世界が色付くまで

篠原 皐月

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第39話 思いがけない話

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 帰宅して忙しく夕飯の支度をしていた時、携帯電話の呼び出し音が鳴り響いた為、恭子は(こんな時間帯に、一体誰?)と苛つきながら火を消してリビングへと移動した。そしてディスプレイに浮かび上がった発信者名を見て、一気に気分が下降する。しかしすぐに気を取り直し、普段通りの声で応答した。

「はい、もしもし?」
「俺だ」
「そんな事は分かっています。今調理中なんです。人の生き死にに係わる事以外なら、申し訳ありませんが後にして下さい!」
 相手もいつも通りの横柄な口調で短く告げてきた為、苛立った恭子は軽く叱りつけた。しかし清人は唐突に、淡々とした口調で続けた。

「一応、人の生き死にに、関係ない事も無い」
「はあ、そうでございますか。それはそれは」
「実は今日、浩一が会社で馬鹿女に切りつけられた」
「ああ、そうで……、は? 何ですかそれは!? 先生ならともかく、どうして浩一さんが襲われるんですか? ありえません!」
 一瞬素直に頷きかけてから慌てて問い掛けてきた恭子に、電話の向こうで清人が溜め息を吐く。

「……お前は、もっと他の感想は無いのか」
 妙にしみじみとした口調で零してから、気を取り直したらしい清人は冷静に話を続けた。

「まあ、いい。それで怪我自体は大した事は無いんだが、浩一の機嫌がすこぶる悪い状態で帰る筈だ。俺が真澄の代理に就任すると分かった時の比じゃない、最悪レベルだ」
「……それで?」
「対応を誤るな。下手したら血を見るぞ。忠告はしたからな。あとは自力で何とかしろ。それじゃあな」
「あ、ちょっと!?」
 言うだけ言っていきなり電源を切ったらしい清人に、恭子は手に持っていた携帯を握り締め、低い声で呻いた。

「あのど腐れ野郎……、だから何をどうすれば良いってのよ?」
 しかし詳しい状況が分からないうちは、考えていても仕方が無いと割り切り、恭子は取り敢えず夕飯の支度を進めた。そして作り終えた恭子が、廊下の収納スペースの整理をしていると、静かにドアが開いて浩一が姿を現す。
 いつもなら浩一の方から声をかけてくる筈が、自分とチラッと視線を合わせても黙って玄関で靴を脱いでいる為、恭子は恐る恐る声をかけてみた。

「……お帰りなさい」
「ああ。ただいま」
 背中を向けたままの挨拶に、恭子ははっきりと異常を感じ取った。それ以上にスーツの左腕の状態に、顔を引き攣らせる。
「あの……、浩一さん? 袖が切れているみたいですが……」
 それを耳にした浩一は、ゆっくり無表情で振り返った。

「気になる?」
「一応、それなりに」
「……それなら先に、着替えて来る」
 ボソッと呟き、鞄を持って自室へと向かった浩一を見送った恭子は、壁に手を付いて溜め息を吐いた。

(緊張した……。表情はそんな怒っている様に見えないのに、醸し出す空気が殺伐としてるんだもの。一体何なの? 第一、あの性悪男、わざわざ電話してくるなら、もっと必要な予備知識を教えなさいよ!?)
 清人に対し、心の中でそんな八つ当たりをしながら二人分の食事の支度を済ませた恭子は、着替えてミニボトル片手に戻ってきた浩一と共に食べ始めた。

「いただきます」
 しかし挨拶こそ普通だったが、食べ始めた途端に食卓を重苦しい沈黙が漂う。

(やっぱりおかしい……。普段の浩一さんなら、例え体調が良くなかったとしても、人を不愉快にさせたり気まずい思いをさせたりしない様に、気配りする筈だもの)
「浩一さん?」
「何?」
「今日の料理はどうですか?」
「美味い」
「……ありがとうございます」
 取り敢えず話しかけてはみたものの、一言で会話を強制終了させられてしまい、恭子は早くも挫けかけた。しかし再度会話を試みる。

「その……、あのスーツの袖からすると、怪我されましたよね」
「ああ」
「どの程度の怪我なんですか?」
「十針近く縫った」
「……痛みません?」
「痛み止めは飲んでる」
「そうですか……」
(駄目だわ。会話の糸口すら掴めない……)
 恭子は思わず項垂れたが、ふと浩一がリビングに持ってきたミニボトルが気になった。

「えっと、浩一さん。あのボトルは帰り道で買って来たんですか? どうせなら、大きい物を買ってくれば良かったんじゃありません?」
 そこで浩一は帰宅して初めて、その顔に笑みらしき物を浮かべた。

「その方が経済的だから?」
「……貧乏性ですみません」
 思わず謝ってしまった恭子に、浩一は素っ気なく告げる。

「別に構わないし、これは職場で清人から貰って来た」
「そうでしたか」
(って、ちょっと待って! 職場に何持ち込んでんのよ、あの男。しかも怪我人に酒を飲ませて良いと思ってるわけ!?)
 ムカつきながらもここで声を荒げたら浩一の機嫌を損ねる事は分かりきっていた恭子は、溜め息を吐きたいのを我慢して食べ続けた。しかし食べ終えた浩一が立ち上がり、早速話題になったボトルに手を伸ばした為、恭子は慌てて声をかけた。

「浩一さん! 今珈琲を淹れますから、ちょっとだけ待ってて下さいね!? 真澄さんから美味しい珈琲豆を貰ったんです! お酒を飲んで、味覚を低下させちゃ駄目ですから!!」
「……ああ」
 真澄から貰った云々の件は口からでまかせだったのだが、叫ぶ様なその声を聞いた浩一は、取り敢えず素直にボトルから手を離し、大人しく出来上がりを待つ態勢になった。それに安堵しつつ大至急二人分の珈琲を淹れた恭子が、リビングのソファーに座っていた浩一にマグカップを渡し、自分もカップ片手に座る。
 そして珈琲を飲みながらさり気なく浩一の様子を窺うと、無表情で何口か珈琲を飲んだ浩一は、軽く眉を顰めてテーブルにカップを置いた。そして恭子が止める間もなくボトルを開封し、カップの中にダラダラと琥珀色の液体を注ぎ込む。

「浩一さん! 何してるんですか!?」
「何って……、ゲーリック・コーヒーにしただけ」
 面白く無さそうに答えてゴクゴクとカップの中身を飲み始めた浩一に、恭子は完全に顔色を変えた。

(確かにスコッチ・ウイスキーだけど、作り方は全然違うから! 駄目だわ。今日の浩一さん、下手したら買い置きしてるアルコールを全部一気飲みしかねない。どうしてこんな状態になってるのかしら?)
「その……、浩一さん?」
「何?」
「腕を切られたとお伺いしましたが、どうしてそんな事になったんですか? 犯人は知り合いですか?」
(目一杯プライベートで、詮索したら益々機嫌が悪くなるかもしれないけど、原因が分からないと対応策を練りようがないものね)
 密かにそう気合いを入れて尋ねた恭子に、浩一は薄く笑って答えた。

「……ああ、以前からの知り合いだよ? 皆川宏美って言う女で、俺のせいで破談になったと刃物持参で柏木産業に乗り込んできた。誰がどう見たって馬鹿だよな」
「皆川……」
(あら? その名前って、以前どこかで……)
 くつくつと笑い出した浩一を眺めながら、恭子はすぐに記憶の中から該当する名前を探し当てた。

「その方って、確か浩一さんが何年も素行調査させていた方でしたね。そう言えば報告書に婚約の件もかかれていたと思いましたが、それが駄目になったんですか」
「みたいだね」
 そこで鼻で笑った浩一を見て、恭子は事の真相を悟った。

「浩一さんが駄目にしたんですね」
 断言してきた恭子に、浩一は笑いを収めて静かに問い返した。
「……どうしてそう思う」
「直感ですが、外れてはいないと思います。あの報告書に記載されていた人達は、以前、浩一さんに何をしたんですか?」
 真剣な顔付きになった恭子が問いただすと、浩一は中身が少なくなったカップに、再びウイスキーを注いだ。

(もう既に珈琲じゃなくて、珈琲風味のウイスキーよね。いい加減に止めさせないと。この前は聞かずに済ませておいたけど、今日はそういう訳にはいかないわよ)
 内心かなり焦り始めた恭子に対し、浩一は静かに口を開いた。

「大学二年の時、偶々参加したコンパで一服盛られた」
「盛られたって……、薬、ですか?」
 無言で軽く頷いただけで、浩一は話を続けた。

「違法ドラッグの類だったと思う。それで気分が悪くなった俺をトイレに連れて行くふりをして店から連れ出して、同じビルの別な部屋に、仲間と一緒に引っ張り込んだ」
「それが、あの報告書の面々ですか?」
「ああ、男女合わせて九人。親の金で遊びまくってる学生や、女に貢がせてる屑ばかりでね。俺を脅すネタを握れば、小遣いに困らないと思ったらしい」
 そこで口を閉ざして自嘲気味に笑った浩一に、恭子は少しだけ逡巡してから話の続きを促した。

「それで? そこで何があったんですか?」
 途端に浩一から怒りを内包した眼差しを受ける羽目になった恭子は、無意識に膝の上で両手を組んだ。それには気付かなかった様に、浩一が淡々と状況説明をした。

「連中に力付くで押さえ込まれて、追加の薬を飲まされて、服を全部剥ぎ取られた挙げ句に、頭痛と吐き気が襲ってくる中、半ば強引にセックスさせられて、その一部始終を撮られてた」
「浩一さん!?」
 あまりの予想外の内容を聞かされ、恭子は思わず顔色を変えて叫んだが、浩一は平然と話を続けた。

「不幸中の幸い、一緒に参加してた清人が、会場から居なくなった俺を探して、その最中に見つけ出してくれた。乱入して乱闘の末、全員叩きのめしたらしい」
「らしい、って……」
「意識が朦朧としてて記憶も定かじゃ無いから、清人からの又聞きだ。当時所属していたサークルの先輩達に頼んで、こっそり俺を運び出した一方、俺の代役を立てて会場に戻ってアリバイ工作をした上で、部屋に時間差で火を付けつつ、違法ドラッグの売買とそれを使った乱交パーティーをやってると警察にたれ込んだそうだ。勿論俺や清人の痕跡は消してあったから、捕まった連中は俺への投薬行為とそのせいでの清人からの暴行を訴えたが、清人と俺の代役の葛西先輩がしらを切り通して、単なる言いがかりで無関係となった」
 そこで話の中身に引っ掛かりを覚えた恭子が、思わず口を挟んだ。

「代役って、真澄さんの披露宴の時にお会いした葛西さんでしたか。確かに感じは似ていますが……、どうして葛西さんが白を切り通すんですか? 何回も聞かれたっぽい言い回しですけど、当日以外なら浩一さんが直接無関係と、突っぱねれば済む話ですよね?」
 その問いに、浩一はピクリと肩を震わせてから、再び静かに話し出した。

「二週間近く入院していたのを、周囲に悟られない様にしていたから」
「二週間……、そんな変な薬を飲まされたんですか?」
 怒りと気遣いがない交ぜになった恭子の視線を受けた浩一は、軽く首を振った。

「薬自体の効果は、翌日には完全に消えた。ただ後遺症が残ったから、最低限落ち着くまで、病室から出られなかった」
「その後遺症って、厄介な物なんですか?」
 何気なく尋ねてしまった恭子だったが、次の瞬間それを激しく後悔した。

「確かに厄介だったな……。女性の医師や看護師さんに処置して貰えなくなったし、二人ほど殴り倒してしまったからな。落ち着いてから謝罪したけど」
「それって……」
 聡過ぎる恭子は、その台詞だけでおおよその事情を悟り、思わず絶句した。そして緊張のせいか、掠れ気味の声で問いを重ねる。

「それは今もあるんですか?」
「相手による」
「と、言いますと?」
「仕事上、真面目な女性社員と偶々ぶつかったり触ったりとかなら、全く支障はない。ただ、職場で色目を使ってくる様な雌犬が視界に入ると、あの女共を思い出して、今でも吐き気がする。……俺の身体を寄ってたかって、撫で回して舐め回して好き放題いたぶりやがって。それで俺を馬鹿にして、せせら笑っていた声が、微かに記憶に残ってる……」
 そこ浩一はで片手で顔を覆って何やら呻いたが、一通り聞いた恭子は一人納得した。

(そうよね。真澄さんや清香ちゃんとは普通に手を繋いだり腕を組んでたし、私とはあのゲームとかでも散々身体を触ったり触られたりしてたもの。それにこの前のボウリング大会の時も、藤宮さんに肩を掴まれて何か話し込んでたし。要はお互いに男女扱いしてない関係なら、平気になっているって事か。でも未だに女性から迫られたり、性行為を感じさせる行為は駄目っぽいと)
 そこまで考えた恭子は、顔を隠して無言を貫いている浩一を観察しながら、真剣に考え込んだ。

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