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第7話 新生活
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人という存在は、普通であれば驚愕した時、思わず声を上げるものだが、あまり驚き過ぎると逆に言葉が出なくなるという事を、その時、浩一は実感した。
「あ、いらっしゃい、浩一さん。お待ちしていました」
「…………どうも」
貰った合鍵で一階のエントランスを抜けたものの、さすがに前触れ無しにいきなり入室するのは初対面の相手に対して失礼だろうと、玄関のインターフォンのボタンを押して中からの応答を待った浩一だったが、ドアを開けてくれた相手が、予想だにしていなかった人物だった為、思考が殆ど停止した。
「……川島さん?」
「はい、何ですか?」
「留守番を、頼まれているんですか?」
「こちらに住んでいますが?」
心中で狼狽しながらも、なんとか言葉を絞り出した浩一だったが、それとは対照的に恭子が平然と答える。そして固まっている浩一を、不思議そうに小首を傾げて観察した恭子は、すぐにその理由を推察した。
「ひょっとして……、同居相手が私だと、先生から聞いていませんでしたか?」
「ええ」
「全く……、人をからかうのが好きな、根性悪で困ったものですね。こんな所で立ち話も何ですから、取り敢えず中に入って下さい」
「あ、ああ……、そうだね」
呆れ果てた顔付きの恭子に促されて、つい素直に玄関に入り、靴を脱いだ所で我に返った浩一は、慌てながら恭子に問いかけた。
「川島さん! ちょっと待った!」
「はい?」
廊下を奥に進もうとしていた恭子が振り返り、怪訝な視線を向けてきたが、浩一はそのままの勢いでまくし立てる。
「あなたはこの件について、清人から何て聞いて、何と答えているんですか!?」
「は? 何て、って……、単に『浩一を外で生活させる事になったから、適当に面倒を見て宜しくやってくれ』と言われたので、『はい、分かりました』と答えましたが?」
平然とそんな事を言われた浩一は、思わず廊下にうずくまりたくなったが、気力を振り絞って質問を続けた。
「その……、色々問題がある様な気がするんですが」
しかし恭子は平然と、浩一の懸念を否定してくる。
「問題ですか? 私は今、固定収入に加えて副収入もありますので、生活費は出せますよ?」
「そうじゃなくて。その……、一応、世間体的な物がですね……」
勢いを抑え、言葉を濁してさり気なく確認を入れてみた浩一だったが、恭子の反応は変わらないままだった。
「私には、今更取り繕う必要がある、世間体とかは有りませんから。……あ、でも浩一さんはまずいですか? 女性と同居って言うのは」
「いや、俺は別に構いませんが……」
「だったら、問題ありませんよね? 先生は『浩一は紳士だから』と常々言っていますし。現に今まで一緒にお食事した時も、一度だってホテルに引っ張り込まれた事とかありませんから、そこら辺は信用していますけど?」
(俺の男としての立場は……、いや、この場合男扱いされていない事に、安堵するべきなのか? どちらにしても清人……、お前、絶対面白がってるだろう!?)
現状を再確認しているうちに、驚きが収まってふつふつと怒りがこみ上げてきた浩一に、ここで恭子が声をかけた。
「取り敢えず、詳しい話はリビングでお茶を飲みながらしませんか? 今、紅茶を淹れますので」
「あ、ああ、そうですね。じゃあこれをお土産に持ってきたので、どうぞ」
「ありがとうございます。あら、《クレージュスタ》ですね。ここのダックワーズ、美味しいんですよ。早速お茶菓子に出しますね?」
出がけに真澄に持たされた紙袋を、浩一が慌てて手渡すと、恭子は嬉しそうにいそいそとキッチンへ向かった。それを確認した浩一は、廊下を角を曲がって突き当たりまで進み、スマホを取り出して電話をかける。そして相手が何か言う前に、声を潜めながら叱りつけた。
「清人! 貴様、俺を騙しやがったな!?」
「何だ藪から棒に。カルシウム不足か? 真澄が甘い物を持たせた筈だが、煮干しでも持たせた方が良かったかもしれんな」
そう言って電話の向こうでカラカラと笑った親友兼義兄に対して、浩一は一瞬、本気で殺意を覚えた。
「ふざけるなっ! どうしてここに彼女が住んでる事を内緒にしてやがった!」
「内緒になんか、していないぞ? ちゃんと『知人に貸している』と言っただろうが。川島さんは見ず知らずの他人じゃないんだから、知人だろう?」
そのあまりにも白々しい物言いに、浩一の中で何かが切れる音がした。
「清人……。そういうのを世間一般では『詭弁』と言うんだが、知っているか? 常識的に考えて、男のルームメイトに女性って有り得ないだろう?」
「あいつは『普通の女』じゃないから、心配要らん」
「そういう問題じゃなくてだな!」
思わず浩一が声を荒げると、清人は呆れ気味の口調で言い出した。
「何だ、そんなに彼女と暮らすのが嫌なのか。それなら川島さんに電話を代われ」
「どうしてだ?」
「『浩一がお前と一緒に暮らすのが嫌だとだだをこねているから、こっちで引き取る』と言ってやるから。これで万事解決、一件落着だ」
満足そうな声音で断言した清人に、浩一が歯軋りを堪えながら呻く。
「清人、お前って奴は、どこまで悪辣なんだ……」
「何か文句でも有るのか? 要は『やっぱり無理だから家に帰るよ、お兄ちゃん』って泣きつく為に、電話してきたんだろう?」
「ふざけるな! 誰が帰るか!!」
明らかに冷やかす口調に浩一が本気で怒鳴りつけると、ここで唐突に電話の相手が変わった。
「……もしもし、浩一? もうマンションに着いたのよね?」
「姉さん!? あ、ああ。無事着いたけど……」
いきなり電話に出てきた真澄に狼狽しつつ、反射的にいつも通りの穏やかな口調を保った浩一だったが、続く台詞で一気に顔を強張らせた。
「ちゃんと恭子さんに挨拶をして、手土産を渡したわよね?」
「渡したけど……。姉さん、まさか……」
しっかりと確認を入れてきた姉に、浩一が半信半疑で問い返すと、真澄はあっさり彼の希望を打ち砕いた。
「あの店の商品、恭子さんが結構気に入っていたのよ。これからお世話になるんだから、喜んで貰える物が良いと思ってね」
「姉さん。やっぱり彼女がここに居るって知っ」
「どうしても恭子さんの方が、家事の負担が大きいと思うから、できる範囲でマメに手伝いなさいよ? それじゃあ応援してるから、色々頑張ってね!」
「あ、ちょっと姉さん! ……って、切れた」
上機嫌で言いたい事だけ言い、真澄が一方的に通話を終わらせてしまった事に、浩一はかなりの精神的ダメージを受け、壁に空いていた手を付いて項垂れた。
(姉さんと清人がグルだとすると……、まさかこの前の姉さんの話も、全て計算の上だったのか? 清人の奴、まさか洗いざらい姉さんに話したわけじゃ……。だめだ、もう誰も信用できない……)
そんな事を考えながら、浩一が軽い人間不信に陥っていると、キッチンの方から足音が近付き、恭子が当惑気味に声をかけてきた。
「浩一さん、お茶が入りましたけど、こちらでお電話中だったんですか?」
不思議そうなその声に、浩一は慌ててスマホをポケットにしまい込みながら振り返る。
「ちょうど今、終わったところです。すみません、こんな所に引っ込んでいて」
「いえ、構いませんよ? それより荷物が、後から届くんですよね。今のうちにお茶にしませんか?」
「そうですね。頂きます」
(とにかく、彼女は納得してるみたいだし、ここであくまで俺が拒否すれば、清人の奴が『じゃあ他の人間を同居させる』とか言い出しかねない。腹を括るしかないな)
前を歩く恭子に気付かれない程度の溜め息を吐き、浩一はリビングへと向かった。そしてソファーに差し向かいで座り、準備してあったカップに紅茶を注いでもらい、喉を潤す事にする。
そして幾つかの当たり障りのない会話をしながら紅茶を飲み、緊張感からか変な喉の渇きを覚えていた浩一が、人心地ついたらしいのを見計らって、恭子が徐に話しかけてきた。
「それで、浩一さん。先生からは、細かいルールは当事者同士で決めてくれと言われているんですが」
「ルールというと?」
「生活費の拠出割合とか、家事分担とか、その他諸々です」
真顔でそんな事を言われて、浩一も真剣な顔つきで頷いた。
「ああ、そうですね……。最低限寝室の掃除や洗濯は自分でするつもりでいますが、炊事はどうかな? ちょうど年度末にかかっていて、暫くは帰宅時間が読めないもので。じゃあ俺が朝食を担当しますか?」
「はぁ?」
そこでいきなり目を丸くして変な声を上げた恭子に、浩一が怪訝な顔を見せた。
「あの……、どうかしましたか?」
今の会話のどこに、そんなに驚愕させる要素があるのかと、浩一が尋ねると、恭子はまだ疑わしそうに確認を入れてくる。
「いえ、その……、浩一さん、お料理ができるんですか?」
「一応、簡単な物なら。……それが何か?」
「全くできないと思っていました」
「そんなに意外ですか?」
「はい。だって真澄さんが以前、私のアパートに来た時……」
「姉さんが何か?」
真剣な顔つきで話していたのに、急に言葉を途切れさせた恭子を不思議に思って浩一は尋ねたが、恭子は軽く首を振り、自分自身に言い聞かせる様に言葉を継いだ。
「今のは、聞かなかった事にして下さい。良く良く考えたらあれは五年以上前の話ですし、あれだけ努力家の真澄さんですもの。きっともの凄い勢いで、上達している筈です。ええ、そうですね。そうに決まっています」
(姉さん……、五年以上前に、彼女の前で何をやったんだ!?)
本気で頭を抱えたくなった浩一だったが、素早く立ち直った恭子が話を進めた。
「浩一さんが調理するのに問題は無いのは分かりましたが、実は私、最近職場にお弁当を持って行く事が多いんです。ですからやっぱり朝食を作りながら、お弁当を作りますので」
「確かにその方が合理的ですね」
「夕飯も、比較的定時で帰れるので、私が準備します。その代わり休日には、浩一さんが朝食を準備して頂けませんか?」
その申し出に、浩一は納得して頷いた。
「分かりました。じゃあそうさせて貰います。その代わり川島さんの負担が多い分、俺が生活費を多目に出します。取り敢えず毎月俺が三十万、川島さんが十万で、余った分は拠出割合と同じ三対一の割合で分け合うのはどうでしょうか?」
そう提案してみると、恭子は僅かに恐縮気味の声を出した。
「私は構いませんが……、本当にそれで宜しいんですか? 今、結構な額の固定収入があるので、もう少し出せますけど。こちらでは家賃はかかりませんし、先生から管理費として毎月五万貰っている位ですから」
「管理費で五万?」
そこで思わず口を挟んだ浩一に、恭子が不思議そうに尋ねる。
「はい、それが何か?」
「いえ……、何でもありません」
(重ね重ね、あの野郎……。俺からは家賃として毎月五万徴収しておいて、そのまま彼女へ支払う管理費にスライドさせてるな!?)
心中は苦々しい思いで一杯だった浩一だが、恭子の前で不機嫌な顔もできず、変に気を遣われるのも回避したい為、家賃云々については口を噤んだ。そして苛立たしさを誤魔化す様にカップの中身を一気に飲み干すと、心得た恭子がお代わりの有無を尋ねてくる。それに礼を言って再びカップを満たしてもらい、一口飲んで何とか気を落ち着かせてから、浩一はふと感じた疑問を口にした。
「さっき『職場』とか言ってましたし、清人からの給与の他に、出先での副収入があるんですか?」
「いえ、今先生のアシスタント業からは手を引いているので、取り敢えずそちらが主な収入源です。先生は近々休筆宣言をされる予定ですし」
「は? 休筆!?」
驚愕のあまり、思わずカップをソーサーに乱暴に戻しながら叫んだ浩一に、恭子もさすがに驚いた表情になった。
「え? これも聞いて無いんですか?」
「寝耳に水です! 一体何ですかそれはっ!?」
「あ、別に無職になるって訳じゃないですよ? 近々他に始める事がありまして。でもそう言えば……、『真澄を驚かせたいから、暫くは他言無用だ』と言っていましたね。それじゃあ浩一さんにも秘密なのは道理ですか……」
「それは分かっていますが! 姉さんが居るのに無職だなんて、たわけた事にならない位は! だけど妊婦を驚かせようなんて、何考えてるんだあのど阿呆がっ!?」
(落ち着け。落ち着け、俺。全くあいつは何をどこまで秘密にしておくつもりだ?)
一人で納得している恭子を見ながら、盛大に声を荒げてしまった浩一は、何とか気持ちを落ち着かせようと、再びカップを持ち上げて口元に持っていった。しかし口を付けたところで、恭子から再び予想外の台詞が飛び出す。
「それで私は今、三月一日付けで小笠原物産の営業部一課に配属になりまして、そこでOLをしている最中なんです」
それを聞いた瞬間紅茶を吹き出しかけた浩一は、それを懸命に堪えた結果、紅茶が変な所に入って盛大にむせた。
「ぐふっ、げはっ……、ふっ、うぐっ、かっ、川島さん!?」
「どうしたんですか? 急にむせたりして。大丈夫ですか?」
驚いて具合を尋ねてきた恭子に、浩一は盛大に噛み付いた。
「大丈夫じゃありません! どうしてあなたが、聡君と同じ部署勤務になっているんですか!」
「先生から、小笠原社長に貸し出されまして。社内の不穏分子の一掃する為のネタや証拠を掴んで欲しいと、社長から内密に依頼を受けたんです。ついでに不甲斐ない息子に、活を入れて欲しいとも言われまして」
淡々と恭子がそう述べると、浩一は自然に自分の顔が引き攣っているのを自覚した。
「……それで、いつもより収入が多いと?」
「はい。小笠原物産の所定の給与の他に、社長からの内偵手当と、聡さんをいびった時の様子を録音しておいて、動揺させられたら先生が一回につき一万を、特別手当として支給してくれますので」
そう言ってにっこりと笑った恭子を見て、浩一は我知らず呟く。
「……楽しそうですね」
「ええ、近年稀にみる楽しい職場です。先生からの無茶振り指令は無いし、イラッとしたら聡さんを苛めてお金が貰えるし。もう最近、寝付きも寝覚めも快調で」
「良かったですね……」
「はい。とっても」
(聡君……。清香ちゃんと付き合ってるのは多少……、いや、今でも結構気に食わないが、さすがに不憫だな。だが川島さんが気持ち良く過ごせているんだから、そんな事位どうでも良いか)
そう言って満足そうに微笑んだ恭子にそれ以上何も言わず、浩一は紅茶を飲む事に専念した。
「それで浩一さん。生活費は決まりましたが、掃除とかはどうしましょうか」
「各自の部屋は自分の責任で、共有部分は休みの日に分担しませんか?」
「それが妥当ですね。あとゴミ出しとかもして貰えます?」
「勿論。後から回収スケジュールを教えて下さい」
一瞬聡に同情したものの、浩一は薄情にもすぐにあっさりと彼を切り捨て、和やかに恭子と今後の生活についての話し合いを続けていった。
「あ、いらっしゃい、浩一さん。お待ちしていました」
「…………どうも」
貰った合鍵で一階のエントランスを抜けたものの、さすがに前触れ無しにいきなり入室するのは初対面の相手に対して失礼だろうと、玄関のインターフォンのボタンを押して中からの応答を待った浩一だったが、ドアを開けてくれた相手が、予想だにしていなかった人物だった為、思考が殆ど停止した。
「……川島さん?」
「はい、何ですか?」
「留守番を、頼まれているんですか?」
「こちらに住んでいますが?」
心中で狼狽しながらも、なんとか言葉を絞り出した浩一だったが、それとは対照的に恭子が平然と答える。そして固まっている浩一を、不思議そうに小首を傾げて観察した恭子は、すぐにその理由を推察した。
「ひょっとして……、同居相手が私だと、先生から聞いていませんでしたか?」
「ええ」
「全く……、人をからかうのが好きな、根性悪で困ったものですね。こんな所で立ち話も何ですから、取り敢えず中に入って下さい」
「あ、ああ……、そうだね」
呆れ果てた顔付きの恭子に促されて、つい素直に玄関に入り、靴を脱いだ所で我に返った浩一は、慌てながら恭子に問いかけた。
「川島さん! ちょっと待った!」
「はい?」
廊下を奥に進もうとしていた恭子が振り返り、怪訝な視線を向けてきたが、浩一はそのままの勢いでまくし立てる。
「あなたはこの件について、清人から何て聞いて、何と答えているんですか!?」
「は? 何て、って……、単に『浩一を外で生活させる事になったから、適当に面倒を見て宜しくやってくれ』と言われたので、『はい、分かりました』と答えましたが?」
平然とそんな事を言われた浩一は、思わず廊下にうずくまりたくなったが、気力を振り絞って質問を続けた。
「その……、色々問題がある様な気がするんですが」
しかし恭子は平然と、浩一の懸念を否定してくる。
「問題ですか? 私は今、固定収入に加えて副収入もありますので、生活費は出せますよ?」
「そうじゃなくて。その……、一応、世間体的な物がですね……」
勢いを抑え、言葉を濁してさり気なく確認を入れてみた浩一だったが、恭子の反応は変わらないままだった。
「私には、今更取り繕う必要がある、世間体とかは有りませんから。……あ、でも浩一さんはまずいですか? 女性と同居って言うのは」
「いや、俺は別に構いませんが……」
「だったら、問題ありませんよね? 先生は『浩一は紳士だから』と常々言っていますし。現に今まで一緒にお食事した時も、一度だってホテルに引っ張り込まれた事とかありませんから、そこら辺は信用していますけど?」
(俺の男としての立場は……、いや、この場合男扱いされていない事に、安堵するべきなのか? どちらにしても清人……、お前、絶対面白がってるだろう!?)
現状を再確認しているうちに、驚きが収まってふつふつと怒りがこみ上げてきた浩一に、ここで恭子が声をかけた。
「取り敢えず、詳しい話はリビングでお茶を飲みながらしませんか? 今、紅茶を淹れますので」
「あ、ああ、そうですね。じゃあこれをお土産に持ってきたので、どうぞ」
「ありがとうございます。あら、《クレージュスタ》ですね。ここのダックワーズ、美味しいんですよ。早速お茶菓子に出しますね?」
出がけに真澄に持たされた紙袋を、浩一が慌てて手渡すと、恭子は嬉しそうにいそいそとキッチンへ向かった。それを確認した浩一は、廊下を角を曲がって突き当たりまで進み、スマホを取り出して電話をかける。そして相手が何か言う前に、声を潜めながら叱りつけた。
「清人! 貴様、俺を騙しやがったな!?」
「何だ藪から棒に。カルシウム不足か? 真澄が甘い物を持たせた筈だが、煮干しでも持たせた方が良かったかもしれんな」
そう言って電話の向こうでカラカラと笑った親友兼義兄に対して、浩一は一瞬、本気で殺意を覚えた。
「ふざけるなっ! どうしてここに彼女が住んでる事を内緒にしてやがった!」
「内緒になんか、していないぞ? ちゃんと『知人に貸している』と言っただろうが。川島さんは見ず知らずの他人じゃないんだから、知人だろう?」
そのあまりにも白々しい物言いに、浩一の中で何かが切れる音がした。
「清人……。そういうのを世間一般では『詭弁』と言うんだが、知っているか? 常識的に考えて、男のルームメイトに女性って有り得ないだろう?」
「あいつは『普通の女』じゃないから、心配要らん」
「そういう問題じゃなくてだな!」
思わず浩一が声を荒げると、清人は呆れ気味の口調で言い出した。
「何だ、そんなに彼女と暮らすのが嫌なのか。それなら川島さんに電話を代われ」
「どうしてだ?」
「『浩一がお前と一緒に暮らすのが嫌だとだだをこねているから、こっちで引き取る』と言ってやるから。これで万事解決、一件落着だ」
満足そうな声音で断言した清人に、浩一が歯軋りを堪えながら呻く。
「清人、お前って奴は、どこまで悪辣なんだ……」
「何か文句でも有るのか? 要は『やっぱり無理だから家に帰るよ、お兄ちゃん』って泣きつく為に、電話してきたんだろう?」
「ふざけるな! 誰が帰るか!!」
明らかに冷やかす口調に浩一が本気で怒鳴りつけると、ここで唐突に電話の相手が変わった。
「……もしもし、浩一? もうマンションに着いたのよね?」
「姉さん!? あ、ああ。無事着いたけど……」
いきなり電話に出てきた真澄に狼狽しつつ、反射的にいつも通りの穏やかな口調を保った浩一だったが、続く台詞で一気に顔を強張らせた。
「ちゃんと恭子さんに挨拶をして、手土産を渡したわよね?」
「渡したけど……。姉さん、まさか……」
しっかりと確認を入れてきた姉に、浩一が半信半疑で問い返すと、真澄はあっさり彼の希望を打ち砕いた。
「あの店の商品、恭子さんが結構気に入っていたのよ。これからお世話になるんだから、喜んで貰える物が良いと思ってね」
「姉さん。やっぱり彼女がここに居るって知っ」
「どうしても恭子さんの方が、家事の負担が大きいと思うから、できる範囲でマメに手伝いなさいよ? それじゃあ応援してるから、色々頑張ってね!」
「あ、ちょっと姉さん! ……って、切れた」
上機嫌で言いたい事だけ言い、真澄が一方的に通話を終わらせてしまった事に、浩一はかなりの精神的ダメージを受け、壁に空いていた手を付いて項垂れた。
(姉さんと清人がグルだとすると……、まさかこの前の姉さんの話も、全て計算の上だったのか? 清人の奴、まさか洗いざらい姉さんに話したわけじゃ……。だめだ、もう誰も信用できない……)
そんな事を考えながら、浩一が軽い人間不信に陥っていると、キッチンの方から足音が近付き、恭子が当惑気味に声をかけてきた。
「浩一さん、お茶が入りましたけど、こちらでお電話中だったんですか?」
不思議そうなその声に、浩一は慌ててスマホをポケットにしまい込みながら振り返る。
「ちょうど今、終わったところです。すみません、こんな所に引っ込んでいて」
「いえ、構いませんよ? それより荷物が、後から届くんですよね。今のうちにお茶にしませんか?」
「そうですね。頂きます」
(とにかく、彼女は納得してるみたいだし、ここであくまで俺が拒否すれば、清人の奴が『じゃあ他の人間を同居させる』とか言い出しかねない。腹を括るしかないな)
前を歩く恭子に気付かれない程度の溜め息を吐き、浩一はリビングへと向かった。そしてソファーに差し向かいで座り、準備してあったカップに紅茶を注いでもらい、喉を潤す事にする。
そして幾つかの当たり障りのない会話をしながら紅茶を飲み、緊張感からか変な喉の渇きを覚えていた浩一が、人心地ついたらしいのを見計らって、恭子が徐に話しかけてきた。
「それで、浩一さん。先生からは、細かいルールは当事者同士で決めてくれと言われているんですが」
「ルールというと?」
「生活費の拠出割合とか、家事分担とか、その他諸々です」
真顔でそんな事を言われて、浩一も真剣な顔つきで頷いた。
「ああ、そうですね……。最低限寝室の掃除や洗濯は自分でするつもりでいますが、炊事はどうかな? ちょうど年度末にかかっていて、暫くは帰宅時間が読めないもので。じゃあ俺が朝食を担当しますか?」
「はぁ?」
そこでいきなり目を丸くして変な声を上げた恭子に、浩一が怪訝な顔を見せた。
「あの……、どうかしましたか?」
今の会話のどこに、そんなに驚愕させる要素があるのかと、浩一が尋ねると、恭子はまだ疑わしそうに確認を入れてくる。
「いえ、その……、浩一さん、お料理ができるんですか?」
「一応、簡単な物なら。……それが何か?」
「全くできないと思っていました」
「そんなに意外ですか?」
「はい。だって真澄さんが以前、私のアパートに来た時……」
「姉さんが何か?」
真剣な顔つきで話していたのに、急に言葉を途切れさせた恭子を不思議に思って浩一は尋ねたが、恭子は軽く首を振り、自分自身に言い聞かせる様に言葉を継いだ。
「今のは、聞かなかった事にして下さい。良く良く考えたらあれは五年以上前の話ですし、あれだけ努力家の真澄さんですもの。きっともの凄い勢いで、上達している筈です。ええ、そうですね。そうに決まっています」
(姉さん……、五年以上前に、彼女の前で何をやったんだ!?)
本気で頭を抱えたくなった浩一だったが、素早く立ち直った恭子が話を進めた。
「浩一さんが調理するのに問題は無いのは分かりましたが、実は私、最近職場にお弁当を持って行く事が多いんです。ですからやっぱり朝食を作りながら、お弁当を作りますので」
「確かにその方が合理的ですね」
「夕飯も、比較的定時で帰れるので、私が準備します。その代わり休日には、浩一さんが朝食を準備して頂けませんか?」
その申し出に、浩一は納得して頷いた。
「分かりました。じゃあそうさせて貰います。その代わり川島さんの負担が多い分、俺が生活費を多目に出します。取り敢えず毎月俺が三十万、川島さんが十万で、余った分は拠出割合と同じ三対一の割合で分け合うのはどうでしょうか?」
そう提案してみると、恭子は僅かに恐縮気味の声を出した。
「私は構いませんが……、本当にそれで宜しいんですか? 今、結構な額の固定収入があるので、もう少し出せますけど。こちらでは家賃はかかりませんし、先生から管理費として毎月五万貰っている位ですから」
「管理費で五万?」
そこで思わず口を挟んだ浩一に、恭子が不思議そうに尋ねる。
「はい、それが何か?」
「いえ……、何でもありません」
(重ね重ね、あの野郎……。俺からは家賃として毎月五万徴収しておいて、そのまま彼女へ支払う管理費にスライドさせてるな!?)
心中は苦々しい思いで一杯だった浩一だが、恭子の前で不機嫌な顔もできず、変に気を遣われるのも回避したい為、家賃云々については口を噤んだ。そして苛立たしさを誤魔化す様にカップの中身を一気に飲み干すと、心得た恭子がお代わりの有無を尋ねてくる。それに礼を言って再びカップを満たしてもらい、一口飲んで何とか気を落ち着かせてから、浩一はふと感じた疑問を口にした。
「さっき『職場』とか言ってましたし、清人からの給与の他に、出先での副収入があるんですか?」
「いえ、今先生のアシスタント業からは手を引いているので、取り敢えずそちらが主な収入源です。先生は近々休筆宣言をされる予定ですし」
「は? 休筆!?」
驚愕のあまり、思わずカップをソーサーに乱暴に戻しながら叫んだ浩一に、恭子もさすがに驚いた表情になった。
「え? これも聞いて無いんですか?」
「寝耳に水です! 一体何ですかそれはっ!?」
「あ、別に無職になるって訳じゃないですよ? 近々他に始める事がありまして。でもそう言えば……、『真澄を驚かせたいから、暫くは他言無用だ』と言っていましたね。それじゃあ浩一さんにも秘密なのは道理ですか……」
「それは分かっていますが! 姉さんが居るのに無職だなんて、たわけた事にならない位は! だけど妊婦を驚かせようなんて、何考えてるんだあのど阿呆がっ!?」
(落ち着け。落ち着け、俺。全くあいつは何をどこまで秘密にしておくつもりだ?)
一人で納得している恭子を見ながら、盛大に声を荒げてしまった浩一は、何とか気持ちを落ち着かせようと、再びカップを持ち上げて口元に持っていった。しかし口を付けたところで、恭子から再び予想外の台詞が飛び出す。
「それで私は今、三月一日付けで小笠原物産の営業部一課に配属になりまして、そこでOLをしている最中なんです」
それを聞いた瞬間紅茶を吹き出しかけた浩一は、それを懸命に堪えた結果、紅茶が変な所に入って盛大にむせた。
「ぐふっ、げはっ……、ふっ、うぐっ、かっ、川島さん!?」
「どうしたんですか? 急にむせたりして。大丈夫ですか?」
驚いて具合を尋ねてきた恭子に、浩一は盛大に噛み付いた。
「大丈夫じゃありません! どうしてあなたが、聡君と同じ部署勤務になっているんですか!」
「先生から、小笠原社長に貸し出されまして。社内の不穏分子の一掃する為のネタや証拠を掴んで欲しいと、社長から内密に依頼を受けたんです。ついでに不甲斐ない息子に、活を入れて欲しいとも言われまして」
淡々と恭子がそう述べると、浩一は自然に自分の顔が引き攣っているのを自覚した。
「……それで、いつもより収入が多いと?」
「はい。小笠原物産の所定の給与の他に、社長からの内偵手当と、聡さんをいびった時の様子を録音しておいて、動揺させられたら先生が一回につき一万を、特別手当として支給してくれますので」
そう言ってにっこりと笑った恭子を見て、浩一は我知らず呟く。
「……楽しそうですね」
「ええ、近年稀にみる楽しい職場です。先生からの無茶振り指令は無いし、イラッとしたら聡さんを苛めてお金が貰えるし。もう最近、寝付きも寝覚めも快調で」
「良かったですね……」
「はい。とっても」
(聡君……。清香ちゃんと付き合ってるのは多少……、いや、今でも結構気に食わないが、さすがに不憫だな。だが川島さんが気持ち良く過ごせているんだから、そんな事位どうでも良いか)
そう言って満足そうに微笑んだ恭子にそれ以上何も言わず、浩一は紅茶を飲む事に専念した。
「それで浩一さん。生活費は決まりましたが、掃除とかはどうしましょうか」
「各自の部屋は自分の責任で、共有部分は休みの日に分担しませんか?」
「それが妥当ですね。あとゴミ出しとかもして貰えます?」
「勿論。後から回収スケジュールを教えて下さい」
一瞬聡に同情したものの、浩一は薄情にもすぐにあっさりと彼を切り捨て、和やかに恭子と今後の生活についての話し合いを続けていった。
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