いつか王子様が……

篠原 皐月

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忘れ得ぬ晩餐~真澄、十八歳の春~

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 東成大入試の合格発表の日、発表時間に合わせてその場に不似合いなセーラー服姿の四人組が現れた。都内でも有数のお嬢様学校の制服として、巷で有名なそれを身にまとった彼女達に、周囲から好奇心に満ちた視線が集まったが、当人達はどこ吹く風で堂々と掲示板に向かって歩み寄る。
 そして張り出された紙の番号を目で追っていたそのうちの一人は、手元の用紙に印刷されている番号と照らし合わせ、間違い無い事を確認してから、嬉しそうに声を上げた。

「……やった、あったわ!」
 その真澄の声に、周りを囲んでいた彼女の友人達も一気に顔色を明るくし、口々に真澄に詰め寄った。
「え? 真澄、本当に? もう一回受験票見せて!」
「凄いわ真澄! 東成大現役合格なんて、桜花女学院開校以来の快挙よ!?」
「また新たな伝説を作ったわね、『紅薔薇の真澄様』?」
 最後に冷やかすような声がかかると、真澄は僅かに顔を赤くしながら、慌てて周囲を見回して制止した。
「ちょっと! もうすぐその呼び名と縁が切れるのに、こんな人目がある場所で口にしないでよっ!」
 そんな狼狽気味の真澄を見ながら、彼女の親友達は揃って穏やかに笑いかけた。

「うふふ……、でも真澄なら、絶対皆と違う事をやってくれると思ってたわ」
「合格おめでとう、真澄」
「真澄がどれだけ頑張ってたか私達は良く知っているから、本当に嬉しいわ」
 幼稚園以来の付き合いである彼女達の、本心からと分かるその言葉に、真澄は思わず涙ぐみそうになりながら礼を述べた。

「ありがとう……。それに、ここまで付き合ってくれて嬉しいわ」
 思わずその場がしんみりしかけたが、そこで打って変わって明るい声が響く。
「気にしないで、そんな事。だって東成大合格者と一緒に合格者発表の掲示板の前で記念写真を撮るなんて、一生に一度あるかないか分からないもの」
「は?」
「そうそう。こんな滅多にないチャンスを逃してたまりますか!」
「……あのね」
「幾ら東成大卒のエリートと結婚しても、産まれた子供が合格してくれるとは限らないじゃない?」
「へぇ? ……所謂私はダシだったのね? 知らなかったわ」
 皮肉っぽい口調だったが、これが友人達の気遣いだと分かっている真澄の顔は笑っていた。それを受けて回りも小さく笑いながら話を続ける。

「拗ねない拗ねない」
「じゃあ早速誰かにお願いして、四人一緒に記念写真を撮って貰いましょうよ」
「駄目よ。その前にお家とか学校とかに報告しないと。皆、首を長くして真澄からの電話を待っている筈だわ?」
 比較的冷静に優先順位を指摘した友人に、真澄は真顔で礼を述べた。

「そうだった……。ありがとう由香里、忘れるところだったわ」
「どういたしまして。さあ、待ってるから早くかけてあげなさいよ」
「分かったわ。ちょっと待っててね」
 促された真澄はバッグから携帯を取り出し、合格を報告する相手と順番を思案した。
(まず叔母様の所にかけてからお母様に報告して、それから学校よね……)
 一般的には微妙な順序ではあったが、これが真澄の偽りの無い本心だった。


 その日の夜、自室で寛いでいる最中、着信を知らせてきた携帯のディスプレイを覗き込んだ真澄は、そこに現れた見覚えの無い番号に首を捻った。
「え? この番号……、何? 間違い電話?」
 不審に思ったものの、取り敢えず慎重に名乗らずに応答してみる事にする。

「……もしもし?」
「遅くにすみません、真澄さん。清人ですが」
「え? き、清人君? でも家の電話からはかけてないわよね? 知らない番号が表示されたし」
 慌ててそう問い質すと、清人は若干気まずそうにその理由を説明した。
「ええ……、その、ちょっとコンビニに買い物に出たついでに、どうしても直接真澄さんにお祝いが言いたくなって……。公衆電話からかけているんです」
「そうなの。未登録だし見慣れない番号が表示されたから、間違い電話かと思ったわ」
 緊張を解しながら真澄が応じると、清人も笑いを含んだ声で答えた。

「速攻で切られたり、電源を落とされなくて良かったです。……じゃあ、改めて言わせて貰いますが、東成大合格おめでとうございます、真澄さん」
 その言葉に、思わず真澄の胸がじんわりと温かくなる。
「ありがとう。凄く嬉しいわ。合格できたのは、清人君が集めてくれた学業祈願の御守りのおかげよ?」
「そんな事はありませんよ。この間真澄さんが必死で勉強してきた成果じゃありませんか。それは身近で見ていたご家族が、一番分かっていると思いますけど」
「ええ、そうね……」
 そこで相槌を打ちながらも真澄が急に沈んだ声を発したのを敏感に察知した清人は、怪訝に思いながら尋ねた。

「どうかしたんですか? 真澄さん」
「どうかしたって……、何が?」
「何となく元気が無い様な気がして……。ひょっとして、皆に祝って貰って大騒ぎして疲れたから、もう寝ようとしていた所だったんですか?」
「え?」
 思ってもいなかった事を言われて真澄は戸惑ったが、自分の推論が当たっていたらしいと勘違いした清人が、恐縮気味に話を続ける。

「すみません、気が利かなくて。そうですよね、真澄さんもこれで一安心ですし、久しぶりにぐっすり眠りたいですよね。それでは俺はこれで失礼しま」
「あのっ! 違うの! 寝ようとしてた訳じゃないし、特にお祝いとかもして貰って無いから。さっき聞いた気の重くなるような話を、ちょっと思い出していて」
 話を打ち切られそうになった真澄は、清人の言葉を慌てて遮りながら弁解すると、清人は益々不思議そうに問いかけてきた。

「どうしてお祝いして貰ってないんですか? 今日は社長や会長が帰りが遅いとかで、日を改めてお祝いをするとかですか?」
「そうじゃなくて……、二人ともとっくに帰宅しているけど、どちらもわたしの進学と受験に関しては快く思っていなかったから……。一応報告しても、『そうか』の一言で済ませられたし」
「何ですか? それは……」
 途端に不機嫌そうな声音で応じた清人に、真澄はつい口を滑らせる。
「夕食の席でも二人が不機嫌そうに押し黙っているから、周りも気まずそうにしていて。それに……」
 そこで唐突に言葉を途切れさせた真澄に、清人が何となく有無を言わさぬ口調で続きを促した。

「どうしたんですか?」
 その声に、真澄は沈んだ声で事情を説明した。
「浩一がお祖父様に呼び出されて、『長男のお前が、姉よりランクの低い大学卒など格好がつかん。お前も東成大に入るんだぞ!』って説教されてたって、立ち聞きした玲二が教えてくれたの。だから浩一に悪い事をしたと思って……」
「……玲二の奴、今度顔を見せたら絞める」
「え? 清人君、今何か言った?」
 何やら清人が呟いた言葉を聞き損ねた真澄が問い掛けたが、清人はあっさりしらばっくれた。

「いえ、ちょっとした独り言です。でも……、ちゃんと祝って貰えないなんて悲しいですね……」
 清人の怒りと憐れみが内包されたその声に、あまり心配をかけたくなかった真澄は慌てて付け加えた。

「あ、あのっ! ちょっと屋敷内の空気が悪いだけで、全く祝って貰っていないわけじゃ無いのよ? 浩一は嫌な顔一つせず『おめでとう』って笑顔で言ってくれたし、お母様からは『大学は私服で通学するから、今度一緒に山ほどお洋服買いに行きましょう』って誘われたし、使用人の皆もこっそりお祝いを言ってくれたから」
「……そうですか」
「学校の友達は『皆で祝賀会やりましょう』って盛り上がってるし、先生達もうちの高校から東成大合格者を出したのは初めてだから、凄い喜んでくれたの」
「良かったです。頑張った甲斐がありましたね」
 そこで清人がかけてきた声が、いつもと全く同じ穏やかな声だった為、真澄は安堵した。そして改めて心からの礼を述べる。

「ええ。それに……、わざわざ清人君がお祝いの電話をかけてきてくれたから……、凄く嬉しいわ。例えお父様やお祖父様に祝って貰ったり誉めて貰わなくても、本当に私、それだけで十分なのよ?」
「……っ、…………」
 そこで何やら急に清人が黙り込んだ為、真澄は怪訝に思いながら電話の向こうに呼び掛けた。
「清人君?」
 その声で気を取り直した様に、清人が別れの挨拶を口にした。

「……いえ、何でも無いです。それじゃあそろそろ失礼します。おやすみなさい」
「ええ、おやすみなさい」
 そうして幸せな気分のまま携帯を耳から離した真澄は、そのディスプレイを見下ろしながら我知らず小さな笑みを浮かべた。

「清人君の方から直接電話してきてくれたのって、初めてよね?」
 そして僅かに考え込んでから、真澄は操作ボタン上で指を滑らせる。
「ふふっ……、一応この番号、今日の記念に清人君の名前で登録しておこうかな?」
 再び同じ番号でかかってくる可能性は低いと思いながらも、真澄はいそいそと着信した番号を携帯のアドレス帳に登録したのだった。


 その翌日、真澄が学校から戻ると、予想外の事態が待ち受けていた。
「お帰りなさい、真澄。すぐに着替えてお茶を一杯飲んでから、出掛ける支度をしなさい」
 帰宅するなり笑顔の母親に忙しない事を言われた真澄は、本気で首を捻った。
「お母様? 今日これから外出する予定がありましたか?」
 何か忘れていただろうかと不思議そうに問い掛けた真澄に、玲子は穏やかに笑いながら理由を告げる。

「いいえ。でもお昼に香澄さんから電話があって、あなたの合格祝いにお夕飯をご馳走したいから、あなたを今日の夕方店の方に寄越してくれませんかって言われてね。ありがたくお邪魔させて貰いますと言っておいたのよ」
「え? 本当に!?」
 話を聞くなり途端に目を輝かせた真澄に、玲子が笑みを深くしながら頷く。
「勿論よ。行くでしょう?」
「はい、行ってきます!」
「じゃあ、先程話した様に着替えて来なさい。私からの手土産も準備しておきましたからね」
「ありがとう、お母様」
 真澄は素直に玲子に礼を言い、お茶を飲んだ後、『自分も叔父さんの店に行ってみたい』とゴネる玲二を浩一に押し付け、車で清吾の経営する《楓亭》に向かった。


 清人達が住む団地の、比較的近くの幹線道路沿いにあるその店は、目の前の歩道も割と幅が広くて街路樹もあり、近くにビジネス街がある事からもなかなかの立地条件かと思われた。ドア上方の看板を見上げながら、そんな事を考えていた真澄は、正面のドアに下げられていた《準備中》の札に、僅かに首を捻る。
「……えっと、ここよね」
「その様ですね。まだ営業時間内では無いのでしょうか?」
 真澄が無意識に呟いた言葉に、路駐した車から一緒に降りた運転手の柴崎が律儀に応じると、ドアが開いて香澄が顔を覗かせた。

「いらっしゃい、真澄ちゃん。柴崎さんもご苦労様。久し振りだから、一緒に食べて行かない?」
 気軽に声をかけてきた香澄だが、彼女を産まれた頃から見知っている柴崎は、優しく笑いながらやんわりと断りを入れる。
「いえ、今日は香澄様達が設けた真澄様のお祝いの席ですから、私は謹んでご辞退させて頂きます。真澄様、お食事が終わりましたらご連絡下さい。私も食事を済ませて、付近で待機しておりますので」
「残念だけど仕方がないわね」
「ありがとう。お願いします」
「いえ、それでは失礼します」
 無理強いしても駄目だと分かっている香澄は苦笑いしながら頷き、真澄が小さく頭を下げると、柴崎は再度笑いかけてから車に乗り込み、どこかへと走り去って行った。それを見送ってから、香澄が真澄を店内へと促す。 

「相変わらず真面目ね、柴崎さんは。さあ、皆待ってたのよ? 入って入って」
「お邪魔します」
 そうして店の中に入った真澄は、木目調のインテリアで整えられた店内を無言で見回した。
(お店の方に初めて来たわね……。こじんまりしてるけど、手狭って程じゃないし、掃除も飾り付けもきちんとしていて……。なんて言うのかしら、『居心地が良い』?)
 ぼんやりとそんな事を考えていると、店の奥から清香が走り出て来て真澄に飛び付いた。

「ますみお姉ちゃん、おめでとう! またいっぱい遊んでくれるんだよね!?」
 抱き付いたまま、如何にも期待に満ち溢れた目で見上げてくる清香に真澄は笑いを誘われたが、後からやって来た清人が清香の頭を軽く叩く真似をしながら窘めた。
「こら、清香。お前、自分の希望ばかり言ってどうする」
 しかめっ面をした清人に、真澄は思わず反論した。
「あら、私だって清香ちゃんと思い切り遊びたいわ。春休みは一緒にどこか行きましょうね?」
「うんっ! やったぁ~!」
「仕方がないな……」
 苦笑いするしかない清人だったが、一旦奥の厨房に入っていた香澄が現れ、目の前のテーブルを指し示しながら真澄を促した。

「さあ、真澄ちゃん、ここに座って? 今からお料理を運んで来るから。清人君は手伝って」
「はい」
「分かった」
 そうしてテーブルを横に2つ繋げた短い方の一辺、所謂お誕生席に真澄が座り、その右斜めの椅子に清香が座った。そしてテーブルに両肘を付きながら、嬉しそうに呟く。
「うふふ……、ますみお姉ちゃんとのごはん、ひさしぶり~。りょかんで食べてから食べてないよね?」
 それを聞きながら、真澄は今更ながらに感じた疑問を口にした。

「ねえ、清香ちゃん。このお店、何時から営業してるの?」
「えいぎょうって……、お店を開けてるって事だよね?」
「ええ、そうよ」
 一瞬キョトンとしてから、清香が真澄の問いに答えた。
「えっとね、十一時から二時までと、六時から十一時までだよ?」
「……それなら他のお客様は? いつもこんな感じなの?」
 既に営業時間内になっている事を腕時計で確認した真澄は、店内に他の人が見当たらないのを不審に思いながら恐る恐る尋ね、更に結構失礼な内容を頭の中に思い浮かべた。

(さっき《準備中》の札がかかってたけど、まさか叔母様が《営業中》の札にするのを忘れてたんじゃ……。それに、まさかとは思うけど、いつもこんな風に閑古鳥が鳴いてるわけじゃ無いわよね?)
 密かにそんな事を考えて真澄は動揺していたが、そこで清香が事も無げに告げた。

「おきゃくさんはいないよ? だって今日はますみお姉ちゃんのお祝いだもん」
「え?」
 咄嗟に言われた意味が分からず怪訝な顔をした真澄に、清香がさも当然と言わんばかりの顔付きと口調で続ける。
「お母さんのおたんじょうびも、さやかのおたんじょうびも、かぞくだけでここでお食事してるもん。だからお客さんはいないのよ?」
 そう告げられた真澄は、その意味する所を瞬時に察して呆然となった。

(居ないのよって……。開けてないって事よね? そんな事をしたら、ディナータイム一日分の売り上げを、みすみす棒に振る事になるのに……。叔母様や清香ちゃんの為に店を閉めてお祝いするのは良いとしても、わざわざ私の為に?)
 かなり慎ましやかな生活を送っている一家にすれば、その行為が痛手というには至らないものの家計に響く事が避けられないだろうと判断出来た真澄が、信じられない思いで固まっていると、香澄、清人、清吾の三人がそれぞれ両手でトレーを持って厨房からやってきた。

「お待たせ、真澄ちゃん。ほら、清香も並べるのを手伝って?」
「は~い!」
 嬉々として椅子から降りながら清香が香澄に走り寄ると、清人が笑顔で真澄の目の前にカトラリーや皿を並べ始める。
「真澄さん、失礼します」
「あ、は、はい……」
 大人しくその動作を見守った真澄だったが、次々並べられていく皿の中身を見て、無言のまま軽く目を瞬かせた。そして全ての皿を並べ終わり、清吾が「じゃあ食べようか」と声をかけて全員が着席する。
 真澄から見て右側に清香と清人、左側に香澄と清吾が並んで向かい合う様に座るのを黙って眺めていた真澄は、椅子に座った香澄に当惑顔のまま声をかけた。

「あの、これは……」
 中途半端な問い掛けだったが、香澄には姪の言わんとする事が分かった為、悪戯っぽく笑ってみせただけだった。
「真澄ちゃん、好きでしょう?」
「はい、そうですけど……」
「私の作った物が口に合うかどうか分かりませんが、食べてみて下さい」
「……はい、いただきます」
 香澄に続いて清吾にも笑いを堪える口調で促された為、真澄はこれ以上余計な事を言わずに軽く頭を下げてスプーンに手を伸ばした。
 他の者も「いただきます」と挨拶して食べ始めるのを耳にしつつ、目の前のスープ皿からコーンポタージュを飲みながら、改めて目の前に供された皿の中身を見渡す。
 シャリアピンステーキ、スモークサーモンのマリネ、ロールキャベツ、帆立と温野菜のサラダ、海老とカリフラワームースのコンソメ仕立てなど、どれも真澄の好物であり、しかも全て食べても負担にならない様に全て小さめに作ってあったり、少量に取り分けて綺麗に大皿に盛り付けてあるそれに、真澄は叔母夫婦の心遣いを感じた。

(私の好きな料理ばかり……。きっと叔母様が覚えていて、叔父様にお願いしてくれたのね。ここを貸切状態にしてしまった事と言い、叔父様に迷惑をかけてしまったわ。多分私が清人君に『家で祝って貰えてない』なんて口走ってしまったから……)
 嬉しいと思いつつ自分の考え無しの行動を後悔した真澄だったが、余計な事を口走るのは自制した。

(でもわざわざそんな事を口にしたら、この場を白けさせてしまいそうだし、そんな事になったら却って叔父様達の気遣いを無にするみたいだから……。普通に食べて、後で改めてお礼を言わないと……)
 楽し気に会話しながら食べている一家をチラチラと眺めながら真澄がスープを味わっていると、ふと真澄の方に顔を向けた清香が、少し驚いたように問い掛けてきた。

「……ますみお姉ちゃん、おいしくない?」
「え? どうして? 美味しいけど」
 驚いて清香の方を見ながら問い返すと、清香はごそごそと自分のスカートのポケットを漁ってから綺麗に畳まれた小さいハンカチを取り出し、不思議そうな顔で真澄に差し出した。
「だって、お姉ちゃん泣いてるもん。はい」
「……え?」
 そう言われた真澄が反射的に空いている左手で頬を触ってみると、その僅かに濡れている感覚で清香が言っている事が真実だと分かる。

(や、やだっ! 何泣いてるのよ、私!)
 と同時に他の三人もいつの間にか会話を止めて自分の様子を窺っている事に気が付いた真澄は、思わず恥ずかしくなって慌ててスプーンを置いて清香のハンカチに手を伸ばした。
「ありがとう、清香ちゃん。ちょっと借りるわね?」
「うん」
 満足気な笑みの清香からハンカチを借り、軽く両頬の涙を拭いた真澄は、できるだけ普通の顔を装って清香にハンカチを返しながら弁解した。

「ありがとう、清香ちゃん」
「どういたしまして」
「あの……、ね、清香ちゃん、さっきは美味しく無くて泣いちゃったわけじゃないのよ? 逆に美味し過ぎて、涙が出てきちゃったの」
「そうなの?」
「ええ」
 怪訝な顔をした清香に頷いてみせると、清香は漸く納得したように腕を組んでしみじみと感想を述べた。

「そうなんだ……。大人ってむずかしいんだねぇ……」
「本当ね」
 その表情に笑いを誘われてしまった真澄が思わず笑顔になり、他の三人もそれをみて安心した様に顔を見合わせて笑い合った。それからは真澄を交えて賑やかに会話しつつ、皆で料理を堪能したのだった。

(本当に美味しかったけど……、それ以上に幸せで胸が一杯だわ。きっと今夜の事は、一生忘れないと思う……)
 結局、食後のデザート盛り合わせまで綺麗に平らげた真澄は、紅茶を飲みながら密かにそんな事を確信していた。
 そして真澄が食べ終え、会話も一段落してから柴崎をメールで呼びだすと、それから約五分程で表通りに駐車する音と、ドアが閉まる音が窓越しに微かに伝わって来た為、まず香澄が腰を上げた。

「……ああ、来たかしら?」
 それに続いて、清吾と清人が立ち上がって別れの挨拶を口にする。
「じゃあ私と清人は厨房を片付けますので、ここで失礼します」
「真澄さん、おやすみなさい」
 終始笑顔だった二人に、真澄も椅子から立ち上がり、深々と頭を下げて礼を述べた。
「叔父様、清人君、今日は本当にありがとうございました。失礼します」
 そうして香澄と清香に付き添われて店の表に出た真澄は、すぐ近くまでやって来ていた柴崎に笑顔で声をかけた。

「柴崎さん、お待たせ」
「いえ。それでは香澄様、清香様、失礼します」
「ええ、ご苦労様」
「うんてんしゅさん、ますみお姉ちゃん、さようなら」
「さようなら。また遊びに来るわね」
 車に乗り込んだ真澄は、笑顔で手を振って見送る香澄と清香に後ろを向いて手を振り続け、角を曲がって二人の姿が見えなくなってから漸く前を向いて座った。すると何を思ったか、普段あまり無駄話などしない柴崎が、徐に口を開く。

「今回は……、ご自宅では無く店舗の方に出向いたので、佐竹様と御子息にお会いできるかと密かに期待していたのですが……、やはりまだ《あの屋敷の使用人》として、警戒されているのでしょうか?」
 その口調に、残念に思っている気配を感じ取った真澄は、バックミラー越しに柴崎の顔を眺めながら、慎重に自分の推論を述べた。
「警戒……、と言うものでは無いと思うわ。強いて言えば遠慮じゃないかしら……」
「遠慮、ですか? 別に佐竹様が、私に遠慮する必要は無いと思いますが」
 不思議そうに尚も尋ねてきた柴崎に、真澄は幾分困った様に付け足す。

「多分、私達が叔母様の家に押し掛けるのを、お祖父様が苦々しく思っていると感じているのかもね。だからお祖父様の下で働いている柴崎さんと必要以上に接触したり、友好的に接したりしたら、柴崎さんがお祖父様から不興を買うと思っているのかも……」
 真澄がそんな風に分析してみせると、柴崎はハンドルを握りながら深い溜息を吐いた。

「親子揃って、ある意味律儀な事ですね。真澄様が楽しく過ごされたお礼を、是非直に言いたかったのですが」
「どうして?」
「来る時と比べても、格段に嬉しそうなお顔をしていらっしゃいますよ?」
 凄く残念そうに述べた柴崎に真澄が不思議そうに問いかけると、柴崎はバックミラー越しにチラリと真澄の表情を窺いながら、嬉しそうに微笑んだ。それに釣られた様に、真澄が笑顔で先程の出来事を話し出す。

「そう? あのね、今日、私の為にお店を閉めてくれていたの」
「そうですか。もしかしたらそうかなと、思ってはいたのですが」
「それでね? 叔父様のお料理が、どれも私の好きな物ばかりで、とても美味しかったの」
「それはようございました」
 ニコニコと報告する真澄の声に柴崎も嬉しくなりながら相槌を打っていたが、少々意地悪な質問を口にしてみた。

「因みに……、中村さんの料理とどちらが美味しかったですか?」
 柴崎が柏木邸専属シェフの名前を唐突に口にすると、真澄は声を潜め、しかしどこか楽し気に答えた。
「……ここだけの話、叔父様の料理の方が美味しいわ。だけど中村さんが拗ねて職場放棄されたら凄く困るから、ここだけの話よ? 柴崎さん」
「畏まりました」
 必死で笑いを噛み殺し、もったいぶった口調で了承の言葉を口にした柴崎は、運転を続けながら心の底で佐竹一家に対する感謝の言葉を述べたのだった。
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