世界が色付くまで

篠原 皐月

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第35話 密かな加勢

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(さて、そうなると最後の先生の投球で結果が決まるわけだけど……、一投目からストライクを出されたらお終いだし。何とか先生の集中力を削げないかしら?)
 そんな事を考えながら清人の様子を窺っていると、相変わらず飄々とした立ち居振る舞いが、この時妙に癪に触った。

(余裕綽々でムカつくわね……。ようし、こうなったら最後の手段。真澄さん、ごめんなさい! 先にこっそり謝っておきます!)
 そこで決意した恭子は、半ば捨て身の行動に出た。

「真澄さん、お茶が無くなってますが、お代わりはどうですか?」
「そうね、貰えるかしら」
 そして受け取った紙コップに保温ポットからお茶を注ぎ、恭子は真澄へと差し出した。しかし真澄がしっかり受け取る直前に、わざと早目に手を離す。

「はい、どうぞ」
「ありが……、きゃあっ!」
 当然掴み損ねたコップは真澄の手から取り落とされ、真澄の膝にぶつかってから床に落下して中身の殆どを床に零した。それで思わず真澄が悲鳴を上げたが、ちょうど投球フォームに入っていた清人がそれを耳にして微妙に狙いを外し、投げ終わると同時に血相を変えて背後を振り返る。

「真澄、どうした!?」
 慌てて駆け寄った清人達の前で、恭子が素早くバッグから取り出したタオルで真澄の足にかけていたひざ掛けや、スカートを拭き始めていた。

「すみません、真澄さん。熱くありませんか?」
「大丈夫よ。ぬるくなってきていたし、大部分は床にこぼれたもの」
「……何をやっている」
 頭上から降ってきた冷え切った声に恭子は正直怖気づいたが、勇気を振り絞って普通の表情を装って清人を見上げ、謝罪した。

「申し訳ありません。真澄さんに紙コップを手渡そうとして、膝に落としてしまいました」
「ちょっと膝にかかったけど、すぐ床に落ちてそっちに零れたから大丈夫。心配要らないわ」
「そうか。それなら良いが……」
 真澄が取りなし、恭子が後始末を再開すると、多少納得しかねる声で清人が呟いたが、背後からその肩を叩きつつ、安堵した様に浩一が声をかけてきた。

「大した事が無くって良かった。ほら、清人。まだ終わってないから、気を取り直して投げてくれ」
「……ああ」
 最後に軽く恭子を睨んでから清人が戻って行くと、ちょうどその時目を合わせてしまった恭子は密かに冷や汗を流した。

(う……、先生の視線が険しい。確かにちょっとわざとらしかったから、バレたかしら?)
 そしてしゃがんで後片付けをしながら、無言で考えを巡らす。

(次で全部倒せばスペアだから、本音を言えばもう一度邪魔したいけど……。そんな事したらさすがにバレて、問答無用で売り飛ばされそうだものね)
 縦に二本残り、倒すのが容易そうなピンを見ながら恭子が残念そうに溜め息を吐いた時、突然頭上で呻き声が生じた。

「……っ! いたたたたっ!」
「真澄さん!? どうかしましたか?」
「……え?」
 腹部を抱える様にして顔を歪めていた真澄を認めた恭子は、思わず立ち上がって大声を出してしまったが、それは待機していた浩一達は勿論、投球フォームに入っていた清人の耳にも届き、再び投げた直後に慌てて振り返った。そして明らかにコースがずれてしまったボールが、ピンをかすりもせずに真ん中の空いている空間を通って奥へと吸い込まれる。しかしそこのグループは誰一人としてその結果を見届けずに、真澄の元に駆け寄った。

「姉さん、大丈夫か!?」
「課長、救急車を呼びますか?」
「ちょっとあんた、課長に何したのよ!?」
「いえ、何もしてませんから!」
「あ~、ちょっと予定日より早いけど、一気に陣痛が来ちゃった、かも。いたたたっ!」
 周囲を落ち着かせる様に苦笑いした真澄だったが、恭子は難しい顔で考え込んだ。

「そんなに急に痛み出すっていうのも……、もしかして、少し前から軽い痛みがありませんでした?」
「う~ん、一時間前からちょっとシクシクし始めたかしら? はっきりとした痛みは二十分位だけど、その時は大した事無くて生理痛程痛くも無かったし」
 考えながら真澄が述べたが、ここに最後にやって来た清人の怒声が重なった。

「どうしてその時点で、すぐに言わないんだ!」
「だって、また胎動で痛くなってる位かなと思ってて」
「初産ですし、陣痛がどんな物かなんて、はっきり分かりませんよ。怒鳴りつけないで下さい」
 清人にしっかり文句を付けてから、恭子は真澄に体調を尋ねた。

「取り敢えず、痛みは落ち着いてきました?」
「ええ、さっきよりは楽になったみたい」
「間隔はまだ十分ありますし、痛みも波がありますから暫くは大丈夫な筈です。待機している車を呼んで、今からかかりつけの病院に行きましょう。連絡をお願いします」
「分かったわ」
「俺が連れて行く。しっかり掴まれ」
 落ち着き払った二人の会話に清人が割り込み、真澄を抱え上げようと膝を折って屈んだ。そして真澄の背中と膝の裏に腕を回しながら、恭子に囁く。

「お前も荷物を持って付いて来い。お前だけ残ったら、何をしに来たのかと思われる」
「分かりました」
(本当に私、何の為に呼ばれたのかしら?)
 心底不思議に思いながらもそれは面には出さず、荷物を纏めたレジャーバッグを持って恭子は立ち上がった。そして真澄を抱き上げた清人が、周囲に先に引き上げる旨を告げている間に、浩一が側に寄って来て素早く囁く。

「ごめん、俺は一応最後まで参加してから抜けるから、どこか近くの店に入って時間を潰して貰えるかな? 一緒に帰ろう」
「分かりました。じゃあ適当な所に入って、場所をメールで送りますね」
「ああ、宜しく」
 そんなやり取りをしてから恭子は清人達と共に一階まで下りた。そして清人が待ち構えていた柴崎によって開けられた後部座席に真澄を座らせるとドアを閉め、自分は車道側から乗り込むべく柴崎に指示を出しながら一緒に車の後方をぐるりと回る。その隙に真澄が無言で手招きした為、恭子が(何事?)と思いつつ上半身を屈めて顔を寄せると、真澄は開けた窓越しに小声で告げた。

「あれ、わざと早く手を離したのよね?」
「え?」
「浩一の味方をしてくれてありがとう。嬉しかったわ。清人には内緒にしておくわね?」
「…………」
 軽く驚いた恭子が車から体を少し離すと、真澄はニコニコしながら手を振って窓を閉めた。そしてそのまま静かに走り出したリムジンを見送った恭子は、それが完全に見えなくなってから、ひとりごちる。

「……そんなに、分かり易かったかしら?」
 軽くショックを受けた表情になった恭子は、深い溜め息を吐きながら、時間を潰す場所を求めて歩き出した。
 そして恭子がとある喫茶店に落ち着き、現在位置をメール送信してから約三十後、浩一が来店して恭子のテーブルにやって来た。そして手早く珈琲を注文して、恭子と向かい合って座る。

「待たせて悪かったね。一応、最後の表彰式まで出て来たから」
「大丈夫です。でも会場で小耳に挟みましたが、この後に懇親会があるんですよね? そちらには出なくても良かったんですか?」
「そこまで付き合う義理は無いから。結構神経をすり減らしたから、煩わしい事から早く解放されたい」
「そうですか」
(そうね。先生と真澄さんが一緒に居たら、ゲームする他にも余計に神経をすり減らすわよね)
 そんな事をしみじみと考えてしまった恭子は軽く浩一に同情し、自然に申し出た。

「今日は本当にお疲れ様でした。今日はこのままどこかで食べて行きませんか? 浩一さんからコーチ料としてたくさん頂いたので、今日は私が払いますから」
 その言葉に、浩一は軽く首を振った。

「食事の代金は俺が出すよ。そのお金は清人への借金返済に充てれば良い」
「それは考えたんですが……。お金の出所が先生を負かす為のコーチ料と知れたら、先生からどんな報復措置を受けるか分かりませんから」
「……確かにそうだな」
 真顔で告げた恭子の主張を、浩一は些かうんざりした表情で肯定した。そこで運ばれてきた珈琲を一口飲んでから、浩一はジャケットのポケットから白い封筒を取り出し、恭子の前に置いた。

「恭子さん、これを貰って」
「何ですか?」
「今日の優勝商品。旅行ギフト券五万円分」
 中身を聞いて、素直に手を出して確認しかけた恭子の動きが止まり、浩一に言い返した。

「豪勢ですね。でもちゃんとコーチ料は頂きましたし、私が貰う筋合いの物ではありませんよ? 浩一さんが使えば良いじゃないですか」
「わざとだろう? 姉さんの膝にお茶を零したの。恭子さんがそんな粗相をする筈がない」
 苦笑気味にサラッと断言された内容に、カップを口元に運ぼうとしていた恭子の手の動きが止まった。そして静かにソーサーにカップを置いてから、控え目に反論してみせる。

「……私だって、偶にはつまらないミスをしますよ?」
「しないよ。清人と姉さんの前でなんて。あれで清人がミスして、敵失で俺が優勝してしまったから、結果的に恭子さんが勝たせてくれた事になる」
「ですから、それは単なる偶然です」
「そう言う事にしていて良いよ。それでも清人より俺の肩を持ってくれたみたいで嬉しかったから、是非受け取って欲しいな」
 そんな事を言われながら真っ正面から苦笑混じりの笑みを見せられた恭子は、居心地悪そうに少し身じろぎしてから、弁解しつつ心配そうに浩一に尋ねた。

「その……、あまり先生が余裕綽々なので、藤宮さんの台詞じゃありませんが、ちょっとぎゃふんと言わせたくなったもので。……先生にもお見通しだったでしょうか?」
 そんな懸念を、浩一はあっさりと受け流す。

「五分五分ってところかな? でも子供が産まれたら、そんな事綺麗さっぱり忘れるさ。そう心配しなくても良いだろう」
「……それもそうですね。真澄さん以上に、子供をベタ可愛がりしそうですし」
 それで納得した恭子は漸く安堵して再びカップを手に取った。そして一口飲んでカップを戻したところで、改めて浩一が件の封筒を更に恭子の方に押しやりつつ改めて申し出る。

「そういう訳だから、感謝の気持ちとして受け取ってくれると嬉しい」
「分かりました。それではありがたく頂きます」
 いつまでも固辞するのは却って浩一に失礼かと思った恭子は、会釈して封筒を取り上げてバッグにしまい込んだ。それを見た浩一がほっとした表情を見せる中、恭子が考えを巡らせる。

「どうしようかしら……。せっかくだから換金しないで、どこか温泉にでも行こうかな?」
「好きな所に行って来たら良いよ。仕事もなかなか大変みたいだし、少しのんびりしてきたら?」
「どうせなら浩一さんも一緒に行きません? 元々は浩一さんが貰った物ですし」
 何気なく恭子が口にした内容に、カップに伸ばしていた手を止めた浩一が無言で固まる。それを恭子は、怪訝な顔で見やった。

「浩一さん?」
 不思議そうに声をかけられて我に返った浩一は、ゆっくりとカップを持ち上げながらそれに答えた。

「……ああ。日程が合えば、お付き合いするよ」
「よし、そうと決まれば、今日は思いっ切り食べますよ? 今日の殊勲賞は浩一さんなんですから、絶対私が支払いますからね!」
「分かった。遠慮無くご馳走になろうか」
 力強く宣言した恭子に苦笑するしか無かった浩一は素直に頷き、軽く行き先を相談してから、二人連れ立ってその店を出た。
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