもこういう事はしませんけど?」
「そうじゃなくて……」
肘を付いた方の手を前髪に突っ込む様にして、額を押さえた浩一が言いよどんだ。それを無言で眺めた恭子が、少し遅れて相手の言わんとする事を理解する。
「ああ、そう言う事ですか。私、基本的に他の人と同じ布団で寝ない主義なんです。落ち着かないですし。それに今までそれに関して、特に何か言われた事は無いんですが」
実にあっさりとそう答えた恭子に対し、浩一はそれ以上言うのを諦めた。
「……分かった、もう良いよ。引き止めてごめん。おやすみ」
「はぁ……。おやすみなさい」
一応、いつも通りの顔を心がけながら浩一の部屋を出て浴室に向かった恭子は、脱衣所に入って抱えてきた服を半ば放り出し、十分な明るさがあるそこで洗面台の鏡に映し出された全裸の自分の姿を眺めつつ、軽く顔を顰めた。
(以前は……、やるだけやったら後はどうでも良いって感じで放り出されてたし、旦那様もそこら辺は別に咎め立てして来なかったから、普通に部屋に引き取らせて貰っていたし……。人によって、色々考え方があるんでしょうけど……)
そこで本音が口から零れ落ちる。
「ちょっと面倒くさいかも……」
しかしすぐに一人で愚痴っていても仕方がないと思い直した恭子は、小さく頭を振って浴室へと続くガラス戸を開けた。
翌朝、いつも通りに起きて朝食を作り、浩一と二人で食べてから弁当を渡して先に部屋を出た恭子は、職場への道すがら真顔で考え込んだ。
(う~ん、浩一さん、今朝は一見普段通りに食べてたけど、気にし始めたら、何となく気になるのよね……)
そんな風に彼女にしては珍しく、密かに悶々と悩みながら小笠原物産へと向かっていた。
(かといって、割と親しくしてる男の人って、肉体関係抜きで純粋に友人関係の人達ばかりだし。こういう内容で相談を持ちかけたりしたら、間違い無く引かれるわよね?)
結構本気で困惑しながら歩いているうちに、恭子はいつの間にか会社付近にまで到達し、周囲にチラホラと見覚えのある人物も現れ始めた。
(会社の人達もね。長居する気は無いから、全員上辺だけの付き合いだし)
そこまで考えて社屋ビルに足を踏み入れた直後、恭子は今現在同僚である人物に、斜め後方から声をかけられた。
「おはようございます、川島さん」
「あ、角谷さん。おはようございます」
そして自分を追い抜いて行こうとする聡を見ながら、恭子は素早く考えを巡らせた。
(ちょうど良かった。物は試しに聞いてみようかしら? 聡さんだったら、別にペラペラと口外はしないでしょうし)
そこで恭子は聡に追い縋りながら、声をかけた。
「聡さん、ここだけの話にして欲しいんですが、ちょっとお尋ねしたい事があります」
「何ですか?」
真剣な表情と口調に思わず足を止めた聡が恭子に向き直ったが、続く恭子の話で僅かに顔を引き攣らせた。
「清香ちゃんと付き合い始める前の女性遍歴は、彼女に纏わりつき始めた頃に洗いざらい調べて、全て把握していますが」
それを聞いた聡は、如何にも不愉快そうに眉を顰めた。
「それがどうしたって言うんですか。彼女にバラすって脅すつもりですか?」
「そんなつまらない事しませんよ。清香ちゃんが嫌な思いをしますし」
「それなら何なんですか?」
はっきりと分かる程度に苛立った表情になった聡が先を促すと、恭子はすこぶる真顔で問いを発した。
「そんな女性経験を踏まえた上での、率直な意見をお聞きしたいんですが、事が終わった後のピロートークの類って、必須だと思いますか?」
「……はい?」
聡の気分としては(朝っぱらから何の冗談だ?)であったが、生憎恭子は真剣そのものだった。
「私的には、やった後までダラダラベタベタしたがる相手との経験が殆ど皆無で、適当にほっぽりだされてましたし。……あ、でも清香ちゃんがそんな扱いを受けてたら、さすがに嫌だし許せないわ。そこの所はどうなんです?」
言うだけ言って最後は軽く睨み付けた恭子は黙って聡の反応を待ったが、対する聡は俯いて両拳をプルプルと小さく震わせながら、低い声で呻いた。
「……嫌味ですか? それとも新手の嫌がらせですか? あれだけ散々嫌がらせしておいて、まだ足りないんですか?」
「え? あの……、何でそんなに怒るんですか?」
予想外の態度に恭子は当惑したが、すぐにある可能性に思い至った。
「まさか……、清香ちゃんと、未だにそういう関係になって無いとか?」
「悪かったですね」
途端に憮然とした表情になった聡を、恭子は若干慌て気味に問い質した。
「だって! 清香ちゃんと付き合い出してから、軽く一年半は過ぎてますよ? 何ですか、そのグダグダっぷり。それでも男ですか? それに確かに私は仕事の邪魔は散々しましたが、プライベートではそんな事、皆無でしたよ?」
「あなたはしてなくても、兄さんが誰かにやらせていたに決まってるんですよ! 要所要所で水風船が飛んできたり、変な客引きに絡まれたり、自転車が突っ込んできたり、その他諸々色々と!!」
思わず声を荒げた聡に、恭子は軽く目を瞬かせてからしみじみと告げる。
「本当に、情け容赦無いですね……。だけど真澄さんと結婚してから先生は彼女にかかりきりで、監視はの目は緩んだんじゃありませんか?」
しかし予想に反して、聡は一層顔を強ばらせながら話を続けた。
「……デートの最中、父が一時間ごとに電話をかけてくるんです」
「あの小笠原社長が、ですか?」
意外な思いに捕らわれつつ恭子が口を挟んだが、聡の打ち明け話が続く。
「無視して電源を落としてたら、彼女の方にかかってくるし……。彼女に頼んで切って貰ったら、どうやってか居場所を突き止めて突然現れて、彼女を連れ帰りましたよ。あの人は本当に、俺の父親なのか!?」
(小笠原さん……、よっぽど娘が欲しかったのね。小笠原家で清香ちゃんが可愛がって貰ってるのが、良~く分かったわ。先生の事を《頑固親父っぽい、妹ラブ馬鹿兄貴》だと思ってたけど、小笠原さんは《典型的頑固親父、未来の嫁ラブ馬鹿舅》だったのね……)
我を忘れて叫んだ聡を、周囲の出勤してきた社員が何人か怪訝そうな目で見やり、恭子は軽く相手に同情した。そして完全に腹を立てたらしい聡が、吐き捨てる様に恭子を責める。
「もう放っておいて下さい! 真面目な顔で尋ねてくるから何かと思えば、朝から何てろくでもない事を聞いてくるんですか!!」
「すみません……」
恭子が思わず謝罪の言葉を口にした隙に聡は素早く踵を返し、乱暴な足取りで職場に向かって歩き去って行った。その背中を見送った恭子は、ある事実に気が付く。
(あ、しまった。今のを録音しておいて先生にデータを渡したら、聡さんへの嫌がらせとカウントされて、特別手当が貰えたのに……)
そんな事を考えて、恭子は小さく溜め息を吐いた。
「やっぱり、調子狂うわね……」
端から見ればかなりどうでも良い事ではあったが、彼女にとってはそれは結構深刻な悩みで、未知の領域の範疇であった。
恭子が浩一との微妙な関係を模索し始めた時期の週末、唐突に清香が電話で浩一の都合を尋ね、マンションに浩一を訪ねてきた。
「こんにちは、浩一さん。急に押し掛けてごめんなさい」
「清香ちゃんならいつでも大歓迎だよ? さあ、入って。恭子さんは今ちょっと出てるけど、すぐに戻って来ると思うし」
「あ、大丈夫。今日は浩一さんに話があったの」
笑顔で清香をマンションに迎え入れた浩一だったが、彼女の台詞と物言いたげな表情に少し戸惑った。
「俺に話? 何かな。それに、俺の顔に何か付いてる?」
「浩一さん、眼鏡は今、修理に出してるの?」
怪訝そうに見上げられた浩一は、そこで漸く清香の困惑顔の理由に気が付いた。
「ああ、そうか。実は半月位前から眼鏡はかけてないんだ。それから清香ちゃんに会うのは初めてだったね」
「うん。眼鏡をかけてない浩一さんは久しぶり。海に行った時も泳ぐ直前まで眼鏡をかけてたから、しっかりと素顔を見た記憶がないし」
真顔で確認を入れられた浩一は、自分の頑なさを指摘された様に感じて思わず苦笑いした。
「そうだね。……似合わないかな?」
「似合うとか似合わないじゃなくて……、ちょっと大丈夫かなって思って……」
「え? どうして?」
何故だか今度は心配そうな顔付きで見上げられ、浩一は不思議に思いながら清香の顔を見詰めたが、清香は自分でも良く分かっていない様な口振りで話を続けた。
「自分でも理由が良く分からないけど……、眼鏡をかけてないと、具合が悪そうに見える……。やだ、どうしてかな? 今、体調が悪いわけじゃ無いよね?」
僅かに狼狽えながら考え考え清香がそんな事を言った為、浩一は軽く目を見張った。しかし内心の動揺など微塵も悟らせない、いつも通りの微笑で応じる。
「ああ、勿論大丈夫だよ。いたって元気だし」
「そうだよね? ごめんなさい。いきなり変な事を言って」
「いや、気にしてないから。それより今お茶を淹れるから、少しだけ待っててくれる?」
「はい」
清香をリビングに促して自身はキッチンに入った浩一は、お湯を沸かして手早くお茶の準備をしながら密かに考え込んだ。
(眼鏡をかけてないと具合が悪そう、か……。退院した直後に清香ちゃんに会った時、俺はそんなに死にそうな顔をしてたのか? その後すぐ眼鏡をかけ始めたから、素顔の俺の印象が、その時の顔で刷り込まれてたらしいな。当時清香ちゃんは普通に見えたが、実は結構心配させていたか……)
そして温めたティーポットに茶葉と熱湯を入れて抽出するのを待ちながら、浩一は自分だけに聞こえる程度の小声で、自嘲気味に呟いた。
「小学生の子に、そこまで心配させるなよ……」
当時の自分を忌々しく思いながら、出来上がった紅茶を入れたマグカップを二つ手にした浩一は、何食わぬ顔でリビングに向かった。そして向かいのソファーに座った清香に紅茶とクッキーを勧めてから自身もカップに口を付け、静かに声をかける。
「それで、今日は何の話かな?」
そう促されても清香は両手でマグカップを抱えながら、どう話したらよいかと思案している顔付きのまま黙り込んでいたが、浩一は待たされる事を気にせずに清香が口を開くのを見守った。そして少ししてから、清香がまだ迷いを内包した様な口調で話し出す。
「その……、これまで司書として採用試験を受けた所が、悉く不採用だったの」
「そうか。でも元々採用枠が少ないだろう? 特に地方公務員だと、採用に関して色々あるだろうし」
思わず慰める言葉を発した浩一だったが、清香は益々心苦しそうに続けた。
「それで……、実はお兄ちゃんに言われて柏木産業の採用試験も受けてて、先月内定を貰ったの。報告が遅れたけど」
「それはおめでとう。と手放しで喜びたい所だけど、そんな雰囲気じゃ無いね? 俺達には知らせてくれなかったし」
「だって……、司書の採用試験を悉く落ちたのに、超人気企業の柏木産業に採用が決まるなんて、露骨な縁故採用みたいで……」
そこで益々落ち込んだ様に俯いた清香に、浩一は心配そうに声をかけた。
「清人には相談しなかったの?」
「それが……、一応言ってみたんだけど、『入らせてくれるなら入っとけ、気に入らなければ入らなければ良いだろう』って」
「ごめん、忘れてた……。あいつ、柏木産業の内定を派手に蹴っ飛ばした奴だしな。こういう相談には不向きか」
「うん……」
(なるほどね。さて……、これはどうしたものかな?)
どうやらこのまま柏木産業に入社して良いものかどうか、一人で色々悩み過ぎて袋小路に入り込んでしまったらしいと見当をつけた浩一は、自分自身でも覚えがあるだけに内心考え込んだ。そして一口紅茶を飲んで口を湿らせてからカップをテーブルに置き、清香を見据えながらゆっくりと口を開く。
「清香ちゃん、一つ聞いても良い?」
「何ですか?」
思わず顔を上げて自分を見つめてきた清香に、浩一は真剣な口調で問いかけた。
「柏木産業を受けたのは、清人に言われたから? 他にも理由はある?」
「えっと、直接的にはお兄ちゃんに言われた事だけど、真澄さんの話が頭にあったからなの」
「どんな話?」
「真澄さんの就職が決まった頃、総合商社の位置付けが分からなくて聞いてみたの。そうしたら『人と人とを繋ぐ、とてもやりがいのある仕事よ』って、小学生だった私に懇切丁寧に説明してくれて。正直良く分からなかった所が多かったけど、真澄さんが凄い楽しそうな笑顔で話してくれたから、子供心に『素敵なお仕事なんだ』ってインプットされてて。だから私にもできる事があったらやってみたいなって思ったの」
それを聞いた浩一は、思わず口元を押さえて笑いを堪えながら納得した。
「そうか。姉さんは昔から柏木産業に入るって、周囲に宣言してたからな」
「でも、そんないい加減な志望動機って、周りの人に失礼じゃない?」
心配そうにお伺いを立ててきた清香に対し、浩一は瞬時に真顔になって言い切る。
「そんな事は無いさ。少なくとも単に優良企業だから食いっぱぐれが無いとか考えて、応募する人間よりよっぽどマシだと思うね。清香ちゃんは柏木産業に愛着を持ってくれている訳だから」
「……そういう人を知っているの?」
幾分険しい表情になった浩一に驚きつつ清香が尋ねてみたが、浩一は肯定も否定もしないまま、曖昧な笑顔で再びカップを口に含んだ。そして清香は不自然に会話が途切れてしまった為、どうしようかと悩んだが、無言のまま浩一が目線で話の続きを促してきた為、恐る恐る問いを発する。
「それで……、入社するかしないかもそうなんだけど、真澄さんも浩一さんも社内では社長の子供って知られてて、色々やりにくくないのかなって。聡さんは社内では、おじ様の旧姓を名乗っているし」
(なるほど、清香ちゃんにしたらそれも気になるか……。就職したら、清香ちゃんも遅かれ早かれ社長の姪で、会長の孫だとバレるだろうしな。俺達は最初から割り切っていたが)
そこで浩一は素早く考えを巡らせてから、順序立てて自分の考えを話し出した。
「聡君の事情は知らないが、周りから色眼鏡で見られるのは、俺は寧ろ望む所だったな」
「え? ど、どうして?」
当惑した声を上げた清香に、浩一は小さく肩を竦めた。
「俺は自分が創造的な仕事には向かないタイプだと昔から思っていたから、就職するならサラリーマンになるだろうなと漠然と思っていたけど、流石に就職先を選ぶ時は色々考えたよ? 柏木産業に入って当然、的な周囲の考え方には反発もしたし」
「そうだよね?」
思わずといった感じで清香が頷いて見せたが、ここで浩一は苦笑いした。
「だけど逆に考えてもみたんだ。仮に柏木産業以外の企業に就職してもそこそこ業績を出す自信はあったけど、家の名前を全く消す訳にはいかないし、多少は色眼鏡で見られるのは仕方無いって」
「やっぱりそうかな?」
「だからいっそのこと縁故採用贔屓判定満載の所で、周囲が文句なく評価できる業績を上げれば、その時本当の意味で自分を認めさせる事ができるんじゃないかと思っただけだよ」
サラッと気負いなく言われた内容に、清香は一瞬呆気に取られ、次に疑い深そうに問いかけた。
「浩一さんって……、実は結構な自信家だったの?」
「自信家と言うよりは、開き直りかな? そのつもりで入社以来頑張ってきたよ? 周囲のおっさん連中がウザいのは、相変わらずだけど」
「浩一さんに仕事の事を聞いたのは初めてだけど……、仕事中は人が違うみたい」
清香が思わず本音を述べると、浩一はこれ以上はない位真剣な表情で断言した。
「それは当然。とても可愛い清香ちゃんを相手にするのと、全然可愛くない親父連中を相手にするのとは、自ずと対応は異なるさ」
「それが社会人って事?」
「そうだね。だから柏木産業をもっと大きくして、人の役に立つ仕事をしたいと真面目に考えている姉さんと比べると、自分を正当に評価して貰うために柏木産業を利用していると言える俺は、相当不真面目な社員だと思うよ?」
「そんな事ないから! 浩一さんはそんな偏見なんか気にしないで、ちゃんと成績を出してるんでしょう?」
「まあね。だけど感慨深いね。清香ちゃんとこういう仕事の話をする様になるなんて」
そこで立ち上がってコーヒーテーブルを回り込んだ浩一は、清香の隣に座って手を伸ばし右手で彼女の左手を軽く握った。そして僅かに厳しい表情で彼女に言い聞かせる。
「俺が言えるのは、父も祖父も一見伯父馬鹿爺馬鹿だけど、社内の規律を個人の感情で容易く曲げる様な甘い人では無いと言う事だ。どちらも自分の仕事と柏木産業に対する誇りを持ってる人達だから、清香ちゃんの採用を人事にねじ込んだと頭から疑うのは二人に失礼だからね?」
「……うん」
「それに、清人に頼んで清香ちゃんの成績は逐一見せて貰っていたけど、立派なものだったよ? 比較する清人が《あれ》だったから、自分では大した事無いと思ってるみたいだけど。充分採用範囲内だ」
そんな事を断言してきた浩一に、清香は嬉しさ以上にうんざりとした気持ちが勝った。
「どうして私の成績を把握してるんですか……」
「ごめん。清人が甘やかしてないか、少し心配で。ほら、あいつ兄馬鹿全開だから、厳しく教えたりできないなら、俺が家庭教師をしようかと思って」
苦笑しながら弁解してきた浩一に、清香は諦めの溜め息を吐いて感想を述べる。
「浩一さんも、充分兄馬鹿っぽいです」
「はは、そうかもね。とにかく、働くって事は楽しい事より嫌な事の方が多いものだよ。それが最初からちょっと多目になるってだけの話で、後から酷くなるより良いかもしれない」
「物は言いようですね」
思わず苦笑してしまった清香に笑い返しながら、浩一は冷静に言い聞かせた。
「当初目指していたものとは違うから、何をすれば良いのか分からなくて戸惑うかもしれないけど、清香ちゃんは自分がやりたい事、やらなければいけない事はすぐ見つけられる人間だと思うから大丈夫だよ。俺が保証する。柏木産業に来てくれるなら、歓迎するよ?」
「ありがとう、浩一さん」
「だけど卒業まで半年弱、就職が決まったからと言って自堕落な生活はしないで、成績も落とさない事。分かったね?」
「はい。卒業まで頑張ります!」
甘やかす様に言った直後にすぐ顔付きを改めて釘を刺してきた浩一に、清香も真顔になって姿勢を正しつつ力強く頷いた。そして記憶に残っている小さな手とは違い過ぎる清香の手を再度軽く握りしめた浩一は、空いている左手で彼女の頭を撫でながら、目元を緩めて穏やかに微笑む。
「宜しい。とても素敵なレディになったね、清香ちゃん」
「う、うぇ?」
いきなり予想外の行為をされた上、至近距離で見慣れない浩一の顔と相対する事になった清香は、内心激しく動揺した。
(ちょ、ちょっと! 眼鏡をかけていない顔が珍しいからって、どうして浩一さんにドキドキしてるのよ私! 頭を撫でられるなんて丸っきり子供扱いだし、こんな事位聡さんにだってされてるのに!!)
そんな清香の内心など気が付かないまま、浩一はしみじみと述べた。
「これからもっと素敵な女性になれるよ? 聡君に渡すのが、本当に勿体無いな」
「やっぱり兄馬鹿……」
思わず零した清香の台詞に浩一は苦笑いし、近々清香の就職祝いの席を設ける約束をして、話を締めくくった。
「じゃあ私、シャワーを浴びて寝ますね。おやすみなさい」
斜め後方を軽く振り返りながら、断りを入れてその場を立ち去ろうとした恭子だったが、その視線の先で片膝を立ててゆっくりと上半身を起こした浩一が、静かに声をかけた。
「……恭子さん」
「はい、何ですか?」
「俺と寝るのはそんなに嫌?」
立てた方の膝に肘を付きながら、真顔でそんな事を問い掛けられた恭子は、正直面食らった。
「え? 別にそんな事はありませんが。嫌なら、そもそもこういう事はしませんけど?」
「そうじゃなくて……」
肘を付いた方の手を前髪に突っ込む様にして、額を押さえた浩一が言いよどんだ。それを無言で眺めた恭子が、少し遅れて相手の言わんとする事を理解する。
「ああ、そう言う事ですか。私、基本的に他の人と同じ布団で寝ない主義なんです。落ち着かないですし。それに今までそれに関して、特に何か言われた事は無いんですが」
実にあっさりとそう答えた恭子に対し、浩一はそれ以上言うのを諦めた。
「……分かった、もう良いよ。引き止めてごめん。おやすみ」
「はぁ……。おやすみなさい」
一応、いつも通りの顔を心がけながら浩一の部屋を出て浴室に向かった恭子は、脱衣所に入って抱えてきた服を半ば放り出し、十分な明るさがあるそこで洗面台の鏡に映し出された全裸の自分の姿を眺めつつ、軽く顔を顰めた。
(以前は……、やるだけやったら後はどうでも良いって感じで放り出されてたし、旦那様もそこら辺は別に咎め立てして来なかったから、普通に部屋に引き取らせて貰っていたし……。人によって、色々考え方があるんでしょうけど……)
そこで本音が口から零れ落ちる。
「ちょっと面倒くさいかも……」
しかしすぐに一人で愚痴っていても仕方がないと思い直した恭子は、小さく頭を振って浴室へと続くガラス戸を開けた。
翌朝、いつも通りに起きて朝食を作り、浩一と二人で食べてから弁当を渡して先に部屋を出た恭子は、職場への道すがら真顔で考え込んだ。
(う~ん、浩一さん、今朝は一見普段通りに食べてたけど、気にし始めたら、何となく気になるのよね……)
そんな風に彼女にしては珍しく、密かに悶々と悩みながら小笠原物産へと向かっていた。
(かといって、割と親しくしてる男の人って、肉体関係抜きで純粋に友人関係の人達ばかりだし。こういう内容で相談を持ちかけたりしたら、間違い無く引かれるわよね?)
結構本気で困惑しながら歩いているうちに、恭子はいつの間にか会社付近にまで到達し、周囲にチラホラと見覚えのある人物も現れ始めた。
(会社の人達もね。長居する気は無いから、全員上辺だけの付き合いだし)
そこまで考えて社屋ビルに足を踏み入れた直後、恭子は今現在同僚である人物に、斜め後方から声をかけられた。
「おはようございます、川島さん」
「あ、角谷さん。おはようございます」
そして自分を追い抜いて行こうとする聡を見ながら、恭子は素早く考えを巡らせた。
(ちょうど良かった。物は試しに聞いてみようかしら? 聡さんだったら、別にペラペラと口外はしないでしょうし)
そこで恭子は聡に追い縋りながら、声をかけた。
「聡さん、ここだけの話にして欲しいんですが、ちょっとお尋ねしたい事があります」
「何ですか?」
真剣な表情と口調に思わず足を止めた聡が恭子に向き直ったが、続く恭子の話で僅かに顔を引き攣らせた。
「清香ちゃんと付き合い始める前の女性遍歴は、彼女に纏わりつき始めた頃に洗いざらい調べて、全て把握していますが」
それを聞いた聡は、如何にも不愉快そうに眉を顰めた。
「それがどうしたって言うんですか。彼女にバラすって脅すつもりですか?」
「そんなつまらない事しませんよ。清香ちゃんが嫌な思いをしますし」
「それなら何なんですか?」
はっきりと分かる程度に苛立った表情になった聡が先を促すと、恭子はすこぶる真顔で問いを発した。
「そんな女性経験を踏まえた上での、率直な意見をお聞きしたいんですが、事が終わった後のピロートークの類って、必須だと思いますか?」
「……はい?」
聡の気分としては(朝っぱらから何の冗談だ?)であったが、生憎恭子は真剣そのものだった。
「私的には、やった後までダラダラベタベタしたがる相手との経験が殆ど皆無で、適当にほっぽりだされてましたし。……あ、でも清香ちゃんがそんな扱いを受けてたら、さすがに嫌だし許せないわ。そこの所はどうなんです?」
言うだけ言って最後は軽く睨み付けた恭子は黙って聡の反応を待ったが、対する聡は俯いて両拳をプルプルと小さく震わせながら、低い声で呻いた。
「……嫌味ですか? それとも新手の嫌がらせですか? あれだけ散々嫌がらせしておいて、まだ足りないんですか?」
「え? あの……、何でそんなに怒るんですか?」
予想外の態度に恭子は当惑したが、すぐにある可能性に思い至った。
「まさか……、清香ちゃんと、未だにそういう関係になって無いとか?」
「悪かったですね」
途端に憮然とした表情になった聡を、恭子は若干慌て気味に問い質した。
「だって! 清香ちゃんと付き合い出してから、軽く一年半は過ぎてますよ? 何ですか、そのグダグダっぷり。それでも男ですか? それに確かに私は仕事の邪魔は散々しましたが、プライベートではそんな事、皆無でしたよ?」
「あなたはしてなくても、兄さんが誰かにやらせていたに決まってるんですよ! 要所要所で水風船が飛んできたり、変な客引きに絡まれたり、自転車が突っ込んできたり、その他諸々色々と!!」
思わず声を荒げた聡に、恭子は軽く目を瞬かせてからしみじみと告げる。
「本当に、情け容赦無いですね……。だけど真澄さんと結婚してから先生は彼女にかかりきりで、監視はの目は緩んだんじゃありませんか?」
しかし予想に反して、聡は一層顔を強ばらせながら話を続けた。
「……デートの最中、父が一時間ごとに電話をかけてくるんです」
「あの小笠原社長が、ですか?」
意外な思いに捕らわれつつ恭子が口を挟んだが、聡の打ち明け話が続く。
「無視して電源を落としてたら、彼女の方にかかってくるし……。彼女に頼んで切って貰ったら、どうやってか居場所を突き止めて突然現れて、彼女を連れ帰りましたよ。あの人は本当に、俺の父親なのか!?」
(小笠原さん……、よっぽど娘が欲しかったのね。小笠原家で清香ちゃんが可愛がって貰ってるのが、良~く分かったわ。先生の事を《頑固親父っぽい、妹ラブ馬鹿兄貴》だと思ってたけど、小笠原さんは《典型的頑固親父、未来の嫁ラブ馬鹿舅》だったのね……)
我を忘れて叫んだ聡を、周囲の出勤してきた社員が何人か怪訝そうな目で見やり、恭子は軽く相手に同情した。そして完全に腹を立てたらしい聡が、吐き捨てる様に恭子を責める。
「もう放っておいて下さい! 真面目な顔で尋ねてくるから何かと思えば、朝から何てろくでもない事を聞いてくるんですか!!」
「すみません……」
恭子が思わず謝罪の言葉を口にした隙に聡は素早く踵を返し、乱暴な足取りで職場に向かって歩き去って行った。その背中を見送った恭子は、ある事実に気が付く。
(あ、しまった。今のを録音しておいて先生にデータを渡したら、聡さんへの嫌がらせとカウントされて、特別手当が貰えたのに……)
そんな事を考えて、恭子は小さく溜め息を吐いた。
「やっぱり、調子狂うわね……」
端から見ればかなりどうでも良い事ではあったが、彼女にとってはそれは結構深刻な悩みで、未知の領域の範疇であった。
恭子が浩一との微妙な関係を模索し始めた時期の週末、唐突に清香が電話で浩一の都合を尋ね、マンションに浩一を訪ねてきた。
「こんにちは、浩一さん。急に押し掛けてごめんなさい」
「清香ちゃんならいつでも大歓迎だよ? さあ、入って。恭子さんは今ちょっと出てるけど、すぐに戻って来ると思うし」
「あ、大丈夫。今日は浩一さんに話があったの」
笑顔で清香をマンションに迎え入れた浩一だったが、彼女の台詞と物言いたげな表情に少し戸惑った。
「俺に話? 何かな。それに、俺の顔に何か付いてる?」
「浩一さん、眼鏡は今、修理に出してるの?」
怪訝そうに見上げられた浩一は、そこで漸く清香の困惑顔の理由に気が付いた。
「ああ、そうか。実は半月位前から眼鏡はかけてないんだ。それから清香ちゃんに会うのは初めてだったね」
「うん。眼鏡をかけてない浩一さんは久しぶり。海に行った時も泳ぐ直前まで眼鏡をかけてたから、しっかりと素顔を見た記憶がないし」
真顔で確認を入れられた浩一は、自分の頑なさを指摘された様に感じて思わず苦笑いした。
「そうだね。……似合わないかな?」
「似合うとか似合わないじゃなくて……、ちょっと大丈夫かなって思って……」
「え? どうして?」
何故だか今度は心配そうな顔付きで見上げられ、浩一は不思議に思いながら清香の顔を見詰めたが、清香は自分でも良く分かっていない様な口振りで話を続けた。
「自分でも理由が良く分からないけど……、眼鏡をかけてないと、具合が悪そうに見える……。やだ、どうしてかな? 今、体調が悪いわけじゃ無いよね?」
僅かに狼狽えながら考え考え清香がそんな事を言った為、浩一は軽く目を見張った。しかし内心の動揺など微塵も悟らせない、いつも通りの微笑で応じる。
「ああ、勿論大丈夫だよ。いたって元気だし」
「そうだよね? ごめんなさい。いきなり変な事を言って」
「いや、気にしてないから。それより今お茶を淹れるから、少しだけ待っててくれる?」
「はい」
清香をリビングに促して自身はキッチンに入った浩一は、お湯を沸かして手早くお茶の準備をしながら密かに考え込んだ。
(眼鏡をかけてないと具合が悪そう、か……。退院した直後に清香ちゃんに会った時、俺はそんなに死にそうな顔をしてたのか? その後すぐ眼鏡をかけ始めたから、素顔の俺の印象が、その時の顔で刷り込まれてたらしいな。当時清香ちゃんは普通に見えたが、実は結構心配させていたか……)
そして温めたティーポットに茶葉と熱湯を入れて抽出するのを待ちながら、浩一は自分だけに聞こえる程度の小声で、自嘲気味に呟いた。
「小学生の子に、そこまで心配させるなよ……」
当時の自分を忌々しく思いながら、出来上がった紅茶を入れたマグカップを二つ手にした浩一は、何食わぬ顔でリビングに向かった。そして向かいのソファーに座った清香に紅茶とクッキーを勧めてから自身もカップに口を付け、静かに声をかける。
「それで、今日は何の話かな?」
そう促されても清香は両手でマグカップを抱えながら、どう話したらよいかと思案している顔付きのまま黙り込んでいたが、浩一は待たされる事を気にせずに清香が口を開くのを見守った。そして少ししてから、清香がまだ迷いを内包した様な口調で話し出す。
「その……、これまで司書として採用試験を受けた所が、悉く不採用だったの」
「そうか。でも元々採用枠が少ないだろう? 特に地方公務員だと、採用に関して色々あるだろうし」
思わず慰める言葉を発した浩一だったが、清香は益々心苦しそうに続けた。
「それで……、実はお兄ちゃんに言われて柏木産業の採用試験も受けてて、先月内定を貰ったの。報告が遅れたけど」
「それはおめでとう。と手放しで喜びたい所だけど、そんな雰囲気じゃ無いね? 俺達には知らせてくれなかったし」
「だって……、司書の採用試験を悉く落ちたのに、超人気企業の柏木産業に採用が決まるなんて、露骨な縁故採用みたいで……」
そこで益々落ち込んだ様に俯いた清香に、浩一は心配そうに声をかけた。
「清人には相談しなかったの?」
「それが……、一応言ってみたんだけど、『入らせてくれるなら入っとけ、気に入らなければ入らなければ良いだろう』って」
「ごめん、忘れてた……。あいつ、柏木産業の内定を派手に蹴っ飛ばした奴だしな。こういう相談には不向きか」
「うん……」
(なるほどね。さて……、これはどうしたものかな?)
どうやらこのまま柏木産業に入社して良いものかどうか、一人で色々悩み過ぎて袋小路に入り込んでしまったらしいと見当をつけた浩一は、自分自身でも覚えがあるだけに内心考え込んだ。そして一口紅茶を飲んで口を湿らせてからカップをテーブルに置き、清香を見据えながらゆっくりと口を開く。
「清香ちゃん、一つ聞いても良い?」
「何ですか?」
思わず顔を上げて自分を見つめてきた清香に、浩一は真剣な口調で問いかけた。
「柏木産業を受けたのは、清人に言われたから? 他にも理由はある?」
「えっと、直接的にはお兄ちゃんに言われた事だけど、真澄さんの話が頭にあったからなの」
「どんな話?」
「真澄さんの就職が決まった頃、総合商社の位置付けが分からなくて聞いてみたの。そうしたら『人と人とを繋ぐ、とてもやりがいのある仕事よ』って、小学生だった私に懇切丁寧に説明してくれて。正直良く分からなかった所が多かったけど、真澄さんが凄い楽しそうな笑顔で話してくれたから、子供心に『素敵なお仕事なんだ』ってインプットされてて。だから私にもできる事があったらやってみたいなって思ったの」
それを聞いた浩一は、思わず口元を押さえて笑いを堪えながら納得した。
「そうか。姉さんは昔から柏木産業に入るって、周囲に宣言してたからな」
「でも、そんないい加減な志望動機って、周りの人に失礼じゃない?」
心配そうにお伺いを立ててきた清香に対し、浩一は瞬時に真顔になって言い切る。
「そんな事は無いさ。少なくとも単に優良企業だから食いっぱぐれが無いとか考えて、応募する人間よりよっぽどマシだと思うね。清香ちゃんは柏木産業に愛着を持ってくれている訳だから」
「……そういう人を知っているの?」
幾分険しい表情になった浩一に驚きつつ清香が尋ねてみたが、浩一は肯定も否定もしないまま、曖昧な笑顔で再びカップを口に含んだ。そして清香は不自然に会話が途切れてしまった為、どうしようかと悩んだが、無言のまま浩一が目線で話の続きを促してきた為、恐る恐る問いを発する。
「それで……、入社するかしないかもそうなんだけど、真澄さんも浩一さんも社内では社長の子供って知られてて、色々やりにくくないのかなって。聡さんは社内では、おじ様の旧姓を名乗っているし」
(なるほど、清香ちゃんにしたらそれも気になるか……。就職したら、清香ちゃんも遅かれ早かれ社長の姪で、会長の孫だとバレるだろうしな。俺達は最初から割り切っていたが)
そこで浩一は素早く考えを巡らせてから、順序立てて自分の考えを話し出した。
「聡君の事情は知らないが、周りから色眼鏡で見られるのは、俺は寧ろ望む所だったな」
「え? ど、どうして?」
当惑した声を上げた清香に、浩一は小さく肩を竦めた。
「俺は自分が創造的な仕事には向かないタイプだと昔から思っていたから、就職するならサラリーマンになるだろうなと漠然と思っていたけど、流石に就職先を選ぶ時は色々考えたよ? 柏木産業に入って当然、的な周囲の考え方には反発もしたし」
「そうだよね?」
思わずといった感じで清香が頷いて見せたが、ここで浩一は苦笑いした。
「だけど逆に考えてもみたんだ。仮に柏木産業以外の企業に就職してもそこそこ業績を出す自信はあったけど、家の名前を全く消す訳にはいかないし、多少は色眼鏡で見られるのは仕方無いって」
「やっぱりそうかな?」
「だからいっそのこと縁故採用贔屓判定満載の所で、周囲が文句なく評価できる業績を上げれば、その時本当の意味で自分を認めさせる事ができるんじゃないかと思っただけだよ」
サラッと気負いなく言われた内容に、清香は一瞬呆気に取られ、次に疑い深そうに問いかけた。
「浩一さんって……、実は結構な自信家だったの?」
「自信家と言うよりは、開き直りかな? そのつもりで入社以来頑張ってきたよ? 周囲のおっさん連中がウザいのは、相変わらずだけど」
「浩一さんに仕事の事を聞いたのは初めてだけど……、仕事中は人が違うみたい」
清香が思わず本音を述べると、浩一はこれ以上はない位真剣な表情で断言した。
「それは当然。とても可愛い清香ちゃんを相手にするのと、全然可愛くない親父連中を相手にするのとは、自ずと対応は異なるさ」
「それが社会人って事?」
「そうだね。だから柏木産業をもっと大きくして、人の役に立つ仕事をしたいと真面目に考えている姉さんと比べると、自分を正当に評価して貰うために柏木産業を利用していると言える俺は、相当不真面目な社員だと思うよ?」
「そんな事ないから! 浩一さんはそんな偏見なんか気にしないで、ちゃんと成績を出してるんでしょう?」
「まあね。だけど感慨深いね。清香ちゃんとこういう仕事の話をする様になるなんて」
そこで立ち上がってコーヒーテーブルを回り込んだ浩一は、清香の隣に座って手を伸ばし右手で彼女の左手を軽く握った。そして僅かに厳しい表情で彼女に言い聞かせる。
「俺が言えるのは、父も祖父も一見伯父馬鹿爺馬鹿だけど、社内の規律を個人の感情で容易く曲げる様な甘い人では無いと言う事だ。どちらも自分の仕事と柏木産業に対する誇りを持ってる人達だから、清香ちゃんの採用を人事にねじ込んだと頭から疑うのは二人に失礼だからね?」
「……うん」
「それに、清人に頼んで清香ちゃんの成績は逐一見せて貰っていたけど、立派なものだったよ? 比較する清人が《あれ》だったから、自分では大した事無いと思ってるみたいだけど。充分採用範囲内だ」
そんな事を断言してきた浩一に、清香は嬉しさ以上にうんざりとした気持ちが勝った。
「どうして私の成績を把握してるんですか……」
「ごめん。清人が甘やかしてないか、少し心配で。ほら、あいつ兄馬鹿全開だから、厳しく教えたりできないなら、俺が家庭教師をしようかと思って」
苦笑しながら弁解してきた浩一に、清香は諦めの溜め息を吐いて感想を述べる。
「浩一さんも、充分兄馬鹿っぽいです」
「はは、そうかもね。とにかく、働くって事は楽しい事より嫌な事の方が多いものだよ。それが最初からちょっと多目になるってだけの話で、後から酷くなるより良いかもしれない」
「物は言いようですね」
思わず苦笑してしまった清香に笑い返しながら、浩一は冷静に言い聞かせた。
「当初目指していたものとは違うから、何をすれば良いのか分からなくて戸惑うかもしれないけど、清香ちゃんは自分がやりたい事、やらなければいけない事はすぐ見つけられる人間だと思うから大丈夫だよ。俺が保証する。柏木産業に来てくれるなら、歓迎するよ?」
「ありがとう、浩一さん」
「だけど卒業まで半年弱、就職が決まったからと言って自堕落な生活はしないで、成績も落とさない事。分かったね?」
「はい。卒業まで頑張ります!」
甘やかす様に言った直後にすぐ顔付きを改めて釘を刺してきた浩一に、清香も真顔になって姿勢を正しつつ力強く頷いた。そして記憶に残っている小さな手とは違い過ぎる清香の手を再度軽く握りしめた浩一は、空いている左手で彼女の頭を撫でながら、目元を緩めて穏やかに微笑む。
「宜しい。とても素敵なレディになったね、清香ちゃん」
「う、うぇ?」
いきなり予想外の行為をされた上、至近距離で見慣れない浩一の顔と相対する事になった清香は、内心激しく動揺した。
(ちょ、ちょっと! 眼鏡をかけていない顔が珍しいからって、どうして浩一さんにドキドキしてるのよ私! 頭を撫でられるなんて丸っきり子供扱いだし、こんな事位聡さんにだってされてるのに!!)
そんな清香の内心など気が付かないまま、浩一はしみじみと述べた。
「これからもっと素敵な女性になれるよ? 聡君に渡すのが、本当に勿体無いな」
「やっぱり兄馬鹿……」
思わず零した清香の台詞に浩一は苦笑いし、近々清香の就職祝いの席を設ける約束をして、話を締めくくった。
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