ハリネズミのジレンマ

篠原 皐月

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第75話 ちょっとした出来心

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「お帰りなさい。ご飯、温めるわね」
「ああ、頼む」
 心なしか不機嫌そうにリビングに入って来た隆也を見て、貴子は苦笑気味にソファーから立ち上がった。そしてキッチンに入って料理を揃え始めるのと同時に、オープンカウンター越しに声をかける。

「『先に食べてろ』って言うから先に食べたけど、やっぱり十二月だと忙しいみたいね」
 その問いかけに、面白く無さそうな顔付きのまま鞄を放り出す様にソファーに置き、ダイニングテーブルの椅子に座った隆也は、忌々しげに悪態を吐いた。

「全く……、何で毎年年末っていうと、慌ててゴソゴソ動き出す輩が多いんだ? 全員、春まで冬眠しやがれ」
 そのまま何やらブツブツと呟いている隆也に、貴子は笑いを堪えながら手早く準備を済ませ、トレーを持ってリビングに戻った。

「機嫌悪いわねぇ。じゃあまずこれで、機嫌を直して」
 そう言いながら、隆也の目の前に銚子と盃、アサリの酒蒸しと揚げ出し豆腐、茄子田楽を並べると、一瞬驚いた様な顔付きになった隆也は、すぐに笑いながら催促した。

「他にも有るだろう? ケチらずどんどん持って来い」
「はいはい」
 この間に隆也の好みを一通り知り尽くしていた貴子は、このところ仕事に忙殺されているらしい隆也の為に、準備しておいた幾つかの料理を次々と出し、機嫌を直させるのに成功した。

「このところ、本当に忙しそうよね。私は逆に、これほど暇な師走は経験無いんだけど」
 取り敢えず酒は終了し、残ったおかずに加えて出されたご飯と味噌汁で隆也が夕食を済ませていると、向かい側に座った貴子がお茶を飲みながらそんな事を言い出した。それに隆也が淡々と答える。

「来月からは、また仕事をするんだろう? ゴロゴロできるのも今のうちだけだ。のんびりしていろ」
「それもそうだけど、クリスマスや年末年始に仕事が入って無いなんて、ちょっと落ち着かないわ」
 そう言って苦笑した貴子がまたお茶を飲むと、自分の予定を思い返した隆也は、箸の動きを止めてある事について話し出した。

「その、下旬なんだが……」
「何?」
 何やら微妙に言い難そうにしている為、貴子は不思議そうに問い返した。それに隆也が珍しく困った様な顔つきで話を続ける。

「さすがに年末年始は休ませて貰えそうだが、それまでは仕事が詰まっているんだ」
「それはそうでしょうね。ただでさえ、秋に異動したばかりだし」
「だから、どう考えても、クリスマス前後は時間が取れそうもない」
「はぁ?」
 いきなり飛んだかのように見えた話の内容を、頭の中で反芻してみた貴子は、相手の発言の意味が漸く分かり、その予想外の事に思わず笑いを堪えながら確認を入れた。

「ひょっとして……、クリスマスに時間を取ってくれるつもりでいたの? そんな事、全然期待して無かったんだけど」
「……一応だ」
 途端に面白くなさそうな返事が返ってきた為、貴子は慌てて笑いを引っ込めて弁解した。

「ええと、その、本当に気を遣わなくて良いわよ? 今年はじっくり家で料理しようと思ってたし。その時期に、出張とかが入っているわけじゃないのよね?」
「それは無い」
「それなら帰って来るのを待ってるから、一緒に食べましょう? 腕によりをかけて準備するから。と言っても、腕が鈍っていないか心配だけど、そこの所は大目に見てよ?」
 貴子が苦し紛れにそう口にすると、機嫌を直したらしい隆也が不敵な笑みを浮かべる。

「甘いな。俺がそう簡単に、妥協すると思うのか?」
「人が作った物にケチを付ける気なら、二十一時までには帰って来るんでしょうね?」
「確かに、それ位は礼儀だな」
 それでひとしきり二人で笑った後、ある事を思い出した隆也が話題を変えた。

「それで、年末年始の予定だが」
「あ、年末年始と言えば、私、皆と旅行する事になったの!」
 自分の台詞を遮って貴子が言い出した内容に、隆也が軽く眉を顰める。

「旅行? 誰と」
「お義父さんとお母さんと、祐司と孝司と五人で」
 しかし貴子は隆也の反応には気が付かず、上機嫌なまま詳細を告げた。それを聞いた隆也は、納得して頷く。

「ああ、なるほど。家族旅行って事か」
「うん、そうなの。皆で揃って旅行する事も無くなって久しいから、偶には温泉でも行こうかって、祐司が言い出したらしくて。私も誘ってくれたから、一緒に行きたいんだけど……」
 ウキウキと話を出したものの途中で我に返ったらしく、最後は声に勢いが無くなってしまった貴子に、隆也は苦笑しながら言葉を返した。

「別に、旅行に行っても構わないが? 俺も年末年始は実家に帰ろうと思っていたしな」
 それを聞いた貴子は、如何にも安堵した表情を見せる。

「そう? じゃあ行って来るわね」
「ああ、楽しんで来い」
 鷹揚に頷いて食べるのを再開した隆也だったが、それを見た貴子はある事を思い出した。

「そうだわ、ヨッシーも充電してあげないと」
「そんな事、しなくていい」
 腰を浮かしかけつつ貴子がそう口にした途端、不機嫌になった隆也が断言した。その豹変ぶりに、貴子はさすがに呆れながら言い返す。

「あのね……、ヨッシーにまで嫉妬するのは止めてくれる?」
「誰がぬいぐるみに嫉妬するんだ」
「目の前に座っている男に、決まっているでしょうが」
「大体、そいつに構ってる暇があるってどういう事だ?」
「別に良いでしょう?」
 そこで面白く無さそうな顔で黙り込んだ隆也に、貴子は呆れ果てたと言った感じで、軽く頭を振った。

「分かったわよ。ヨッシーが可哀想だけど充電はしないで、お腹を空かせたままにしておくし、夜はあの子には構わないで、隆也を構ってあげるわ。それで問題ないでしょう?」
「当然だ」
「……もう少し、謙虚になれないのかしら?」
 傲岸不遜な態度で頷いた隆也を見て貴子は思わず肩を竦め、それと同時に隆也がそろそろ食べ終わる事に気付いて、食後のお茶を淹れる為、今度こそ立ち上がってキッチンへと向かった。


「ひょっとしたら……、俺の方が早く起きるのは初めてか?」
 翌朝、珍しく貴子より早くベッドから抜け出た隆也は、眠気覚ましに珈琲でも飲もうかと、パジャマ姿のままキッチンに入った。そしてお湯を沸かそうとしたところで、一人考え込む。

「偶には作ってみるか? あいつがボケたら、俺が作って食わせてやらないといけないからな」
 軽く笑いながらそんな事を呟いた隆也は早速行動を開始し、後々隆也自身とその周囲の人間が“魔が差した”としか評さない、惨劇の幕が切って落とされた。
 それから小一時間後。軽く目を擦りながら、貴子がパジャマのままリビングにやって来た。

「おはよう。なんでそっちの方が、早く起きてるのよ……」
「そんな寝ぼけ顔で、何を言ってる」
「ところで、何か焦げている様な、変な臭いがしない?」
「一応換気扇はしばらく止めないでおいたが、まだ少し匂うか?」
 ソファーに座って平然と珈琲を飲んでいた隆也に怪訝な顔をしてから、何となく嫌な予感を覚えた貴子が無言でキッチンに足を踏み入れた。そして目の前の光景に、思わず立ち竦む。

「…………何、これ?」
「朝食を作ってみた」
 その背後から、飲み終えたらしいカップを手にやって来た隆也が淡々と答えると、貴子は勢い良く彼に向き直って、憤怒の形相で掴みかかった。

「朝食……って、あっ、あんたねぇぇぇっ!!」
 そこで完全に眠気が吹っ飛んだ貴子から、隆也は盛大な罵倒の言葉を浴びせられた。

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