世界が色付くまで

篠原 皐月

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第76話 報復の余波

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 そんな事もあって、気分良く出勤した浩一だったが、十一時を回った所で受付から一階ロビーに来客がある旨の連絡を受けた。しかも若干声を潜める様に「大久保署の刑事さんがお話を伺いたいと言っておられます」と告げられた為、無意識に顔を顰めながら了承の返事をして立ち上がる。そして周囲に少し出てくる事を告げて一階まで下りると、エントランスを入口に向かって横切って行った浩一に、呼びかけてくる声があった。

「浩一、こっちだ」
「清人?」
 窓際に幾つか設置されているソファーに腰かけ、軽く手を上げて自分を呼び寄せた清人と、それに向かい合って座っているどことなく隙の無さそうな五十がらみの男を見て、浩一は一瞬眉を寄せた。しかしすぐに普段通りの顔を装って彼らの至近距離まで近づくと、来訪者の男性が立ち上がって浩一に向かって頭を下げる。

「柏木さん、お呼び立てして申し訳ありません。大久保署の菅原と申します。今日はお二人にお伺いしたい事がありまして、こちらにお邪魔しました。ご協力頂ければ幸いです」
「いえ、社内ですし、急ぎや外せない用事は無かったので構いません。それより、私達二人にお話とは何でしょうか?」
 愛想よく応じてから浩一がソファーに腰を下ろすと、菅原はポケットから取り出した小さな手帳を捲りながら、すぐに本題に入った。

「お二人は大学在学中から仲がよろしい様で、今は義兄弟の間柄ですね?」
「ええ。学生時代と言うより、それ以前から親しいと言った方が正しいですが」
「義理の従兄弟同士の関係ですので」
「存じております。ところでお二人は先々週の水曜日の午後十時から十一時にかけての時間帯は、どちらにいらっしゃいましたか?」
 故意にか、唐突に問われた内容にも、二人は全く動じずに怪訝な顔で考え込んだ。

「先々週の水曜日というと……、六日か。何かあったかな……」
「私は神楽坂の《菅野》で、十時位まで取引先の接待を受けていました。その後は相手の黄川田プラントの加藤課長に誘われて、十一時半位までバーで飲みましたが。すみません、加藤さんに連れられて初めて顔を出した店だったので、はっきりと場所と名前を覚えていませんが、加藤さんに確認すれば分かる筈です」
「ああ、そうだ。私は今現在自分の下で働いている係長に奢りつつ、二人で飲んでいました。ちょっと職場の事で、折り入って相談したい事があったもので。新橋の《安曇》で個室を取って十一時位まで話し込んでいました。店に確認を入れて貰えれば、店を出た正確な時間も分かる筈です」
「そうですか。ありがとうございます」
「それで? どうして私達のアリバイを確認しに来たのか、教えて頂きたいのですが?」
 無表情で二人が交互に語った内容を素早く手帳に書き留めていた菅原に、清人が愛想よく尋ねた。すると書き終えたらしい彼が、二人の表情を観察しながら慎重に話し出す。

「お尋ねしますが、高倉孝明という名前の人物に、心当たりはありませんか?」
 日付を尋ねられた段階で、その名前が出て来る事は分かり切っていた二人は、当惑したふりをしながら互いの顔を見合わせた。

「高倉孝明? さあ……、私達二人に尋ねると言う事は、共通の知人だとは思いますが……。浩一、覚えが有るか?」
「いや、俺にも思い当たる節が無いんだが……。その方がどうかされましたか?」
 自分でも白々しいとは思ったものの、浩一が素知らぬふりで尋ねると、菅原が苦々しげな表情で応じる。

「実は彼は先週の水曜日の夜、東大久保の路上で轢き逃げされまして」
「それは酷い」
「犯人は捕まったんですか?」
「一応容疑者は逮捕しました。しかし頑として否認しておりまして、手を焼いています。挙げ句の果て、轢き逃げ事件はあなた達が仕組んだ事で、自分は嵌められただけだと主張しているんです」
 そこまで聞いた清人と浩一は、大仰に驚いて見せた。

「それは随分、面妖な話ですね」
「どうして私達が、見ず知らずの人間を轢き逃げする必要が有るんですか?」
「容疑者の永沢亜由美が、柏木浩一さんを脅す時に被害者の高倉孝明の名前を出したと言っています。それで口封じに殺して、自分に罪をなすりつける裏工作をしたと主張しているんです。柏木清人さんは、共犯者として名前が上がっています」
「はあ? 何ですかそれは?」
 清人が呆れかえった声を上げたところで、漸く思い出したと言った感じで浩一が告げた。

「ああ、すみません、思い出しました。ほら、清人。あれだ。大学二年の時に巻き込まれかけた、ドラッグパーティーの参加者。あの連中のリストの中にその名前があっただろう?」
「そういえば、そんな気がしないでも無いが……、あの事件は解決済みだろう? 今更どうして、それで脅されるんだ?」
 あくまで初耳という態度を崩さない清人に、浩一も肩を竦めながら真顔で応じる。

「実はこの前、いきなり社長室に永沢親子が乗り込んで来て、あの時の事を一方的にまくし立てて『柏木産業の評判を落としたく無かったら、こちらに有利な条件で提携話を締結しろ』とか言われたが、別に探られても痛くなる腹など無いし、丁重にお帰り願った事があったんだ。あまりにも馬鹿馬鹿しくて、お前にも話していなかったし」
「それは当然だ。当時の捜査で俺達は無関係だと証明されたのに、今更そんな事を蒸し返して警察に喧嘩を売る気か? よほどお前に見合いを断られたのが、無駄にプライドの高いお嬢様の気に障ったとみえるな」
「ほう? そんな事が有ったんですか」
 どうやら永沢側は自分達に都合の悪い事は喋っていなかったらしく、菅原が興味深そうに口を挟んだ。それに浩一が相槌を打つ。

「ええ。同時に永沢地所と柏木産業の提携話もご破算になりましたが。元々以前からの強引な手法と評判があまり良くなかった事から、社長である父もその提携話には、あまり乗り気ではなかったんです」
「逆恨みで難癖を付けられたのか? お義父さんがその話をご破算にしたのは、経営者として当然の判断だな。今現在、永沢地所は随分騒がれているし」
 清人の言葉に浩一も頷いてから、菅原に視線を戻した。

「確か今、会長と社長が揃って贈収賄と土地取引に関する法令違反と脱税で、取り調べを受けていたのでは無いですか? そのタイミングで娘が轢き逃げ事件ですか……」
「しかも無関係な俺達に疑惑を向ける様にし向けるとは、傍迷惑な話ですね。でも逮捕されている位ですから、証拠が有るんでしょう?」
 その問いかけに、何故か菅原は苦笑の表情になった。

「ええ。現場付近の監視カメラの映像から車体を割り出して、所有者の自宅に向かったんですが、ちょうどそこに国税局査察部の強制捜査が入っていまして。ガレージに有った証拠品の車を差し押さえられそうになって、えらく焦りましたよ。危うくベタベタ触られて、証拠を台無しにされるところでした」
「警察と国税局が鉢合わせですか」
「それはそれは。確かに笑い話ですね」
 思わず二人が失笑すると、菅原が同様の表情のまま話を続けた。

「本人は『車は盗まれたか、良く似た車だ』と主張しましたが、衝突痕や被害者の血痕が車体に付着していた車がガレージにちゃんと入ってましたし。挙句に鍵は自室の引き出しに有った上、鑑識に回しても車内からは容疑者の毛髪と指紋しか出ていませんので、全く説得力が有りません」
「それで犯人が俺達と主張するとは、頭がおかしいんですか?」
「精神が錯乱しているとしか思えませんね。人を轢いたショックで、それ自体を忘れているとか? 彼女がわざとその人を車ではねる理由があれば、また話は別ですが」
 淡々と二人がそう述べると、菅原が若干声を潜めて弁解する。

「……実は、理由が無いことも無いんです。ですから捜査を攪乱する為に、全く関係無い柏木さん達の話を出したのではと我々は見ています。今回お話を伺いに上がったのは、一応事件時のお二人の所在を明確にしておきたかっただけですので」
「理由が有る?」
「因みにどういったものですか?」
 興味深そうに清人達が応じたが、ここで菅原は申し訳なさそうに頭を下げた。

「すみません。これ以上は捜査中で、現時点では口外できませんので。これで結構です。ご協力、ありがとうございました」
「いえ、ご苦労様です」
「被害者の為に、犯人にはきちんと処罰を与えてやって下さい」
「勿論です。それでは失礼します」
 立ち上がって再度頭を下げた相手に、清人と浩一も真顔で応じて彼を見送った。そして社屋ビルから出て行ったのを確認してからそれぞれの職場に戻る為、広いエントランスを奥へと進んで行く。

「……清人?」
 周囲に人影が無い事を確認してからエレベーターホールで浩一が囁くと、同様の声で清人が返してきた。

「脱税で調査が入ってる永沢家だが、この二月程の間に十二件、時価総額八十億相当の永沢家所有の不動産が、一件あたりたった百万で第三者に売却されている」
「なんだそれは? 財産隠しか?」
 一番可能性として有りそうな事を浩一が口にすると、清人が小さく笑った。

「そう疑われても仕方ないだろうな。国税局の査察の情報を嗅ぎ付けて……、って事だ。永沢から買った形になっている第三者は所在不明者で、おそらくホームレスの名義を買ったんだろう。その後、正規の評価額で取引されて、転売されてる」
 そこまで聞いた浩一は、顔を顰めて考え込んだ。

「……その評価額での売買代金は、どこに消えた?」
「俺は知らん。だが高倉孝明の口座に、例の事件直前に永沢会長の口座から十万ずつ十二口振り込まれている形になっている。不動産の名義変更に骨を折った分の手数料と考えるには、妥当な金額だろう?」
 薄笑いで同意を求めてきた義兄に、浩一はその裏工作の理由を悟った。

「そんな裏事情に通じている高倉孝明を、永沢家が口を封じる為に殺そうとしたと見せかける為か?」
「勘違いするのは警察の勝手だ。あの男、何だか死に損なっているみたいだが、もし意識を取り戻しても上手いこと吹き込んで、永沢に狙われた筋書きをどうにでも作ってやるさ」
「そこまでするか」
「もっとしてるぞ? 目障りな蝿は、一度で完全殲滅がモットーなんだ。食事中に纏わり付かれたら飯が不味くなる。これは親父の持論だったが」
「お前の価値基準はそれが基本か。叔父さんは飲食業だったから当然だが、お前が言うと物騒過ぎる」
 やって来たエレベーターに乗り込みながら、浩一が疲れた様に溜め息を吐くと、清人が二人の目的階のボタンを押しながら、何気なく口にした。

「ところで、ああいう刑事、あいつの所にも行ってるだろうな」
「おい!?」
 慌てて浩一が清人の肩を掴んで自分の方に向き直させると、清人は呆れ気味の表情で冷静に告げた。

「当然だろう? あの永沢って女は、あいつを今現在お前と同棲してる恋人だと認識してるわけだし。事故現場でわざと一度車から降りて確認させて、轢き逃げ犯が女だって事は分かってるし」
「清人……」
 未だに自分の肩を力強く掴んでいる手に、僅かに顔を顰めながらも、清人はそっけなく言い返した。

「勿論、外見はあの女の格好にして、予めその夜あの女と一緒に居させたホストには、『永沢さんにこの日一緒にいた事にしてくれたら、お金をあげると言われた』と警察で証言させて、口止め料に貰ったと三百万を証拠として提出させたから、捜査担当者の心証は真っ黒になってるし、物証は永沢家から見つかってるから心配要らないさ」
「そのホストが裏切ったり、こちらを脅迫してくる可能性は?」
「元々、あの女を嵌める為に近付けた奴だしな。証言を翻したら偽証罪に問われる他、報酬もその世界での信用も人脈もパアだ。だが、やれるならやってみて欲しいな。それ位の度胸と根性があるなら、他に幾らでも使い道がある」
 懸念を口にしても、怯むどころか完全に面白がっている清人を見て、浩一は漸く清人の肩から手を離した。

「……相変わらず、容赦のない奴」
「筋書きを書いて手配したのは白鳥先輩だぞ? 後から好みの銘柄の酒でも贈っとけ。あ、細君用に甘い物も付けろよ? あれで結構愛妻家だ」
「そうする」
 そこでエレベーターの扉が開き、何事も無かったかの様に「じゃあな」と軽く手を上げて降りて行った清人を見送ってから、浩一は沈痛な表情でエレベーターの壁にもたれかかってきつく目を閉じた。
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