世界が色付くまで

篠原 皐月

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第69話 戸惑い

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 若干の無職期間を経て、秘書業に就いた恭子は、これまでと同様そつなく業務をこなしていた。

「会長、本日の予定ですが」
「午前中は事業日報に目を通して、クリューガー社の新規事業開業に対する祝辞を仕上げたら、特にないわよね?」
「はい、そうなっております」
 始業時間早々、今日これからの予定に言及しようとした恭子だったが、打てば響く様に目下の上司である細川真弓が先回りして確認を入れて来た為、苦笑するしかできなかった。すると彼女が上機嫌に提案をしてくる。

「それならその後コールセンターに顔を出して、担当者の働きぶりと、苦情申し立て内容の精査をしたいんだけど。それから商品開発部に出向いて、今年の秋冬物のラインナップの進行状況を確認しようかしら?」
 にこやかに、やる気満々でそんな事を言われた恭子は、内心困った。

(まだ春先なのに秋冬物……、流石アパレルメーカー。いえ、そうじゃなくて。センター長と開発部の部長には、『会長に来て頂くのは構わないんだが、あまり頻繁に顔を出されると、部下が委縮するので何卒宜しく』って初対面の挨拶の時に耳打ちされたし。どうしようかしら?)
 そして素早く考えを巡らせた恭子は、笑顔を崩さないままお伺いを立ててみる事にする。

「あの~、会長?」
「どうかしたの? 川島さん」
「商品開発部に出向かれるのでしたら、ついでにお部屋の隅をお借りして、通販用のカタログの精査とかもなさいませんか?」
「カタログ?」
 細川が(なぜわざわざそんな事を?)と怪訝な顔をしてきたが、恭子は真面目な顔で話を続けた。 

「はい。漏れ聞くところによりますと、最近キッズ&ベビー用品を取り扱う部門が、今一つ振るわないとか。会長には近々三人目のお孫さんがご誕生の予定と伺いましたし、お祝い品を選ぶ消費者の視点で、ご覧になってみては如何かと」
「それはまあ確かに、また娘の所に、お祝いを贈ろうとは思っていたけど?」
「若い世代の方は、ネットでの商品検索や注文等は手慣れた物でしょうが、ご年配の方々の通販ツールと言えば、何と言ってもまだテレビとカタログだと思います。会長と同年代の方がご覧になって、財布の紐を緩めるような紙面構成、商品展開になっているかどうか、この際第三者の視点から、じっくりご覧になって見てはどうかと愚考してみたのですが」
 神妙にそう提案してみると、細川は真顔になって考え込み、幾分笑いながらその意見に賛同してきた。

「なるほど……。比較的経済的に余裕がある、年配層を取り込む方策を検討してみようって言うのね? 年寄り世代に組み込まれてしまったのには異論があるけど、それは良しとしましょう。そうしてみるわ」
 その言葉に安堵しつつ、恭子は更に提案を続ける。

「それから、先週会長をお連れした、駅前の複合ビルのカフェレストランですが、今週頭から二十食限定ランチなる物を始めたんです。ちょっとお値段は張りますけど、なかなか美味しいみたいですよ? 十一時半になった抜けて、そちらでランチにしませんか?」
「行くわ! あそこ、なかなか雰囲気も良かったし、また行きたいと思ってたのよ。そうと決まれば、色々さっさと済ませないとね。川島さん、お茶を持って来て」
「畏まりました」
 机上に視線を戻しながらうきうきと指示を出してきた相手に(これなら現場にあまり長居をしなくて済みそうね)と安堵しつつ、恭子は笑顔で会長室に隣接している給湯室に向かった。そしてお茶の支度を整えながら、考えを巡らせる。

(本当にお年の割にかわいい女性よね、細川会長って。でも現場に出ると相当畏怖されてるから、人は見かけによらないわ)
 そして先程の会話を何となく思い返し、今が早春だった事を思い出す。

(そう言えば……、三月だったのよね。いつの間にか浩一さんと暮らし始めて、一年過ぎちゃったわ。でも別に、一年過ぎたからどうって事でもないし。第一、相変わらず何となく気まずいままだし、あれ以来全然してないし……。帰りも連日遅いから、案外仕事じゃなくて、他に良い人ができて会ってるのかも……)
 つらつらとそんな事を考えながら、茶筒から急須に茶葉を入れていた恭子だったが、ふと気が付くと急須の中に茶葉がてんこ盛り状態になっていた為、その惨状に愕然となった。

「何よこれ!?」
 普段の自分ではありえない失態に、恭子は地味にダメージを受けて流し台の上に茶筒を置き、その縁に両手を付いて項垂れる。

(どうして私が動揺してるのよ。浩一さんが何をどう考えていようと、本来私には、全然関係の無い事じゃない。浩一さんもいい加減嫌気がさして、そのうちあのマンションを出ていくわよ。それが当然じゃないの?)
 そう自分に言い聞かせる様にしながら、恭子は急須の中から余分な茶葉を取り出し、そのまま茶筒に戻すのは躊躇われた為、後で自分で飲む時に使おうと、ビニール袋に取り分けた。そんな普段ではありえない失態をしながらも、細川の前に「会長、お待たせしました。どうぞ」と声をかけながら湯飲み茶碗を差し出した時には、彼女はいつの通りの笑顔だった。

 同じ頃、職場の自分の机で、課内の業務分担一覧をチェックしていた浩一は、ある事実に気が付いた。
(うん? これもか?)
 そして複数の事項について確認してから、係長である鶴田に声をかける。

「鶴田さん、ちょっと良いですか?」
「はい、今行きます」
 そして手元の作業を中断し、早速自分の机の前にやって来た彼に、浩一は怪訝な表情を見せながら確認を入れた。

「課長、お呼びですか?」
「鶴田さん、最近私の業務量が減っていませんか?」
 対する鶴田は十分に身に覚えがあったが、いつもの顔でしらばっくれた。

「具体的には、どの様にでしょうか?」
「課長として出席したり、決済したりする内容は勿論変わりありませんが、商談先の担当変更や、社内でのプロジェクトに係わるケースが減っている様に思われるのですが?」
 しかし鶴田は下手に弁解などせず、真摯に訴えてきた。

「ああ、その事ですか。俺が調整しておきました。当然ですよ。課長は少し仕事を詰め込み過ぎです」
「鶴田さん?」
 それは以前から折に触れ言われてきた事ではあっても、実際に彼が自分の承認を半ば無視して担当者を変えるなどという越権行為はしていなかった為、浩一は正直訝しく思った。しかし鶴田は営業スマイルで、ここぞとばかりに畳みかけてくる。

「課長が仕事ができる方なのは良く存じておりますが、抱えてばかりでは下が全く育ちません。ある程度方向性が固まったら、ドーンと任せてみるのも良いでしょう」
「はぁ、『ドーンと』ですか……」
「それに、もうすぐ新年度じゃないですか。四月になれば新規事業も増えるでしょうし、そうしたら課長にもボロボロになるまで働いて頂きますよ? ですから、現時点である程度目処の付いた業務に関しては、どんどん下に任せて下さい」
 力強く言い切られ、これ以上反論する根拠も無かった浩一は、素直に相手に頭を下げた。

「……分かりました。宜しくお願いします」
「当然の事ですから、お気遣いなく」
 そうして鶴田は笑顔のまま自分の机に戻って行き、浩一は改めて自分の差し迫った問題に意識を向けた。

(こちらとしても助かったが……。そうだったな。グラント氏との話が纏まったら、早急に事を明らかにして、仕事を引き継ぎする必要があるか)
 そして、先程頼もしい事を言ってくれた直属の部下に、改めて感謝の念を覚える。

(幸いというか何というか、一課には鶴田さんが居るから後の心配はしないで済みそうだな。年下の俺が早く昇進したせいで、所詮係長止まりかと陰口を叩かれている筈だから、この席を譲り渡すのにも躊躇は無いし)
 そこまで考えてもう一つの問題を思い出し、思わず溜め息を吐く。

(彼女との事も、いい加減はっきりさせておかないとな……)
 それからその考えを振り払う様に軽く頭を振った浩一は、業務に集中して一日を過ごした。

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